創作

物語女

僕が物語女と出会ったのはかれこれ二十年前。十年をひと昔とすればもうふた昔も前の話だ。計算すると僕が二十八歳、彼女が二十三歳のときのことらしい。ハンバーグを食べながらあれこれおしゃべりすることを目的とした、二十年前でさえ時代遅れ感の漂うあるパーティでのことだ。やけに鉄板から油が飛び散るので、僕らは毎月恒例のこのパーティにしゃれた服は着ていかないことを習わしとしていた。そんな時代遅れ感ぷんぷんのパーティに物語女は自らが時代遅れであることを固持するかのように顔を出すようになったのだった。ところが僕と彼女はほとんどおしゃべりを目的としたパーティだというのにほとんど会話をすることもなかった。このパーティ立ち上げからの古参である僕は新参者の彼女に興味を抱かなかったし、後で聞いたところによると、新参者の彼女は当時、最古参の一人である僕とおしゃべりするのに気後れしていていたらしい。そんなこんなで僕らはほとんどことばも交わすことなく、意味不明のノリだけのパーティがそのノリの雲散霧消とともに立ち消えてゆく世の常に従って、接点を紡ぐ間もなくすれ違ったのだった。

物語女と再会したのはつい最近のことだ。レバニラを食べながら自らの創作物語を披瀝し合うある会合で仲良くなった。二人とも四十代になっている。話によるとかつてのおしゃべりハンバーグの会員全員にこの会合の案内を出したというから、ふた昔前のくどい食事をしながらおしゃべりすることをいまだに趣味にしているのは、あのパーティの参加者では僕と彼女だけだったらしい。当然と言えば当然かもしれない。僕はこの二十年間、くどいものを食べながらおしゃべりに花を咲かせたことなど数えるほどしかなかったし、きっと物語女も同じようなものだったに違いない。そもそも僕らはそれぞれ既に結婚して日々の雑務に追われて暮らしていたし、既にくどいものを食べるには自分の健康と相談しなければならない年齢になっていた。

物語女は自分の物語の完成度ばかりに気になるらしい。もっと美しい和語はないかとか、起承転結が甘いとか、オチのユーモアがセンスに欠けるとか、韻律が一音だけ崩れているとか、そんなことばかりを気にしている。日常のちょっとした出来事を物語仕立てで語るという浅薄な会合に過ぎないというのに、物語女といったらまるで歌会にでも参加しているのかというほどの熱の入れようなのだ。最初僕は彼女がおしゃべりハンバーグの会員だったことに気づかなかったが、彼女の方はすぐに僕だと気づいたようで、しかも当時のパーティがこれまた時代遅れにも古参会員を「先生」と読んでいた習わしに従って、いまだに僕のことを「先生」と呼んでいる。僕はそう呼ばれるのがちょっとだけくすぐったい。

物語女は焼きそばを食べるにも理屈が伴う。いっしょに近くの鉄板焼きの店に行ったときのことだ。彼女はソースの匂いを自分につけずに食べられないものかとあれこれ思案する。もしかしたらこの昼食が物語になるかも知れない。彼女はすべての出来事についてそう考えながら生きている。どうやら自分の美しい物語をつくるのに自分の息がソースくさいのが許せないというこくとらしかった。それなら焼きそばなんか食べなきゃいいのにと思うのだが、どうやらそうもいかないらしい。お腹が空くことや便が出ることや仕事をしなければならないことや町内会活動をすることやその他わずらわしさの極限みたいな諸々をこなすことを、物語女は意外にも素直に受け入れる資質をもっている。それでいて自分の物語の美しさは頑として守ろうとするのだから、ふと物語をつくろうとしたときに彼女の資質と軋轢を起こすのは必然のことである。

私が今生で物語女と別れるのはおそらく二十年後。十年をひと御先とすればふた御先も後の話です。くどい食事もすっかりできなくなって、なかなか呂律もまわらなくなったにもかかわらず、物語だけは一枚の絵のように美しく語れるようになった頃、物語の創作というお互い趣味を異にしていて連れ合いとは語れないちょっと照れ臭い趣味が高じて、自らの死をそう遠くないあたりまえに感じているそれなりに美しい物語を披瀝し合うのを最後とすることでありましょう。そのときだけはそれぞれが最高のおしゃれを身にまとい、年齢に似合わぬハンバーグなど食べながら鉄板の油を浴びても良いのかもしれません。そのときも私は彼女に「先生」と呼ばれ、ちょっとくすぐったい想いを抱くのでありましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

Mind Puzzle 1

ふと気がつくとフラッシュメモリーに迷い込んでいた。僕が十数年かけて溜め込んできた情報、意味のある情報と意味のない情報とを混在させながら、どれも捨てられなかった情報のなかに閉じ込められた。閉じ込められたというよりも投げ出されたと言ったほうが感覚に合致する。

情報を捨てられなかった理由ははっきりしている。すべてがその時々の瞬間的な想いを象徴しているからだ。どれも決して習慣的でない、瞬間風速何十メートルみたいな激しい想い。情熱と呼んでもいい。習慣的でない瞬間的な情熱。人生に連続しない、断続的に現れる刹那的な情熱。そういうものを記録として遺すことに僕はずーっと執着してきた。カッとなったり、ムッとしたり、くすぐったがったり、しょんぼりしたり、ヒクヒクしたり、メロメロになったりしながら、僕はその風速何十メートルを受け止めてきた。

或いはときに襲いかかるぼんやりやふわふわ、うつらうつらなんかをなんとか言葉にしようと努めてきた実感もある。ぼんやりやふわふわ、うつらうつらはまるで女性の生理のように定期的に僕に襲いかかってくる。女性にとって生理は襲いかかってくるものなのかどうか、男の僕にはわからない。単なる僕のイメージに過ぎない。きっと一生理解できないだろう。それをミスジャッジと責める女性がいるとすれば僕は素直に謝り、尻尾を巻いて逃げ出すしかない。そういうことで女性と勝負することに勝算がないことを知っている程度には僕は年齢を重ねてきた。

あんたが産まれたとき、ああ、これで一生自分につきまとってくる、切っても切れないものがこの世に現れてしまったと思った、これを幸せだと感じる女は一生幸せであり続けるのだろうと思った…。

そう母は言った。

あんたが「いい子」に育てばそのネガティヴな想いは消え、あんたが「悪い子」に育てばネガティヴな想いが更にネガティヴになる。だからあんたは私に迷惑をかけない「いい子」になりなさい。

母はそうも言った。

僕のなかには子ども心に「いい子」にはなれないとの確信があったので、それでいて「悪い子」になることによって母を凌駕する勇気はなかったので、とりあえず「いい子」の振りをすることにした。それが成功したのかどうか、僕にはわからない。きっとこの話を母にしたとしても、母でさえ判断に迷うに違いない。「いい子」とも言えるし「悪い子」とも言える。おそらく多くの子どもたちはそんな中途半端さのなかにいる。良いと悪いの二面性、良いと悪いの同時達成、それは教育と文学が背馳するのと同じくらいこの世では自明のことだ。そうした二面性から逃れようというのは、この世に生物学的な男と生物学的な女がいることから逃れようとすることくらいの背理だ。でも、そんな膨大な自己改革を夢見る輩が後を絶たない。それを実現するには僕のようにどこまでも振りをして、お芝居を続けるしかないのに。

お芝居を続けるのは苦しい。それは仮面をつけ続けるのが息苦しいのと同じだ。仮面をつけるから息苦しいのではない。お芝居を続けるから窮屈になるのでもない。仮面をつけるとその仮面に自分が自分自身であると信じ続けているものが掠め取られそうになるのが息苦しいのだ。お芝居を続けるとお芝居をする役者の人間性がお芝居を離れてもお芝居に搾取されるようになるから窮屈なのだ。仮面を続けて生きていると、或いはお芝居をしながら生きていると、どこかに自分のなかの自分自身を記録しておきたくなる。意味があろうとなかろうと、両者を混在させながらどれも捨てずに取っておきたくなる。断続的に現れる、瞬間的で刹那的な想いも取っておかなければならないものに思えてくる。自分のなかの何かが取っておけと脅迫してくる。

残念なのは時が経つにつれて、そんな一つ一つが貴重な情報として蓄積されていくことだ。数だけが増え、散漫な状態で並列的に並ぶようになる。そんな状態に気づいてしまうともはや無数にあるそれらの情報を分類し、ラベルをつけ、整理したくなる。だからフラッシュメモリーのなかにフォルダをつくることになる。でも、フォルダを幾つつくっても、またそれぞれのフォルダにどんなネーミングを施してみても、満足する分類などできはしない。すべての情報が複数にまたがって存在している。幾つものフォルダに軸足を置いているものさえある。右半身はフォルダAに、左半身はフォルダFに、それでいて下半身はフォルダαに、上半身はフォルダ7に、それぞれ肩までどっぷり浸かっている風なのに、それでいて目と鼻と口だけはフォルダいとフォルダろとフォルダはにそれぞれ分類せざるを得ないなんてことも当然のように起こってくる。フォルダいろはの続きににとほとへととがあることを知ったあとに、フォルダβとγとがフォルダいろはと通底していることに気づかされたりもする。そんなとき、もうやってられないと投げ出したくなる。フラッシュメモリーを彷徨っていると、フォルダからフォルダへの移動がことのほか難しいことに気づかざるを得ない。

更に腹立たしいのは、これだけたくさんのフォルダがあるのに、まだまだそれらを圧倒するような空き領域があることだ。その空き領域を埋めないことには僕は死ねない……。そんな強迫観念に似たものまで湧いてくる。情報を集めても集めても満足できない。分類しても分類しても分類できないことが浮き上がってくる。フラッシュメモリーに迷い込み、閉じ込められることは、大海に投げ出されることと何も変わらない。

ああ、母さん。僕にとってもあんたは一生まとわりついてくる、切っても切れないものじゃないか。お互い様だよ。でも、僕は知ってるよ。母さんもまた、「いい母親」と「悪い母親」との二面性を、賢母と文学が背馳する自明さをもって同時達成する存在であったことを。そのフォルダに迷い込み、閉じ込められて、たまたま一度だけ吐いてしまった科白が結果的に僕を縛り付けてしまったことを母さんが後悔していたしていたということを。僕は知ってるよ。母さんの子だから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

人間テトリスの想像力

男子生徒15人ほどが、休み時間に「人間テトリス」なるものに興じていた。廊下の突き当たりに一人一人順番に張り付いていって、隙間をなくして重なっていくのだそうだ。そのために、だれもが変な格好をしながら折り重なっていく。なんともくだらないのだが、なんとも難しく、なんとも楽しい遊びである。

他の人間と隙間なくくっつくということは、自分の視点からのみ見ていたのでは認識できない。天井から視点をもたないと認識できない。くだらないといえばくだらないし、レベルが低いと言えばレベルが低いけれど、ある種の〈メタ認知〉の訓練にもなりそうだ。少なくとも〈空間認識〉の訓練にはなりそうである。

テトリスが大流行したのは二十数年前のこと、いや、もう三十年近く前になるのかもしれない。ぼくは大学生だったような気がする。最後のコサックダンスが見たくて、毎日毎日、何度も何度も、寝る間も惜しんでやったのを覚えている。まわりの友人たちも教授も助教授もみんな持っていて、テトリス談義に花の咲くコンパが何度かあった。ぼくの師匠などは、原稿を書いていると原稿用紙がテトリスに見えてくる、なんて言っていたっけ。

口を開けばエロ話ばかりしている友人が、テトリスで一列だけ残して、そこにL字型のテトリスを入れて消すと興奮する、といっていた。「あれは性行為のメタファだ」と。二十歳のぼくはヤツの想像力に感心したものだが、いま考えるとこれは想像力などという代物ではない。あまりにも日常的に考えているものだから、すべてがそう見えたというだけである。そういえば、テトリス以外のことにも同じようなことを言っていた。生徒たちの「人間テトリス」のほうがまだ想像力としてはマシかもしれない。

母親も妹もずいぶんとはまっていた。12時くらいまではぼくらがやっているので、母はぼくらが寝てから3時くらいまでやっていた。朝は目を腫らして何面までクリアしたと喜んでいたのを昨日のことのように想い出すことができる。専業主婦というのは夜更かししても昼間寝ればいいのだな、気楽な立場だ、と当時は感じたものだ。

昨日、父が倒れた。軽い脳梗塞とのこと。ろれつがまわらなくなって、足もふらついて、救急車を呼んだらしい。仕事を終えて病院まで行ってみると、ICUには入っているものの、割と元気そうだった。意識のあるうちに救急車を呼んだので大事には至らなかったらしい。少しずつリハビリさえ開始するという。イメージとはずいぶん違うものである。母はもちろん、妹も見舞いに来ていた。

一時は今日からの新潟行きをキャンセルしなければとも思ったくらいだったが、なんとか行けることになった。お世話になっている人たちに迷惑をおかけしなくて済んで良かった。

久し振りに家族みんなでテトリスに興じたい、と感じた。あの、ファミコンの、シンプルな、初代のテトリスである。10年前に亡くなった師匠も、来世でテトリスに興じているかもしれない。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

黒ネコと赤い鈴

ネコが死んでいた。対向車線に。車に轢かれて。腸を出して。ただの黒い塊として。

それがネコだとわかったのは、ちょうどネコくらいの大きさに見えたからであり、真ん中辺に赤いベルトに鈴がついていたからだ。どこかのうちで飼われていた黒ネコが死んでいたのだ。

それを見たのは朝、7時55分頃である。学校までもうほんの2分、というところにある交差点。信号待ちをしていると、なんとなく歩行者の目が一カ所に集まっているのを感じた。当然のようにそちらに目を向けてみると、黒い塊があった。ぼくのすぐ右手前方にネコが死んでいたのだ。

歩道には出勤途中のおじさんが5人、おばさんが3人、自転車に乗った女子高校生が3人、女子中学生が2人。交差点の右手から左折してくる車が次々にそのネコを踏んでいく。「ああ、なんてかわいそうなことを…」とぼくは思った。でもふと歩道を見ると、そのたびに人々は「かわいそう」という表情をする人と、「気持ち悪い」という表情をする人とに真っ二つに分かれた。人間は二通り、善人と悪人とか、ついている人といない人とか言うけれど、この状況で「かわいそう」と思うか「気持ち悪い」と思うかは、その人間の本質を突くな……なんて感じている変な自分を意識していた。

とにかくそうしてネコが死んでいたのだ。きっと、交通事故とか電車への飛び込みとか飛行機事故とか天災とか戦争とか、この黒ネコみたいに死んだ人たちが世の中にはたくさんいるのだな。そんなことも感じた。

8年前、飼い犬のボウといっしょに夕方の散歩に行った。近くの公園でぼくはボウを放し飼いににして遊ばせていた。いっしょに走って。フリスピーを追いかけて。草をむしって。水飲み場で水を飲んで。

そこにおじさんといっしょに大きなシェパードがやって来た。ボウはミニチュア・ダックスである。ボウは走り出した。ボウ!ボウ!と呼ぶぼくの声を振り切って、ただ一目散に逃げ出した。

ぼくはボウを探しまわった。同じ場所を何度も何度も歩きまわった。すぐ近くに大きな幹線道路がある。ボウはあの道に行ったかもしれない。ぼくはその大きな道を見渡した。頭の中には、今日見たネコのように塊と化したボウの姿が浮かんでいた。ボウ!ボウ!

たぶん、三、四十分は探しまわったと思う。探しまわりながら家まで戻ると、ボウは家の玄関にちょこんと座っていた。ぼくの姿を認めると一目散に走り寄ってきた。

それから8年。ぼくは毎日、ずーっとボウと一緒に、同じベッドで寝ている。8年間、ほとんど一度も想い出すことのなかったこの出来事を、黒い塊が想い出させた。ボウがあのとき、自力で家まで帰ってきたということは、一人であの幹線道路を渡ったことを意味していたのである。

ああ、あの黒ネコの飼い主は、いつ自分の飼いネコがあんなにも惨たらしい姿で逝ってしまったことを知るのだろうか。飼い主と黒ネコにはどんな物語があったのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

彼はぼくに自然の摂理を教えてくれそうな気がする

二学期最初の日。二学期始業式といってもいい。朝学活のあと廊下に整列して、体育館で少しだけ校歌の練習をして、始業式、夏休み中の部活動大会の表彰式、学活、更に英語と理科の夏休み明けの小テスト、そういう一日である。始業式と表彰式が予定より早く進み、時間が繰り上がった。放課時間はなんと10時55分である。授業時数不足に悩む学校が多い中、信じられないことだが、ぼくの勤務校は二学期初日に授業がない。小テストだけである。計算上授業時数は確保されているらしい。11時30分から25分ほどの職員会議。その後、30分ほどの学年会。夏休みと二学期とを結ぶ、教師にとっても生徒にとっても俗に「リハビリ日」と呼ばれる、簡素だけれど大切な一日である。

「今日は木曜日だから、明日さえ乗り切ればなんとかなる」

隣の教務主任が言ったので、ぼくは即座に、

「オレには乗り切らなければならない明日なんてないな」

と返す。向かいで3つ年下の学年主任がウケていた。

ぼくは暇だ。昨日は小中連携と称して校下の小学校に授業をしに行ったし、明日行われる国語の小テストをつくって印刷もしたし、新しく出す本の校正ゲラが届いてそれを5日間程度で完了しなければならないという予定もあるけれど、どれもぼくにとっては「やれば終わる仕事」でしかない。その日が来さえすれば自然に終わるのが授業だし、ちょっとした集中力でえいやっと仕上げてしまえば終わるのがテストづくりだし、隙間時間で少しずつ進めて二度読み直せば完了するのが校正である。それだけのことだ。どの仕事もぼくの人生を揺るがさない。

いま、ぼくが夢中になっているのは彼である。いや、彼女かもしれないが、ぼくのイメージの中では彼である。ぼくはこの1週間、ずーっと彼に夢中になっているのだが、いまだに彼に逢ったことがないのだ。

話は1週間前に遡る。ぼくは東京に行く用事があって朝早く起きて空港に向かっていた。高速を飛ばしながら煙草を吸おうと窓を開けた。パワーウインドウがヴィーンという音を立ててさがる。ぼくが開いた窓から腕を出すと肘のあたりに違和感を感じた。

うん?

蜘蛛の巣だった。おそらくは昨夜、窓を開けてすぐのバックミラーから運転席のドアまで、小さな蜘蛛が巣を張ったのである。こりゃ気持ちが悪いやと思い、ぼくは助手席に置いてあるティッシュ・ボックスからティッシュを2枚とって蜘蛛の巣を払った。ティッシュをまるめてギアにかけてあるコンビニの袋に捨てた。ぼくはブレイキさえ踏むことなくその作業を完了した。その日はそれだけのことだった。

3泊4日の仕事から帰ってきて、空港の駐車場に行くと、ミラーからドアにかけて小さな蜘蛛の巣ができていた。「またか…」と思った。ぼくはドアを開け、助手席のティッシュボックスからティッシュを2枚とり、3日振りに蜘蛛の巣を払い、またコンビニの袋に捨てた。ぼくは高速を飛ばして帰途に就いた。桑田佳祐の影響力について考えたりした。

その夜、ベッドに入ってもなかなか寝付けない。1時間くらいうだうだしていたが、どうにも寝付けないでいる。起きて仕事をしようかとも思ったけれど、明日からは仕事である。やはり寝なければならない。妻も、2匹の犬も寝息をたてている。ぼくは東京行きの4日間のことを反復して遊ぶことにした。そのうちに眠れるだろう……。

4日前の朝、ぼくは何時にどのようにして起きたのだったか。シャワーを浴びたのだったか、それとも前日のうちに風呂に入ったのだったか。旅行鞄は準備していたか、それとも当日の朝になってばたばたしたのだったか。そうだ。起きてシャワーを浴びたのだ。シャワーを浴びるんだから、ブラシやシャンプーを鞄に入れるのは明日の朝にしよう、そう思って前日は寝床に入ったのだった。そんなことを考えていた。

朝の出来事を早送りで進める。車に乗って、渋滞もなく意外とスムーズに高速に乗れたことを喜ぶ自分を追体験しているとき、不意にそれは訪れた。そうだ、蜘蛛の巣だ。あの蜘蛛の巣と空港の駐車場の蜘蛛の巣をつくったのは同じ蜘蛛だろうか。それとも別の蜘蛛だろうか。

考えれば考えるほど、その二つの蜘蛛の巣をつくったのは同一人物に思えてきた。両方とも直径十センチくらいの蜘蛛の巣だったし、なんというか、蜘蛛の巣の佇み方が同じだった。蜘蛛にも個性があるとすれば、あそこまでその雰囲気まで一致した蜘蛛の巣をつくる蜘蛛がこの世に二人いるようにはぼくにはどうしても考えられなかった。

では彼はどうやって、札幌から千歳まで移動したのだろうか。ドアにへばりついていたのだろうか。それともボンネットか。でも、100キロを超えるスピードで走っている車が60キロ以上移動する間、ずっとへばりついていられる蜘蛛がこの世にいることをぼくは想像できなかった。

では、彼はどこにいたのか。ぼくが自宅で車に乗ったときに素早く車に乗り、ぼくが空港で車を降りるときに素早く車を降りたのか。いやいや、それも考えにくい。ぼくは車に乗るときも車から降りるときもドアを開けっ放しにするタイプではない。旅行鞄はトランクに載せたから、ドアを開けっ放しにする都合もない。動の開閉はせいぜい15秒といったところではないか。もちろん、ぼく一人が乗ったり降りたりできるわけだから、蜘蛛も乗り降りできる時間ではあるだろう。しかしこの想像にはどうも無理がある気がした。

そんなことを考えているうちに、ぼくは眠りに就いた。この夜、その後もいろいろ考えたような気もするがぼくが覚えているのはここまでである。

次の日の朝、ぼくは休暇をとった。朝から仕事に行こうと思っていたのだが、どうやらぼくは以前に、この日に犬を病院に連れて行くと約束したらしい。先週手術した母の見舞いにも行きたいし、歯医者にも行きたいし、そして何よりぼくはその日、髪を切りたいと思っていた。現実的な現実がすべてぼくに休暇をとることを提案していた。だからぼくはこの日、休暇をとったのだ。

朝の9時半頃だったと思う。動物病院に行こうと犬を連れて車に乗ろうとしたとき、ぼくは三たび、ミラーからドアまで直径10センチの蜘蛛の巣が張られているのを見つけた。

「ああ、彼はまだいるのだ」

懐かしい友人に逢うような、くすぐったい、それでいてちょっと酸っぱいような感情がわいてくる。彼はいる。まだいる。それは確かだ。でもどこに……。当然の疑問が浮かぶ。ぼくはドアの周り、ミラーの周りをじっくりと観察した。どこかに小さな蜘蛛がいないか。この巣の主はいないか。

しばらく探したけれど、彼はどこにもいなかった。でも、それはおかしい。彼は確かにぼくの車が札幌から千歳に移動にしても巣を張ったのだ。車のどこかにいなければおかしいではないか。とこだ。どこにいるのだ。ぼくは諦めて後部座席に犬を乗せ、運転席に座った。

んっ?と思った。もしかしたら、とも思った。ミラーは運転席からスイッチ一つで方向を変えられる。窓を開けてミラーを見ると、動く鏡部分とその外枠との間に1.5ミリほどの隙間がある。

ぼくは合点がいった。そうか。彼はミラーの裏側にいるのだ。この隙間から、暑さを避けて、昼間はこの中に入り込んでじっと動かずにいるのだ。昼の住み処と夜の住み処とを使い分けているのだ。そしておそらく、そこにはぼくには想像もできないような彼の摂理があって、運命ともいえ自然ともいえるようなその摂理に従って、彼は昼の顔と夜の顔とを使い分けているのだ。昨夜のこだわりが溶けていくのを感じる。それは曇った眼鏡が少しずつでも確実に透明感を取り戻し、視界が開けていくような感触だった。

それから3日経った。朝出かけるときに蜘蛛の巣が張られていなかったのは、朝方アメが降った一昨日だけだ。蜘蛛の巣は今朝も存在感を示していた。ぼくは朝の決まり事のように助手席からティッシュを2枚だけとって蜘蛛の巣を払う。ドアを開けて運転席に座るとじっとミラーの隙間を見る。それを見ていると、その隙間に吸い込まれそうな気がしてくる。その感触が浮かぶと、ぼくは、ああ、このへんにしておこうとエンジンをかける。なんとなく仕事がはかどる気がしてくる。

ぼくには乗り切らなければならない明日なんてないけれど、でも、明日こそは逢いたいと思える生き物がいる。もし逢うことができたら、彼はぼくに自然の摂理を教えてくれそうな気がするのだ。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

問題は同じ〈質〉の幸福感を感じさせること、になる

食べ物になんて何のこだわりももたずに生きてきたぼくのような人間でも、四十を過ぎるとそれなりの人と食事をともにする機会が出てくる。出てくるというだけで頻繁にあるわけではないのだが、年に何度かあるその経験がけっこう重くのしかかってくる。要するに困ったことになるのだ。

別に緊張するとか、しきたりがどうとか、そういうことではない。ごくごく簡単に言えば、うまい料理とかうまい酒とかの味を覚えてしまうのだ。いや、実のところをいえば「覚える」というところまで行くわけではない。「あれうまかったなあ……」という印象だけが頭にこびりついて離れなくなる、といった方がいいかもしれない。

ぼくのような素人でも瞬時に理解してしまうほどに、うまいものというのは圧倒的にうまいのである。食べ物の味になどほとんどこだわりをもったことのないぼくのような者でも、ああ、もう一度あれを食べたいな……などと思ってしまうのだ。でももう一度冷静になって食べてみると、その圧倒的なうまさに、自分はこの味を覚えてはいけないなと、自戒を感じてしまうのである。このアンビバレンツとの闘いはけっこうきつい。

このアンビバレンツと闘わずにそうとは意識しないままに敗れてしまうと、もっともっと多くのものを失うことになる。そんな予感がする。例えば自尊心とか、誠実さとか、小説を楽しむこととか、脳味噌を絞りに絞って出てきたアイティアに興奮することとか、犬をだっこして眠りに就くときの幸福感とか、そういうものだ。当たり前のようにうまいものとか当たり前のように綺麗なものとかを選んでしまうと、これまで当たり前だった喜怒哀楽を失ってしまうに違いない。

きっと人生の途中から覚えるのがよくないのだ。生まれたときから知っていたなら、それはそれでちゃんと些細な幸福も得られるに違いない。おそらく家柄とか格差とかの本質とはそういうものなのだろう。ぼくはぼくのもって生まれた家柄と格に見合った生活をし、見合った幸福を感じるほうが良いのだ。そういう幸福の〈質〉についてはおそらく家柄や格によっては変わらないものなのだ。

この論理を学校教育に敷衍すれば、地域による格差とか学校による格差とかはそれほど大きなことではないように思えてくる。問題は同じ〈質〉の幸福感を感じさせること、になる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ぼくの気分にまでは届いてはくれないのだ

家の近くのスープカレー屋が気に入っている。具材の種類が多くてあっさりめのスープが、暑いときも寒いときも、暑くも寒くもないときも、雨が降って湿度の高さにうんざりするような日でさえおいしく感じさせるのである。

カウンターには、かつてぼくのクラスにいた教員人生で出逢った最もピンクな女子生徒の5、6年後のようなギャル風の女の子がいて、たった一人でそれほど大きくはない店の注文をとり、厨房の小窓から出てくるスープカレーを運ぶ。見かけに寄らずといっていいのか、彼女の使う敬語はすべて、見事に正しい。厨房にいるおそらくは店長の中年男が正しい敬語を教えたのか、これも想像しにくい彼女の厳格な両親が言葉遣いだけはとしっかりとしつけたのか、そのへんのところはぼくにはわからない。ただ彼女の敬語はその辺の教師よりもずっと正しく、驚いたことに「ら抜き言葉」さえないのだ。

ただしぼくは、このスープカレー屋にこの女の子目当てで通っているわけではない。だいいち4月から8月までぼくはこの店に7,8は通っていて、常に彼女が注文をとりカレーを運んできたにもかかわらず、そしてぼくは今日の昼食もこの店で食べ、同じように彼女と接したというのに、ぼくは彼女の顔をまったく想い出すことができない。確かにギャル風の像は浮かんでくる。少し長めの茶髪を後ろで縛った丸顔の輪郭もなんとなく浮かんではくる。でも、その像はのっぺらぼうで、目も鼻も口もないのだ。ただ客商売特有の口元のアルカイックスマイルの印象だけがある。

この店の唯一の不満は、ホットコーヒーがサーバーに入れっぱなしのセルフサービスであることだ。スープカレーにサービスとしてつく飲み物として、ホットコーヒーを選ぶ者はあまりいない。アイスチャイとかラッシーとかアップルジュースとかジンジャーエールとかそういうものが多い。これらの冷たい飲み物はセルフサービスでもおいしく飲める。でも、ホットコーヒーだけはおいしく飲めない。あまりにもそれを飲む人が少ないために、起きっぱなしのサーバーはコーヒーを少しずつ蒸発させ、煮込んでしまうのである。おそらく店長はコーヒーには興味がないのだろう。スープカレー屋の店長にとって、ギャルに敬語を教えられることとコーヒーの味を知っていることとのどちらが優先順位が高いのか、不明にしてぼくは知らない。

今日もまずいコーヒーをカップに注ぎにドリンクバーまで行くと、携帯電話が鳴った。見ると03から始まる見知らぬ電話番号だ。記憶にない。でも、東京からの電話だから仕事関係だろうと思って仕方なく出た。相手は、いまぼくのこのその出版社からの3冊目の本を担当している編集者だった。25日に着くように校正ゲラを送りたいのだが、何時にどこに送ればいいかとの問い合わせだった。

25日。木曜日である。ちょうど2学期の始業式の日だ。午後からは授業がない。もしかしたらぼくは年休をとって帰宅するかもしれないが、その確証もない。帰宅直後に不在連絡票を見て電話をかけるのも面倒だ。「この後はご自宅にいらっしゃいますか」と尋ねられて、ちょっと煙草を買いに行くということさえ封じられてしまう。ぼくはそれがいやでたまらないのだ。

「午前中に届くように学校に送ってください」とぼくは言った。どんなことがあろうと、病気か事故でない限り、25日の午前中は絶対に学校にいる。それが一番無難なのだ。

やれやれ。

ぼくには生活パターンが二種類ある。学校の仕事を中心にしているパターンと、原稿とか講演とかを中心にしているパターンだ。ぼくは夏休みをばりばりの後者で過ごしてきた。そして25日の始業式からばりばりの公務モードに切り替えようとしていた。それなのに、なんとも言いようがないことに、その始業式の日によりによって校正ゲラが届くというのだ。校正というのは届いてから締切までが1週間程度であることが多い。否が応にもやらなければならない仕事になる。

やれやれ。暑い日にも寒い日にも湿度の高い日にもおいしいスープカレーも、さすがにぼくのこうした気分だけは解消してくれなかった。ギャルの敬語もアルカイックスマイルも結局ぼくの気分にまでは届いてはくれないのだ。サービス業とはまさにそうしたものなのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「資格がないのよ」と彼女は言った

「資格がないのよ!」

やっと12時になったから新聞でも読もうと休憩室に足を踏み入れた途端、彼女が一度口に入れた昼食のおかずを飛ばしながら言った。どうやら若い男の先生をつかまえて、弁当を食べがてら校長の横暴振りを愚痴っているらしいことだけは一瞬で理解できた。

彼女は社会を教えていて、若い男は体育。ちなみにぼくは国語である。夏休みの終わりの中学校の職員室なんて、こんな風なのだ。生徒や保護者とは一ヶ月近くもほとんど逢っていないし、逢っていたとしてもトラブルなんて起こらないから、悪口を言うとしたら管理職か同僚と相場が決まる。

彼女は何先生だったろう……。1ヶ月近くも逢うことのなかった彼女の名前をぼくは忘れかけている。一生懸命思い出そうとするのだが、思い出せない。

朝刊を見つけて彼女の斜め向かいに座ると、ぼくはソファに深く腰掛けて社会面を開いた。彼女がこの場でしゃべっていることは校長の横暴振りに負けないくらいに陰の横暴と言って良いと思うのだが、そんなことを言ったとしても彼女はほんの少しも理解できないだろう。ここでは新聞が読めないと諦めてぼくが立ち上がるまでの3分ほどの間に、彼女は「資格がないのよ」と6回言った。30秒に1回の割合だから、平均すると投手が1球投げ終わる間に3回言う計算になる。

「資格がない」と彼女は言う。おそらく人の上に立つ者としての資格だろう。平教員を何十人も従えて学校を運営するには度量が足りない。それが彼女の言い分なのだ。

しかし……と思う。度量に資格なんてあるのだろうか。どうすればその資格とやらを取ることができるのか。英語や書道やソシアル・ダンスの資格とはわけが違うのだ。あなたは校長としての度量を有する……そんな資格ペーパーなどあり得ない。もしあったとしたら、日本じゅうのすべての校長・教頭がその資格を取ろうと躍起になるはずである。ぼくはいまだに不明にしてそんな資格のあることを知らない。

そもそも、彼女もまた、人の上に立つ者として生徒たちの前に立っているのではなかったか。上か下かは議論になるにしても、おそらく彼女は彼女のクラスの生徒たちに対して、おそらくはぼくらの校長がぼくらに対してもっている影響力以上の影響力を行使しているはずだった。もしもその根拠を教員免許に置くなら、校長だって管理職試験に通っているのだ。そういう意味では他人に対する影響力行使の所以なんて同じようなものである。

そうした資格を問うてみても仕方がない。資格ペーパーの更新なんてものは、現実的にすれば意味をなくすし、実質を伴わせようとすれば誰も受からなくなる。そういうものなのだ。教員免許更新制に実質を伴わせようなんて考えてはいけないし、管理職試験に実質を伴わせようとも考えてはいけない。免許更新を本格的に教壇に立つ資格としてその基準を考え始めたら誰ひとり受からなくなる。それである程度の人たちは受かるようにと基準を下げはじめたら、あれもこれもと下げる理由が見つかって、結局、現行の免許更新に近づかざるを得まい。そういうものなのだ。

資格なんて問うものではない。人の親になる資格、結婚する資格、恋愛する資格、友達とこのまま友達であり続けるための資格……。校長の資格や教員の資格はこれらに近い。問われても困るのだ。教員であり続けるために数万円のお金と数十時間の時間をその対価として支払う、そのくらいがちょうど良いのである。そう考えれば、校長は宴会の度に「寸志」と書いて一万円を支払い、部下がトラブルを起こす度に自らの時間を削っていく。それだけで資格ありと言ってあげるのがいい。

結局、今日、ぼくは退勤まで彼女の名前を想い出すことができなかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

STEVIE WONDERを聴きながら眠りに就いたら真夜中にこんな夢を見た

ぼくが納豆をかき混ぜていると、ラジオからスティービー・ワンダーの「パートタイム・ラバー」が静かに流れ出した。納豆ひとパックにキムチを箸で二つまみ、それをかき混ぜると素敵な食べ物ができあがるのに、広く知られていないのは国民的損失の一つだと思う。夏にはほんのちよっとだけポン酢をたらすのもいい。

それを肴に日本酒を二合呑むのもいいし、イカやマグロの安いお刺身をスーパーで買ってきてソースにしてもいい。醤油もワサビも不要、これ以上ないという完璧なソースに早変わりする。こんなにおいしいのに妻はソースとは認めてくれない。たぶん美空ひばりならあの眉毛をグイと上げて、あら、いけるじゃない、と言ってくれそうなのに。八千草薫なら目を見開いて柔らかい笑顔を向けてくれるかもしれない。そんな確信さえ抱かせるキムチ納豆である。

キムチ納豆をしつこくかき混ぜると、表面にうすーい膜ができる。男性が五十を超えて、その狡猾さや懐の深さに見合ったものを身につけるために必要そうな膜だ。男性は五十を超えて立場をもつと、まるで社会を代表するかのような表情を見せるようになる。四十男はくだらないことでいつも大笑いしているのに、五十男はまるで笑うことが自分を貶めるとでも思っているかのように笑わなくなる。きっと笑わないことが自分の威厳を高めるのだと勘違いするのだろう。でも総じて部下に好かれる五十男は大笑いする人が多い。こんな単純なことにも気づけなくなってしまうほどに、この病気は根が深い。

男性は五十になると、きっと脳にキムチ納豆のようなうすーい膜が少しずつ現れて、脳の笑いを司る働きをする丸い部分を包んでしまい、働きをにぶらせてしまうのだ。そしてその膜ができて地位を得ると、その膜が少しずつ変色してくる。腐った肝臓みたいに紫色になってきくる。五十になっても笑いを捨てない男性がいるのはそのせいだ。膜ができるのに抗うことはできないけれど、変色には抗うことができる。

きっと紫色に変色した膜は脳卒中の危険性を著しく高めるのだろう。喫煙者は非喫煙者より脳卒中になる危険性が1.7倍高いらしいけれど、きっとこの膜の変色者は非変色者より脳卒中になる危険性が5.3倍ほど高いに違いない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)