書斎日記

なぜ、堀先生はそんなに本をたくさん書けるんですか?

なぜ、堀先生はそんなに本をたくさん書けるんですか?

よくこう訊かれる。

学級通信や雑誌原稿をよく書いている人に一般的にこういうことは訊かないだろう。「なぜ、そんなにたくさんの学級通信を書けるんですか?」とか「なぜ、そんなにたくさんの雑誌原稿を書けるんですか?」と訊く人はあまりいない。前者は日常と化してるからであり、後者は依頼が来てなんとかひねり出しているに過ぎない。僕の本も多くは日常と化しているから書けるものに過ぎないし、依頼が来てなんとかひねり出しているものに過ぎない。

しかし、年に一冊くらいはそうでないものもある。今年度、僕はまだ未刊のものも含めて十四冊の本を上梓することになっているが、そのなかで「日常の延長」でもなく、「依頼によってひねり出したもの」でもないものが二冊ある。一つは『スクールカーストの正体』(小学館新書)であり、もう一つがこれから出る『義務教育で培う国語学力~授業づくりの10の原理/100の言語技術』(明治図書)である。前者は8年程度の、後者は20年程度の研究成果をまとめたものだ。かけた時間、集めたデータが他の書とは桁が違う。

例えて言うなら、僕の多くの本はミュージシャンがリリースするシングル盤のようなものだが、年に一冊か二冊出している長年の研究成果をまとめているものはフルアルバムに当たるといった感じだろうか。その他はアルバムづくりのためにシングル盤のリリースを重ねてネタ収集をしたり、実験を繰り返したりといった趣の本なのだ。なかにはフルアルバムから「ここが甘いな…」と感じた観点を取り出して、シングルカットしたなんていう趣の本もある。あまり良い例えではないかもしれないが、こういう言い方が割とわかりやすいと思う。

たぶん、僕がアルバムとして書いた本は、以下だと思う。もしも僕が本気で書いたものに興味を持っていただけるなら、これらを読んでいただけると良いかもしれない。この6冊は僕の他の著作と提案性の規模が違う。ただし、これらの著作の提案性を理解するためには、読者にもそれ相応の力量が必要かもしれない。

『絶対評価の国語科授業改革・20の提案』(明治図書/2003年)
『一斉授業10の原理・100の原則 授業力向上のための110のメソッド』(学事出版/2012年)
『教師力ピラミッド 毎日の仕事を劇的に変える40の鉄則』(明治図書/2013年)
『反語的教師論』(黎明書房/2014年)
『スクールカーストの正体 キレイゴト抜きのいじめ対応』(小学館/2015年)
『義務教育で培う国語学力~授業づくりの10の原理/100の言語技術』(明治図書/2016年)

あとは割と気楽に書いているエッセイのようなものやある年の実践報告のようなものが多い。『国語科授業づくり入門』(明治図書/2014年)『教師力入門』(明治図書/2015年)の2冊だけは、例えて言えばベストアルバムのような趣を呈しているかもしれない。

長く表現したり主張したりし続けるということは、そういうことなのだと思う。

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出会い

人間というのは、出会うべき人とは出会うべきときに出会うものなのだなあ…とつくづく思う。

藏満逸司。なんと素晴らしい男であったか。二人で飲みながら話していて、まったく退屈しない。食べ物をあんなにうまそうに食べる男を見たのも初めてだ。しかも、「うまいなあ、うまいなあ」と騒がしく食べるのではない。彼は静かに、満面にうまそうな表情を浮かべるのだ。こちらを案内して良かったな…という気持ちにさせる。もしも、彼と三十代の頃に出会っていたとしたらどうだったろう。僕は彼の魅力とか思想とかを理解できなかったかもしれない。もちろん、三十前から藏満逸司の名前と顔は知っていた。「授業づくりネットワーク」誌にはいつも、相撲取りかヤクザのような顔写真が載っていて(他人のこと言えないけどね・笑)、こんな物静かな人だというイメージはまったく持っていなかった。

多賀一郎という男にも同じことを思う。もしも多賀さんが45歳、僕が35歳のときに出会っていたら、お互い生意気で喧嘩していたかもしれないなと思う。やはり出会うべきときに出会ったのだろう。

廣木道心もそうだ。35歳の僕の前に彼が現れても、僕は彼の思想を自分の実践に活かそうなどとは思わなかっただろう。四十代後半だったからこそ、彼の思想、発想が僕の感覚に必要とされたのだ。

金大竜との「往復書簡」を書き上げて思うのは、金大竜にとってはおそらくこの時期に僕と出会ったのが良かったのだろうな…ということだ。25歳の彼と40歳の僕が出会っても、45歳の彼と60歳の僕が出会っても、おそらく僕はいまほどの彼の触媒にはなり得なかっただろう。

思えば、二十代、三十代の頃に僕を育ててくれた先生がたくさんいた。ずいぶんと可愛がってくれた先達がたくさんいた。潟沼誠二先生、森田茂之先生、鹿内信善先生、安藤修平先生、野口芳宏先生、宇佐美寛先生、大内善一先生、高橋俊三先生、鶴田清司先生、阿部昇先生、小森茂先生、河野庸介先生、田中実先生、須貝千里先生、大森修先生、寺崎賢一先生……もう数え上げたらキリがない。この十年ほど、ずいぶんと不義理を働いているなあ…と改めて想う。

そういや去年、十数年振りに「言語技術教育学会」に参加した折、野口さんに「10年以上この学会から脚が遠退いたことを反省しなさい!」と言われたっけ(笑)。

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神は細部に宿る

右手の薬指の先を見つめる。薬指の二つの間接を90度に折ってみる。二つの間接を120度ずつにしてみる。右手の薬指を時計回りにまわしてみる。反時計回りにもまわしてみる。どれもこれも簡単にできる。右手の薬指に神経を集中しているからだ。

でも、人間は右手の薬指に神経を集中させながら生きられない。食事をしているとき、友達と会話しているとき、車を運転しているとき、僕らの意識は右手の薬指には向かない。もしも右手の薬指に神経を集中させながら生きたら、数日で死んでしまうに違いない。道を歩いているうちに車にはねられたり、溝に落ちたり、車を運転しているうちに大暴走したり、そんなことになってしまうに違いない。

神は細部に宿ると言う。僕らが友人と話しているとき、僕らの意識は会話の内容や友人の表情に向いている。でも、そんなときにも、僕らは無意識のうちに右手の薬指を動かしているはずなのだ。その動きに、友人は何らかの意味を見出しているかもしれない。僕らだって、友人の唇の動きや、足の動きや、肩の動きにいろんな意味を見出しているのだから。そしてそれが、細部に宿ったこの人の神だと感じ...ることがあるのだから。

言葉で表現するとき、多くの人はだれもがそこから概念的な意味を読み取ることのできる自立語ばかりを意識している。「あなた」という名詞や、「愛している」という動詞や、「美しい」という形容詞や、「静かだ」という形容動詞や、「ゆっくり」という副詞や……そういうものに囚われている。でも、相手が読み取るのはそうした大文字の言葉じゃない。もっと細部なのだ。語り手が無意識に投じてしまっている細部なのだ。例えばそれは、助詞だ。例えばそれは、助動詞だ。「きみ、頭いいねえ」と言えば良いところを、人はときに「きみ、頭はいいねえ」と言ってしまう。この「は」という副助詞を、相手は聞き逃さない。一瞬でその裏の意図を理解してしまう。「なんにする?」と問われて、「珈琲でいいわ」と応えてしまった女性。男は「なぜ、珈琲がいいわ」と言わないのかと憤る。言葉にはしないが、憤る。こんな例のなんと多いことか。それで人間関係が壊れてしまうなんてことさえよくある。

でも、人は助詞や助動詞ばかりを意識して言葉を発することはできない。それはちょうど、僕らが右手の薬指を意識しながら生きられないように、左足の小指だけに力を込めることができないように……それと同じことだ。なのに、神はやはり、細部に宿ってしまうのだ。

 

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スクールカースト

学級集団を構成する生徒たちが、時代とともに変容してきているのは確かであろう。現代の生徒たちは、〈自己主張力〉〈共感力〉〈同調力〉の総合力としての「コミュニケーション能力」の高低を互いに評価し合いながら、自らの〈スクール・カースト〉の調整に腐心していると見て良い。〈スクール・カースト〉は別名〈学級内ステイタス〉とも呼ばれ、学級への影響力・いじめ被害者リスクを決定し、子どもたちを無意識の階級闘争へと追い込んでいる。ここでは、森口朗の提案を軸に「スクール・カースト」概念を見ていくことにしよう(『いじめの構造』森口朗・新潮新書・二○○七年)。

二十一世紀に入って、教育界から政財界に至るまで、これからの人間に必要なのは「コミュニケーション能力」であると声高に主張するようになった。このことばが毎年、就活学生を恐怖させているのも羞恥の通りである。しかし、この「コミュニケーション能力」の具体が何であるのかという説得力ある論述はなかなか見られない。就活生たちを恐怖させているのもこの言葉の実態がいまひとつつかめないからだ。

森口朗は、これを生徒たちが〈自己主張力〉〈共感力〉〈同調力〉の総合力と捉えていると分析した。〈自己主張力〉とは自分の意見を強く主張する力、〈共感力〉とは他人を思いやる力、〈同調力〉とは周りのノリに合わせる力である。

更に詳しく言うなら、次のようになろうか。

○自己主張力…自分の意見をしっかりと主張することができ、他人のネガティヴな言動、ネガティヴな態度に対してしっかりと戒めることのできる力。八十年代以降、世論によっても識者によっても政治・行政によっても大切だと喧伝されてきた能力であり、臨教審以来の教育政策の根幹として位置づけられてきた能力でもある。
○共感力…他人に対して思いやりをもち、他人の立場や状況に応じて考えることのできる 力。従来から学校教育では何よりも優先される絶対的価値だと考えられ、リーダー性にとっても絶対的に必要とされ重視されてきた能力(というよりも、これがなければリーダーにはなり得ないとされてきた前提能力)。多くの教師が「いい子」「力のある子」と評価する要素にもなってきた。
○同調力…バラエティ番組に代表されるような「場の空気」に応じてボケたりツッコミを入れて盛り上げたりしながら、常に明るい雰囲気を形成する能力。生徒たちによって現代的なリーダーシップには不可欠と考えられている、現実的には最も人間関係を調整し得る能力。

この三つの総合力を「コミュニケーション能力」と呼ぶ。毒舌タイプの級友にツッコミを入れて逆にオトしたり、おとなしい子やボケ役の子をイジじって盛り上げたりしながら、「場の空気」によって人間関係を調整していく。しかし、その際、相手を、相手の心を決して傷つけてはならない。こうした高度な能力が「コミュニケーション能力」なのである。

この三つの力の総合力を生徒たちが〈スクール・カースト〉(=学級内ステイタス)を測る基準としている、と森口は言うのである。森口はこれをマトリクスとしてまとめ、三つの力といじめ被害者リスクとの関係を示した。そこで分析されているのは、現代の学級が以下の八つのキャラクターによって構成されている、ということである。以下、生徒たちを分類する文言については、堀が少々改めている。

①スーパーリーダー型生徒(自己主張力・共感力・同調力のすべてをもっている)
②残虐リーダー型生徒(自己主張力・同調力をもつ)
③孤高派タイプ生徒(自己主張力・共感力  をもつ)
④人望あるサブリーダー型生徒(共感力・同調力をもつ)
⑤お調子者タイプ生徒(同調力のみをもつ)
⑥いいヤツタイプ生徒(共感力のみをもつ)
⑦自己チュータイプ生徒(自己主張力のみをもつ)
⑧何を考えているかわからないタイプ生徒(自己主張力・共感力・同調力のどれももたない)

これをもとに〈スクール・カースト〉の高低を図示するなら、次頁の【図2】のようになる。「コミュニケーション能力」を構成する三つの要素をその資質として多くもっていればいるほど〈カースト〉は高くなり、その資質としてもつ要素が少なくなればなるほど〈カースト〉は低くなる。〈スクールカースト〉は原則として、この基準で決定されているのだ。そして森口朗は、〈スクールカースト〉が相対的に低くなる「⑥いいヤツタイプ生徒」「⑦自己チュータイプ生徒」「⑧何を考えているかわからないタイプ生徒」にいじめ被害のリスクが高くなると分析した。また、いじめの首謀者となるのは主に「②残虐リーダー型」であり、このタイプの生徒の動きに「⑤お調子者タイプ生徒」が同調することによっていじめが集団化するとも分析したのである。

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リーダー生徒がいない

リーダー生徒がいない─こういう声を多く聞くようになった。多くの教師が実感的にそう語る。

最もその声をよく聞くのは三月下旬、学級編制会議の場である。一般に、学級編制をするときに、各学級に男女各一名のリーダーA生徒(高いリーダー性をもち、学年リーダー或いは生徒会を担当するような学校リーダーレベル)、男女各一名のリーダーB生徒(リーダーAには及ばないが、学級をまとめる程度のリーダー性をもつレベル)の計四名を配する必要があるとされている。つまり、リーダー生徒は学級数×4の人数が必要とされるわけだ。しかし、そのリーダーA・B生徒のリストアップが学級数分に遠く及ばないのが最近の傾向である。

反対に、問題傾向に数えられる生徒たちはかつてと比べて格段に増えている。八十年代に見られた教師に反抗的な、いわゆる「校内暴力」へとつながるような問題傾向生徒、多くの方々が問題傾向の典型として意識しているような、いわゆる「〈反〉社会生徒」と呼ばれる問題傾向生徒はむしろ減ってきている。増えているのは「〈非〉社会生徒」と呼ばれる生徒たちと「〈脱〉社会生徒」と呼ばれる生徒たちである。前者は人間関係をうまく紡げないタイプ、小さな人間関係トラブルがすぐに決定的な不登校傾向への要因となってしまうようなタイプの生徒たちであり、後者は社会的な物語を共有できないタイプ、時間意識をもって学校生活を送ることが難しかったり、分担された当番活動に取り組めなかったり、授業や行事にごく普通に参加することさえ困難だったりといったタイプの生徒たちである。つまり総じて言うなら、「学校システムから遁走するタイプの生徒たち」が増えているわけだ。

結果、学級編制会議はたいへん重たい雰囲気で終わることになる。担任教師にとって自分の学級にリーダー生徒がいないということは、普通ならリーダー生徒のリーダーシップに期待できる仕事まで学級担任がしなければならないことを意味する。学級集団というものは、「教師─生徒」という縦関係と「生徒─生徒」という横関係とがうまくバランスがとれたときに機能するという特徴をもっている。多くの教師はリーダー生徒に対して、学級担任が縦関係において強権発動した場合にも、リーダー生徒が横関係において調整してくれることを期待するものだ。学級担任に対して反感を抱いた生徒に、「まあ、そう言わないで先生の立場もわかってやろうよ」というようなリーダーイメージだ。こうした調整力はあくまで、縦関係と横関係という「軸の異なる関係」がバランス的にうまく機能したときに発揮される調整力という特質をもっている。リーダー生徒のいない学級を担任することは、学級担任にとって、縦関係のみにおいて規範維持と学級のストレス調整との両方を担わなければならないことを意味するのだ。

これは学級担任にとってかなりきつい。教員以外の方々から見れば、規範維持と人間関係調整を同時にすることくらいができなくてどうする、それが学級担任の仕事だろ、との反論が聞こえてきそうだ。もちろん、学級経営・学級運営を巨視的に見ればその通りである。しかし、もう少し日常的に、微視的に見るならば、リーダーがいない学級というものは、学級担任がこうしたベクトルの異なる二軸の営みを、どんな些細なことに対しても配慮しなければならないということを意味するのである。

しかも、学級では「〈非〉社会生徒」「〈脱〉社会生徒」がかなりいて(私の実感では、現在、一般的な学級で四割程度を占める)、学級担任は毎日毎時間、こうした生徒たちへの対応に追われ続けている。更には、時代は消費資本主義社会。Aの正義はBの正義に反し、Cの利益がDの不利益にあたるという「多様化」への対応が、学級担任には常に突きつけられている。もちろんこうした生徒たちの背後には保護者もいる。そのなかには幾人かのクレーマーがいて、更には一定数のクレーマー予備軍も潜在している。いま学級担任が立っているのはこうした地点だ。

自分の学級にリーダー生徒がいることは、このストレスフルな状況をかなり緩和させることになる。「〈反〉社会生徒」を巻き込み、「〈脱〉社会生徒」をフォローする空気を醸成し、ときに発動せざるを得ない学級担任の強権に側面からやわらかな追い風をくれる。管理職や学年主任によるフォローといった「背後からの追い風」なんかよりもずっと心強く心地よい「横風」、それが「リーダー」と呼ばれる生徒たちの機能である。

小学校に引き継ぎに行くと、六年生の担任の先生に「リーダー生徒がいないんですよ。すいません」と言われることが多い。おそらく小学校高学年にも同じような構造があるのだろう。生徒会事務局を担当したり、学級代表委員会を担当したりする教師たちも、最近はメンバーを集めること自体に苦労している実態がある。たいへん残念なことではあるけれど、これがまぎれもない「学校の現在(いま)」である。

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性的イメージとの親和性

また、東京・大阪・名古屋・札幌・福岡といった百万人から数百万人の人口を要する大都市と、数十万人規模の地方都市の間ではも、〈スクールカースト〉の顕れ方が異なる。前者のような中心都市では文字通り「コミュニケーション能力」が〈スクールカースト〉の決定要因として顕在化するけれど、後者のような郊外都市では純粋な「コミュニケーション能力」以上に、実質的な〈ヤンキー〉のカーストが高くなる。これは生徒たちの〈スクールカースト〉の高低が性的な奔放さと親和性をもっているからだ。

それは、〈スクールカースト〉が性的イメージと親和性をもっているからだ。

中心都市では十代に限らず、人々が性的にどのように動いているのかが表社会からは見えない。学校の先生や警察官、地位のある人が淫行をしていたと報道されるのは、そのほとんどが百万人以上の大都市である。不倫の現場が多いのも大都市だ。大都市はデートするにしてもホテルに行くにしても、知人に見られるリスクが小さい。つまり、中心都市は人々の性的な営み、性に関する営みが裏に隠れるのだ。

これが郊外型の地方都市ではそうはいかない。生徒たちから見れば、「あの子とあの子が付き合い始めた」とか「あの子はここまで経験した」とか、そうしたことが周りから見えてしまう。その結果、一切陰に隠れようとせずに性的な奔放さを見せつけることのできる〈ヤンキー〉と呼ばれる一群のステイタスが必然的に高くなるのだ。

もちろん、中心都市だってさまざまな地域に分かれているし、郊外都市にだって街の中心校と呼ばれるような中心都市的な特徴をもつ学校もある。だから、確定的にこう言うわけにはいかない。しかし、どんな都市であろうと、中心部ほど純粋な「コミュニケーション能力」が〈スクールカースト〉の決定要因となりやすく、周辺に行けば行くほどいわゆる〈ヤンキー〉のステイタスが高くなるという傾向はあると思う。僕は教職にある身なので、ほんとうはこういうことは言いづらいのだが、地価の高い地域ほど前者に近く、地価の低い地域ほど後者に近い、要するにそういうことだ。

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地域性

〈スクールカースト〉には地域性がある。これも見逃せない視点だ。基本的に〈スクールカースト〉は都市のものだ。各学級に三十数人とか四十人とかがひしめく。学年全体では数百人いる。そういう学校でこそ、〈スクールカースト〉は効力を発揮する。決して全校生徒十数人とか、小中併置の児童生徒あわせて数十人とか、そういう学校では機能しない。

次章で詳しく述べるけれど、〈スクールカースト〉の決定要因は「コミュニケーション能力」である。自分の意見をしっかり主張できるとか、他人を喜ばせる得意技をもっているとか、他人に対して思いやりをもっているとか、周りのノリにあわせてどんどん盛り上がれるとか、こうした他人とのコミュニケーションを円滑に運ぶことのできる能力をたくさんもっている者ほどカーストが高い。その意味で、ルックスの良さも他人を喜ばせる能力・資質の一つなのだと考えるとわかりやすい。こうした能力に格付けは小さな学校では機能しない。

例えば、日本全国、温泉街の学校では、児童生徒の間に厳然とした格付けがあって、なにをどうやっても逆転不可能ということがある。しかし、それはホテル王の孫とそのホテルで働く仲居さんの息子が同じ学級に所属しているといった場合であり、その格付けは大人たちの格付けと相似形をなしている、そんな地域の実態が学校に悪影響を及ぼしているに過ぎない。〈スクールカースト〉のように子どもたち独自の世界観が形成している格付けではないのだ。同じ意味で、農村や漁村をはじめ、第一次産業や第二次産業が主たる産業となっていて、大人達のステイタスの影響をそのまま子どもたちが受けやすい構造になっている町村でも、〈スクールカースト〉は機能しにくい。

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人生を貫く問題意識の効用

竹内好が1959年にこんな発言をしている。

かりに教育可能論に立つとして、それでは文学教育は可能か。文学には教育的役割の一面があるし、教育には文学が要素として含まれている。そのことは、私も認める。しかし、文学と教育とは、深いつながりがあるにもかかわらず、本質的に背馳する一面があることを認めるべきではないかと思う。文学(この場合は芸術といってもいい)の本質は創造であり、創造は現在の秩序の破壊をともなう。一方、教育は秩序の維持が本質である。どんなに「創造的」と銘打たれた教育でも、教育の本質はワクにはめ込むことである。そのワクが制度として外から与えられるか、教師のイメージの形で理想化されているかのちがいはあるが、どちらにしてもワクである。そのワクを破壊する創造を教育の目標にすることはできない。文学の道と教育の道は方向が逆である。〈『文学教育は可能か?ー異端風にー』竹内好・『講座文学教育1』文学教育の会編・牧書店・1959年6月・所収〉

私がこれを初めて読んだのは大学3年、いまから30年近く前のことである。疑問を抱くことなく文学と教育とを同時に志していた私には、立ち会いでいきなり張り手を喰らわされたような衝撃を覚えたものである。

それから30年近くが経つけれど、私はこの竹内好の問いに対する自分なりの答えを探そうとしているのだと感じている。それが私の教師生活であり、実践生活であり、執筆生活であり、読書生活なのだ。そんな気がしている。

もう十数年も前のことになるけれど、『文学の力×教材の力』という本のタイトルを見て衝撃を受けたことがある(田中実・須貝千里編・教育出版)。書店の教育書コーナーでこの書名を見た瞬間に、悪寒が走るのを感じたのだ。自分の問題意識をこれほどまでに的確に表現した書名を私はそれまで見たことがなかった。すぐさまその本を求め、その日のうちに読了し、私は息せき切って、興奮のうちに田中・須貝両氏に手紙をしたためたのを昨日のことのように覚えている。

国語教育を専門としない読者、たとえ国語教育を専門としていたとしても文学教育を専門としていない読者には、私がこの竹内好の問いを人生を貫く問題意識としている心象を理解してはもらえないと思うし、田中実・須貝千里両氏が施したこのタイトルに対して私がどれほどの興奮を覚えたのかについても理解してもらえないとも思う。

しかし、世にほんとうに「読書術」なるものがあるとして、その神髄はなにかと考えるならば、それは「どう読むか」などということではなく、やはり自分を読書に駆り立てる原動力となっている問題意識そのものなのだと思う。私にとってその原動力は、こんなにも単純で、しかもほとんどの人にとってはどうでも良いような問いなのだ。それが現実なのだ。それが実態なのだ。

この問いこそが私に自分の「違和感」にこだわらせ、4色ボールぺンを使わせ、毎日引用可能性のある文章を打ち込ませ、月に一度それらを整理させ、常に5冊を並行読みさせ、自分の死角を意識させ、膨大な金をかけた書斎をつくらせているのである。

いや、受信ばかりではない。私に毎晩休まず原稿を書かせ、日々の授業を立案させ、日々の人間関係を営ませているのもこの問いである。すべてが文学と教育の背馳を乗り越えられるという実感を得てみたい、そんな人生を貫く問題意識に依拠しているのだと思う。

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書斎の効用

書斎とは、その書斎の持ち主の「なりたい自分」の姿である(前掲『街場のメディア論』)。

1000冊以上の蔵書をもつ者で、そのすべてを読んでいるという者はおそらくいないだろう。一般的には3割、多い人でも4割、たぶん半分読んでいるという者はほとんど皆無だろうと思う。しかし、それでも読書家は書斎を愛する。自分の書斎を心から愛している。「いつの日かこれをすべて読んでいる自分になりたい」「いつの日かこれをすべて理解している自分になりたい」という、その具体的な表象がそこにあるからだ。書斎とは「なりたい自分」への憧れが創り出す仮象である。

私はちなみに書斎を二つもっている(というか、つくっている)。通称(と言っても自分で名付けているだけで、数人しか招いたことがないのだが・笑)「教育の部屋」と「文学の部屋」である。教育関係の本は「教育の部屋」で読み、文学関係の本は「文学の部屋」で読む。双方にちゃんと机があって、教育関係の原稿は「教育の部屋」で書くし、文学関係の原稿は「文学の部屋」で書くことにしている。たぶんこの書斎の在り方は、私の日常的なアイデンティティの源、と言うよりも「発言原理」や「行動原理」の源にもなっている(笑)。

一歩足を踏み入れると、私の書斎には全集本が並んでいる。私は毎日、書斎のドアを開けてこの全集本が並んでいるのを見る。サド、ドストエフスキー、トルストイ、カミュ、フロイト、サルトル、ハイデガー、魯迅、夏目漱石、坂口安吾、武田泰淳、三島由紀夫、安部公房、竹内好、高橋和巳、井上光晴、深沢七郎、澁澤龍彦、山川方夫、まど・みちお、安房直子などなど……。芦田惠之助、時枝誠記、西尾実、輿水實、斎藤喜博、大村はま、西郷竹彦、大西忠治、野口芳宏などなど……。戦争文学全集や国語教育方法論体系、国語教育基本論文集成なども並んでいる。さあ、この数百冊の全集本に象徴されるような「知の世界」に今日も入って行くぞ……無意識にそんな思いを抱いて私は毎日書斎に足を踏み入れているような気がする(でも、今後、私が全集を買うことはもうほぼないだろうと感じている。今後全集を買うことがあるとしたら、「池田晶子全集」が出たときだけだろうと思う)。

全集本スペースの奥には「教育の部屋」がある。そこには大正期から昭和にかけての文学教育に関する本、生活綴り方に関する本から平成の軽いタッチの教育書に至るまで所狭しと並んでいる。法則化運動の主要書籍やプロ教師の会から苅谷剛彦や土井隆義に至るまで、デスクトップに向かう椅子に座ったまま手の届く位置に置いてある。国語教育に関する辞典・事典の類ならば、おそらく私の書斎には戦後出版されたすべてがあると思う。

更に奥に行くと「文学の部屋」である。古典文学関係こそ岩波の日本古典文学体系の他には百数十冊しかない(私は古典文学に暗い。本気で読んだことがあるのは「雨月物語」くらいだ)が、近代から現代の文学作品と文学評論は数千冊を数える。なかでも高橋和巳はすべてが初版で揃っているし、三島由紀夫の小説の初版は残り9冊を残すのみとなっている(両者とも文庫を含めるとまだまだある。文庫の初版はなかなか見つからない・笑)。80年代の半ばからは村上春樹の新刊が出ると必ず初版を5冊買うことにしている。初版本に4色ボールペンで線を引きながら読んでいると、ある種の傲慢な悦楽を感じるのだ(要するに変人ですね・笑)。

おそらく私の憧れは、これらの本をすべて読み、これらの本をすべて理解できる自分なのだ。

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死角意識の効用

冒頭にも述べたが、人は読む本を選ぶとき、自分の興味を抱いた本、自分の好きな作家の本を読むことが多いものである。興味をもてない領域の本、嫌いな作家の本をわざわざ読もうとする人はまずいない。しかし、私はそれを意識的にする。興味をもてない領域、嫌いな作家の新作を敢えて手を出す。自分を高めるには、自分が何を知っているか、何を知りたいかについて追究するよりも、自分が何を知らないか、自分が何について知ろうとしていないかについて追究するのが一番だからだ。

私は現在49歳の男性教師なわけだが、四十代になってから、できるだけ女性の論者の本を読もう、できるだけ女性の作者の小説を読もう、できるだけ若い論者の本を読もうと意識している。一般に男性読者は女性の書いた本をあまり読まない。また、男性読者は自分よりも若い著者の論述になかなか手を伸ばさない傾向がある(多くの女性読者にはその傾向がない)。おそらく、女性や若者をどこか馬鹿にしているのだと思う。私は40歳頃に自分のその傾向に気づいた。そしてその後、意識して女性や若者の書いたものを読むようにしたわけだ。その結果、女性の著者も自分よりも若い著者も、私の視野を革命的に広げてくれたと実感している。

また、『苦役列車』(新潮文庫)で芥川賞を獲った、西村賢太という私よりも一つ年下の作家がいるだが、この作家も私の視野を革命的に広げてくれた作家の一人である。西村は中卒で、コンプレックスと体力と性的身体性を描く作家なのだが、自分と同時代を生きた人間のなかにこういう感性があったかと、私は驚かざるを得なかった経緯がある。西村賢太と出会うまで、こうした下層を描く書き手は永山則夫をはじめとするひと世代上の作家という固定観念があった。西村は私のそんな固定観念を見事に破壊し、自分の生きた時代を顧みさせてくれた。私は私の知らない、私の気づかなかった「同時代」を知りたくて、彼の作品が掲載される雑誌を買ってまで読んでいるほどである。

知らないこと、知ろうとしていないことを知ることは、実はとても楽しく、有意義なことなのだ。

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