今日のひとこと

個性

僕は今年度、3年生5クラスを担当した。3学期は入試直前なので授業はすべて入試対策問題に取り組むだけということになる。国・社・数・理・英の5教科がすべてこのパターンなのだから、生徒たちにしてみれば自習をしに学校に来ているようなものだ。生徒たちはひたすら静かに問題を解く。終了10分前に模範解答が配られ自己採点する。ただそれだけだ。だからこの時期、3年生の教室はどこもとても静かだ。

意外に世の中に知られていないことだが、実は静けさにも個性がある。1組的静けさと3組的静けさは微妙に異なる。2組的静けさと5組的静けさはまるで違う。そういうことがたくさんある。一つの学級にしか行かない小学校教師にはなかなか抱きにくい認識である。

個性というと行事の動きや授業の動き、整列時の動きといった動的なものに対して与えられる傾向がある。しかし、静的なものにこそその集団の個性がよくよく表れるということは確かにあるのだ。教室で級友の意見を聞いているとき、職員会議で発言を聞いているとき、図書館でじっくり調べ物をしているとき、美術館で一つの絵と向き合うとき、人はきわめて個性的だ。

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恩返し

やっと春の刊行ラッシュも落ち着いてひと息ついた。四十代最後の年をこれまでの実践・研究をまとめる年にできたな…という満足感がある。取り敢えず、次をどんなステップにして行くのか、じっくり考えることにしたい。

大内善一先生から著書をお送りしたことへのご丁寧な返礼をいただく。さすが善一先生。僕の意図も、これからの課題も見抜いておられる。

今回の著作は僕が勢いだけで駆け抜けた三十代を象徴するような内容に仕上がっている。そんななかで、どれだけ善一先生に学んだか知れない。かつてお世話になった先生方との時間も、だんだんと少なくなってきている。恩は返すことではなく送ることが基本ではあるけれど、まだまだ恩返しできる時間がある。しばらくは恩返しに時間を使わなくてはとも思う。

このままにしておくには、あまりにもお世話になりすぎている。この10年、不義理を働きすぎてもいる。そんな先達があまりにも多い。

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届きました

12791004_975636422528813_54461289_2届きました。表紙もなかなか良い色です。

25年前、僕が初めて教壇に立った頃、なぜ、この国には現場教師が使えるような国語学力の体系本がないのか…と思いました。ないのだから仕方ない。いつか自分でつくろう。そう思いました。

この本は25年前の僕が欲しかった本をやっと形にしたものです。著者がこういう言い方をするのは不遜ですけれど、この本は国語の授業をする立場にある教師ならば、絶対に買うべき本だと、手元に1冊置いておくべき本だと自負しています。

それにしても、こうして形になってみると感慨深いものがあります。

【追記】

各章にアイコンが設定されていたり、まえがき・あとがきにさりげないイラストがあったり、参考文献一覧のレイアウトが工夫されていたり、編集の及川さんがこの本をかなり大事につくってくれたことを感じます。深謝いたします。

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はじまる…

2010年代がまた心理主義の時代であることがそろそろ鮮明になって来たように思う。00年代は社会学の10年だったし、90年代は心理学の10年だった。戦後、ほぼ10年周期で実存主義的な時代と現象学的な時代とが綱引きを繰り返している。

実存主義的な時代とは基本的に「自分から見た世界観」を肯定する人たちが世論や言論界を制す時代である。現象学的な時代とは基本的に「自分から見た世界観」を括弧に括って「自分に見えていない世界」を追究する人が世論や言論界を制す時代である。

90年代はまさしく心理主義に席巻された時代だった。トラウマ、自分探し、癒し、エヴァンゲリヲン…。そこには自らの弱さを肯定し、他人の痛みを理解しようという心性が流行する。そうした心理主義への反動が00年代には社会学の流行を産み出した。文化的にはバトルロワイヤル、デス・ノート、リアル鬼ごっこに顕著なように、自分の弱さを肯定しているだけでは搾取される、闘うしかない、という心性が流行した。そこにあったのは自分の視座を括弧に括って世界を俯瞰しようという視座だったように思う。言うまでもなく、こうした視座は...現象学的還元や構造主義と親和性をもつ。

おそらく現在、そうした心性の流行に疲れた者たちが再び癒しを求め始めている。90年代との違いは、90年代の心理主義の視線が自分に向いていたのに対し、10年代の心理主義の視線は他者との共生に向いている点だろう。でも、他者との広く浅いコミュニケーションに自己の規定を求めるのは危険すぎる。他者への信頼が裏切られ、深く傷つく人をたくさん出すだろう。おそらく20年代にはまた現象学的な時代が来るわけだが、90年代の「自分がわからない」と10年代の「他人がわからない」を経て創出される現象学的視線はこれまでで最も厳しいものになっていくに違いない。

言うまでもなく、教育は実存主義的な視座と親和性がある。90年代は新学力観とゆとり教育に沸いた10年間だった。現在も同じ雰囲気が生成されつつある。でも、きっとあと5、6年だ。5、6年経ったら、また教育が冬の時代を迎えるに違いない。いま、熱狂できるこの時期になにを、どこまで進めることができるか、注目すべき5年間が始まっていると僕は見ている。

ただし、現在、さまざまな提案をしている人たちが50前後の人たちであり、青春期を構造主義的機運のなかで過ごした人たちであることは知っておいたほうがいい。「自分に見えている世界観」を括弧に括って考えられる人たちが新しい提案をしているということを。ほとんどの提案がその根に80年代の構造主義的発想をもっている。俯瞰する視座をもつが故にそうでない裏側を隠しながら口あたりの良い言説を展開できる、そういう構造がある。

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マイクロシーベルト

ついさっき、テレビニュースで「マイクロシーベルト」という単位を聴いて、正直、「久し振りに聴いたな…」と感じた。自分では意識していなかったのだが、自分のなかでやはり風化してきているのだなと感じざるを得ない出来事だった。

今朝から普段通りに働く先生方や普段通りに登校する生徒たちを眺めながらいろんなことを考えた。中学校に勤めていると、今後、震災がどのように風化していくのかを目の当たりに見る想いがする。3年生は当時5年生、あの映像とあの空気をはっきりと覚えている。2年生は4年生、多くがあの映像とあの空気を覚えているけれど、意識のない子がちらほら見られる。1年生は当時3年生、東日本大震災に対する思い入れが2年生とははっきり違うのを感じる。現在の小学校5年生あたりからはあの毎日のように流れたテレビ映像さえ記憶にないという子どもたちになっているはずだ。

かく言う私も、たまたま気仙沼に親しい友人がいて、たまたま震災の数年前に研究会で気仙沼を訪れていて、あの震災で空襲かと思われるような気仙沼の映像を見たからこその思い入れともいえる。それがなければ他人事だったかもしれない。いや、いまだって関係者から見れば当事者意識の薄い私はそもそもが他人事なのだろうが、その当事者意識は気仙沼とのつながりがなければもっともっと薄かったはずなのだ。人間なんてそんなものなのだろう。
こうした原罪意識を忘れないでいたいものである。

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札幌市中学校教諭車上荒らし事件に寄せて

同業者の車上荒らしにたいへんなショックを受けている。

なぜこんなにも自分がショックを受けているのか理解できないでいたけれど、こういうことなのではないか。

車上荒らしという犯罪行為がもともと生存の危機に瀕するときに増えるタイプの犯罪であり、比較的に平和で豊かな社会では下層階級の起こすタイプの犯罪であるからだ。この手の犯罪は国が貧困にあえぎ、社会が混乱しているときに増える、そういうタイプの犯罪なのだ。事実、この手の犯罪は1950年代まではものすごい数で立件されていた。そういう時代の犯罪と今回の犯罪は親和性をもっている。それが教員から出たということがショックなのだろうと思う。

札幌市ではこの10年、体罰があり、飲酒運転事故があり、パチンコ屋でパッキーカードを盗むというような事件があった。おそらく公にはされていないまでも、セクハラやパワハラの問題も多数あったことだろう。

まず、体罰は教育特有の問題であるからこれはいっしょに議論できない。むしろ社会では暴行であるものが現場が学校だと「体罰」と称される社会的慣習による呼び名に過ぎない。生徒の万引きが窃盗と呼ば...れずに社会が「万引き」と呼び、学校と保護者が同伴して謝罪すればたいていの場合許されてしまう慣習と同様の構図がある。従ってこれはこの議論から除外。

飲酒運転もセクハラもパワハラも世の中が平和で豊かだから問題になるタイプの犯罪である。生命の危機に瀕している、明日の命がどうなるかわからない、こうした状況のとき、この手の問題は優先順位が低くなる。しかも、おそらくこの手の犯罪は公にされないだけで、飲酒運転は一日に数万件、セクハラやパワハラに至っては厳密に判断すれば一日に数百万件の単位で起こっているに違いない。それが公にされなかったり被害者が我慢したり被害・加害で和解したりできるのは、これらが多分にモラルの問題を含んでいるからだ。モラルの問題だから、どんな職業の人間にもモラルハザード人間は一定数いる。だから教員から出ても警察官から出ても官僚から出ても大企業の社長から出でも、「馬鹿なヤツがいるもんだ」で僕らは済ますことができる。(もちろん、飲酒運転の事故で被害者が亡くなったとか、ハラスメントで被害者が自殺したという問題になれば大問題だが、それは別の論議だ。)「自分はしない」で済ますことができる。モラルの問題と考えることができるだからだ。

パチンコ屋のパッキーカードにいたっては、完全に平和な社会でしかあり得ない。なにせ娯楽施設での出来事である。「馬鹿だなあ…」という以外に言葉の出ない事案だ。多くの教師はただ嘲笑したはずである。

しかし、車上荒しは違う。これはモラルの問題ではない。まったく次元の違う問題なのだ。

生存の危機に瀕したとき、人のものを盗む、人を殺してでも盗むという事件は多くなる。犯罪白書に見る戦後から1950年代までのデータはそれを示している。その後、私たちは平和で豊かな社会を実現させ、こうした犯罪をかなり抑制することに成功した。しかも、教師は田中角栄内閣以来、身分的に大きく保障され、こういう犯罪を犯すような経済状態に陥らないようにと配慮されているのである。なのにこういう犯罪が教員のなかで起きるとすれば、この身分保障の前提が崩れてしまいかねないのだ。こんな犯罪を犯すような職業なら、教員の給料なんて300万くらいでいいじゃん…という論理に抗えなくなるのだ。つまり、これは僕らの職業的アイデンティティ、セルフイメージにかかわる問題なのだということだ。「自分はしない」で済ませられる事案ではないのだ。

僕が今回の報道に大きなショックを受けたのはこういうことなのだろうと思う。今回の容疑者には、もし容疑が事実なら僕は同業者として厳罰を望む。

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札幌市中学校教諭、車上荒らし・暴行で逮捕

【車上荒らしで教諭逮捕=強盗致傷容疑-札幌】

http://news.nifty.com/cs/headline/detail/jiji-2015030700134/1.htm

緊急で校長が招集されて、服務規程が確認されて、日常生活においても教育公務員としての自覚をと職員に徹底しろとか言うのだろうか。そして再発防止に努めるとか言うのだろうか。

酒気帯び運転とかセクハラ発言とか、百歩譲って淫行までは「再発防止に努める」のを許そう。でも、こんなものはどう考えても再発しない。もしも行政がそういう対応を取るなら、一般教諭をなめてるとしか言いようがない。

それにしても、正直、知らない人でホッとした。

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分かれ道

昨夜脱稿した原稿をすべて読み直して推敲。フォーマットも整える。予定していたよりも意外と手間取り、3時間くらいかかる。1時間半で仕上げて、次に進もうと張り切っていたのだが、出鼻をくじかれた。少し休むことにしよう。これまでの経験から、この「少し」が危険であることは重々承知しているのだか……。まあ、いいだろう。

そもそも、この土日はこの原稿を完成させることが目標だったのだから。考えてみれば、この土日は遊んでもいいという話でもある。

ほら…少し休もうと思うと、次々に悪い考えが浮かんで来るものだ。いけないいけない。仕事というものはノッてるときにやらないと絶対に溜まっていくものなのだ。きっとこれは人間界の普遍的な構造なのだと思う。敬愛する外山滋比古もそう言っていた(笑)。

でも、せっかくだから映画でも借りてきて観るかな…。コン詰めて無理して書いた原稿なんてろくなもんじゃねえ…。ほら…、やっぱり悪い考えが浮かんで来る。とにかく煙草買いに行こう。コンビニからまっすぐ帰ってくるか、TSUTAYAに向かって車を走らせてしまうか、10分五くらいのその判断が分かれ道だな、きっと……(笑)。

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ノリノリ

今日は二日酔いのなか、まずは「児童心理」の原稿の校正。読み直してみると、我ながら、割とおもしろい原稿が書けているな…という印象。こういうことは珍しいので、ちょっと嬉しい。「児童心理」からの依頼されるテーマは僕自身にも勉強になる。テーマについてあれこれ考えているうちに新しい発想が生まれる。こういうとき、編集者というのはありがたい存在だなと実感させられる。

『THE 教師力ハンドブック 教師力入門』『よくわかる学校現場の教育原理~教職を生き抜く10のメソッド』が編集作業に入ったようで嬉しい。前者はさまざまな仲間たちがさまざまなテーマで書いている。西川純先生の立て続けの刊行は驚きである。後者はシリーズ化していく予定。今後数年かけて、僕の大きな仕事になっていく。

「日本教育新聞」に半年間、コラムを連載することになった。全12回。3月から始まるようだ。夏には二つの学会からオファーが来ている。これも珍しいことだ。仕事よ、来い来い。今年の僕は自分でも不思議なくらいにノリノリだ(笑)。いまはどんなテーマでなにを依頼されてもできそうな気がする。こういう感覚は人生初だ。

さて。いつまで続くのやら…(笑)。

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すらすら

昨日から世代別の力量形成に関する本を最初から書き換える作業を始めた。20代本は文体を少々変えて、具体例をたっぷり入れながら読みやすくすることを心掛けている。1章14頁ずつの10章だから、平日に1日1章ずつ書いて、休日に3章くらい書けば1週間程度ででき上がる計算になる。まあ、そう機械的に進むものでもないだろうから、これは皮算用にしても、それほど時間はかからない予感がある。いずれにしても、今月中に取り敢えず20代本は完成するだろう。それにしても原稿がすらすら進む。どうしちゃったんだろう、オレ……(笑)。こういう時期ってあるんだよな。人生に何回か。

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