授業

2011年4・5月/授業ノート

これまで1ヶ月にわたって、「平家物語」の視写・暗唱・音読練習・音読テスト・仮名遣い・係り結びと扱ってきた。目的は4つである。

①ノートをきちんととること。

②音声言語活動の心構え、評価観点を知ること。

③古文特有の韻律を体感すること。

④3人~6人の小集団交流に慣れること。

特に、毎年のことだが、ノートを学習の記録としてとにかく丁寧にきちんとつくらせるということにはずいぶんとこだわりをもっている。

Photo_12これは4月Photo_13の授業開きでおこなった「平家物語」冒頭の視写から始まった見開き。

下の頁には「視写」の定義、冒頭の口語訳、そして筆記テストの貼付。授業時間内の筆記テストを貼付するのに加えて、追試で満点をとったものをその上から貼付させる。文字が丁寧に書かれていないと、書き直しを命じられる。

毎年、そういう厳しさから寿儀容をスタートさせることにしている。「堀先生はノート点検に厳しい」ということが当然の空気として形成されれば、もうこちらの勝ちである。そのためには年度当初が大切である。

Photo_15「扇のPhoto_16的」の視写。口語訳の視写。一人一人の音読テストをやっているうちに、個人で進めていく作業。これを基本とした頁。

音読テスト終了後、仮名遣いを習ったら仮名遣いを、係り結びを習った係り結びを、4人グループ交流で検討したその成果も記入されている。

全文視写なんていう面倒なことにも記録として残ることを体験すれば、それ以降、なんの疑問も抱かずに取り組んでいけるようになる。古文の基礎知識を習う際にも、小集団交流をする際にも、教科書を使うのではなくこのノートに視写した文章を使って取り組んでいる。

Photo_17これは4月末に授業参観があった関係上、音読テストを見せるのもどうかと思い、「聞き方の達人への道Ⅰ」と題して、傾聴態度ロールプレイをおこなった際のノート。

ピアサポートのロールプレイ学習を国語科の「話すこと・聞くこと」領域に応用したものである。2000年前後から取り組み続けているが、「研究集団ことのは」としてはいわゆるテッパン授業の一つである。言語活動における様々な心構えの基礎の基礎を学ぶことのできる、よい授業である。

Photo_27 Photo_29 「敦盛の最期」 についても「扇の的」同様の活動をさせた。

生徒たちにとってみれば、長い文章でたいへんだったと思うが、どの子も一生懸命に取り組んでいた。こうした面倒なことに取り組むということも、必要な体験なのである。

正直に言えば、かなりの時間を要する活動なので、何か別の方法があれば切り替えたいとの思いもある。

しかし、Photo_31Photo_30「扇の的」で取り組んだことの定着ということを考えても、 授業システムの確立時期であるという現状を考えても、まあ必要な言語活動であると考えている。

歴史的仮名遣い、係り結び、「平家物語」の基礎知識に関するノート。今週3時間分のノートということになる。

こういうことをおさえては、4人グループで学習事項について本文をチェックする。現在、その繰り返しという授業パターンになっている。

10_2 11_2 国語科の授業には小集団交流が必ず1回は入るのが当然……という空気を醸成していくために、この時期には必要な授業パターンであると考えている。

正直に言えば、早く授業を進めてしまって、期末テスト範囲を確保したいとの思いもあるけれど、今後2年間の長丁場、優先順位は授業の形をつくることのほうだ。       

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筆記テスト

2 筆記テストというのはこういうものです。これを全員に5分間で課す。そんなシンプルなものです。採点基準は1行あたり5点、8行で40点満点です。

1行につき、1字分間違うごとに1点減点。1行につき5文字分間違えると、その行が0点になります。それを8行分足して40点満点というわけです。隣同1 士交換させて生徒に採点させます。教科書を見ながらひと文字ひと文字採点していくことも勉強になります。画像は採点基準を説明したときの板書です。

次の日から昼休みに追試があります。満点以外は全員追試です。今日は1組、明日は2組と昼休みに追試をしていき、2週目は今日は前半学級、明日は後半学級、3週目はまだ合格していない人はどの学級でもOK。このくらいのペースで40人分の机椅子の特別教室一つでできます。だれにも迷惑をかけません。自分一人でできます。まあ、昼休み巡視ができなくなりますから、学年に迷惑をかけているといえばかけていますが……。

たったこれだけのことです。でも、こういうことをやっておくと、定期テストの出来が格段に良くなります。年度当初に全員合格せな許さんぞよ、というものを五つくらいやっておくと、1年間の授業が非常にスムーズに進みます。その意味では、ぼくの授業の一つの〈核〉になっているシステムです。

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ダイアログ/ユーモア

子どもたちがスピーチやプレゼンの冒頭で「みなさんは○○ですか?」と問いかける場面があります。多くは問いかけただけで、すぐに自分の予定していた話を展開し始めます。要するに、問いかけが流れてしまうわけです。

しかし、「○○ですか?」と問いかけたら、少し間を置いて聞き手に考えさせる時間をもった方が効果的です。「うーん、どうだろうなあ……」と考えることは、「この人はどう考えているのだろう」と話し手の話の内容に興味をもってもらえるからです。実は、「○○ですか?」「○○って何だと思いますか?」と問いかけたら、二、三人を指名して応えてもらうとより効果的です。指名されて応えるのは二、三人だったとしても、多くの聞き手が「自分だったらどう応えるだろうか……」と考えてくれるからです。聞き手がそのように考えてくれるということは、とりもなおさず「話を聞く構えをつくってくれている」ということなのです。聞き手の応えに対して「なるほど」とか「そうですよねぇ」とか簡単なリアクションをしているうちに、聞き手は話し手に親近感を抱いていくものなのです。

スピーチやプレゼンの中にこうした話し手と聞き手とのやりとりを入れることを、私は〈ダイアログ〉と呼んでいます。日本語に訳すと「対話」という意味です。

子どもたちのスピーチの中にちょっとした聞き手とのやりとりを入れさせる、総合のプレゼンの中にクイズを入れて四、五人に指名して答えさせる。こうした〈ダイアログ〉を意識させることで、子どもたちのスピーチ・プレゼンは驚くほどに豊かになります。ぜひ取り入れたい技術です。

子どもたちに〈ユーモア〉が必要と言うと、流行りの芸人ネタや級友のいじりに走りがちです。そうしたネタものは確かに笑いを誘いはするのですが、意味なくネタが発せられたり他人を傷つけかねない言動があったりと、決して感心するものではありません。

実は〈ユーモア〉には、「攻撃的なユーモア」と「受容的なユーモア」とがあります。流行りの芸人ネタや他人に対するいじり、毒舌系のブラック・ユーモア等が「攻撃的なユーモア」、失敗談を語って自らを落としたり、わざとボケて聞き手にツッコミを入れさせたり、〈ダイアログ〉を用いて聞き手の答えにやわらかくツッコミを入れてクスリと笑わせたりというのが「受容的なユーモア」です。「攻撃的なユーモア」は当たれば爆笑を誘いますがはずれたら大火傷、「受容的なユーモア」は爆笑に至らないまでも確実なスマッシュ・ヒット、こういう違いがあります。「攻撃的なユーモア」は固定的ですが、「受容的なユーモア」は柔軟で動的という特徴もあります。聞き手の反応に切り返したり、瞬時に対応したりということを旨とするわけですから、総じて「受容的なユーモア」の方が高度であるともいえるでしょう。

「話すこと・聞くこと」において子どもたちに取り組ませたいのは、この「受容的なユーモア」の方です。〈ダイアログ〉を頻繁に用いて、聞き手の反応にやわらかなツッコミを入れることで場の空気を和ませる、そんな〈ユーモア〉です。そのためには、教師が授業の中で日常的にモデルを示すような〈対話術〉が必要になります。

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相手の立場・心情を想定する

1.相手の立場に配慮しないネットコミュニケーション

かつて,米国の掲示板サイト(アメリカYAHOO!)において,一人の心ない日本人の書き込みが米国人を激怒させたことがあった。掲示板参加者の怒りのレスポンスは当日だけで数千件に及んだと言う(1)。

【資料A】
------国際貿易センタービル倒壊は笑えた!/ビルが折れるごとにカウントしてたのってオレだけ?/(よっしゃー片方粉砕!よーし次はもう片方もーって)/でも結局はみんな避難したんだよね。全然,騒ぐほどじゃないし。/国際貿易センタービル倒壊は笑えた。まじで。/ニュース知って,手を叩いてわらったなあ。(以下略)

これが「アメリカYAHOO!」の掲示板に書き込まれたのは2001年9月12日。折も折,9.11テロの翌日だったのである(ただし,本文は翻訳ソフトを用いての英文である)。

さて,この書き込みは,2ちゃんねるのいわゆる「コピペ」と呼ばれる形式で書き込まれたものだった。コピペとは「コピー&ペースト」の略語で,鈴木謙介によれば,2ちゃんねるでは「書き込みのテンプレート」のことを指すと言う。その機能は「相手に対する揶揄であると同時に,それがそもそもテンプレートであるがゆえに場の雰囲気を『茶化す』」ことにもなると言う。つまり,内容的な茶化しと形式的な茶化しとを同時に成立させる,2ちゃんねる特有の修辞であるというわけだ。

テンプレート化するに至るもともとの書き込みは以下である。

【資料B】
------阪神大震○は笑えた!/死者1000人ごとにカウントしてたのってオレだけ?/(よっしゃー2000人突破!よーし次は3000人突破しろーって)/でも結局は6000人しか死んでねえんだよね。全然,騒ぐほどじゃないし。/阪神大震○は笑えた。まじで/ニュース知って,手を叩いてわらったなあ。(以下略)


「アメリカYAHOO!」では,2ちゃんねるに詳しい日本人が,米国人参加者に対して「この書き込みが日本の匿名掲示板に特有の書式であること」「投稿者を無視して欲しいこと」を訴えたが,事態が収束するはずもなく,米マスコミでも報道されるに至った。

この事件は,日本人の「2ちゃんねる」的な匿名性が及ぼす軽薄さ,モラルハザードが巻き起こした国際的な騒動として,記憶しておく必要がある。もちろんこれを読んで怒りを覚えるのはアメリカ人ばかりでなく,多くの日本人が見ても,被害者の立場や心情に思いの至らない下品な記述に怒りを覚えることだろう。

ただし,このような軽薄さ,下品さこそが,昨今問題視されている学校裏サイトや掲示板等に見られる,生徒たちのコミュニケーションの粗雑さと通底していることは確かである。

2.生徒のネット体験の掘り起こし


資料A・Bを題材として,以下のような指導計画を立てて授業実践(中学校3年生/国語科)をおこなった。※道徳での実践も可能と思われる。

【第1時】
①資料Aを配布し,この文章の問題点を箇条書きさせる。
②4人グループで問題点を交流させる。
③各グループに発表させ,板書にまとめる。
④資料Bを配布し,資料Aが2ちゃんねる特有のテンプレートで書かれていることを説明する。
⑤4人グループに資料A・Bを対比させ,更に問題点を交流させる。
⑥各グループに発表させ,板書にまとめる。
⑦各自に200字感想を書かせる。
※次時,携帯電話を所持している者は持参することを確認。

【第2時】
①インターネット上の資料(学校別掲示板から抜粋したもの。自校のものは避ける。)を配布し,問題点を箇条書きさせる。
②4人グループで問題点を交流させる。
③持参した携帯電話の着信メール,自校の学校別掲示板等から同様の問題点をもつメールや書き込みを探す。
※携帯電話をもっていない生徒には,インターネット上の学校別掲示板から抜粋した資料(10種類程度)を与えた。
④見つけたメールや書き込みを引用しながら,その問題点について800字で論述する。

第1時の資料Aを題材とした問題点の交流では,主に内容的な問題点が挙げられる。「多くの被害者を9.11テロに対して,こういう書き込みはひどい」「日本人として恥ずかしい行為である」といった感想をはじめとして,「他人の不幸を笑いものにしている」「不幸な事件を題材と資することで優越感に浸っている」「国際問題に発展してもおかしくないほどに,読み手がどうとらえるかに配慮されていない」などいった問題点が出された。ところが,資料Bを配布すると,内容面ばかりでなく,インターネットの危険性について主に技術的な側面の問題点が検討されることになる。「簡単に素早く文章をつくれるから,深く考えないで書いてしまう」「瞬時に無限の相手に対して一斉に送ることができてしまって,具体的な相手について考えづらい」といった問題点が挙げられた。特にインターネットで誹謗中傷する場合,内容的な引用ばかりでなく,フォーマット自体の引用(テンプレートの引用)が瞬時に可能であり,それがインターネット上のコミュニケーションに独特の「空気」を産み出していることが生徒たちにも実感される。

その結果,インターネットコミュニケーションについて,①読み手の立場・心情を思いやる気持ちが必要であること,②読み手の置かれている文化のレベルまで想定しなければ資料Aのような国際問題に発展しかねない危険性をもっていること,③簡単にメッセージがつくれ,瞬時に複数の相手に送信できることから,内容をよく考えるということが蔑ろになりやすいこと,という3点について教師が説明した。こうしたことを勘案しないと,インターネット上のコミュニケーションはとれないのだという趣旨である。

第2時の生徒のレポートについては,個人情報保護の観点からここでは公開できないが,授業においても生徒に書かせるレポートにおいても,引用文の匿名性を担保することが大切である。ハンドルネーム(インターネット上のニックネーム)でさえ書かせようとしてはいけない。また,レポートを交流させてのフィードバックも避けた方が良い。生徒個々にとって,かなり微妙な問題をはらんでいるだけに,教師はできる限り心理的抵抗を和らげることに腐心しなければならない。文明の利器に伴う問題,生徒に現在起こっている問題の教材化は授業づくりにも大きく影響を与えている。

【注1】『RUNAWAY 暴走するインターネット』鈴木謙介/イースト・プレス/2002年9月/p35~40
※資料A・Bの全文についても同書を参照されたい。

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発問・指示・説明

古くから教師の指導言の王道は〈発問〉だと言われてきました。素晴らしい発問をつくることが教材研究の王道であり、素晴らしい発問さえつくれば子どもたちは必然的に思考を始めるというわけです。従って、長く発問研究の本がたくさん出されてきましたし、著名な実践家の優れた発問もずいぶんと追試されてきました。

しかし、この発想は基本的に間違っています。

言うまでもなく、教師の指導言には〈発問〉と〈指示〉と〈説明〉の三つがあります(『授業づくり上達法』『発問上達法』大西忠治・民衆社)。原則として、〈発問〉とは子どもの思考に働きかける指導言であり、〈指示〉とは子どもの行動に働きかける指導言であり、〈説明〉とは授業のフレームをつくる指導言です。つまり、〈説明〉は〈発問〉や〈指示〉の前提となる指導言であり、〈説明〉なくしては〈発問〉も〈指示〉もあり得ないのです。

こう考えてみましょう。〈発問〉や〈指示〉のない授業は想像できますが、〈説明〉のない授業は想像できません。例えば、文法の学習において主語と述語の関係を説明することなしに、「この文の主語・述語は何ですか」という発問は成立しません。何をどのように書くのかという説明なしに「ノートに書きなさい」という指示も成立しません。授業において最も大切なのは、〈発問〉でも〈指示〉でもなく、〈説明〉なのです。

よく研究授業を参観したときに、教師の発問が子どもたちによく伝わらず、子どもたちが首をかしげているのを見た教師が何度も言い直しているのを見ます。「どっちがふさわしいと思いますか」と発問したときに、その「どっち」の対象となっているAとBとが子どもたちに把握されていないために、授業に混乱を来しているというような場面です。この場合、混乱の原因は「どっちがふさわしいと思いますか」という〈発問〉の文言にあるのではありません。そうではなく、この〈発問〉をする前段階の指導言、つまりこの〈発問〉の前提となっているAとBとを理解させる〈説明〉が不適切であったために、子どもたちに選択肢が理解されていないことが原因なのです。子どもたちが何を訊かれているのかわからないという表情をするとき、多くの場合、それは前提となっている事柄の共通理解が図られていないことに要因があるのです。教師はそれを何度も言い直しているわけです。

誤解を怖れずに言えば、〈発問〉などというものは「なぜですか?」「どのようにしましたか」「だれですか」「いつですか」「どこですか」「何ですか」といった5W1Hが基本としてできるものに過ぎないのです。〈発問〉とは「問い」を「発する」ことですから、基本的には日本語の問い形を超えて成立することはあり得ません。せいぜい「どっちですか」「いつからいつまでですか」「どこからどこまで移動しましたか」といった、5W1Hの組み合わせのバリエーションがある程度なのです。授業を混乱させないためには、その〈発問〉の前提となっている事柄がきちんと学級全体に共有化された状態になっていることなのです。その事柄の〈説明〉が的確になされたか、子どもたちに落ちているか、そこにこそ〈発問〉の成否、その〈発問〉が機能するか否かのポイントがあるのです。

〈指示〉にも同様のことがいえます。「新学力感」から「ゆとり教育」への活動型授業の隆盛によって、国語科に授業おいても〈指示〉の重要性が意識されるようになりました。「三度読みなさい」「ノートに書きなさい」「指摘しなさい」といった従来型の〈指示〉に加えて、「話し合いなさい」「交流しなさい」「結論を一つにまとめなさい」「グループで調べなさい」「わかりやすく説明しなさい」など、小集団を使っての協働学習に取り組ませる〈指示〉が多くなっているのが近年の特徴といえます。しかし、こうした〈指示〉にも、まず例外なくその方法の説明、つまり「話し合い方」「交流の仕方」「調べ方」「説明の仕方」といったやり方が説明されているはずなのです。この方法の〈説明〉が不的確であった場合、その協働学習は混乱します。この方法の〈説明〉が的確になされたか、子どもたちに落ちているか、そこにこそ〈指示〉の成否、その〈指示〉が機能するか否かのポイントがあるのです。

私たち教師がまずもって身につけなければならないのは的確な〈説明〉の在り方なのです。短く明快に説明できることこそが、授業の成否にとって、子どもたちの学力形成にとって最も重要なポイントなのです。

ある授業において、次のような指導言があったとしましょう。

このとき、アキコは「うれしい」とか「楽しい」とかいう「プラスの感情」を抱いたでしょうか、それとも「悲しい」とか「悔しい」とかいう「マイナスの感情」を抱いたでしょうか、これに対してみんなは両方あるって言うんだね。(子どもたちを見渡して)それじゃあ、もっと突っ込んで訊くよ。「プラスの感情」と「マイナスの感情」では、どちらかというとどちらが大きいだろうか。ノートに「プラス」か「マイナス」とどちらかを書いて、その下に理由を「~だから」という形で一文で書きなさい。

この指導言において、〈発問〉は「『プラスの感情』と『マイナスの感情』では、どちらかというとどちらが大きいだろうか。」という一文だけです。また、「ノートに『プラス』か『マイナス』とどちらかを書いて、その下に理由を『~だから』という形で一文で書きなさい。」というのが〈指示〉に当たります。しかし、この指導言を機能させているのは、決してこの〈発問〉と〈指示〉ではありません。これまでの授業内容をまとめて「プラス」と「マイナス」の両方があるのだという確認、そして「それじゃあ、もっと突っ込んで訊くよ。」という今後の進んでいく授業の展望の確認、この二つこそがこの指導言の核なのです。そしてこの二つは、言うまでもなく、授業のフレームを構築する機能をもっている、即ち〈説明〉なのです。私たち教師は、自分が発している指導言の一つ一つについてこのようにな細かく分析する必要があるのではないでしょうか。

さて、指導言を考える上で、もう一つ注意しなければならないことがあります。それは指導言というものがコンテクストに支配されやすい側面をもっているという点です。コンテクストとはテクスト外という意味ですが、ここでは指導言の文言以外の情報や空気と考えるとわかりやすいでしょう。つまり、その指導言が発せられる教室環境や、その指導言を発する教師と子どもたちとの人間関係の影響を受けやすい、ということです。

読者の皆さんにこういう経験はないでしょうか。四月に新しい学級を受け持ちます。前の学級でしたのと同じ説明をしているはずなのにいま一つ通じない、やたらと細かなことを質問される、それに応えているうちに時間が過ぎてしまう、前の学級よりもこの子たちは理解力が低いのかなあ……と感じる、こんな例です。

こうした現象が起こるのは、決して新しく受け持った子どもたちの理解力が低いからではありません。前の学級の子どもたちはもう一年近くもあなたのものの言い方、考え方、指導言の在り方に慣れてしまっていたために、必要以上に説明しなくてもツーカーで理解してくれていたのです。少々厳しくいえば、あなたの授業はあなたの授業に慣れた子どもたちに甘えることによって成立していたのです。こうした現象を勘違いして、「今年の子どもたちは……」と感じてしまう事例は殊の外多く見られます。ぜひ心構えとして持っておきたい事柄です。

研究会で模擬授業や講座の登壇機会を多くもつ人たちはこの構造を熟知しています。だからだれにでも伝わる、わかりやすい指導言を発することができるのです。皆さんもたまには他学級で授業をしてみて、自分の指導言が通じるか否かを点検してみると良いでしょう。

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帰納的指導/演繹的指導

「言語技術教育」を標榜する実践家の授業を見ていると、授業構成の在り方に二つのタイプに分かれることに気づかされます。一つは、授業の冒頭である言語技術を教え、それを使って活動させるタイプ。もう一つは、まずは課題を与えて活動させてみて、どんなことに注意して活動したかを子どもたちに尋ね、そこから言語技術をまとめていくタイプ。私は前者を「演繹的な言語技術指導」、後者を「帰納的な言語技術指導」と呼んでいます。
 ここでは、この二つの授業構成の使い分けについて考えてみましょう。

まず第一に、大まかに考えて、この二つの授業構成は領域別に使い分けることが必要である、と言うことができます。「帰納的指導」はある言語技術をこれまで無意識になんとなく使っていた経験の中から、一度ちゃんと言語技術を抽出してみて、それを意識的に使える技術にしよう、という場合に適しています。つまり、日常体験の中にその言語技術があったのだが意識していなかった、そういうものを意識させるというタイプの言語技術指導に向いているわけです。この指導の在り方は基本的に「音声言語」指導に向いている授業形態といえます。

「話すこと・聞くこと」は日常生活の中にあふれています。どうしたら相手に伝わるか、どうしてら相手にわかってもらえるか、どうしたら相手にわかりやすく話せるか、こうした思考を経験したことのない子どもはほとんどいません。小学校一年生は一年生なりに、中学校三年生は三年生なりに、間違いなくそういう経験をもっています。とすれば、わざわざ「○○という言語技術を使いなさい」と先に指示しなくても、多くの子どもたちは学習活動を行わせるだけでそれなりにわかりやすく伝えようという意識をもって活動するのだということです。その学習活動から言語技術を抽出し、教師がそれを取り上げてまとめると、子どもたちはその言語技術を実感的に捉えることができます。

しかし、「文字言語」指導ではそうはいきません。まずは「読むこと」領域を考えてみましょう。文学的文章教材にしても説明的文章教材にしても、作者・筆者がどのような工夫をしながらその文章を書いたのか、どんな論理展開でその文章を書こうとしているのか、こうしたことは日常経験で本格的な文章を書く機会のない子どもたちにはなかなか実感的に捉えられないものです。こうしたとき、教師が最初に「こういう工夫があるんだよ。」と教え、「この作者はそういう工夫をいっぱいしているから探してごらん。」とやるのが理に適っています。

「書くこと」領域においては少し違う要素があります。教師が何も指示せず書かせたとします。その作文ができ上がったあと、「実はこういう言語技術があるんだよ」と伝えて「これを使って書き直してごらん」と言ったとしてら、子どもたちはどう感じるでしょうか。「おいおい、最初からいえよ。せっかく苦労して書いたんだぜ。」ということにならないでしょうか。作文指導は使って欲しい言語技術、教えなければならない指導事項は事前に指導し、その上で「それを使って書いてみよう」という順番で行うのが定石なのです。

原則として、「話すこと・聞くこと」領域の「音声言語」の指導では「帰納的指導」で授業を展開し、「読むこと」「書くこと」領域の「文字言語」の指導においては「演繹的指導」で授業を展開するのが理に適っている、といえるでしょう。

第二に、ある言語技術を初めて教える場合と、既習事項として扱う場合との差を考える必要があります。ある言語技術を教えるという場合に、その言語技術の必要性も理解していないうちに、ただこういう言語技術があると教えてしまうと技術主義に陥ります。それを避けるためには、まずは言語生活においてこういう困ったことが起こることがあるということを実感的に体験させ、ではどうすればいいかと十分に考えさせた上で言語技術を教える、という必要が出てきます。要するに、初めて教える場合には基本的に「帰納的指導」が適しているということです。

逆に、既に既習の言語技術に関してああでもないこうでもないいじくりまわした上で、「実はこういう言語技術があったよね。」では時間の無駄です。上位の子どもたちは「なんだ、前に習ったよ。」となるでしょう。こういう場合には、「前に○○という言語技術を習ったよね。これを使ってみる練習だよ。」と、今日は〈スキル訓練型〉の授業であることを宣言してしまったほうが子どもたちも納得して活動できるわけです。

これも原則として、初めて教える言語技術は「帰納的指導」で授業を展開し、既習の言語技術は「演繹的指導」で〈スキル訓練型〉の授業を展開するのが理に適っている、といえるでしょう。

第三に、〈言語技能〉にまで定着させなければならない言語技術と、〈言語技術〉の段階で良しとする言語技術との指導の差も考えなくてはなりません。〈言語技能〉段階の言語技術には、本人はちゃんとやっているつもりでも端から見るとできていないということが多いからです。

いわゆる「言語技術」には、その言語技術を知っているけれど使えないという〈言語知識〉の段階、その言語技術を意識しながら使えるという〈言語技術〉の段階、その言語技術を使い慣れていて無意識に使えるという〈言語技能〉の段階、という「習熟三段階」があります。〈言語技能〉段階を目指す言語技術の指導は多くの場合、その学習集団を指導するようになった初期段階で終えているのが一般的です。例えば、「みんなに聞こえるような大きな声で発言する」とか、「音読のときに句読点では間をとる」とかいった言語技術がこれにあたります。こうした指導事項について、発言の度に、音読の度に、「さあ、みんなに聞こえるような大きな声で話すんだよ。」とか「今日も句読点でちゃんと間をとって音読するんだよ。」といった演繹的な指導が行われるのはナンセンスです。多くの子どもたちはできているわけですから、学習活動の中でそれができていない子が顕れたときに個別に指導する、というのが理に適っています。いわば個別的な「帰納的指導」です。

また、「話し合い」指導においてはこれが顕著に表れます。「話し合い」指導において司会の手法を教えたり、論点整理の手法を教えたりというのにも、「帰納的指導」が向いています。「話し合い」や「対話型の音声言語指導」(インタビューや面接など)は他の学習活動に比べて展開が予想しづらい〈動的な学習活動〉です。事前に今日の話し合いや対話で留意すべきことを演繹的に確認することが必要ではありますが、より効果が表れるのは活動時間中の〈事中指導〉です。司会が手を挙げて発言しようとしている子がいるのにそれに気づかなかったり、誤った方向に議論を整理しようとしたりした場合には、即座に介入して場に応じた適切な指導を施すことが必要です。話し合いや対話において、何が論点なのかを子どもたちが見失ってしまって、水掛け論のような形になってしまった場合にも、一つ高い次元の論点で整理してあげて、なぜこのような水掛け論に陥ってしまったのかを冷静な視座から助言してあげるのが必要でしょう。こうした指導事項は、学習活動を数多く経験し、失敗と成功を数多く経験することによって、言語感覚的に身についていくところに本質があるからです。「ちゃんと冷静に論点が何なのかを見極めようね」という「演繹指導」など、何も指導していないのと同じなのです。

原則として、〈言語技能〉段階として位置づけられている言語技術や、多くの活動経験の中から言語感覚的に身につけていく指導事項については、事前の「演繹的指導」でもなく事後の「帰納的指導」でもなく、事中に個別的に「帰納的指導」を施すのが理に適っている、といえるでしょう。

指導してから活動させるのか、活動させてから指導するのか、この二つの授業スタイルも指導事項との関連によって決まるのです。教師が指導事項をしっかりと捉えた上で授業しなければならない所以です。

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説明的文章における文種意識

まだまだ一般的には知られていませんが、いわゆる「説明的文章教材」には、三つの下位項目があります。「説明文」「記録文」「論説文」の三つです。一般には、「説明的文章教材」のすべてをまとめて「説明文」と呼ばれることが多いようですが、本来、「説明文」とは「説明的文章教材」の要素である一つの文種の呼び名に過ぎません。「文学的文章教材」が物語・小説・詩・短歌・俳句・随筆等々の文種に分かれるように、「説明的文章教材」もまた「説明文」「記録文」「論説文」に分かれるのです。

おおまかにいえば、次のような違いがあります。

【説明文】 ある題材について知識をもっている筆者が、知識をもたない読者に対して説明する説明的文章。

【記録文】  ある事件や歴史的な出来事について、時系列に並べて説明する説明的文章。

【論説文】  筆者が自らの意見を主張するために、具体例を挙げながら論理的に説得する説明的文章。

小中学校の説明的文章教材の多くは「説明文」です。おそらく、「説明的文章教材」をまとめて一般に「説明文」と呼ばれているのもそのせいなのでしょう。しかし、高学年から中学校にかけては、「論説文」や「記録文」が一定程度の割合で載っています。小学校高学年の説明的文章教材で先生方から「この説明文、難しいな」という感想が聞こえてくるものは、だいたいが「論説文」です。また、中学校の説明的文章教材は「説明文」よりも「論説文」のほうが多くなります。「記録文」は、小学校ではいわゆる「伝記」が、中学校では歴史の謎が明かされるまでの経緯を解説したり、ある人物が苦労をしながら某かの成功をおさめるまでを記録したりした文章がよく載せられています。

「文学的文章教材」の授業において、物語には物語の読み取るべきことがあり詩には詩の読み取るべきことがあるように、「説明的文章教材」においても、「説明文」と「記録文」と「論説文」とではそれぞれ読み取るべきことが異なります。その意味で、この〈文種意識〉は、授業における教師の心構えとしてとても大切になります。

これもおおまかにいえば、次のような違いがあります。

【説明文】 内容的には筆者が説明している〈情報〉を過不足なく捉え、形式的には(表現の仕方としては)いかに素人にもわかりやすく説明しているかを捉える。

【記録文】 内容的には筆者が解説している出来事を〈時系列〉で捉え、形式的には出来事の転換点(成功のきっかけや理由など)をどのように描いているかを捉える。

【論説文】 内容的には筆者の〈主張〉を捉え、形式的にはどのような論理(筋道)でその主張に至っているかという主張と具体例の関係を捉える。

文種の違いは、筆者がその文章を書いた〈目的〉の違いでもあります。新指導要領では〈目的〉に応じて読んだり書いたりすることが求められているわけですから、説明的文章を読むときに筆者の〈目的〉を捉えることは、基礎的な指導として大変有効といえるでしょう。

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教材を教えるのか、教材で教えるのか

かつて「教材教えるのか、教材教えるのか」という論争がありました。例えば、国語の授業で「ごんぎつね」を扱うということは、「『ごんぎつね』という作品自体を読ませることなのか、それとも『ごんぎつね』を用いて作品外にある指導事項を教えることなのか」という議論です。前者であれば『ごんぎつね』という作品が小学校4年生に読ませるべきかけがえのない作品であるということになりますし、後者であればたまたま『ごんぎつね』が教科書に掲載されているだけで、同じ指導事項を扱うことができるのなら教材は代替可能ということになります。

この問題には既にほとんど決着がついていて、「教材で教える」派がかなり優勢になったと見て良いでしょう。教材によって教えるべき指導事項を「言語技術」だと主張する人もいれば、「豊かな情操」だと主張する人もいますが、どちらにしても教材を読むこと自体が目的ではないとしている点で構造的には共通しています。

さて、こうした動きと同時進行で発展してきたのが、90年代の「新学力観」や00年代の「ゆとり教育」を背景として流行してきた「関心・意欲・態度」の教育です。学校教育の目的は何より子どもたちの「関心・意欲」を喚起して「主体的に学ぶ態度」を育成していくことである、それさえ身に付けさせればあとは子どもたちが主体的に学んでいくようになるはずだ、というわけです。

もちろん、こうした主張には一理も二理もあるのですが、私はそれが限度を超えて、先に述べた「教材で教える」論と相俟って、あまりにも教材内容を軽視する風潮につながっているように感じています。「教材内容よりも言語技術」「教材内容よりも関心・意欲・態度」といった感覚が強くなりすぎているのです。

例えば、私はある研究授業において、「天国のごんに手紙を書こう」という授業を見たことがあります。終末の感想を書きやすくするために手紙形式にしようとするのはいいとして、そこで手紙の書き方まで教えようとしているのはいかがなものかと思いました。子どもたちが「拝啓 日に日にあたたかくなる今日この頃、天国でも……」などと書いているわけです。その授業を参観している大勢の先生がたの中で、この「拝啓 ごん様」実践に違和感を感じたのは決して私だけではなかったと思います。授業者の中で、なぜ手紙の書き方、手紙の形式を教える場面が「ごんぎつね」なのか、或いは「ごんぎつね」でなければならないのか、というようなことが全く検討されていないのです。

例えば、私はある研究授業で、「メロすごろく」という「走れメロス」の授業を見たことがあります。「走れメロス」の人物や出来事などの設定を確認していくために、「走れメロス」の内容になぞらえたすごろく形式で授業が進んでいくわけですが、正直、「そんな小さなことにこんな大規模な仕掛けをつくって、長い時間をかけるなんて……。そんなことは15分くらいで片付けてしまって、もっとほかに学習効果を高められるような授業計画を建てた方がよいのではないか」と感じざるを得ませんでした。

この二つは極端な例にしても、21世紀に入って教材を軽視するといいますか、教材内容をちゃんと読まない実践が増える傾向にあります。特に文学的文章においては、90年代末の「文学的な文章の詳細な読解に偏りがちであった指導の在り方を改め」というあまりにも有名なフレーズがその傾向を強めました。これはあくまで「偏り」を改めよと指摘したのであって、決して「詳細な読解」をしなくていいという意味ではなかったのですが、現場の多くに文学軽視、教材内容軽視の機運が広がってしまったのです。この傾向は「教材で教える」という立場から見ても、明らかによくない傾向だったといえるでしょう。

例えば、教材を用いて教えるべきが「言語技術」だとしましょう。「言語技術」をしつかりと身に付けようと思えば、教材を本気で読む必要があります。本気で読もうとするからこそ、そこで習った「言語技術」の効果が実感できるのです。教材を用いて培うべきが「関心・意欲・態度」だとしても同様です。教材内容を本気で理解しようとし、本気で格闘する経験を積むことなしに、ことばに対する「関心・意欲・態度」を育成することができるはずもありません。教材内容に正面から向かい合うからこそ、そこで教えられる「言語技術」や「関心・意欲・態度」も培われるのです。これが、私が基本的には授業の牽引力は教材・題材に求められなければならないと考える所以です。

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WHATとHOW

国語の授業がもうそろそろ新しい教材に入ります。

あなたは教材研究をしなければなりません。

一度、自分で教材を読んでみます。そのとき、あなたは頭の中でどんなことを考えるでしょうか。

多くの人がまず例外なく、「この教材、どうやって授業しようかなあ……」と考えるのではないでしょうか。実は意外かも知れませんが、この思考法、この発想法こそが、多くの教師が子どもたちの学力を向上させられない一番の要因になっているのです。

教材研究をするときにまずしなければならないことは、指導事項を決めることです。思考法でいうなら「この教材で何を教えようかなあ」とか「この教材で何を扱おうかなあ」と考えることを指します。

授業というものは、まず指導事項(WHAT=何を教えるか)を明確に設定し、その指導事項を扱うためのふさわしい学習活動(HOW=どのように教えるか)が何かという順で構想されるべきものなのです。算数・数学や理科ならこういう発想で当然のように授業が行われているのですが、なぜか国語の授業だけはそうなっていません。

その結果、「天国のごんに手紙を書く」という学習活動がまずあって、その活動でどんな国語学力がつくのかが曖昧なままに授業が行われる、「○○に関する説明を考えて、交流し合う」という学習活動が先にあって、その活動で身に付けるべき指導事項が曖昧なままに授業が進められる、そんな本末転倒の現実があります。

本来、学習活動というものは指導事項によってその意味・意義が変わるものです。同じ〈方法〉であってもその〈目的〉によって意味・意義が変わる、と言い換えても構いません。

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気概と丁寧さとしつこさと…

2年4組で漢文の小テスト。

返り点・送り仮名を指導しての30点満点である。

平均点が28.1点。これは一昨年上篠路中学校1年1組の29.3点には及ばないものの、まずまずの点数である。

あの上篠路の1年1組は出来過ぎた。女子生徒で満点ではない生徒が二人だけ。しかもその二人も29点。女子の最高点が30点で最低点が29点という、ものすごい学級だった。ありえない。あんな学級は二度ともてない。だいたいあの学級は学級編制を間違えたのだ(笑)。

さて、今回の2年4組。満点が7人。あとは一桁と十点台公判が一人ずつ。この二人を除けば最低点は23点。学級の85パーセントが25点以上である。

実はこのテストは十数年前につくったもので、これまで19学級でおこなっている。今回が゜20学級目である。この平均点は歴代2位。全市的にも成績のよくない学校といわれているのだが、たいしたものである。このテストは決して簡単なテストではない。つくったぼくがいうのだから間違いない(笑)。

やるべきことがはっきりしていて、丁寧に教えれば、いまどきの子でも、できない子と呼ばれるような子でもできるようになるという証拠である。問題は教える側の「一人も置いていかない」という気概と、授業の丁寧さと、もう一つはしつこさである。

できれば小学校の算数にこの3つが欲しいなと思う。せめて九九や通分には同じような気概と丁寧さとしつこさが欲しい。最近の九九や通分の習熟率の低さには深刻なものがある。できるだけ小学校の悪口は言いたくないのだが、ここ10年くらいで目に見えて深刻化しているのを肌で感じる。

ゆとり教育のせいなどではない。子どもの変容のせいでもない。ここに気概と丁寧さとしつこさを発揮しなければならないというコンセンサスが、この10年間、小学校で落ちてきていたのだと思う。義務教育のシステム改変でも行わない限り、その後の学年でこの遅れを取り返すことは不可能に近い。

正直、ぼくは国語科でよかったなと思うことがある。数学科の教師たちにはどこか諦めが感じられる。そんな諦めの表情をもう10年近く見続けているような気がする。

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