教育

活きている時間/再掲

〈多忙〉と〈多忙感〉とは異なる─あなたは仕事にとって最も大切なこの原理を自覚しているだろうか。言うまでもなく、〈多忙〉とは「忙しいこと」であり、〈多忙感〉とは「忙しいと感じること」である。〈多忙〉であるから〈多忙感〉をもつのだと、多くの人が単純に考えてしまうのだが、実は〈多忙〉と〈多忙感〉との間にあるのはそんな単純な因果関係ではない。周りが感嘆するような〈多忙〉な生活を送りながら〈多忙感〉を抱かない人がいる一方で、周りからは暇そうな仕事ぶりに見えるのに〈多忙感〉に苛まれている人もいる。この違いはいったい何なのだろうか。

例えば、「総合的な学習の時間」の導入によって教師の仕事が多忙を極めるようになったとの声を聞くことがある。しかし、「総合」の計画立案に目を輝かせ、周りが不思議に感じるくらいに生き生きと「総合」の授業に取り組んでいる、そんな教師があなたの周りにも一人くらいはいないだろうか。その教師は「総合」の導入によって、あなたに比べてはるかに大きな〈多忙〉に見舞われているはずだ。にもかかわらず、その教師はおそらく、「総合」に対してあなたが感じているような〈多忙感〉を抱いてはいない。

例えば、二○○二年の教育課程の改訂によって、放課後の時間に余裕がなくなったとの声をよく聞く。生徒達とのコミュニケーションの時間が不足し、よりよい教育活動を行ううえで支障を来している、というわけだ。確かに六時間授業が増えたことが、行事指導や部活動指導、会議の時間を圧迫している。これは事実だろう。

しかし、あなたの周りにこの少ない時間で効率的に行事の準備を行い、みなが驚くほどに大きな成果を挙げている教師はいないだろうか。その教師が指導すると、生徒達のステージ上の演技が躍動して見える。その教師が指導すると、生徒達が自らのブレスにまで気を遣いながら美しいハーモニーを奏でる。そんな教師があなたの学校にも一人くらいはいるのではないだろうか。

あなたの周りに、この少ない時間のほとんどを部活動に費やし、生き生きと部活指導に取り組んでいる教師はいないだろうか。会議が終わるとすぐに、一杯のお茶を飲む間さえ惜しんで部活の指導へと向かっていく、そんな教師があなたの学校にも一人くらいはいるのではないだろうか。

あなたの周りにいるこんな教師達も、実はあなたが感じているようには〈多忙感〉を抱いていない。行事指導に熱心な教師は、行事指導のスキルをもっているから簡単に成果を挙げられるのだと思ったら大間違いである。行事の指導というものは、不得手とするあなたがやっても、得意とするその教師がやっても、やらなければならない仕事量にそれほどの違いがあるわけではない。しかし、行事指導を得意とする教師は、行事で成果を挙げることにやり甲斐を感じているから、その〈多忙〉が苦にならないのである。部活動に熱心な教師も、その競技が好きだからという理由で、趣味で指導しているなどと思っては大間違いである。毎日毎日生徒達に指導を重ね、生徒達が少しずつ力をつけていくことにやり甲斐を見出しているからこそその指導にも熱が入るのである。彼らが物理的には〈多忙〉であるにもかかわらず〈多忙感〉を抱かない所以がここにある。いや、彼らだって実は〈多忙感〉を抱かないわけではない。ただ、彼らの〈多忙感〉はあなたとは異なり、心地よい〈多忙感〉なのであり、ポジティヴな〈多忙感〉なのである。

ここまでを読んだあなたは、私が、〈多忙感〉などというものは気の持ちようで何とでもなりますよ、やり甲斐をもって仕事をしましょうよ、そう主張しているように思われるかもしれない。しかし、私の意図はそうではない。私がここで強調したいのは、あなたの抱いているネガティヴな〈多忙感〉は、実は「〈多忙〉であること」が原因なのではない、ということである。では、あなたの感じている〈多忙感〉の原因は果たして何なのか。現在、私達教師をこれほどまでに圧迫している要因は、いったい何なのだろうか。

それは結論から言えば、〈徒労感〉に他ならない。

考えてみて欲しい。私達は本当に〈多忙〉が嫌いなのだろうか。かつて、残業手当も出ないのに、生徒のためにと夜遅くまで学年の先生方といっしょに仕事をした、そんな経験があなたにもあるはずだ。かつて、学年の先生方と酒を酌み交わしながら、今度は生徒達に何をやらせてみようか、こんなことをしたら生徒達が一段と成長するのではないか、イメージがイメージを呼び、アイディアがアイディアを呼ぶ、そんな宴会をあなたも経験したことがあるはずである。そんなとき、あなたもいまとは違い、充実した時間を過ごしていたのではなかったか。そして何より大切なのは、あの頃だって、あなたは忙しかったはずなのだ。そう、あの頃だって、決して暇ではなかったはずなのだ。なのにあの頃は、現在のようなネガティヴな〈多忙感〉を抱くことなどなかったのである。いま考えれば、あの頃はそんな〈多忙感〉さえ、どこか心地よいものだった。いったいこの違いは何なのだ。

そう。あの頃の仕事は、どんなに忙しくても、〈徒労感〉がなかったのである。頑張れば頑張った分だけ、生徒の目が輝いた。頑張れば頑張った分だけ、同僚が認めてくれた。生徒にとって、同僚にとって、自分は必要な人間である、そう実感することができた。自分は生徒達とつながっている、同僚達とつながっている、その実感があったからこそ、〈多忙〉ごときはものともせずに頑張ることができたのである。

なのにいま、私達には生徒とつながっているという実感がない。自分なりに頑張っても、生徒はこちらに振り向いてくれない。懸命に教材研究を重ねて臨んだ授業なのに手応えがない。生徒のためと思って施した指導に対して、保護者からクレームが来る。次第に生徒指導における優先順位が、「生徒達の成長を促すこと」から「保護者からクレームが来ないこと」に移っていく。こんな指導をしたって、生徒に伝わるはずもない。そんな思いが〈徒労感〉を生んでいく。

生徒だけではない。いま、私達には同僚とつながっているという実感さえない。校務分掌の役割分担が明確化され、行政から求められたアリバイづくりの無意味な調査、無意味な文書の作成に追われている。みんな自分の仕事をこなすことで精一杯。そういえば、職員室に笑い声が響かなくなって何年たつだろうか。各々が黙々とPCに向かっているだけの職員室。音をたてることさえはばかられる。職場の宴会は年に三度、歓迎会と忘年会と送別会だけである。それも一次会が終わると、潮が引くようにみな帰って行く。自分の仕事は自分でやるしかない。成果などまったく見えない。そこに仕事があるから片付ける。仕事がルーティン化していく。そしてそれが〈徒労感〉を生んでいく。

いまあなたが抱いているネガティヴな〈多忙感〉は、このような負のスパイラルに取り込まれていることに起因しているのである。もしもあなたが現在の〈多忙感〉を打開したいのなら、まずはこの構図をしっかりと見据えることだ。行事指導に熱心な教師は、いまなお、生徒の目の輝きを実感しているのである。部活指導に熱心な教師は、いまなお、自分が生徒に力をつけていることを実感しているのである。「総合」に熱心な教師も、自らの「総合」の指導が、生徒達にとって良い方向に機能しているという実感を抱いているからこそ頑張れるのである。喩えて言うなら、あなたの時間が死んでいるのに対し、これらの教師達の時間は活きているのだ。死んでしまっているあなたの時間を再び活き返らせること、それ以外に、あなたの〈多忙感〉を打開する手立てはない。

死んでしまっているあなたの時間を活き返らせるためには、二つのことに取り組む必要がある。

一つは、あなたが自分の得意分野で成果を出すということである。あなたが得意としているのは、授業だろうか生徒指導だろうか部活指導だろうか、それとも行事や生徒会活動といった特別活動だろうか。何でもいい。勤務校において自分が成果を挙げていると、自分自身が実感できるような分野をもつことである。これだけ〈徒労感〉を感じさせる学校教育の現状である。自分の取り組む仕事のすべてに成果を挙げ、すべてに満足感を得ることなど夢想してはいけない。たった一つでいい。自分の得意分野にもう一度、精一杯に取り組んでみることだ。その時間が次第に、あなたにとって〈活きている時間〉となっていく。そしてその〈活きている時間〉を大切な時間だと思い始めたとき、その他のルーティンワークにかける時間が惜しくなっていくはずだ。その気持ちがあなたを、「なんとかこのルーティンワークを効率的に進める手立てはないか」という思考に誘っていく。こうなればしめたものである。ここまで来れば、ルーティンワークにかける時間が、仕事の効率性について考える機会となっていく。どれだけ単純作業を効率的に行えるのか、その効率の度合いが成果として意識されるようになる。次第次第に、ルーティンがルーティンでなくなっていくのだ。それは取りも直さず、ルーティワークの時間が〈活きている時間〉になっていることを意味するのである。

いま一つは、職員室に共同性を回復することである。もちろんこれは一筋縄ではいかない。あなたがかつて経験したように、生徒のためにみんなで残業しようと投げかけたり、宴会でよりよい教育について語り合おうなどと誘ったとしても、同僚から鬱陶しがられるだけである。しかし、同僚に対して、「あなたが必要なのだ」「あなたがいなければ仕事が成り立たないのだ」というメッセージを発信し続けることはできるはずだ。あなたが管理職なら、あなたは自分の学校の先生方に「あなたの功績は大きい」と言ってあげるといい。あなたが学年主任なら、あなたは自分の学年の若手に「きみの仕事がこの学年の安定に大きく貢献している」と言ってあげるといい。あなたが新卒数年の若手教師なら、先輩教師に「先生のここを真似したらうまくいきました」と伝えてあげるといい。こうした何気ないやりとりが、実は職員室を少しずつ、しかし確実に活性化させていくのである。あなたが職員室の雰囲気に閉塞感を抱いているのなら、まずはあなたがこうしたメッセージを発信し始めてはいかがだろうか。管理職や先輩から自分の存在を認められる、後輩から自分が頼りにされる、それを意気に感じない人間などいないのである。互いに互いの存在感を認め合うこうした人間関係こそが、実は〈活きている時間〉を大きく補強していくのである。

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三つのジンザイ

教師としての力量が高いということは、いったいどういうことなのか。最近、このことばかりを考えている。幸い、ぼくの学校は大規模校なので、教職員が50名以上いる。失礼な物言いになるが、50人もいると、「あの人は力量が高いな」とか「あの人はいまいちだな」とか「あの人は力量が低いな」といった分類がなされる。だれもが頭の中で、その分類を施している。だれも口に出さないだけだ。

三つの「ジンザイ」をご存知だろうか。組織において役に立つ、組織にとってプラスとなる、それが「人材」。組織においてただいるだけ、組織にとってマイナスになっているということもないが、プラスになっているというほどでもない、それが「人在」。組織においてマイナスになっている、他の人のモチベーションを下げたり他の人の仕事の邪魔をしたり他の人の仕事を滞らせる、それが「人罪」。ごくごく簡単に言えば、組織にとって必要な人が「人材」、いてもいなくても変わらないのが「人在」、いてもらっては困る、いないほうがいいというのが「人罪」である。

これを踏まえて考えてみる。教師としての力量が高いということはどういうことだろうか。ここで気をつけなければならないことは、力量の高い者が必ずしも「人材」となるわけではない、ということである。確かに力量が高くなければ「人材」にはなり得ない。しかし、力量の高い教師でも、他の教師とのバランスによって「人在」にもなり、「人罪」にもなる。特に、相性の悪い上司、相性の悪い学年団にはいることによって、「人在」になったり「人罪」になったりということがあり得るのだ。

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ふうせん

探してみると、意外と簡単に見つかった。厚別中学校時代のものは二つの段ボールにまとめてあった。そのうちの一つに、当時の指導案や別の学級文集、卒業アルバムといっしょに新卒の学級1年2組の文集「ふうせん」が入っていた。

早速開いてみると、先日の講座で扱った自作の詩は一つの連がまるまる抜けているということがわかった。この「わすれもの」は担任の巻頭言とともに見開き2頁で掲載されている。

「ふうせん」札幌市立厚別中学校1年2組作文集創刊号

   わすれもの

 なみだ
 ときにかなしくて
 ときにくやしくて
 ときにうれしくて

 夕暮れの帰り道
 たて笛のメヌエット
 たんぽぽのわたが
 風とたわむれて

 放り出されたリュックサック
 机に貼ったシール
 徹夜で縫ったハチマキ
 校庭に折れたミニスキー

 なにもかもがなつかしい
 おおきなおおきなわすれもの

  《 昭和六十三年七月 真駒内にて 堀 裕嗣 》

人は、
自分が小さかったときのこと、
覚えているようでなかなか覚えていないものです。
それはすぐに忘れてしまうからです。
あの時、
「何を考えていたのか」と思うとき、
これをご覧なさい。
きっと、
「わすれもの」を見つけることが出来るでしょう。

これが全文ですね。

うん。我ながらいいことを書いています。24歳の新卒にしては上出来でしょう(笑)。

Akikoは「イスの音」という文章を寄せている。Kazuは「水泳での奇跡」、Yokoは「市民大会へ向けて」という作文を書いている。1学期で転出したShinnosukeの作文もちゃんと載っている。当時、絶対にShinnosukeの文章も載せるのだと、使命感をもっていたのを想い出す。

いまのぼくを知っている人には想像もつかないだろうが、ぼくはかつて、まぎれもない「綴り方教師」だった。しかもたった5年間だけ。どうも「わすれもの」を見つけてしまったようである。

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師走~2009年を振り返る・31

なぜ、研修する場を作ろうと考えるのか

12月28日(土)。第1回教師力BRUSH-UPセミナー合宿in新篠津温泉での提案。110分の講座。これまでつくってきたイベントの山場企画の作り方について。

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荒れた学校

「荒れた学校」という表現がある。戦争の傷跡生々しい50年代、学生運動の影響から学校というシステムそのものに疑問が呈された60年代、校内暴力吹き荒れる80年代、確かに学校は「荒れた」といわれた。ぼくがいま勤務している学校も、かつては札幌市内有数の「荒れた学校」といわれていた学校である。前任校だって、決して落ち着いた学校ではなかった。

しかし、「荒れた学校」といわれている学校の生徒も、実は生徒の97%は荒れない。

この言い方は語弊があるかもしれない。関東地方を中心に、生徒の50%が荒れているといわれる学校がたくさんある。ぼくの知っている元中学校教師が講座の中で、「かつて勤務していた学校は半分が荒れていて、もう半分はもっと荒れていた」と、冗談めかして言っていたことがある。そういう現実というのは確かにある。

だが、ぼくが言いたいのは、どんな学校でも、だれが指導しても荒れる、つまり、だれが指導しても警察権力や司法の力を借りなければどうにも手立てがない生徒というのは、どんなに大きく見積もっても3%を超えることはないだろう、ということだ。残りの97%が「荒れ」の兆候を見せるのは指導の在り方の問題であり、学校が敷くシステムの問題であり、その意味で回避できるものに過ぎない。要するに、3%は先天的な要因として生徒のせいにしてもいいが、残りの97%は環境要因として、教師は批判の目を自分に向けるべきだと思うのだ。

ここまでを読んで、賢明な読者の方には伝わると思うが、ぼくは内心、先天要因をもつ3%だって最大限の数字であり、実際には1%を切ると思っている。ただし、どこかの人権派のようにそれがゼロだとは言うつもりはない。そういうスタンスである。

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師走~2009年を振り返る・6

新学習指導要領の理念と構造

これは3月19日。勤務校の校内研修会で40分ほど講演した際のPPT。1月7日のネットワークのPPTを少々作り替えて、これまでの歴史を振り返ったあと、このたびの改訂指導要領の大まかな枠組みをレクチャー。

転勤直前だったので、好き放題にしゃべった感じ。

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つながった

今日、大澤真幸の「現実への逃避」と宇野常寛の「決断主義のゼロ年代」がぼくの中でつながった。「バトルロワイヤル」も「デス・ノート」も「リアル鬼ごっこ」も、すべて「現実への逃避」の兆候だったのだ。

「引きこもり」や「心理主義化社会」に代表される90年代な心理学的なものから、「友だち地獄」や「データベース社会」に代表される2000年前後の社会学的なものへと移行してきたぼくの思考。でもそれはあくまで過去のものだった。それがわかっていながらもしがみついていた。でも、いよいよ、近未来の教育像がおぼろげながら見えてきそうだ。

もう少し熟成させる必要があるけれど、あと数歩である。そんな予感がする。あと数歩で霧が晴れる。視界が開ける。もう一つだ。もう一つだけきっかけがあれば一気に跳べる。彼岸にわたれる。

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