書籍・雑誌

「THE 教師力」シリーズ関連

51ldv7gcebl__sx339_bo1204203200_THE 算数・数学科授業開きネタ集』堀裕嗣・樋口萬太郎編/「THE 教師力」編集委員会著/明治図書/2016年2月

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必ず成功する『算数・数学の授業開きネタ』を豊富に紹介!

授業づくりは、最高のスタートから。1年間の授業への興味を左右する『授業開き』。算数・数学科をテーマに、子どもの目が輝く授業開きネタを低・中・高学年と中学校の具体的な実践例とともに紹介しました。最高のロケットスタートをきるためのアイデアが満載の1冊。

51s8kp5gnsl__sx339_bo1204203200_THE 国語科授業開きネタ集』堀裕嗣編/「THE 教師力」編集委員会著/明治図書/2016年2月

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必ず成功する『国語科の授業開きネタ』を豊富に紹介!

授業づくりは、最高のスタートから。1年間の授業への興味を左右する『授業開き』。国語科をテーマに、子どもの目が輝く授業開きネタを低・中・高学年と中学校の具体的な実践例とともに紹介しました。最高のロケットスタートをきるためのアイデアが満載の1冊。

51ljzsxm91l__sx339_bo1204203200_THE 学級開きネタ集 』堀裕嗣編/「THE 教師力」編集委員会著/明治図書/2016年2月

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必ず成功する『学級開きネタ』を豊富な実践例で紹介!

学級づくりは、最高のスタートから。クラスの1年を決めると言っても過言ではない『学級開き』。子どもの心をとらえ、1年間の道筋をつける成功ネタを具体的な実践例とともに紹介しました。出会いを豊かに、最高のロケットスタートをきるためのアイデアが満載の1冊。

513hhfogwll__sx339_bo1204203200_THE 読書術』堀裕嗣編/「THE 教師力」編集委員会著/明治図書/2015年7月

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教育界きっての読書家が本好き教師に贈る!オススメ読書術

教育界きっての読書家たちが「本好き教師」たちに贈る、オススメ読書術!「読み聞かせ」など教室での読書活動の手法から、「たくさん読む」「読み深める」教師が学ぶための読書術、「アイデアをもらう」「心に響く言葉を取り出す」運命の1冊と出会う秘訣まで徹底指南。

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「結びつき」の強いクラスをつくる50のアイデア

61unkviufrl__sx353_bo1204203200_教師にもふた通りの読者がいる。

追試できるものを求める読者と、自分の実践をつくるために構えや考え方を欲する読者とである。前者は「こうすればこうなる」式の本を求めるし、後者はテーマ別に複数の論者を比較対照することを求める。前者はテーマ型・コンテンツ型の本からもKNOW-HOWを取り出そうとするし、後者は「こうすればこうなる」型の本からも著者の構えや思想を読み取る。前者が売れ、後者は売れない。僕はもともと前者タイプの本をあまり書かない。

大野睦仁の処女作をかなり念入りに読んだ。「こうすればこうなる」式の本としてはかなり丁寧な本である。最後の授業づくりはおそらくいらない。コンテンツが違うのだから、別の1冊にするべきだったと思う。でも、初めて書く著作だから、こうした質の違うものも入れないと頁が埋まらなかったのかも知れない。ただこういうことをすると、最後の最後にテーマが揺れる。このあたりは次回作の課題なのだろう。

いずれにしてもこの著作が一つの思想に貫かれているのは確かだ。ただし、著作としてはオリジナリティが足りないし、編集者の意向かもしれないが本来ネタとして語るべきではないことがネタとして提示されている箇所も少なくない。僕の知ってる大野睦仁の著作としては60点といったところだろうか。

取り敢えず、大野睦仁の処女作の刊行を素直に喜びたい。

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著作一覧

【単著】

51rvikbjrwl__sx352_bo1204203200_国語科授業づくり10の原理・100の言語技術 義務教育で培う国語学力』堀裕嗣・明治図書・2016年3月

amazonでの購入はこちらまえがき・あとがき

国語授業づくりで使える原理と言語技術を領域別に解説

「言語技術」と「言語感覚」を分けて考えることで、国語科授業づくりは革命的に変わる!国語科の授業づくりで使える10の原理と100の言語技術を体系的にまとめました。「話すこと」「聞くこと」「書くこと」「読むこと」の領域別に解説した授業づくり必携の書です。/ 著者インタビュー

51xniyfcn7l__sx344_bo1204203200_若手育成 10の鉄則 100の言葉がけ』堀裕嗣・小学館・2016年3月

amazonでの購入はこちらまえがき・あとがき

プロ教師が教える「イマドキの若手」育成術

  本書はまず、第一章で、「アラフォー以下は、自律より承認を求めている」「若手が一番やりたい仕事を、奪ってはいけない」「酒席等で仲良くなっても、良い仕事はできない。順番が逆で、年度当初にチームとして仕事上の結果を出すことが先だ」「リーダーに必要なのは、優秀な人材ではなく、自分にできないことを補完できる人材だ」等、若手育成上の「10の鉄則」を提示します。教育のプロとしての分厚い現場経験に裏づけられたそれらの鉄則を知るだけでも、若手育成担当者のパラダイムは一変することでしょう。
第二章では、それぞれの鉄則について、10ずつの具体的な「言葉がけ」と、それに伴う具体的な育成ノウハウを、1ページ単位で紹介していきます。「世の中のミスは99%が謝りゃゆるされるもんだ」「恩は返すもんじゃない。送るもんだ」「お前の自己実現なんて二の次なんだ」「先の見える方を選ぶのが成功のコツ!先の見えない方を選ぶのが成長のコツ!」等々、「イマドキの若手」の心に響く言葉の数々と、リアルなエピソードは時に感動的で、一気に読める一冊に仕上がっています。

51mzpwkql__sx339_bo1204203200_教師が40代で身につけたい24のこと』堀裕嗣・明治図書・2016年2月

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堀裕嗣先生直伝!責任ある40代を充実させる秘訣と極意

責任と調整を求められる40代の今だからこそ、出来ることがある!教師人生を充実させ、生き抜くために必要な24のこと。「上と下からの要求を調整する」「フォロワーとしての自覚をもつ」「人の上に立つことの覚悟をもつ」など、具体的な生き抜く秘訣が満載の1冊。/ 著者インタビュー

51kmiezqpnl__sx339_bo1204203200_教師が30代で身につけたい24のこと』堀裕嗣・明治図書・2016年2月

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堀裕嗣先生直伝!岐路に立つ30代を充実させる秘訣と極意

教師人生のターニングポイントを迎える30代の今だからこそ、出来ることがある!これからの教師人生を充実させ、生き抜くために必要な24のこと。「得意分野で勝負する」「二芸を身につける」「費用対効果に敏感になる」など、具体的な生き抜く秘訣が満載の1冊。/ 著者インタビュー

51lx7qoccql__sx339_bo1204203200_教師が20代で身につけたい24のこと』堀裕嗣・明治図書・2016年1月

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堀裕嗣先生直伝!黄金の20代を輝かせる秘訣と極意

20代の今だからこそ、身につけたいこと、出来ることがある!授業スキルだけではない、これからの教師人生を生き抜くために必要な24のこと。「在り方を意識する」「自分に厳しい眼差しをもつ」「他者性を意識する」など、具体的な生き抜く秘訣が満載の1冊。/ 著者インタビュー

51tmrt8uulスクールカーストの正体 キレイゴト抜きのいじめ対応』堀裕嗣著・小学館新書・2015年10月

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「子どもたちに、今、何が起きているのか」を、これ1冊で俯瞰できる、血の通った「現場」のスクールカースト論。現役中学校教師である著者は、「スクールカーストの決定要因は、コミュニケーション能力だ」とその本質を喝破、「LINEはずし等の現代型いじめ」や、「キレて暴れ出す子どもたち」等々、リアルなエピソードの背景にあるものを読み解いていきます。機能する「いじめ対応」とはどうあるべきかを提案する最終章は、教育関係者ならずとも、必読です。今後、本書を抜きにして「いじめ対応」は語れません。

51dpac4sorl__sx339_bo1204203200_よくわかる学校現場の教育原理 教師生活を生き抜く10講』堀裕嗣著・明治図書・2015年10月

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多忙な学校事務、家庭教育の揺れ、クレームの多い保護者など、厳しさを増す学校現場。そんな中で教師生活を生き抜くには、どうすればよいのか?「明後日の思想で考える」「人柄志向から事柄志向へ」「指導主義から感化主義へ」など、教師生活を生き抜く10の提案です。

20150501教師力入門』堀裕嗣著・明治図書・2015年6月

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教師に必要な20のチカラとそのポイントを徹底解説!

教師に必要な力は学級経営と授業づくりだけじゃない!いじめなどの問題にかかわる「生徒指導」や「ほめ方叱り方」、子どもの「評価」から合唱コンクール等の「行事指導」、「校内研修」まで。教師に求められる20の力とそのポイントを丁寧にわかりやすく解説しました。第2刷になりました。お買い求めいただいた皆様、お読みいただいた皆様、ありがとうございました。

 

51ughord4l__sx339_bo1204203200_国語科授業づくり入門』堀裕嗣著・明治図書・2014年10月

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良い国語の授業とは?国語学力を形成する110の言語技術

「良い国語の授業って?」国語科授業づくりにおける「意欲喚起」「学力形成」「思考促進」をテーマに、“良い国語科授業の3条件”から“国語学力を形成する110の言語技術”まで。子どもたちに学力を保障する国語授業づくりの方法についてわかりやすくまとめました。

【共著】

近刊『力量形成の深層』多賀一郎×堀裕嗣・黎明書房・2016年4月

近刊『アクティブ・ラーニング時代の教師像: 「さきがけ」と「しんがり」の教育論』堀裕嗣×金大竜・小学館・2016年3月

20151112学級づくりの深層』多賀一郎×堀裕嗣・黎明書房・2015年11月

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『国語科授業づくりの深層』に続く「深層」シリーズの第2弾!私立小学校教師と公立中学校教師という立場も年齢も異なる二人の優れた現役教師が、お互いを触媒にして化学変化を起こしながら、今日の教育現場の重要課題について縦横無尽に語る。

51v8qzzs5jl__sx351_bo1204203200_国語科授業づくりの深層』多賀一郎×堀裕嗣著・黎明書房・2015年6月

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優れた現役教師である多賀一郎と堀裕嗣が、表層的な国語教育とは一線を画す、真の国語教育について語る。豊富な読書体験からくる、文学教育や言語教育に関する深い知見と、鋭い感性に裏打ちされた緻密な教材研究に基づく授業実践のあり方を詳述。加えて、「国語学力」とは何かを克明に述べ、現在の国語教育の課題と問題点を明らかにする。

【編著】

51ldv7gcebl__sx339_bo1204203200_THE 算数・数学科授業開きネタ集』堀裕嗣・樋口萬太郎編/「THE 教師力」編集委員会著/明治図書/2016年2月

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必ず成功する『国語科の授業開きネタ』を豊富に紹介!

授業づくりは、最高のスタートから。1年間の授業への興味を左右する『授業開き』。国語科をテーマに、子どもの目が輝く授業開きネタを低・中・高学年と中学校の具体的な実践例とともに紹介しました。最高のロケットスタートをきるためのアイデアが満載の1冊。

51ljzsxm91l__sx339_bo1204203200_THE 学級開きネタ集 』堀裕嗣編/「THE 教師力」編集委員会著/明治図書/2016年2月

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必ず成功する『学級開きネタ』を豊富な実践例で紹介!

学級づくりは、最高のスタートから。クラスの1年を決めると言っても過言ではない『学級開き』。子どもの心をとらえ、1年間の道筋をつける成功ネタを具体的な実践例とともに紹介しました。出会いを豊かに、最高のロケットスタートをきるためのアイデアが満載の1冊。

513hhfogwll__sx339_bo1204203200_THE 読書術』堀裕嗣編/「THE 教師力」編集委員会著/明治図書/2015年7月

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教育界きっての読書家が本好き教師に贈る!オススメ読書術

教育界きっての読書家たちが「本好き教師」たちに贈る、オススメ読書術!「読み聞かせ」など教室での読書活動の手法から、「たくさん読む」「読み深める」教師が学ぶための読書術、「アイデアをもらう」「心に響く言葉を取り出す」運命の1冊と出会う秘訣まで徹底指南。

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『若手育成 10の鉄則・100の言葉がけ』

51xniyfcn7l__sx344_bo1204203200__2若手育成 10の鉄則 100の言葉がけ』堀裕嗣・小学館・2016年3月

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プロ教師が教える「イマドキの若手」育成術

  本書はまず、第一章で、「アラフォー以下は、自律より承認を求めている」「若手が一番やりたい仕事を、奪ってはいけない」「酒席等で仲良くなっても、良い仕事はできない。順番が逆で、年度当初にチームとして仕事上の結果を出すことが先だ」「リーダーに必要なのは、優秀な人材ではなく、自分にできないことを補完できる人材だ」等、若手育成上の「10の鉄則」を提示します。教育のプロとしての分厚い現場経験に裏づけられたそれらの鉄則を知るだけでも、若手育成担当者のパラダイムは一変することでしょう。
第二章では、それぞれの鉄則について、10ずつの具体的な「言葉がけ」と、それに伴う具体的な育成ノウハウを、1ページ単位で紹介していきます。「世の中のミスは99%が謝りゃゆるされるもんだ」「恩は返すもんじゃない。送るもんだ」「お前の自己実現なんて二の次なんだ」「先の見える方を選ぶのが成功のコツ!先の見えない方を選ぶのが成長のコツ!」等々、「イマドキの若手」の心に響く言葉の数々と、リアルなエピソードは時に感動的で、一気に読める一冊に仕上がっています。

まえがき

こんにちは。たいへん御無沙汰しております。堀裕嗣(ほり・ひろつぐ)です。お初にお目にかかる方もいらっしゃるかもしれません。今後お見知りおきを(笑)。

さて、僕のヒット作の一つである「10・100シリーズ」を、この度、小学館から刊行していただけることになりました。シリーズ五冊目、三年半ぶりの新作になります。諸事情によりしばらく頓挫しておりましたので、著者としてはたいへん嬉しく感じています。ただ長い人生においては三年半くらいはどうということもない期間だとも言えなくはありません。この間、このシリーズを休んでいたからこそ成立した企画というのも確かにあったわけでして、そういう意味では人生の巡り合わせの一つなのかもしれません。

今回のテーマは「若手育成」です。しかも「言葉がけ」という具体的なエピソードを基本としています。その意味で、本シリーズの中心的な装いである「原理・原則を語る」という抽象的な趣とは少々異なった本に仕上がりました。100のエピソードを、要するに100の事実を積み上げましたので、守秘義務に反することはないか、かつて一緒に仕事をした若者を傷つける表現はないかと、少々を気を遣いながら書きもしました。結果、100のエピソードのなかには事実そのものではない、多少僕が加工せざるを得なかったエピソードというものが少しだけ含まれていますが、九割くらいは〈事実〉そのものを、少なくとも〈僕の記憶のなかの事実〉そのものを書いている本です。

僕が若手教師の育成について考えるようになったのは二○○五年、札幌市立上篠路中学校に赴任して学年主任を務めるようになってからのことです。そこでは高村克徳先生、齋藤大先生、中村早苗先生、佐藤恵輔先生、仙臺直子先生という五人の若者たちと出会いました。また、前任校で札幌市立北白石中学校で学年主任を務めた折には、原啓太先生、新里和也先生、葛西紘子先生、佐久間遼先生という四人の若者たちを指導しました。いま振り返ってみると、前者は僕が初めての学年主任に戸惑いながら試行錯誤のなかで学年運営を進めていた時期、後者は自分の学年主任としてのスタイルが確立した後の安定期と言えます。この九人の若者たちと出会わなければ間違いなく本書は成立しませんでした。この場を借りて感謝申し上げます。ありがとう。

また、同時期に僕の学年運営を支えてくれた二人の女性副主任、髙橋美智子先生(上篠路中)と山崎由紀子先生(北白石中)には、いくら感謝しても感謝し切れないくらい、ワガママな僕の学年運営を支えていただきました。もしもこの二人がいなかったら、間違いなく現在の僕はいないでしょう。彼女たちは僕の教育観と言いますか、職業観と言いますか、むしろ人生観と言っても良いようなものを変えてくれるほどの影響を僕に与えてくれました。あらためて、「みっち」と「ユッコ」に最愛を込めて、深く深く感謝申し上げます。ありがとうございました。

北白石中学校では、渡部陽介先生、山根康広先生というスケールの大きな、二人の若者と出会うこともできました。この二人が今後、どのくらいスケールの大きな実践を積み重ねていくのか、或いはどのくらいスケールの大きな教師になっていくのか、僕はそれを楽しみにしています。

教員人生はほぼ四十年です。先の二十年を〈往路〉、後の二十年を〈復路〉とすれば、実は教員人生の多くの危機は実は〈復路〉にこそあります。人は年齢を重ねるに連れて、年上の人が少なくなり、年下の人が増えていきます。当然と言えば当然のことなのですが、多くの人たちはそれを忘れがちです。傲慢になったり、自分のことしか考えなかったり、いろいろなことを諦めてしまったり、自分ではそうと気づかないままに危機に陥ります。年下の、自分よりも若い世代からなにを学ぶか。どんな影響を受けるか。彼ら彼女らの影響によって、どれだけ自分の世界観を成熟させられるか。教員人生の〈復路〉にはそんな心持ちが必要なのだと思います。

本書が真剣に若手を育てたいと考える〈復路〉を生きる皆さんに、そして戸惑いながら〈往路〉を走り続ける皆さんに少しでも役立つなら、それは望外の幸甚です。

あとがき

いま、松山千春の最新アルバム「伝えなけりゃ」を聴いています。松山千春五十九歳、三十九枚目のオリジナルアルバムです。この少々傲慢でエゴイスティックなイメージのある北海道出身のフォークシンガーを僕は愛して止みません。松山千春がデビューしたのは一九七七年一月ですから、僕は小学校四年生でした。彼はそれ以前から北海道のラジオでは既に有名人でしたので、その頃からの千春ファンは、彼の二十歳から還暦までをずーっと見てきたことになります。僕もレコード・CDで音源化されているものについてはすべて持っています。現時点で、僕は十歳から五十歳までの四十年にわたって、この十歳年長のフォークシンガーを追い続けてきたということになります。

いまとなっては、新党大地のテーマソングになってしまった感のある「大空と大地の中で」を初めて聴いたときの衝撃が忘れられません。小学校高学年というのは、周りの女の子たちがどんどん大人っぽくなっていく時期ですから、ちょうどその時期にリリースされた「時のいたずら」という曲にも思い入れがあります。

年齢を重ねると、こうした長年触れ続けてきた表現者というものを幾人ももつことになります。音楽だけでなく、文学や芝居を含めれば、僕の場合、数十人にもなるような気がします。彼ら彼女らが次第に成熟していくのを見ていると、どんな分野においても成熟の大枠は同じような経緯を辿るのかな……なんてことも感じます。特に松山千春の歌詞はその趣が大きいのです。五十歳を超えた頃から、彼の歌詞は言葉がどんどん少なくなり、行間に情緒を醸すようになりました。自分の意志をストレートに表現することの多かった歌詞が、運命的なものに、自分の意志ではどうしようもないものに対する畏敬のようなものを表現するようにもなってきました。「そんなにあせる事はない」「コツコツとやるだけさ」「私は風吹くままに揺れてる」「僕はそれなりに生きている」「時の流れはとても速くて生きて行くだけでギリギリだけど」などなど、成熟の意味を知る者だけが語れるシンプルな言葉を連ねるようになってきている、そんな印象を与えます。

先にも述べたように、松山千春は僕よりちょうど十歳年上です。僕が二十歳のときに彼は三十歳でしたし、僕が三十歳のときに彼は四十歳でした。僕が四十歳のときには五十歳でしたし、そして僕が五十歳を迎えようとしているいま、彼は還暦を迎えようとしています。そんな節目節目の年に、松山千春のアルバムがリリースされる度、僕は「ああ、次の十年はこんなふうな境地に至る十年なのかもな……」と感じたものです。そんな想いを抱きながら、いま、「伝えなけりゃ」という最新アルバムを聴いているわけです。

二十代、三十代の若者たちと接していると、「こいつが四十代、五十代を迎えたとき、どんなふうに成熟しているのだろう……」という想像力が僕のなかで起動します。彼らが学校の中枢として働くころ、僕はもう現役ではありません。でも、彼ら彼女らには更に若い世代の成熟に思いを馳せながら、自分より若い世代を叱咤し、激励し、慈しむ先輩教師であって欲しい。やり方は人それぞれ、在り方は人それぞれであって良いけれど、自分と出会い、自分を頼りにする若い世代を慈しむ人であって欲しい。心からそう思います。

人は自分が若い頃にしてもらったことを、年長に立ったときに自分もしてあげたいと思う存在です。自分がしてもらえなかったこと、自分がして欲しかったのにその機会がなかったことについて、一所懸命にそれをしようとは思えないものです。とすれば、僕のいまの仕事で最も大切なのは、僕が若いころにしてもらったことを僕が出会った若い世代に本気でしてあげること、そういうスタンスで若者たちなに接すること、それだけなのではないかと思うのです。

僕は若いころ、ずいぶんと周りの人たち、特に年長の人たちに恵まれたという実感をもっています。ここで名前は挙げませんが、この人がいなかったら現在の僕はないなと思う方をたくさんもっています。そうした年長の同僚の方々は、幾人かは既に鬼籍に入られ、多くはいまどうしているのか僕にはわからない人たちです。しかし、お世話になった彼ら彼女らは、いまなお、確かに僕のなかに大きな存在感をもって生きているのです。

人は若いころに自分がしてもらったこと、自分がして欲しいと思っていたのにしてもらえなかったことに大きな影響を受ける存在なのです。なかでも「ああ、この人は自分のことを思ってくれている」「ああ、この人は自分に対して本気になってくれている」と感じた体験は、有形無形にその人の人生に良い影響を与えます。その人の人生観を規定してしまうほどの大きな影響を与えます。その意味で、年長者が若者にしてあげられることは「本気になること」だけだと僕は感じています。

たかが若い頃に接した短い期間のことです。そんな短い期間に結果が出たか出なかったかは、むしろどうでも良いことなのです。自分のために本気になってくれた人がいた。自分という存在を本気で肯定してくれた人がいた。その体験さえ与えられれば、年長者の仕事は既に八割方成功と言えるのではないでしょうか。そしておそらく、このことは毎日子どもたちに接している僕ら教師という仕事においても、同じ構造をもっているのです。本書が教育書として刊行されるのはそうした意味合いなのだろうと思います。

今回も編集の白石正明さんにご尽力いただきました。深謝致します。

伝えなけりゃ/松山千春 を聴きながら……
二○一五年十一月二十二日 早朝の自宅書斎にて 堀  裕 嗣

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国語科授業づくり10の原理・100の言語技術 義務教育で培う国語学力

51rvikbjrwl__sx352_bo1204203200__2国語科授業づくり10の原理・100の言語技術 義務教育で培う国語学力』堀裕嗣・明治図書・2016年3月

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国語授業づくりで使える原理と言語技術を領域別に解説

「言語技術」と「言語感覚」を分けて考えることで、国語科授業づくりは革命的に変わる!国語科の授業づくりで使える10の原理と100の言語技術を体系的にまとめました。「話すこと」「聞くこと」「書くこと」「読むこと」の領域別に解説した授業づくり必携の書です。/ 著者インタビュー

まえがき

本書を江部満に捧ぐ。

二十数年前、私が同人誌に書いたたった一本の実践原稿に目を留め、著書の執筆を依頼してくれたのは江部満その人である。昭和から平成にかけて氏は明治図書の大編集長だった。その功績は明治図書出版一社に限らない。氏のプロデュースした『教育科学国語教育』『現代教育科学』の両誌は間違いなく昭和から平成前半の国語教育界をリードした。雑誌をプロデュースするのみならず、国語教育界をプロデュースしたと言ったら言い過ぎだろうか。氏の編集者生活は前半は文学教育を、後半は言語技術教育を間違いなく先導した。事実、氏の炯眼によって世に出た国語教育研究者・実践家のなんと多いことか。

実は、私が本書を江部氏に提案したのは二○○三年のことである。氏に「堀先生、これはすごい。これができたら国語教育を変えられるかもしれない」と余りある言葉をいただいたことをつい昨日のように想い出す。しかし、書けるという想いは空回りするばかり、形になるまでになんと十二年もかかってしまった。本書が形になる前に江部氏が明治図書を退職し、『現代教育科学』が休刊になるなどとは、当時の私には想像だにできなかった。江部満の企画として本書を上梓したかったというのが本音である。私の筆があまりにも遅かったことを悔やんでも悔やみきれない想いだ。

私の国語教師生活も四半世紀が経とうとしている。生活綴方と一九五○年代の日文協の文学教育の研究からスタートした私の国語教育研究は、三十代に入ると同時に言語技術教育の観点を導入し、なんとか現代にも通じる綴方実践と文学教育を打ち立てられないものかとの試行錯誤に明け暮れた感がある。私はかつての生活綴方や文学教育と、言語技術教育やファシリテーションとをなんとか融合できぬものかといまだに実践と研究を重ねる者だが、此度、自分がそれなりに納得できる義務教育で培いたい言語技術の体系をまとめるに至ったことは、遅きに失したとはいえ万感の想いである。今後、これを基礎として「文学教育」はどうあるべきか、「綴方教育」はどうあるべきか、そのためにどのような現実的な「言語活動」があり得るのか、そうした提案を創っていこうと考えている。とにかく、ここに中間まとめを提出できたことを素直に喜びたい。

さて、本書は学校現場で国語の授業を担当する小学校・中学校の教師が、国語学力の技術的な側面を曖昧にしたままに日常の授業に取り組み、試行錯誤しながらもときに手応えを得、万全の準備と自信を得ながらも実際には紆余曲折する、そんな授業づくりを送っている現状をなんとか変えられないかとの強い想いを抱いて執筆したものである。できる限り難解な技術や専門的な技術を廃し、あくまでも日常の授業で使える言語技術に絞って提案したつもりである。しかも、各領域・カテゴリーの技術をそれぞれ二十に抑え、普通の教師が常に頭に入れておけるだけの数に絞りもした。国語教育研究の専門家からすれば不備不足が多いことは承知しているが、学校現場の国語科授業を具体的に変えるためには、このような方法が良いのだと私なりに熟慮した結果の提案である。国語教育の専門家に御批正いただきたいのはもちろんだが、私がそれ以上に望むのは現場の教師たちに本書を使ってもらうことである。

私は私なりに、この体裁に整えるためにときにはほんとうは書きたいことを抑制し、ときには私自身の実践にはあまり必要としないことに紙幅を割いた。私の国語教育観、私の世界観において、義務教育の現場教師に必要と想われる言語技術体系を提示したつもりである。本書が毎日の国語の授業づくりに悩む現場教師にとって少しでも力になるなら、それは望外の幸甚である。

あとがき

企画から上梓まで十二年の歳月を要した。説明的文章・文学的文章ともに「読むこと」領域の言語技術体系を二十にまとめることに曲折した故である。「話すこと・聞くこと」「書くこと」の二領域の体系づくりは既に二○○○年には完了していた。「読むこと」領域の文学的文章の言語技術体系は一度整理し、著書にもまとめもした。しかし、文学的文章教材指導の体系はそれでは納得がいかず、ましてや説明的文章指導の体系は整理がつかないままに年齢だけを重ねた。此度、本書を上梓するに至ったことに、感無量とはこういうことを言うのだろうと、また一つ実感的な語彙を増やしたことに一人ほくそ笑んでいる。

本書の内容はこの四半世紀に出会った多くの人々の支えによるものである。中でも、宇佐美寛先生、高橋俊三先生、大内善一先生、市毛勝雄先生、渋谷孝先生、阿部昇先生、鶴田清司先生、小森茂先生、大森修先生には言語技術教育の在り方について直接教えをいただいた。ここに深く感謝申し上げたい。また、野口芳宏先生には授業づくりにおいていかなる壮大な理念も機能させないことには無いと同じであることを、腹の底から実感させていただいた。私が生意気盛りの三十代前半に野口先生と出会えた幸運に感謝したい。更には、文学的文章教材指導の言語技術体系づくりに私が迷っていた折に教えをいただき、目を見開かれることになった田中実先生、須貝千里にも深く感謝申し上げたい。両先生にはご自身の提案が言語技術教育の体系に組み込まれることにはご不満を抱かれるとは承知しておりますが、どうかお許しいただきたく存じます。

私が教職に就いたのは一九九一年のことである。以来、「研究集団ことのは」という教育実践サークルで言語技術教育の研究を続けてきた。本書が形になったのは先達に教えを受けたことによるばかりでなく、「ことのは」でともに議論し続けてきた仲間がいたからこそである。森寛・對馬義幸・市川恵幸という「研究集団ことのは」草創期をともにつくった仲間たちにまずは感謝申し上げたい。私をトゥルミンモデルと出会わせてくれた田中幹也、ワークショップ型授業と出会わせてくれた石川晋、ディベート教育と出会わせてくれた田村和幸、「研究集団ことのは」でいまなお私を支え続けてくれている山下幸、常に私の教材開発に力を貸してくれている小木恵子の諸氏にも深く感謝したい。

そして、何と言っても私の国語教育研究を基礎づけてくれた、今は亡き師匠森田茂之に感謝申し上げます。あなたへの手土産がまた一つ増えました。来世でまた酒を酌み交わすのを楽しみにしています。

国語学力はもちろん言語技術だけではありません。しかし、国語学力のなかに技術的な側面があるのは確かなことです。その技術的な側面さえ整理できなくて、どんな国語教育ができるというのだ。そんな思いを抱いて、十二年間この仕事に取り組んできました。ここに私の国語教育実践研究人生の中間まとめとして本書を提出させていただきます。

今後も国語科授業づくりの研究、実践に精進することを決意して、あとがきに代えさせていただきます。

最後になりましたが、編集の及川誠さん、杉浦美南さんには企画から出版まで大変お世話になりました。特に本書原稿が完成するまでにはずいぶんと時間をいただきお待たせしてしまいました。ここに深く深くお詫び申し上げます(でも、お二方ともよくご存知のように、ほんとはそんなこと思っちゃいませんが……笑)。

松山千春/季節の中で を聴きながら……
二○一五年○月○日 自宅書斎にて 堀  裕 嗣

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まえがき

みなさん、こんにちは。堀裕嗣(ほり・ひろつぐ)と申します。日々、中学校で国語の授業なんかをしながら、夜は駄文を書き連ねる生活を続けて既に四半世紀が経ちます。国語教育と文学論を語るのが大好きで、でも文学なんてまったく流行らない時代が来てしまって、つまらないな……と感じながら二十一世紀を生きています。僕と一緒に文学を語りながら酒を呑んでくれる人もどんどん少なくなっています。特に教師にはほとんどいなくなってしまいました。もう文学教育に関して理屈を述べる本なんて二度と書けない。そう感じてもいました。

多賀一郎先生と出会ったのは、いまから五年ほど前だったでしょうか。僕が愛知教育大学でセミナーを開催した折、多賀先生が訪ねて来られたのです。少しだけ酒席をご一緒し、そのときは別れました。しかし、年が明けた二月、多賀先生が奥様を伴って北海道に旅行に来た折、僕らは再会しました。いかにも北海道らしい創作おでんの店で私と多賀夫妻と三人で、おそらくは五時間くらいにわたって美味い日本酒を呑みながらおでんをつついたのです。以来、僕らは年に何度も酒席を伴にする仲になりました。お互いに札幌と神戸を行き来しながら、いまでは平均するとふた月に一度くらいは会っているように思います。

僕らが二人で酒を呑んでいると、出てくる話題は「文学」と「教育」と「文学教育」のことばかりです。僕は公立中学校、多賀先生は私学の小学校。年齢は僕のほうが十歳ほど若いでしょうか。こんなにも歩んできた道が違うのに、お互いがお互いを知り合うなかで、これまで興味をもって見てきたものにあまりにも共通点が多いことにお互い驚かされました。お互いがお互いをしゃぶり尽くすような酒席が何度かもたれ、それでもしゃぶり尽くした感がまるでない……そんな関係が続いております。まあ、いつもしゃぶり尽くす前にお互いにべろべろになってしまって、足許をふらつかせながら帰路に就くというのがほんとうのところなのですか……(笑)。

昨年の秋も深まったころのことです。僕は表層的な国語教育の本を一冊上梓し、それがまずまず売れているのに気をよくしながらも、ほんとは国語教育ってこんなもんじゃないよなあ……と感じていました。もっと言語と文学についてある程度深いところまで主張する本を書きたいなあ、とも感じていました。でも、いまどき、そんな本は求められていないしなあ、だいたいそんな本を出してくれる出版社自体が見つからないよなあ、と車の中で煙草を吸いながら一人ごちていました。

ふと、多賀先生の顔が浮かびました。

「きっと、多賀さんなら同じ想いを抱いているのではないか……」

そんな予感がしたのです。僕は取り敢えず、多賀先生にメールを打ちました。

「多賀さん、一緒に国語教育の共著書きません?出版社はできてから探すってことで。たとえ出版社が見つからなかったとしても、二人にとって書くこと自体が意味をもつようなものを。」

確かこんな文面だったように記憶しています。間を置かず、多賀先生からは「そりゃいい。おもしろい遊びになるね」というような返信がありました。こうして道楽として取り組み始めたのが本書なのです。

多賀先生があとがきにも書いていますが、一ヵ月ほどに及ぶやりとりはとても楽しく、この本はすぐにでき上がってしまいました。第一章は「対談」の形式を装っていますが、実はFBのメッセージで毎日少しずつ、しかもお互いに酔っぱらいながらのやりとりを対談形式に直したものに過ぎません。要するに、実際に会って直接話したやりとりではないわけです(笑)。

「これ、対談形式にして本に入れようよ」

そんな酔っぱらいのノリによって第一章ができたと言って間違いありません。僕と多賀先生にとって、実際のところ、この本は仕事というよりも日常の道楽に過ぎないものでした。

しかし、でき上がってみると、それなりに僕らの主張が核心がよく出ている本に仕上がりました。酔っぱらっていてもこのくらいの主張はできるものなんだなあ……と自画自賛もしています。僕も多賀先生も自画自賛が大好きな自己チューおじさんですから(笑)。

幸い、最初に原稿を持ち込んだ黎明書房が刊行してくれることになり、この原稿は陽の目を見ることと相成りました。黎明書房の武馬久仁裕社長、編集の伊藤大真くんに伏して感謝申し上げる次第です。こんな道楽を形にしていただいて有り難うございました(笑)。

太田裕美/始まりは〝まごころ〟だった。を聴きながら……
二○一五年四月十九日 自宅書斎にて 堀  裕 嗣

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まえがき/あとがき

まえがき

教師の武器はたった二つ。即ち「言葉」と「表情」である。その場に相応しい表情を伴った言葉を一般に「語り」と言う。教師は「語り」によって子どもたちを導かねばならない。それが教師の仕事である。

生徒指導や生活指導において、教師がこうした自分らしい、それでいて子どもたちの心に響く「語り」を身につけているか否かは、生徒指導の成否を決めるほどの重要な要素である。ある教師は穏やかに、ある教師は和やかに、ある教師は毅然とした態度で、ある教師は精一杯の自分を演出しながら、子どもたちの心に響く「表情」と「言葉」を武器に語る。

しかし、最近の子どもは自分の非を認めないことが多いと言われる。相手も悪いと自分だけが悪者にされるのを徹底して拒む傾向も見られる。他人の気持ちを慮ることが苦手で、自分から見た視座だけを根拠に主張し、最後までそれを曲げない傾向もあるとされる。こうした子どもたちと対峙したとき、教師はいかに語るべきなのか。

本書は「説得」をテーマに、教師が子どもたちの意に反して生徒指導を施そうとするときの「語り」について自己分析していただくことにした。20人の中堅・ベテランの教師に、自らの教師としての「語り」の妙を披露していただく。そういう企画である。

本書が「教師力」を身につけたいと願う若い教師たちの一助となれば、それは望外の幸甚である。

あとがき

教師にはどうしても説得し切るしかないという場面がある。ときには子どもたちの逸脱によって。ときには被害の子どもの訴えによって。ときには職員室の総意によって。ときには学校教育を機能させるために。子どもたちに理解を示したいと本音では想いながら、それでも説得しきらなければならないときがある。

子どもたちに用意されている道は三つだ。即ち、〈説得される〉〈妥協する〉〈開き直る〉である。もちろん、子どもたちが心から〈説得される〉なら、それは成功である。子どもたちが「この先生に言われたら仕方ない」と〈妥協する〉なら、それはそれで教師も学校教育も対面を保つことになる。しかし、子どもが〈開き直〉って教師に体当たりで抵抗するなら、それは明らかな「説得の失敗」となる。

20人の執筆者の原稿を読んで感じたのは、執筆者のそれぞれが「説得の言葉」以上に、一人ひとりが「教師としての在り方」とでもいうべきものをしっかりもって子どもたちに当たっていることである。20人の執筆者は子どもたちの説得にあたる時点で、既に子どもたちに「この人の話を聴こう」と思わせてしまっている。そういう日常的なつながりが前提されている。読者の皆さんはこのことを肝に銘ずるべきだと思う。子どもたちに「聴こうと思わせる在り方」。教師が身につけるべきはこの「在り方」なのだ。

ガラスの巨人/谷山浩子 を聴きながら…
2015年4月2日 自宅書斎にて 堀 裕嗣

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まえがき/あとがき

まえがき

教師の武器はたった二つ。即ち「言葉」と「表情」である。その場に相応しい表情を伴った言葉を一般に「語り」と言う。教師は「語り」によって子どもたちを導かねばならない。それが教師の仕事である。

学級づくりにおいて、学級担任がこうした自分らしい、それでいて子どもたちの心に響く「語り」を身につけているか否かは、学級経営の成否を決めるほどの重要な要素である。ある教師は穏やかに、ある教師は和やかに、ある教師は毅然とした態度で、ある教師は精一杯の自分を演出しながら、子どもたちの心に響く「表情」と「言葉」を武器に語る。その「語り」が子どもたちに少しずつ機能していくに従って、その教師らしい「色」が学級に形づくられていく。そういうものだ。

「語り」は教師に、その人にしか醸せない「味」をつくり出す。その教師なりの「味」を醸し始めたとき、教師は初めて周りの教師たちのだれもが認めざるを得ない存在感を示し始める。そういうものだ。

本書は「説得」をテーマに、学級担任が子どもたちの意に反して教師の意図に導こうとするときの「語り」について自己分析していただくことにした。20人の中堅・ベテランの教師に、自らの教師としての「語り」の妙を披露していただく。そういう企画である。

本書が「教師力」を身につけたいと願う若い教師たちの一助となれば、それは望外の幸甚である。

あとがき

教師にはどうしても説得し切るしかないという場面がある。ときには子どもたちの逸脱によって。ときには被害の子どもの訴えによって。ときには職員室の総意によって。ときには学校教育を機能させるために。子どもたちに理解を示したいと本音では想いながら、それでも説得しきらなければならないときがある。

子どもたちに用意されている道は三つだ。即ち、〈説得される〉〈妥協する〉〈開き直る〉である。もちろん、子どもたちが心から〈説得される〉なら、それは成功である。子どもたちが「この先生に言われたら仕方ない」と〈妥協する〉なら、それはそれで教師も学校教育も対面を保つことになる。しかし、子どもが〈開き直〉って教師に体当たりで抵抗するなら、それは明らかな「説得の失敗」となる。

20人の執筆者の原稿を読んで感じたのは、執筆者のそれぞれが「説得の言葉」以上に、一人ひとりが「教師としての在り方」とでもいうべきものをしっかりもって子どもたちに当たっていることである。「説得の言葉」自体というよりも、その教師が日常的に子どもたちの前にどのような立ち姿で在るのか、そこにこそ本質があるように私には思われる。「説得の言葉」はもちろん大切である。しかしそれ以上に私たちが磨くべきは、「教師としての在り方」なのだろうと思う。

鳥は鳥に/谷山浩子 を聴きながら…
2015年4月2日 自宅書斎にて 堀 裕嗣

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あとがき

企画から上梓まで十二年の歳月を要した。説明的文章・文学的文章ともに「読むこと」領域の言語技術体系を二十にまとめることに曲折した故である。「話すこと・聞くこと」「書くこと」の二領域の体系づくりは既に二○○○年には完了していた。「読むこと」領域の文学的文章の言語技術体系は一度整理し、著書にもまとめもした。しかし、文学的文章教材指導の体系はそれでは納得がいかず、ましてや説明的文章指導の体系は整理がつかないままに年齢だけを重ねた。此度、本書を上梓するに至ったことに、感無量とはこういうことを言うのだろうと、また一つ実感的な語彙を増やしたことに一人ほくそ笑んでいる。

本書の内容はこの四半世紀に出会った多くの人々の支えによるものである。中でも、宇佐美寛先生、高橋俊三先生、大内善一先生、市毛勝雄先生、渋谷孝先生、阿部昇先生、鶴田清司先生、小森茂先生、大森修先生には言語技術教育の在り方について直接教えをいただいた。ここに深く感謝申し上げたい。また、野口芳宏先生には授業づくりにおいていかなる壮大な理念も機能させないことには無いと同じであることを、腹の底から実感させていただいた。私が生意気盛りの三十代前半に野口先生と出会えた幸運に感謝したい。更には、文学的文章教材指導の言語技術体系づくりに私が迷っていた折に教えをいただき、目を見開かれることになった田中実先生、須貝千里にも深く感謝申し上げたい。両先生にはご自身の提案が言語技術教育の体系に組み込まれることにはご不満を抱かれるとは承知しておりますが、どうかお許しいただきたく存じます。

私が教職に就いたのは一九九一年のことである。以来、「研究集団ことのは」という教育実践サークルで言語技術教育の研究を続けてきた。本書が形になったのは先達に教えを受けたことによるばかりでなく、「ことのは」でともに議論し続けてきた仲間がいたからこそである。森寛・對馬義幸・市川恵幸という「研究集団ことのは」草創期をともにつくった仲間たちにまずは感謝申し上げたい。私をトゥルミンモデルと出会わせてくれた田中幹也、ワークショップ型授業と出会わせてくれた石川晋、ディベート教育と出会わせてくれた田村和幸、「研究集団ことのは」でいまなお私を支え続けてくれている山下幸、常に私の教材開発に力を貸してくれている小木恵子の諸氏にも深く感謝したい。

そして、何と言っても私の国語教育研究を基礎づけてくれた、今は亡き師匠森田茂之に感謝申し上げます。あなたへの手土産がまた一つ増えました。来世でまた酒を酌み交わすのを楽しみにしています。

国語学力はもちろん言語技術だけではありません。しかし、国語学力のなかに技術的な側面があるのは確かなことです。その技術的な側面さえ整理できなくて、どんな国語教育ができるというのだ。そんな思いを抱いて、十二年間この仕事に取り組んできました。ここに私の国語教育実践研究人生の中間まとめとして本書を提出させていただきます。

今後も国語科授業づくりの研究、実践に精進することを決意して、あとがきに代えさせていただきます。

最後になりましたが、編集の及川誠さん、杉浦美南さんには企画から出版まで大変お世話になりました。特に本書原稿が完成するまでにはずいぶんと時間をいただきお待たせしてしまいました。ここに深く深くお詫び申し上げます(でも、お二方ともよくご存知のように、ほんとはそんなこと思っちゃいませんが……笑)。

松山千春/季節の中で を聴きながら……
二○一五年○月○日 自宅書斎にて 堀  裕 嗣

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まえがき

本書を江部満に捧ぐ。

二十数年前、私が同人誌に書いたたった一本の実線原稿に目を留め、著書の執筆を依頼してくれたのは江部満その人である。昭和から平成にかけて氏は明治図書の大編集長だった。その功績は明治図書出版一社に限らない。氏のプロデュースした「教育科学国語教育」「現代教育科学」の両誌は間違いなく昭和から平成前半の国語教育界をリードした。雑誌をプロデュースするのみならず、国語教育界をプロデュースしたと言ったら言い過ぎだろうか。氏の編集者生活は前半は文学教育を、後半は言語技術教育を間違いなく先導した。事実、氏の炯眼によって世に出た国語教育研究者・実践家のなんと多いことか。

実は、私が本書を江部氏に提案したのは二○○三年のことである。氏に「堀先生、これはすごい。これができたら国語教育を変えられるかもしれない」と余りある言葉をいただいたことをつい昨日のように想い出す。しかし、書けるという想いは空回りするばかり、形になるまでになんと十二年もかかってしまった。本書が形になる前に江部氏が明治図書を退職し、「現代教育科学」が廃刊になるなどとは、当時の私には想像だにできなかった。江部満の企画として本書を上梓したかったというのが本音である。私の筆があまりにも遅かったことを悔やんでも悔やみきれない想いである。

私の国語教師生活も四半世紀が経とうとしている。生活綴り方と一九五○年代の日文協の文学教育の研究からスタートした私の国語研究は、三十代に入ると同時に言語技術教育の観点を導入し、なんとか現代にも通じる綴り方実践と文学教育を打ち立てられないものかとの試行錯誤に明け暮れた感がある。私はかつての生活綴り方や文学教育と、言語技術教育やファシリテーションとをなんとか融合できぬものかといまだに実践と研究を重ねる者だが、此度、自分がそれなりに納得できる義務教育で培いたい言語技術の体系をまとめるに至ったことは、遅きに失したとはいえ万感の想いである。今後、これを基礎として「文学教育」はどうあるべきか、「綴り方教育」はどうあるべきか、そのためにどのような現実的な「言語活動」があり得るのか、そうした提案を創っていこうと考えている。とにかく、ここに中間まとめを提出できたことを素直に喜びたい。

さて、本書は学校現場で国語の授業を担当する小学校・中学校の教師が、国語学力の技術的な側面を曖昧にしたままに日常の授業に取り組み、試行錯誤しながらもときに手応えを得、万全の準備との手応えを得ながらも実際には紆余曲折する、そんな授業づくりを送っている現状をなんとか変えられないかとの強い想いを抱いて執筆したものである。できる限り難解な技術や専門的な技術を廃し、あくまでも日常の授業で使える言語技術に絞って提案したつもりである。しかも、各領域・カテゴリーの技術をそれぞれ二十に抑え、普通の教師が常に頭に入れたおけるだけの数に絞りもした。国語教育研究の専門家からすれば不備不足が多いことは承知しているが、学校現場の国語科授業を具体的に変えるためには、このような方法が良いのだと私なりに熟慮した結果の提案である。国語教育の専門家に御批正いただきたいのはもちろんだが、私がそれ以上に望むのは現場の教師たちに本書を使ってもらうことである。

私は私なりに、この体裁に整えるためにときにはほんとうは書きたいことを抑制し、ときには私自身の実践にはあまり必要としないことに紙幅を割いた。私の国語教育観、私の世界観においては、義務教育の現場教師に必要と想われる言語技術体系を提示したつもりである。本書が毎日の国語の授業づくりに悩む現場教師にとって少しでも力になるなら、それは望外の幸甚である。

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