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人生を貫く問題意識の効用

竹内好が1959年にこんな発言をしている。

かりに教育可能論に立つとして、それでは文学教育は可能か。文学には教育的役割の一面があるし、教育には文学が要素として含まれている。そのことは、私も認める。しかし、文学と教育とは、深いつながりがあるにもかかわらず、本質的に背馳する一面があることを認めるべきではないかと思う。文学(この場合は芸術といってもいい)の本質は創造であり、創造は現在の秩序の破壊をともなう。一方、教育は秩序の維持が本質である。どんなに「創造的」と銘打たれた教育でも、教育の本質はワクにはめ込むことである。そのワクが制度として外から与えられるか、教師のイメージの形で理想化されているかのちがいはあるが、どちらにしてもワクである。そのワクを破壊する創造を教育の目標にすることはできない。文学の道と教育の道は方向が逆である。〈『文学教育は可能か?ー異端風にー』竹内好・『講座文学教育1』文学教育の会編・牧書店・1959年6月・所収〉

私がこれを初めて読んだのは大学3年、いまから30年近く前のことである。疑問を抱くことなく文学と教育とを同時に志していた私には、立ち会いでいきなり張り手を喰らわされたような衝撃を覚えたものである。

それから30年近くが経つけれど、私はこの竹内好の問いに対する自分なりの答えを探そうとしているのだと感じている。それが私の教師生活であり、実践生活であり、執筆生活であり、読書生活なのだ。そんな気がしている。

もう十数年も前のことになるけれど、『文学の力×教材の力』という本のタイトルを見て衝撃を受けたことがある(田中実・須貝千里編・教育出版)。書店の教育書コーナーでこの書名を見た瞬間に、悪寒が走るのを感じたのだ。自分の問題意識をこれほどまでに的確に表現した書名を私はそれまで見たことがなかった。すぐさまその本を求め、その日のうちに読了し、私は息せき切って、興奮のうちに田中・須貝両氏に手紙をしたためたのを昨日のことのように覚えている。

国語教育を専門としない読者、たとえ国語教育を専門としていたとしても文学教育を専門としていない読者には、私がこの竹内好の問いを人生を貫く問題意識としている心象を理解してはもらえないと思うし、田中実・須貝千里両氏が施したこのタイトルに対して私がどれほどの興奮を覚えたのかについても理解してもらえないとも思う。

しかし、世にほんとうに「読書術」なるものがあるとして、その神髄はなにかと考えるならば、それは「どう読むか」などということではなく、やはり自分を読書に駆り立てる原動力となっている問題意識そのものなのだと思う。私にとってその原動力は、こんなにも単純で、しかもほとんどの人にとってはどうでも良いような問いなのだ。それが現実なのだ。それが実態なのだ。

この問いこそが私に自分の「違和感」にこだわらせ、4色ボールぺンを使わせ、毎日引用可能性のある文章を打ち込ませ、月に一度それらを整理させ、常に5冊を並行読みさせ、自分の死角を意識させ、膨大な金をかけた書斎をつくらせているのである。

いや、受信ばかりではない。私に毎晩休まず原稿を書かせ、日々の授業を立案させ、日々の人間関係を営ませているのもこの問いである。すべてが文学と教育の背馳を乗り越えられるという実感を得てみたい、そんな人生を貫く問題意識に依拠しているのだと思う。

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