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2015年5月

スクールカースト

学級集団を構成する生徒たちが、時代とともに変容してきているのは確かであろう。現代の生徒たちは、〈自己主張力〉〈共感力〉〈同調力〉の総合力としての「コミュニケーション能力」の高低を互いに評価し合いながら、自らの〈スクール・カースト〉の調整に腐心していると見て良い。〈スクール・カースト〉は別名〈学級内ステイタス〉とも呼ばれ、学級への影響力・いじめ被害者リスクを決定し、子どもたちを無意識の階級闘争へと追い込んでいる。ここでは、森口朗の提案を軸に「スクール・カースト」概念を見ていくことにしよう(『いじめの構造』森口朗・新潮新書・二○○七年)。

二十一世紀に入って、教育界から政財界に至るまで、これからの人間に必要なのは「コミュニケーション能力」であると声高に主張するようになった。このことばが毎年、就活学生を恐怖させているのも羞恥の通りである。しかし、この「コミュニケーション能力」の具体が何であるのかという説得力ある論述はなかなか見られない。就活生たちを恐怖させているのもこの言葉の実態がいまひとつつかめないからだ。

森口朗は、これを生徒たちが〈自己主張力〉〈共感力〉〈同調力〉の総合力と捉えていると分析した。〈自己主張力〉とは自分の意見を強く主張する力、〈共感力〉とは他人を思いやる力、〈同調力〉とは周りのノリに合わせる力である。

更に詳しく言うなら、次のようになろうか。

○自己主張力…自分の意見をしっかりと主張することができ、他人のネガティヴな言動、ネガティヴな態度に対してしっかりと戒めることのできる力。八十年代以降、世論によっても識者によっても政治・行政によっても大切だと喧伝されてきた能力であり、臨教審以来の教育政策の根幹として位置づけられてきた能力でもある。
○共感力…他人に対して思いやりをもち、他人の立場や状況に応じて考えることのできる 力。従来から学校教育では何よりも優先される絶対的価値だと考えられ、リーダー性にとっても絶対的に必要とされ重視されてきた能力(というよりも、これがなければリーダーにはなり得ないとされてきた前提能力)。多くの教師が「いい子」「力のある子」と評価する要素にもなってきた。
○同調力…バラエティ番組に代表されるような「場の空気」に応じてボケたりツッコミを入れて盛り上げたりしながら、常に明るい雰囲気を形成する能力。生徒たちによって現代的なリーダーシップには不可欠と考えられている、現実的には最も人間関係を調整し得る能力。

この三つの総合力を「コミュニケーション能力」と呼ぶ。毒舌タイプの級友にツッコミを入れて逆にオトしたり、おとなしい子やボケ役の子をイジじって盛り上げたりしながら、「場の空気」によって人間関係を調整していく。しかし、その際、相手を、相手の心を決して傷つけてはならない。こうした高度な能力が「コミュニケーション能力」なのである。

この三つの力の総合力を生徒たちが〈スクール・カースト〉(=学級内ステイタス)を測る基準としている、と森口は言うのである。森口はこれをマトリクスとしてまとめ、三つの力といじめ被害者リスクとの関係を示した。そこで分析されているのは、現代の学級が以下の八つのキャラクターによって構成されている、ということである。以下、生徒たちを分類する文言については、堀が少々改めている。

①スーパーリーダー型生徒(自己主張力・共感力・同調力のすべてをもっている)
②残虐リーダー型生徒(自己主張力・同調力をもつ)
③孤高派タイプ生徒(自己主張力・共感力  をもつ)
④人望あるサブリーダー型生徒(共感力・同調力をもつ)
⑤お調子者タイプ生徒(同調力のみをもつ)
⑥いいヤツタイプ生徒(共感力のみをもつ)
⑦自己チュータイプ生徒(自己主張力のみをもつ)
⑧何を考えているかわからないタイプ生徒(自己主張力・共感力・同調力のどれももたない)

これをもとに〈スクール・カースト〉の高低を図示するなら、次頁の【図2】のようになる。「コミュニケーション能力」を構成する三つの要素をその資質として多くもっていればいるほど〈カースト〉は高くなり、その資質としてもつ要素が少なくなればなるほど〈カースト〉は低くなる。〈スクールカースト〉は原則として、この基準で決定されているのだ。そして森口朗は、〈スクールカースト〉が相対的に低くなる「⑥いいヤツタイプ生徒」「⑦自己チュータイプ生徒」「⑧何を考えているかわからないタイプ生徒」にいじめ被害のリスクが高くなると分析した。また、いじめの首謀者となるのは主に「②残虐リーダー型」であり、このタイプの生徒の動きに「⑤お調子者タイプ生徒」が同調することによっていじめが集団化するとも分析したのである。

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リーダー生徒がいない

リーダー生徒がいない─こういう声を多く聞くようになった。多くの教師が実感的にそう語る。

最もその声をよく聞くのは三月下旬、学級編制会議の場である。一般に、学級編制をするときに、各学級に男女各一名のリーダーA生徒(高いリーダー性をもち、学年リーダー或いは生徒会を担当するような学校リーダーレベル)、男女各一名のリーダーB生徒(リーダーAには及ばないが、学級をまとめる程度のリーダー性をもつレベル)の計四名を配する必要があるとされている。つまり、リーダー生徒は学級数×4の人数が必要とされるわけだ。しかし、そのリーダーA・B生徒のリストアップが学級数分に遠く及ばないのが最近の傾向である。

反対に、問題傾向に数えられる生徒たちはかつてと比べて格段に増えている。八十年代に見られた教師に反抗的な、いわゆる「校内暴力」へとつながるような問題傾向生徒、多くの方々が問題傾向の典型として意識しているような、いわゆる「〈反〉社会生徒」と呼ばれる問題傾向生徒はむしろ減ってきている。増えているのは「〈非〉社会生徒」と呼ばれる生徒たちと「〈脱〉社会生徒」と呼ばれる生徒たちである。前者は人間関係をうまく紡げないタイプ、小さな人間関係トラブルがすぐに決定的な不登校傾向への要因となってしまうようなタイプの生徒たちであり、後者は社会的な物語を共有できないタイプ、時間意識をもって学校生活を送ることが難しかったり、分担された当番活動に取り組めなかったり、授業や行事にごく普通に参加することさえ困難だったりといったタイプの生徒たちである。つまり総じて言うなら、「学校システムから遁走するタイプの生徒たち」が増えているわけだ。

結果、学級編制会議はたいへん重たい雰囲気で終わることになる。担任教師にとって自分の学級にリーダー生徒がいないということは、普通ならリーダー生徒のリーダーシップに期待できる仕事まで学級担任がしなければならないことを意味する。学級集団というものは、「教師─生徒」という縦関係と「生徒─生徒」という横関係とがうまくバランスがとれたときに機能するという特徴をもっている。多くの教師はリーダー生徒に対して、学級担任が縦関係において強権発動した場合にも、リーダー生徒が横関係において調整してくれることを期待するものだ。学級担任に対して反感を抱いた生徒に、「まあ、そう言わないで先生の立場もわかってやろうよ」というようなリーダーイメージだ。こうした調整力はあくまで、縦関係と横関係という「軸の異なる関係」がバランス的にうまく機能したときに発揮される調整力という特質をもっている。リーダー生徒のいない学級を担任することは、学級担任にとって、縦関係のみにおいて規範維持と学級のストレス調整との両方を担わなければならないことを意味するのだ。

これは学級担任にとってかなりきつい。教員以外の方々から見れば、規範維持と人間関係調整を同時にすることくらいができなくてどうする、それが学級担任の仕事だろ、との反論が聞こえてきそうだ。もちろん、学級経営・学級運営を巨視的に見ればその通りである。しかし、もう少し日常的に、微視的に見るならば、リーダーがいない学級というものは、学級担任がこうしたベクトルの異なる二軸の営みを、どんな些細なことに対しても配慮しなければならないということを意味するのである。

しかも、学級では「〈非〉社会生徒」「〈脱〉社会生徒」がかなりいて(私の実感では、現在、一般的な学級で四割程度を占める)、学級担任は毎日毎時間、こうした生徒たちへの対応に追われ続けている。更には、時代は消費資本主義社会。Aの正義はBの正義に反し、Cの利益がDの不利益にあたるという「多様化」への対応が、学級担任には常に突きつけられている。もちろんこうした生徒たちの背後には保護者もいる。そのなかには幾人かのクレーマーがいて、更には一定数のクレーマー予備軍も潜在している。いま学級担任が立っているのはこうした地点だ。

自分の学級にリーダー生徒がいることは、このストレスフルな状況をかなり緩和させることになる。「〈反〉社会生徒」を巻き込み、「〈脱〉社会生徒」をフォローする空気を醸成し、ときに発動せざるを得ない学級担任の強権に側面からやわらかな追い風をくれる。管理職や学年主任によるフォローといった「背後からの追い風」なんかよりもずっと心強く心地よい「横風」、それが「リーダー」と呼ばれる生徒たちの機能である。

小学校に引き継ぎに行くと、六年生の担任の先生に「リーダー生徒がいないんですよ。すいません」と言われることが多い。おそらく小学校高学年にも同じような構造があるのだろう。生徒会事務局を担当したり、学級代表委員会を担当したりする教師たちも、最近はメンバーを集めること自体に苦労している実態がある。たいへん残念なことではあるけれど、これがまぎれもない「学校の現在(いま)」である。

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性的イメージとの親和性

また、東京・大阪・名古屋・札幌・福岡といった百万人から数百万人の人口を要する大都市と、数十万人規模の地方都市の間ではも、〈スクールカースト〉の顕れ方が異なる。前者のような中心都市では文字通り「コミュニケーション能力」が〈スクールカースト〉の決定要因として顕在化するけれど、後者のような郊外都市では純粋な「コミュニケーション能力」以上に、実質的な〈ヤンキー〉のカーストが高くなる。これは生徒たちの〈スクールカースト〉の高低が性的な奔放さと親和性をもっているからだ。

それは、〈スクールカースト〉が性的イメージと親和性をもっているからだ。

中心都市では十代に限らず、人々が性的にどのように動いているのかが表社会からは見えない。学校の先生や警察官、地位のある人が淫行をしていたと報道されるのは、そのほとんどが百万人以上の大都市である。不倫の現場が多いのも大都市だ。大都市はデートするにしてもホテルに行くにしても、知人に見られるリスクが小さい。つまり、中心都市は人々の性的な営み、性に関する営みが裏に隠れるのだ。

これが郊外型の地方都市ではそうはいかない。生徒たちから見れば、「あの子とあの子が付き合い始めた」とか「あの子はここまで経験した」とか、そうしたことが周りから見えてしまう。その結果、一切陰に隠れようとせずに性的な奔放さを見せつけることのできる〈ヤンキー〉と呼ばれる一群のステイタスが必然的に高くなるのだ。

もちろん、中心都市だってさまざまな地域に分かれているし、郊外都市にだって街の中心校と呼ばれるような中心都市的な特徴をもつ学校もある。だから、確定的にこう言うわけにはいかない。しかし、どんな都市であろうと、中心部ほど純粋な「コミュニケーション能力」が〈スクールカースト〉の決定要因となりやすく、周辺に行けば行くほどいわゆる〈ヤンキー〉のステイタスが高くなるという傾向はあると思う。僕は教職にある身なので、ほんとうはこういうことは言いづらいのだが、地価の高い地域ほど前者に近く、地価の低い地域ほど後者に近い、要するにそういうことだ。

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地域性

〈スクールカースト〉には地域性がある。これも見逃せない視点だ。基本的に〈スクールカースト〉は都市のものだ。各学級に三十数人とか四十人とかがひしめく。学年全体では数百人いる。そういう学校でこそ、〈スクールカースト〉は効力を発揮する。決して全校生徒十数人とか、小中併置の児童生徒あわせて数十人とか、そういう学校では機能しない。

次章で詳しく述べるけれど、〈スクールカースト〉の決定要因は「コミュニケーション能力」である。自分の意見をしっかり主張できるとか、他人を喜ばせる得意技をもっているとか、他人に対して思いやりをもっているとか、周りのノリにあわせてどんどん盛り上がれるとか、こうした他人とのコミュニケーションを円滑に運ぶことのできる能力をたくさんもっている者ほどカーストが高い。その意味で、ルックスの良さも他人を喜ばせる能力・資質の一つなのだと考えるとわかりやすい。こうした能力に格付けは小さな学校では機能しない。

例えば、日本全国、温泉街の学校では、児童生徒の間に厳然とした格付けがあって、なにをどうやっても逆転不可能ということがある。しかし、それはホテル王の孫とそのホテルで働く仲居さんの息子が同じ学級に所属しているといった場合であり、その格付けは大人たちの格付けと相似形をなしている、そんな地域の実態が学校に悪影響を及ぼしているに過ぎない。〈スクールカースト〉のように子どもたち独自の世界観が形成している格付けではないのだ。同じ意味で、農村や漁村をはじめ、第一次産業や第二次産業が主たる産業となっていて、大人達のステイタスの影響をそのまま子どもたちが受けやすい構造になっている町村でも、〈スクールカースト〉は機能しにくい。

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人生を貫く問題意識の効用

竹内好が1959年にこんな発言をしている。

かりに教育可能論に立つとして、それでは文学教育は可能か。文学には教育的役割の一面があるし、教育には文学が要素として含まれている。そのことは、私も認める。しかし、文学と教育とは、深いつながりがあるにもかかわらず、本質的に背馳する一面があることを認めるべきではないかと思う。文学(この場合は芸術といってもいい)の本質は創造であり、創造は現在の秩序の破壊をともなう。一方、教育は秩序の維持が本質である。どんなに「創造的」と銘打たれた教育でも、教育の本質はワクにはめ込むことである。そのワクが制度として外から与えられるか、教師のイメージの形で理想化されているかのちがいはあるが、どちらにしてもワクである。そのワクを破壊する創造を教育の目標にすることはできない。文学の道と教育の道は方向が逆である。〈『文学教育は可能か?ー異端風にー』竹内好・『講座文学教育1』文学教育の会編・牧書店・1959年6月・所収〉

私がこれを初めて読んだのは大学3年、いまから30年近く前のことである。疑問を抱くことなく文学と教育とを同時に志していた私には、立ち会いでいきなり張り手を喰らわされたような衝撃を覚えたものである。

それから30年近くが経つけれど、私はこの竹内好の問いに対する自分なりの答えを探そうとしているのだと感じている。それが私の教師生活であり、実践生活であり、執筆生活であり、読書生活なのだ。そんな気がしている。

もう十数年も前のことになるけれど、『文学の力×教材の力』という本のタイトルを見て衝撃を受けたことがある(田中実・須貝千里編・教育出版)。書店の教育書コーナーでこの書名を見た瞬間に、悪寒が走るのを感じたのだ。自分の問題意識をこれほどまでに的確に表現した書名を私はそれまで見たことがなかった。すぐさまその本を求め、その日のうちに読了し、私は息せき切って、興奮のうちに田中・須貝両氏に手紙をしたためたのを昨日のことのように覚えている。

国語教育を専門としない読者、たとえ国語教育を専門としていたとしても文学教育を専門としていない読者には、私がこの竹内好の問いを人生を貫く問題意識としている心象を理解してはもらえないと思うし、田中実・須貝千里両氏が施したこのタイトルに対して私がどれほどの興奮を覚えたのかについても理解してもらえないとも思う。

しかし、世にほんとうに「読書術」なるものがあるとして、その神髄はなにかと考えるならば、それは「どう読むか」などということではなく、やはり自分を読書に駆り立てる原動力となっている問題意識そのものなのだと思う。私にとってその原動力は、こんなにも単純で、しかもほとんどの人にとってはどうでも良いような問いなのだ。それが現実なのだ。それが実態なのだ。

この問いこそが私に自分の「違和感」にこだわらせ、4色ボールぺンを使わせ、毎日引用可能性のある文章を打ち込ませ、月に一度それらを整理させ、常に5冊を並行読みさせ、自分の死角を意識させ、膨大な金をかけた書斎をつくらせているのである。

いや、受信ばかりではない。私に毎晩休まず原稿を書かせ、日々の授業を立案させ、日々の人間関係を営ませているのもこの問いである。すべてが文学と教育の背馳を乗り越えられるという実感を得てみたい、そんな人生を貫く問題意識に依拠しているのだと思う。

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