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日本的な基準

僕はいわゆる「がっこのせんせい」の端くれで、学校を職場とし職員室を昼の住まいとしている。これまで札幌市で五つの学校に勤めたけれど、その多くは大規模校と言われる中学校で、二十学級以上の学校だった。二十数学級もある中学校の職員室には、驚くなかれ五十人近い教師がひしめくことになる。

長年教師という職業をしていて思うのは、職員室にも厳然とした職員室カーストがあるということだ。それも最近の学校は上意下達で動かされるようになったというイメージに基づく、校長をトップとしたピラミッド集団なんかではまったくない。校長よりも職員室カーストの高い教職員はうじゃうじゃいる。

その多くは仕事ができるできないも去ることながら、他の先生方のフォローにいかに時間と労力を割くかとか、古くからその学校にいてその学校のシステムを熟知しているとか、優しい人であるとか女性教師の心をつかんでいる(変な意味ではない)とか、要するに職員室をスムーズに運営するのに役立っている人たちである。そういう人が職員会議でなにかを主張したり、喧々諤々の議論のあとにそれまでの意見をまとめて「今回はこれで行きませんか」なんて言うと、スーッと職員会議の空気が落ち着いたりする。職員室カーストの高い先生というのはそういう人だ。

まれに教務主任とか生徒指導担当とか学年主任とかで自己主張の強い人が職員会議の中心であることも多いけれど、また、高校では事務長がお金の実権を握っているだけに発言力をもっているという例も耳にするけれど、そうした地位や実権で発言力を担保されている人というのは、どうしても裏で陰口を叩かれることになる。やっぱり日本人は他人に優しい人、物知りで有益な情報をくれる人とか、人付き合いや仕事の仕方がスマートな人とか、学生時代から体育系でノリのおもしろい人とか、そういう職場の雰囲気をつくれる人たちが好きなのだ。きっとみなさんの職場でもそうであるはずだ。

要するに〈スクールカースト〉とは、こういう職場を無意識的に格付けしているとっても日本人的な基準が、小学校高学年から中高生の同年齢集団の間で、非常に濃厚な形で現れたものなのだと考えるとわかりやすい。だから、社会で必ずしも仕事のできる人や地位の高い人が好かれるわけではないように、必ずしも実権を握っている人が怖れられこそすれ好かれるわけではないように、生徒たちの間でも自分たちの集団のなかで格付けがなされているのだ。そういうことなのだ。

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