教えるべきは徹底して教え、任せるべきは大胆に任せる
二○一三年度のことである。
私は学年七学級の学年主任だった。学級担任七人のうち、初めて担任をもつ者が三人いた。私は年度当初、この三人に一切の生徒指導をさせなかった。彼らからみれば、自分の学級の生徒たちを指導事案でさえ、学年主任である私が指導するわけである。その代わり、彼らには常に私の生徒指導場面に立ち会わせた。六月いっぱいくらいまでこれを続けた。生徒指導のモデルを示すためである。
また、生徒指導が終わると、必ず振り返りもおこなった。それぞれの指導事案に応じて、「あのときなぜ、オレはこう言ったと思う?」「あの生徒があそこで正直に告白したのはどうしてだと思う?」といった問いを発し、かなり長い時間をかけて彼らとやりとりした。生徒指導を機能させているのが私という教師のキャラクターなのではなく、事情を聞いたり事実を確認したり説得したりねぎらったりという段取りにあるのだということを理解してもらうためだ。つまり、指導の構造が大事なのであって、教師個人のキャラクターが重要なのではないということを実感させるためである。つまり、この構造で指導さえすれば、堀のような怖いイメージをもつ教師だけが生徒を指導できるというわけではない、自分にも同様の段取りを踏めばできるのだということを理解させるわけだ。
ごくごく簡単に紹介するなら、
①まずはその生徒指導事案において起こった事実を 徹底して確認する。事実確認が終わるまではいか なる状況があろうと生徒を疑わないし叱らない。
②複数の生徒が関わっている場合には、全員の供述 が一致するまで事実確認を続ける。
③事実の全貌が明らかになったら、関係生徒全員を 集めて確認する。
④全貌が明らかになった時点で初めて指導に入る。
⑤やってしまったことについては、正直に話せば追 い詰めるような叱り方をしない。ただし、指導過 程のなかで嘘をついたり隠したり他人を陥れよう としたりが明らかになった場合には、今回の事案 以上にその嘘・隠蔽をこそ厳しく叱る。
⑥最終的には、人間には失敗することがあるのであ り、今回のことを反省して今後に活かすことが大 切なのだとまとめる。
という六段階である。
三ヶ月も私が行うこの六段階の指導を見ていると、経験のない若者たちにもこの構造が実感的に捉えられるようになる。実際には多くの若者が五回程度立ち会い、そのそれぞれでリフレクションに参加すれば、この構造が見えてくる。
その後は若者たちに生徒指導をさせ、私が立ち会うという期間が数ヶ月から半年程度。もとろん、リフレクションは欠かさない。彼らが一人で生徒指導に当たって構わないと私に許可されたのは、もう二学期も終わろうとしている十二月に入ってからだったと記憶している。
こうした指導の在り方は、生徒指導の基礎の基礎である。だれもが身につけなければならないミニマムエッセンシャルである。生徒個々は一人ひとりさまざまな特性をもっているのだから、教師は生徒一人ひとりを理解しての臨機応変の対応が求められると言われる。このこと自体は正しい。しかし、基礎の前提のないところに応用はない。生徒一人ひとりの理解も、臨機応変の対応も、いわば生徒指導にとっては応用編である。「子ども理解」や「個別対応」を心構えとして、教師の指導の在り方の指針としてもつのは良いことだが、それは指導事案によって個々ばらばらの指導をして良いということではない。それでは教師個人個人の思いつきの指導がはびこる結果となる。これは避けなければならない。
しかし、若手教師を育てるには、基礎を教えれば良いというものでもない。彼らがミニマムエッセンシャルを身につけたと確信したら、上に立つ者はその後、彼らにさまざまな判断を委ねるという段階に入る。簡単に言うと、最終判断の段階まで含めて、さまざまな仕事を任せるわけだ。
彼らは半年以上、私の判断のもとに仕事をしてきた。私に報告・連絡・相談をすることなく仕事を進めることが許されないできた。だから、「よし!まずまず一本立ちしたな。これからは自分の判断でやってみろ」といきなり言われても、当初は戸惑う。なにかにつけて私の判断を仰ごうとする。しかし、私はそれを受け付けない。「いや、任せる。堀だったらどうするか、自分の特性を活かすにはどんな方法があるか、自分で考えて対応しろ」としか私は言わない。もちろん、困ったときには助ける。彼らが失敗した場合には責任も取るし、管理職に自分の責任として報告もする。しかし、それは「校長先生、○○を育てようと自分で判断させて動いてもらいましたが、失敗しました。まあ、ちょっと時間ください。僕に任せてください」と笑いながらの報告に過ぎない。こういうときはその失敗自体を明るい雰囲気で包み込んでしまうのが、職員室運営のキモだ。先は長いのである。必要以上に深刻になってはいけない。
その後、ミスを犯したある女性若手教師は「いつになったら、教師らしくなれるんでしょう」と私に問うた。私は「そんな馬鹿なことを考えるんじゃない。教師らしいお前なんて目指すんじゃない。目指すべきはお前らしい教師だ。お前が教師に近づくんじゃなくて、教師という仕事をお前の方に引っ張ってくるんだ。そうじゃないとうまくいかない。いつまでも落ち込むことになる。負のサイクルから逃れられない」と応えた。この言葉は彼女に響いたようで、その後、僕が学年主任として彼女を指導していくうえで、一つのキーワードとなっていった。自分の外に理想の教師像があるわけではない。自分のキャラクターに合った自分自身の教師像を確立するところにしか教師の力量形成などないのだ。
ある男性若手教師は「あの子がわからない。どうしたらいいんでしょう」と私に問うた。私は「教師は神じゃない。すべての子がわかるなら苦労なんてしない。でも、わかろうとする姿勢をもつことはできる。それがその子に伝われば関係は改善されていく。オレの経験から言ってこれは間違いない。お前はその子にそれが伝わるくらいに自分で動いてみたのか?ただ傍観しながらわからないわからないと言っているんじゃないか?どうかかわるかに正しい答えはない。それは自分で考えるしかないんだ」と応えた。この若者は自分を内省し、その子に積極的にかかわるようになった。いまはほぼ完全にその子との関係が修復されている。
私が言いたいことは、「教えるべきは徹底して教え、任せるべきは大胆に任せる」ということだ。しかも、彼らが落ち込んでいるときには、ちゃんと後ろには自分がいるのだということを彼らに示して安心させることだ。人の上に立つ者の仕事とはそういうことなのである。
若者たちにこうした基礎的な指導の在り方を教え、いま現在、二年が終わろうとしている。いまでは、中堅・ベテラン教師はもちろん、この若手たちが率先して生徒指導事案に向き合っている。私は現在、生徒指導主事としてこの学年に所属しているのだが、「オレ、指導しようか?」と言っても、「いえいえ、堀先生に出ていただくほどのことはありません。もっと大きな事案のときにお願いします」と言われ、私の仕事がほとんどなくなってしまっているほどだ。そもそも、彼らが日常的に適切に指導にあたっているため、二年生になってからは生徒指導事案自体がほとんどない、という状態になっている。
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