人生の問題として選び、捨てる
自分で言うのもなんなのですが、私は三十代の前半くらいまではかなり多趣味な人間でした。勤務が終わるとほとんど毎日パチンコに通っていましたし、金曜日に徹夜麻雀をすることもしばしばでした。川釣りが好きで予定のない週末はいつも山に出掛けていましたし、ドライヴが好きで北海道内のいろんなところに行きました。芝居が好きで月に数度は観劇に通っていましたし、映画が好きで年に三十本程度は観ていました。音楽が好きで、CDを年に数十枚買っていましたし、年に十数回はライヴに足を運びもしました。本を読むことも大好きで、読書も年平均三百冊程度を読んでいたと思います。
北海道は広いですから、川釣りにもドライヴにも最適の地です。ブルースやサザンロックなんかを大音量でかけながら、緑に囲まれたまっすぐな道を走っているとスカッとします。そういう時間がとても好きでした。
しかし、研究活動にもかなり時間をかけていましたから、三十代になると次第にこうした生活もきつくなり始めます。平日にパチンコに行き、十時とか十一時に帰って来てから午前三時頃まで研究資料をつくる。そんな生活が長続きするはずもありません。だんだん予定のない週末は家で寝るようになっていきます。音楽もブルースやサザンロックから落ち着いたものへと趣向が移りますし、劇場や映画館に行く頻度もだんだん少なくなっていきました。
当時は自分がなんだかおもしろくない人間になっていくようでどこか淋しい思いもしたものですが、やはり体力の衰えには勝てません。研究時間を確保するには、なにかを削らなければならないのだと決意しました。この頃から飛行機や列車に乗って遠距離移動して研究会に行くことも多くなり、遊びに使える金額も縮小していきます。私はまず、パチンコや麻雀というギャンブル系をカットしました。次に川釣りやドライヴというアウトドア系をカットし、お金のかかる芝居や映画、ライヴといった外に出なければならない文化系をカットしていきました。
それから約十五年が経ちますが、読書と音楽鑑賞というなんとも普通の、ありきたりな趣味だけが残って現在(いま)があります。私はいまも年に数十枚のCDを求め、年に三○○冊程度の本を読む生活を続けています。これがなくなったら、自分は完全におもしろみのない人間になってしまうのではないか……そんな恐怖感を抱きながら(笑)。
本の世界に「乱読」という言葉があります。まず読み始めのときにはなにを読むべきかさえわからないわけですから、なんでも読むことから始めよう、そんな意味なのだと理解しています。私は大学に入る前からミステリーが好きでずいぶんと読んでいましたが、大学に入って本格的に文学を勉強しようと考えたとき、確かに取り敢えず片っ端から読んでいた時期がありました。あの時期なくして現在の自分はなかったなといまでも思います(ちなみに私は大学時代の最初の二年間、ほとんど大学に行かずに本を読んでいました。詳細は拙著『エピソードで語る教師力の極意』を御参照いただければ幸いです)。
この「乱読」と同じような構造が、趣味の領域、つまり「修養」にもあるのかもしれません。二十代はまさに「乱趣味」の時期で、初めて自分で稼ぐようになり、だれに文句を言われることもなく自由に使えるお金ができたわけですから、ちょっとでも興味を抱いたことには一応を手を出してみる。そんなことが許される時期なのだろうと思います。そしてそれは「許される」という消極的な意味合いだけでなく、読書における「乱読」と同じようにその後の人生をよりよくしていくための必要な時期なのだとも言えるでしょう。
しかし、三十代はあれもこれも手を出していたのでは躰がもちません。いまはよくてもその影響が四十代でドッと来てしまいます。また、趣味というものもレベルが上がってくるとお金がかかってくるものです。家族をもてば自由に使える金額は二十代の半分もないはずです。自分はなにを選び、なにを捨てるのか、そんなことをある意味「人生の問題」として真剣に考えてみなければならない時期なのだと思います。
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