同い年として人として
テレビドラマでは、〈スクールカースト〉の決定要因が腕力の強さやスポーツができるできないの如何、ルックスの善し悪しや性体験の豊富さで測られるように描かれていたけれど、きっとそんな単純なものじゃない。テレビドラマは視聴率を稼がなくちゃならないだろうし、そのためにはわかりやすさと話題性(話題としてのおもしろさ)が優先されるのだろうから、その単純さを批判しても始まらない。あれはあれでおもしろいドラマだったのだからそれでいい。でも、現実に、毎日を生徒たちと過ごしている僕ら教師は、そんなにシンプルな世界観を構築して「興味深いね…」と言っているわけにもいかない。事実として〈スクールカースト〉が学級集団や学年集団を歪めることがあるのだから、それに対処しなくちゃいけない。そういう意味では、教師なんて因果な商売だ。
ただ、ドラマがしつこくしつこく描いていた〈スクールカースト〉の決定要因が勉強のできるできないではないということ、社会的に評価されるようなステイタス(単純に言えば学級代表をやるとか生徒会長になるというような)でもないということだけは確かであるようだ。同学年集団、つまり同い年の人間が集まる三十~四十人くらいの中規模な集団において、人としてどちらが上か、どちらが下かと測る、そんなイメージで捉えると理解しやすい。
ここで大切なのは、「同い年」ということと「人として」ということだ。だから〈スクールカースト〉は、例えば部活動や地域のクラブチームのような異学年集団では比較されないし、勉強や生徒会活動みたいな社会的なステイタスにつながるようなものも決定要因にはならない。
それはちょうど、企業で同期入社の人の中からいち早く出世した人が出たときに、その人を見ながら「人間的にはオレの方が上なのに…」とか、「オレの方が後輩社員に慕われているのに…」とか感じるような、そんな思いを抱くことを想定してみるとわかりやすいかもしれない。そういう思いを抱くときの基準となっているもの、明確に言葉にはできないけれど確かにこの世の中にある基準のように感じられるもの、それが学校という同い年の生徒たちが閉じこめられている学級集団のなかでは殊の外大きな意味をもつ、そんなふうにイメージしてみると良いと思う。
ほら、そう考えてみると、「なんだ…、必ずしも若い世代だけのものじゃないのかもしれないな……」なんて思えてきませんか? だって、そんなとき、多くの人は「オレの方が強いのに」とか「オレの方が運動ができるのに」とか「オレの方がモテるのに」とか、そんな自分勝手な基準で判断しているものですから。決して「オレの方が上司に買われているのに」とか「オレの方が会社に貢献しているのに」とかは思わないものです。人間の価値って、どこか勉強とか仕事とかの優秀さではないと思われているフシがある。
世の中、そういうものです。
率直に言えば僕はこう思っているわけだ。ああ、これはもともと日本人が色濃くもっている心性が、学校という場で大きく顕在化してきているだけだ。そういう古くて新しい問題だ。古くて新しいというよりも、新しいように見えて実は古くからある問題だ。そんなふうに見えてくるのだ。
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