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学校教育にとって教師個人の裁量はどこまで許されるのか

二月上旬。名古屋市内の小学校女性教諭がイスラム国に殺害された湯川さんと後藤さんの写真を授業中に児童に示したと言う。なかには遺体の写真があったとも言う。二十代の若い教師であるらしい。名古屋市教委は即座に謝罪会見を開き、指導が不適切だった、今後児童の心のケアに力を入れると弁明した。当の女性教諭も指導の在り方が不適切であったと認めていると言う。授業の目的はどこまでこうした画像を公開すべきか、報道の在り方について児童に議論させることだったとも言う。

なぜ、このような事案が起こってしまうのか。画像を見せることの適否を論じたいのではない。なぜ市教委が謝罪会見を開いて、弁明しなければならない事案がこんなにも多く生じてしまうのか、つまり学校や教委のチェック機能はなぜ働かないのか、という問題である。なぜこうした事案には事前のチェック機能が働かず、常に事後になって責任者が慌てふためくことになってしまうのか、と私は問うているわけだ。

これが児童生徒が自殺してしまったとか、いじめ事案があったとか、教師からは見えないところで起こることなら致し方ない部分もある。しかし、事は授業内容である。確かめてはいないが、名古屋市内の小学校というから、各学年単学級ということはあるまい。報道されているのはこの女性教諭のみ。とすれば、この授業はこの学級以外の同学年の授業では行われてはいないということだ。もし当該校の五年生のすべての学級で行われるとすれば、当然、事前検討が行われるはずである。仮に授業の進度上、この学級で先行して授業が行われたとしても、この女性教諭だけがやり玉に挙げられ、責任を問われるということにはならなかったはずではないのか。三人とか四人とか、その学年教師全員で一致してこの授業を行うことにしたという報道がなされて然るべきではないのか。

授業の目的から類推するに、この女性教諭は少なくとも社会科授業づくりの実践研究に熱心な教師だったはずだ。そうでなければ時事問題を取り扱って、これほどまでに過激にして本質的な授業を構想しないだろう。一般的に考えて、教科書をなめることに終始する授業づくりにそれほど熱心でない、それでいて普通の教師たちには起こり得ない問題と言える。おそらく研究熱心であるからこそ、そして社会に対する問題意識を大きく抱いているからこその授業であったに違いない。

しかし、私はやはり、だからと言ってこの教師の独断でこの授業が行われて良いとは思わない。同学年の教師全員に知らせてあるとか、管理職に報告されているとか、いずれにしても職員室内の事前チェック機能が施されていて然るべきだと思う。この件は、状況の論理によって偶発的に起こってしまう体罰事案とか管理責任事案とかとは趣を異にする。

この問題は、私にとっては、学校教育にとって教師個人の裁量はどこまで許されるのかという論点と大きく関わっている問題である。教師はその多くが自分に自分の担当する子どもたちに対する裁量権がかなり大きくあるように思っている。担任学級の子どもたち、部活動で受け持つ子どもたちに関しては自分という教師個人が育てる責任をもつとともに、どのように教育するかの判断まで任されていると感じている。これは教師個々にとっては必ずしも自覚的ではないが、無意識的にそうした感覚で仕事をしている場合が多い。その結果、自らの教育観、自らの開発した教育手法によって、だれにも相談・報告することなく自分の担当する子どもたちに教育を施す。その理念やその手法が特殊であったとしても、その教師個人は使命感をもって取り組んでいるから、それが一般的にどう見られるかということに視野が及ばない。しかも、そうした研究実践は、自らの教師としての「自己実現」と連動しているから余計に使命感が増幅される。他者のチェックを受けようとなど思い浮かびさえしない。今回の女性教諭の事案も、教師世界に巣くうこうした一般感覚に起因しているのだと想像する。

社会は確かに、学校教育に対して、子どもを教育してもらうものだというコンセンサスを与えている。しかし、それはあくまで学校教育全体に与えられたコンセンサスであって、決して教師個人にその権限を委譲しているわけではない。そのことを多くの教師が意識していない。学級担任とは、学校の運営方針に従って役割分担としてこの三十五人を担当してね、と学校長から委託されていること委譲を意味しない。しかもその前提には市町村の教育目標や教育計画があり、学習指導要領があり、各種教育法規がある。これらからの逸脱は許されない。学級担任は担任する子どもたちを自己実現のためのモルモットにしてはならないのだ。

おそらくこの若い女性教諭には、この感覚が欠落していた。もちろん女性教諭の責任ばかりを問うのは酷である。周りもまた同様の感覚で仕事をする教師たちであるために、彼女の熱心さが一般感覚とは齟齬を起こすような授業手法を採ることにブレーキをかけさせなかったのだろう。事実、女性教諭は「報道のあり方を考えさせるとともに、命の大切さに目を向けさせたかった。迷った末に見せたが、軽率だった」(朝日新聞)と話していると言う。迷ったにもかかわらず、だれに相談することなく自分自身で見せることを判断したとすれば、やはり自身の裁量を逸脱していると言わざるを得ない。

しかし、私の批判の対象はこの女性教諭ではない。管理職である。或いはこの女性教諭の所属する学年の学年主任である。この女性教諭は二十代である。教職経験は長くて五年程度。私の認識では、まだ管理職や主任クラスによって守られるべき年齢だと思える。今回の件も自己責任の名のもとに責任を本人にのみ帰して良い段階とは私には思えない。教職の世界にはびこる教師個人に裁量があるように思う風潮は、実は管理職や主任クラスの責任回避の風潮とも密接に繋がっているのだ。

こう考えてみよう。この女性教諭は、今後おそらく心ない人たちによってインターネット上で名前を公開され、もしかしたら顔写真まで公開されることになるだろう。そしていくらそれらに削除依頼を出したとしても、インターネット上から完全に消し去ることは不可能である。また、彼女の行為についてはさまざまな人間がさまざまに論評もするはずである。これを自己責任と断罪するのはたやすい。しかし、こうしたネット上の写真や論評がこの女性教諭の教師人生に与える影響を考えると、或いは彼女本人のメンタリティに与える影響を考えると、これを自己責任であると断罪するだけの上司とはいったいその責任を果たしているのだろうかと私などは感じてしまう。管理職や学年主任は有望な若手教師が若さ故の常識の逸脱や、若さ故の使命感による熱情によって教師人生に傷がつきかねない行動をしてしまうことがあり得るということに、なぜ敏感でいられないのだろうか。人の上に立つということは、好むと好まざるにかかわらず、下の者の「人生」にかかわってしまうということなのである。多くの管理職・主任クラスにこの自覚が足りない。

昨今、心の病で休職する教師が後を絶たないが、これも多くの管理職が自己責任だと考えている。学校長とは、学校や子どもたちをあずかると同時に、そこで働く職員をもあずかっているのではないのか。部下が少なくとも仕事上の問題を契機として休職を余儀なくされるほどに心を病んだとすれば、それは本人の資質の問題であるのと同じ重みをもって管理職の責任が問われるべきなのではないか。

私が名古屋の女性教諭によってこの授業が行われるにあたり、なぜ事前チェックが行われなかったのかと問うのもこの意味においてである。読者諸氏には、私がこれまでこの女性教諭が管理職や教委に迷惑をかけたことを問題視するような論理を展開してきたように見えたかもしれない。しかし私はどちらかというと、この女性教諭にシンパシーを感じている。この女性教諭には、これまで学校教育界がつくってきた職員室文化の犠牲者であるという側面がある。自己責任がまったくないとはもちろん言わないが、一○○パーセント自己責任に帰して良い問題とはとうてい言えない。

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