ちょっとした逸脱を愉しむ
いじめはあってはならないと誰もが言います。いじめがあると校長はまず、「あってはならないことが起きた」と保護者に謝罪します。子どもの自殺があっても、記者会見で当該学校の校長や教育行政の担当者は「あってはならないことが起きてしまいました。再発防止のため、全力を尽くします」と謝罪します。もちろんいじめはない方がいいでしょうし、青少年の自殺は文字通り絶対にない方がいいと私も思います。
しかし、この校長や行政担当者の物言いには、やはり違和感を感じます。それは「あってはならないことが起こらないために、あってはならないことが起こらないように尽力する」という同語反復の物言いに過ぎないからです。
「あってはならないことが起こってしまいました。管理責任者である私は責任を取って辞職します」というなら、これは日本人にってはたいへんわかりやすい。もちろんその動機や経緯を調べもせずにすぐにやめてしまったのではこれまた無責任放棄だということになりますが、一ヶ月後とか三ヶ月後とか、ある程度の動機と経緯が明らかになった時点で職を辞すというのは、日本人にとっては引き際の在り方としてある種の美学があります。 また、「あってはならないことが起こってしまいました。ついては、こうこうこういう対策を講じます」というなら、これはその対策が是か非かというふうに議論することができます。しかし、「再発防止のため全力を尽くします」というのは、実際には「私たちは私たちなりに頑張ります」とか「私たちは気を引き締めます」とか言っているのと同じです。具体策がないばかりではなく、「これまでの方針は正しかった。その方針に従って、さらに網の目を細かくします」と言っているわけです。果たしてこういう施策に実効力があるのだろうか……と私などは感じてしまいます。
「あってはならないことが起こらない」ためには、実はその「あってはならないこと」が起こり得るということを予測して対策しなければなりません。起こり得るものを起こらないようにするにはどうしたら良いかと考えれば、必然的に「いじめはなぜ起こるのか」「自殺はなぜ起こるのか」という問題に行き着きます。この問題が浮上して、初めてああではないかこうではないかという議論も始め得るのです。
ところが「あってはならないことを起こさないために、あってはならないことが起こらないように尽力する」という同語反復には、単なる思考停止しかありません。むしろ、思考しよう、発言しよう、意見しようという人さえ黙らせてしまう威圧感さえ漂わせます。自由なブレイン・ストーミングを行えば、もしかしたら少しくらいは有効なアイディアも出てくるかもしれないのに、その可能性を抹殺します。鷲田清一(『大事なものは見えにくい』)が言っているのですが、実は、おそらくこれは「ほころびがあってはならないという『優等生』の感覚」なのではないか。「上に対してずっと受け身できた者が上に立ったときの特性」なのではないか。そしてさらに言えば、「ほころびがあってはならない」のは決して学校教育や仕事にではなく、自分の人生に対してなのではないか。自分の人生をどうするべきか、受け身で考えてきた者にはついぞわからないからこそ、これまで受け身でやってきた自分が、若い頃から何度も何度も上の者に繰り返し言い続けてきた「もっと頑張ります」「もっと気を引き締めます」の現在進行形なのではないか。
読者のみなさんには、私が校長や行政の担当者を嫌っていて皮肉や嫌味でこんなことを言っているように聞こえると思います。それがゼロとは言いませんが、しかし、本筋はちょっと違うのです。実は、私は彼らが〈遊び〉というものを知らずに生きてきたからこうなってしまったのではないかと思うのです。ただ黙って上の言うことを聞きながら、「もっと頑張ります」「もっと気を引き締めます」とだけ言っていればまあまあ出世でき、まあまあ納得できる人生を送れた、この半世紀の日本がつくってきた最後の世代の哀しい姿なのではないかと不憫に感じるのです。その「ほころびがあってはならない」という感覚こそがほころびを生じさせる時代に入っていることを理解しない、「真面目らしく、誠実らしく見せること」(本音ではない)だけが社会を乗り切るたった一つの全てであると信じて疑わない世代の最後の姿なのではないかと感じてしまうのです。
もちろん、保護者対策、マスコミ対策の文言としては彼らの物言いは正しい。でも私が言っているのはそうした事後の話ではなく、もしも彼らが〈遊び〉というものを熟知していて仕事にも〈遊び感覚〉をもっていたとしたら、この事案自体が起こらなかった可能性があるのではないか、ということなのです。
〈遊び〉とはどこか淫らな温かさをもちながら、世の中の規範を少しだけ逸脱しているところにその本質があります。言わば、逸脱しすぎない程度に逸脱しているところに、ちょっと淫らで心温まる実存を感じる営みです。そういうちょっとだけ規範から逸脱した上司のもとでは、部下もちょっとだけ規範から逸脱するものです。部下の先生方がちょっとだけ規範から逸脱し、それを許し合う空気が形成されれば、そうした教師たちに接している子どもたちにもまその空気は確実に伝わります。彼らの学校にそうした空気があったら、ほころびを生じさせないことよりその空気を優先していたら、その事案自体が起こらなかった可能性があるのではないかと私は言っているわけです。
三十代のうちに、ちょっとした逸脱を愉しめる人間になっておきたいものです。
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