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隙間仕事を意識する

内田樹がこの国に「おとな」が少なくなり「こども」ばかりになったと嘆いています。 「こども」はシステムの保全は「みんなの仕事」だから「自分の仕事」じゃないと思う人、「おとな」はシステムの保全は「みんなの仕事」だから「自分の仕事」だと思う人、そう定義してもいます。つまり、道端に空き缶が落ちていた場合、それはだれかが拾えば良いのだから自分が拾わなくてもいいと思うのが「子ども」、ああ、まったくこんなところに空き缶捨てて…と自分で拾ってくずかごに捨てるのが「おとな」です。「おい、なんとかしろよ」と怒鳴るだけの人と、「はいはい、私がやっておきますよ」という人の違いという言い方もしています。(『街場の共同体論』潮出版社・二○一四年六月)

おそらく四十代に必要な特質を一つだけ挙げろと言われたら、この「おとな」になることなのだろうと思います。三十代の若い先生方は「おい、なんとかしろよ」と怒鳴りはしませんが、自分の働きにくさを呑み会で愚痴りはします。それが管理職や頭の固い主任クラスのせいだとも感じています。働きやすい環境を調えてくれればいいのにと思っているのですが、どうすれば働きやすい環境ができるのかにまでは多くの三十代は考えが及びません。また、二十代のもっと若い先生方は仕事を覚えるのに精一杯で、とても職員室のシステム保全にまでは頭が働きません。むしろ職員室や学校システムの環境保全に目を向ける二十代がいたら気持ち悪いでしょう。

学校にはいわゆる〈隙間仕事〉がたくさんあります。仕事全体の二割くらいは私は〈隙間仕事〉なのではないかと感じています。しかも、だれかが〈隙間〉を埋めないと仕事全体の六~八割くらいはその影響で滞ってしまう、そんなイメージさえ抱きます。〈隙間仕事〉をだれもやらなくても成立する仕事というのは、形を整えるタイプの事務仕事くらいでしょう。その意味では、四十代が「おとな」にならなければ、学校は立ち行かないのかもしれません。

しかし、内田樹の言うような空き缶を拾うに代表されるだれでもできる〈隙間仕事〉なら良いのですが、学校の構造はいまやなかなか複雑で、〈隙間仕事〉もそれに伴って複雑化している現状があります。現在の〈隙間仕事〉はかつてのような掃除や雪かき、けんかの仲裁のようなある程度の年長者であればだれでもできるという類のものではなくなってきているのです。ここに「おとなになろう」と単純に言えば済むとならない、深刻な問題があります。

現在、職員室で完全に合意形成されているのは、ほかの先生に迷惑をかけずに学級を運営しようということだけなのではないかと私は感じています。学級を荒らしてしまったり甚大な保護者クレームを受けたりして他の先生の力を借りなければならない状況をつくってしまったら、確かに担任に責任があると見なされます。そのほかは、職員室のだれもに「見える仕事」については校務分掌で割り当てられ、それ以外の「だれもに見えているわけではないけれど大切な仕事」についてはすべてが〈隙間仕事〉になります。

例えば、校務パソコンのメンテナンス。これがシステム不良をおこしたら「おい、なんとかしろよ」の嵐になります。例えば、PTA懇親会の余興。多くの場合だれもやりたがらず、PTAの担当者ができそうな人に頭を下げてやってもらうということになります。こういうのが〈隙間仕事〉の代表です。

しかも、〈隙間仕事〉にはやりすぎてはいけないという特徴ももっています。欠勤した先生の代理に入るという学校を代表する〈隙間仕事〉がありますが、そこに自己顕示欲の強い先生が入ると、自分が得意の学習ゲームなんかで子どもたちを一気に惹き付けてしまい、もともとの担任が戻ってきたときにやりづらくなるなんてこともよく起こります。代理に入るということは、いつもの担任の授業を引き継いで淡々とやれる、その力量のある先生でないとほんとうはできない〈隙間仕事〉なのだということです。

〈隙間仕事〉が「おとな」にしかできないということはそういうことなのです。

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