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多様なジャンルの効用

5冊並行読みを続けているのは、なにも読書冊数を増やすことだけがねらいなのではない。

5冊の違ったジャンルの本を同時に読んでいると、今日書斎で読んだ学術書とベッドで読んだ小説が同じことを言っていたとか、今日トイレで読んだ文庫本と学校の空き時間で読んだ新書がまったく正反対のことを言っていたなんてことがよく起こる。そんなことが起こると、とたんに私の頭のなかが活性化する。「おいおい、これはこの世界の真理なんじゃないか」「おやおや、これはどちらも正しく思われるけれど、まったくベクトルが違うじゃないか」といったことを考えながら、私のなかに新たな課題意識が産まれる。この瞬間がたまらない。

1週間に三つ程度は課題意識が産まれ、月に二つ程度は自分の研究コンテンツになるほどの大きな問題意識が産まれる。この悦びと言おうか旨みと言おうか、これが日常になってしまったらもうやめられない。5冊並行読みの一番の利点はここにある。

もう一つ、私の読書生活におけるモットーに「教師が書いた教育書、つまり実践書を読まない」ということが挙げられる。教師の書いた本を読むと、どうしても思考のステージ(読みながら考えるときの視野)が狭くなる。教育について教育の事例によって考えるという悪弊に陥る。私はこれが大嫌いである。
  もう少しわかりやすく例を挙げてみよう。例えば先日、私は斎藤環を読んでいて次の論述に出会った。

日本文化は、きわめてハードで保守的な「深層」と、きわめて流動的で変化しやすい「表層」の二重構造を持っている。日本人はあらゆる外来文化をまず表層で受けとめ、その影響を吸収しながら表層は次々と変化していく。結果的に、あまりに受容的かつ柔軟な「表層」は、外来文化から「深層」を守るためのバリアーとしても機能する。こうして「(表層が)変われば変わるほど(深層は)変わらない」という形で日本文化は維持されていく。〈『世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析』 斎藤環・角川書店・2012.06.29・p102-103〉

こんな論述には、教師の書いた文章ではまず絶対に出会えない(1970年代までの教師の著作なら出会うことができた)。しかし、この論述から教育について考えられることの多さは計り知れない。「流動的な表層」と「ハードで保守的な深層」との狭間で機能し得なかった教育改革のいかに多かったことか。ここ20年間で考えても、新学力観・ゆとり教育・総合的な学習の時間・選択履修枠の拡大・学校選択制・教員評価制度……数え上げたらキリがない。そしてこの斎藤環の論理から考え得る教育論のいかに多いことか。その広がりと深まりは教師の書いた教育書などを読んでいては絶対に到達し得ない。

私が「教師の書いた教育書を読まない」と豪語するのは、例えば一例を挙げるならこういうことなのだ。

教育とはいかなるジャンルも包含することのできる、よく言えば懐の広い、悪く言えば主体性のないナンデモアリの領域である。しかし、そこを逆手に取るなら、実は夜の中にある多様な領域世界の論述をなんでも取り込めることをも意味しているのである。とするなら、他領域の論述を教育に当て嵌めて考えてみることで、教育に関する新しい見方、新しい分析を試みるチャンスは無限に広がるということでもある。教育について某かを考え、某かを表現しようとするのならば、教育書ばかりに目を向けていてはいけないのである。

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