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老いたから遊ばなくなるのではない 遊ばなくなるから老いるのだ

〈遊び〉とはフィールドワークなのではないか。私はそんなふうに感じています。

年齢を重ねて職場と家庭にしかフィールドがないという人をよく見かけます。でも私はそう言う人を見ると、なにか大切なものを見失っているなと感じます。そう思われる側から見れば余計なお世話でしょうけど(笑)。

アガサ・クリスティが女性の自立に必要なのは夢中になれる仕事と鍵の掛かる部屋という名言を残していますが、私もまたこの「鍵の掛かる部屋」という概念がとても大切だと思うのです。職場と家庭だけをフィールドにしていると、一人になれる場所というのがなくなります。私は職場にも自宅にも一人で黙考・熟考できる場所をもっています。学校では4Fの教育相談室という部屋であり自宅では書斎です。他にも何時間でも一人で本を読んでいられる喫茶店やだれにも話しかけられることなく一人で静かに飲めるバー、天気の良い日に昼寝をしたり熟考したりするための川の土手、札幌近郊の町に出向いて五○○円で入浴できる町営温泉でだらりとするなんていう時間もあります。こうした時間は私の仕事を間違いなく充実させています。

なかでもここ数年、私は特別な場所を得ました。実は自宅から高速を飛ばして四十分ほどのところに既にもうだれも住んでいない実家があるのです。父親は数年前に亡くなり、母親は既に施設に入所していますから、行けば何時間でも一人でいられます。ここでは家族とはなんぞやということを何時間も考えるのを常としています。狭い家のあちらこちらに親父やお袋の幻影を見ながら、ああ、あのとき親父がここでこう言ったっけ…、ああ、あのときこちらに歩きながら母がこんなことを言ったな…と何時間でも退屈せずに過ごせるのです。家族論は教育論との親和性の高い領域です。こうした思考が仕事に活きないわけがありません。

もう一つ、小学校三年九月から中学校一年九月まで四年間を過ごした、札幌市真駒内南町にある真駒内中央公園が私のお気に入りの場所です。ここでも私は一人で何時間でも退屈せずに過ごすことができます。九歳から十三歳までを過ごした場所ですから、この公園には想い出がいっぱいあります。まだ三十代の親父とキャッチボールをしたり、友達と川遊びをしたり、当時流行していたゲイラカイトという凧を上げたり……。中央公園を歩き回っていると十代前半の自分が甦ってきます。ああ、いつもこの木に登っていたとか、ああ、この銅像の台にいつも座っていたなとか、ああ、この小さな川を走り幅跳びの要領で飛び越えていたっけとか……。こんな思考も仕事に活きないわけがありません。

〈創造性〉とはなにか新しいもの、この世になかったものを発見するということではありません。自分のなかに確かにあったに違いないのだけれど、自分では意識していなかったもの、自分にはこれまで見えていなかったもの、そういうものたちが何らかの触媒を契機に自分のなかから引き出されてくる、そんな営みなのです。「鍵の掛かる部屋」、即ち一人でいる時間はそういった触媒との出会いを促します。周りに他人がいて自由の利かない状態では決して見つけられない、そういった発見をもたらします。

「鍵の掛かる部屋」で見つけた視点をもって、私は次の日に仕事に行きます。すると昨日実家で思いついた観点が、昨日中央公園で見つけた観点が、職場で起こる些末な事柄に先週とは違った解釈を与えてくれます。それが毎日の職場を、なんでもない日常を〈フィールドワーク〉にしてしまうコツなのだと私は感じています。先週も一週間をともに過ごした子どもたちが、先週も雑談を交わしたはずの同僚が、まったく違った子どもたちや同僚に見えてくるのです。

バーナード・ショーに「老いたから遊ばなくなるのではない。遊ばなくなるから老いるのだ」(We don't stop playing because we grow old, we grow old because we stop playing.)と言う格言があります。私はこの格言が大好きです。人は年齢を重ねると一般に遊ばなくなっていきます。私も本書第二章で述べたように、自分のために時間を使うのではなく、他人のために時間を使うことこそが一般に〈成熟〉を意味しますから、それは当然のことと言えます。自分のためにしか時間と労力を使わない人間を私たちは成熟した人間とは呼びません。しかし、自分のために使うに時間を皆無にしてしまってもまたいけないのです。それは自分を失うことであって、それもまた〈成熟〉と呼ぶには相応しくない在り方なのです。

自分ために遊ぶ。夢中になって遊ぶ。「鍵の掛かる部屋」で自分だけの思索の時間をもつ。ときにはそういう時間があるからこそ、人はバランス感覚を身につけ、他人のために時間と労力を費やすことを厭わなくなるのではないでしょうか。これを自覚しない人は早く老いてしまうのだと私は思います。

もう一度繰り返します。

老いたから遊ばなくなるのではありません。遊ばなくなるから老いるのです。

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