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習熟三段階(言語知識→言語技術→言語技能)を意識する

言語技術教育を実践している教師によく見られるのが、ある技術を一度指導しただけで事足れりとしてしまう傾向です。言語技術に限らず、「技術」と呼ばれるすべてのものは一度指導した程度で身に付くような簡単なものではありません。習熟するために何度も何度も繰り返し練習して次第にそれが少しずつ少しずつ定着していく、そういうものです。野球選手が素振りを繰り返したり、武道で型を重んじたりということを思い浮かべれば容易にイメージできるはずです。

言語技術も同じです。一度指導したくらいで子どもたちに身に付くと考えるのは浅はかです。繰り返し繰り返し、すべての子に定着するまでしつこくしつこく指導し続けなければなりません。スキル指導だからと決して安易に考えてはいけないのです。これが言語技術教育の一つの側面です。

実は、言語技術教育にはもう一つ、大切な側面があります。それは誤解を怖れずにいうなら、言語技術は所詮技術に過ぎない、ということです。「こういう場合はこういうふうに表現するといいよ」「こういう場合にはこんなふうに考えると理解しやすいよ」という言語活動における一般論を、言語技術という大仰な言葉で呼んでいるに過ぎないのです。たかが技術、たかが一般論ですから、どんな子でも練習を重ねることで身に付けることができます。ただ定着するまでの時間が早いか遅いかの違いがあるだけです。

ですから、私たちは教師として、「あの子はいつまでたってもできない」とか「あの子はセンスがない」とか言って諦めてはいけません。言葉が話せて字が書けさえすれば、言語技術は繰り返しによって必ず身につきます。この観点も言語技術教育を考えるうえで大切な大切な要素なのです。

言語技術に限らず、「技術」と呼ばれるものはすべて、その技術を知っていることには何の価値もなく、その技術を使えるようになって初めて価値をもつという特質をもっています。つまり、言語技術は「覚えてナンボ」のものではなく、「使えてナンボ」のものなのです。ですから、言語技術教育における私たちの目的は、子どもたちが言語技術を〈使える〉状態になるまで高めることです。しかも、できれば国語の授業で使えるだけではなく他教科の授業でも、そして日常生活においても使えるようにすることが目指されなくてはなりません。つまり、すべての言語技術をすべての子どもたちがいかなる場面でも使えるようになること、それが言語技術教育の究極の目的なのだということになるでしょう。

しかし、これはもちろん、現実的には大変に難しいことです。ほとんど不可能と言っても良いかもしれません。言うは易く行うは難し……その代表ともいえる教育の理想像です。しかし、これを目指し、これに挑むことこそが教師の仕事なのであり、これを諦め、これに挑まないところには新しい提案は出てきません。私たち教師はそれがどんなに不可能に見えたとしても、この理想を捨てるべきではありません。

では、子どもたちは、言語技術をどのような段階を経て身に付けていくのでしょうか。これをもう少し具体的に、詳しく見ていくことにしましょう。

子どもたちが言語技術を身に付ける、つまり言語技術を〈使える〉ようになるためには、まずはそういう言語技術があるのだということを知ることから始まります。例えば、作文において効果的に比喩を使うためには「比喩」という概念を知らなくては使えないでしょう。また、「設疑法」という言語技術があることを知識としてもっていないと、多くの論説文が冒頭で読者に問いを投げかけ、それに応える形で論を進めていく構成をとっていることにはなかなか気づけないものです。ましてや、自分で意見文や主張文を書くときにこの構成を用いることなどほとんどあり得ないでしょう。従って言語技術教育は、まずは何を措いても言語表現に効果をもたらす技術に関する〈知識〉をもたせることから始まります。この言語技術に関する〈知識〉をもつ段階、まだうまくは使えないけれど、その言語技術が言語表現に効果をもたらすということを知っている状態、この状態を私は「言語知識」の段階と呼んでいます。

そういう言語技術があるという〈知識〉をもつと、その後にその言語知識を〈意識しながら使ってみる〉という段階があります。これを「言語技術」の段階といいます。例えば、スピーチをするときに、「よし!ナンバリングとラベリングを使って、聞き手にわかりやすく構成しよう」などと考えて、「ナンバリング」や「ラベリング」を意識的に使っている、そういう段階ですね。

ところが、技術というものは何度も何度も使い慣れ習熟していくうちに、意識しなくても使えるようになっていきます。野球の素振りでも武道の型でも、何度も何度も反復することによってそれと意識しなくてもできるようになろうとしているわけですよね。言語技術もこれと同じです。「ナンバリング」や「ラベリング」にしても、最初は意識しながら使わないと使えないという状態が続きますが、常に意識しながら使っているとそういう話し方が当然のことになってきて、最終的には意識しなくても使えるという状態になるのです。実生活上でも「技術に習熟する」「技術が血肉化する」「技術が溶ける」などいろいろな言い方をされますが、一般に意識しなくても使えるようになっている技術のことを〈技能〉と呼びます。そこで、言語技術教育でもこの段階に至ったとき、私は「言語技能」の段階と呼ぶことにしています。

要するに、いわゆる言語技術には「言語知識→言語技術→言語技能」という習熟三段階があるのだいうことです。言語技術教育に取り組もうとするとき、この習熟三段階を意識しておくことは、教師が授業を行ううえでかなり大きな効果をもたらします(『絶対評価の国語科テスト改革・20の提案』堀裕嗣・明治図書)。

第一に、子どもたちの言語技術の定着度を見取る基準になるということです。レディネスをはかるときに、「言語知識の段階」にさえ至っていない、ということがよくあります。例えば、入学したての中学一年生に「比喩って知ってる?」と訊くと、多くの子どもたちが「知ってる知ってる」「小学校で習った」と答えます。しかし、実際の文章の中で比喩を指摘させようとしてみると、ほとんどの子ができせん。言語知識は名称とその概念とをセットで理解しないと〈知識〉とはいえませんから、実はこういう場合には子どもたちにレディネスがない状態、つまり一度もその技術を習っていないのと同じ状態であると考えるべきなのです。

同じように、子どもたちは「ナンバリング」と「ラベリング」については概ね「言語技術の段階」にまで来ているな、あとは体験をどんどん積ませるだけだな……と考えながらも、ただしこの子とこの子は「ラベリング」についていまひとつ理解していないようだから機会を見て個別指導をしなくちゃな……などという基準にもなります。つまり習熟三段階は、集団を見取る基準にも個人を見取る基準にも使える、便利なものさしになるわけです。

第二に、言語技術の系統性に従って、子どもたちへの習熟度・定着度の目標を設定するのに役立つということです。本書第二章から一一○の言語技術を紹介していきますが、実はこれらの言語技術には、定着させやすい技術と定着させにくい技術とがあります。定着させにくい技術については、その子たちを担任するたった一年間の指導で「言語技能の段階」にまで高めようとするのには無理があります。定着させやすいものは「言語技能の段階」まで、定着しにくいものは「言語技術の段階」まで……というように、教師が指導の目標段階を設定することが必要になるわけです。

また、「設疑法」や「視点」「語り手」のように脳みそをフル回転させることによって思考させるタイプの言語技術、つまり、プロの書き手でさえ意識的に使っているようなタイプの言語技術もあります。こうしたものであれば、意識しながら的確に使いこなせる「言語技術の段階」が到達目標になるでしょう。

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