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思考と創造

国語科が「言語の教育」と規定されたのは一九七○年代である。既に五十年が経過しようとしている。なのにいまだに(いや、もしかしたらいまだからこそなのかもしれない)、言語を道具だと考えているあさはかな教師が多い。言語とは「思考」そのものである。言語教育とは思考の教育である。国語科が「言語の教育」というのは、国語科が「思考の教育」であることに他ならない。

思考は母国語に規定される。思考どころか、認知・認識自体が母国語に規定される。日本人には犬の鳴き声は「ワンワン」と表現され、多くの日本人が犬の鳴き声を「ワンワン」と聞いている。それは喃語としてさえ機能し、「あっ、ワンワンだ」と言葉を覚えたての幼児が犬を指さして叫ぶほどに馴染み深い語である。しかし、犬の鳴き声はよく知られるように、英語圏では「バウワウ」と表現される。フランス語なら「ウアウア」、中国語なら「ウーウー」、スペイン語なら「グゥアウグゥアウ」、ドイツ語なら「ワウワウ」……というように、それぞれの人がそれぞれの母語に応じた犬の鳴き声をもっている。この鳴き声の表現の違いは、それぞれの母語に応じて異なったイメージの犬の観念を形づくっているはずである。

また、英語ではタコとエイを併せた「デビル・フィッシュ」という概念があるが、日本語にはこの概念がない。日本人にとってはタコはタコ、エイはエイだ。この概念をもつ文化圏ともたない文化圏で海洋生物に対する分類認知が異なるであろうことは想像に難くない。私たちは文末を聞き終えるまで発話の意味が肯定を意味するのか否定を意味するのかがわからない言語文化圏で育ってきた。その成文構造は私たちの思想形成と無関係ではないはずだ。主語の次に述語が来る、術語以前に肯定否定を明らかにする成文構造をもつ言語文化圏の人々と、コミュニケーションの在り方が同じであるはずがない。

外国語との比較ではわかりにくいというなら、国内の方言の違いを考えてみるとよい。特に関西弁を考えるとみるとわかりやすいだろう。関西弁が関西文化圏のあの独特の雰囲気をつくっているのはほぼ間違いないと感じられるのではないだろうか。人間関係のつくり方から空気の読み方、なにをおもしろいと思うかに至るまで、関西人の認知・認識は関東圏のそれとは明らかに異なる。加えて関西以外の人たちが上京したとき、自らの出身地の方言を極力控えて標準語に近い話し方をしようと意図するのに対し、関西人だけが東京においても関西弁で強弁するあの在り方が、関西弁を用いてきた文化圏としての生育環境と無関係とはとても思われないはずである。

思考は母国語(母語)に規定されているのである。

更に言うなら、言語の機能は思考だけではない。言語は新たな意味をつくり出すことがある。いわば「創造」の機能をもつ。

例えば、「鏡」を思い浮かべていただきたい。次に「蛇」を思い浮かべていただきたい。双方ともに生活経験から簡単に思い浮かべることができるはずだ。では、次である。「鏡蛇」というものを思い浮かべてみよう。いかがだろうか。全身鏡張りの蛇が思い浮かびはしないか。それも「鏡」や「蛇」を思い浮かべたときと同様の簡単なイメージ化によって。もちろん、この世に「鏡蛇」なるものは存在しない。しかし、世に存在しないものを、私たちは言葉を用いることによっていとも簡単に頭のなかに生成してしまう。もしも言葉がなかったらとしたら、私たちにこの機能はない。たとえ鏡を見ることができ、蛇を認識することができたとしても、そこに「鏡」という語と「蛇」という語がなかったならば、その概念をもたなかったならば、この世に存在しない「鏡蛇」を思い浮かべることは不可能だったはずなのだ。これが最も基礎的な言語の創造機能である。

かつてコレステロールは健康を害するものとのみ規定されていた。後に善玉コレステロールが発見され、これがないと健康を維持できないとされるようになった。「コレステロール」という語に新たな側面が発見されたのだ。このどちらかというネガティヴな語に「善玉」「悪玉」とつけてみる。すると新たな側面が創造される。こんな実験をしてみよう。例えば「善玉ストレス」と「悪玉ストレス」。例えば「善玉リスク」と「悪玉リスク」、「善玉インフレ」と「悪玉インフレ」などなど……。いかがだろうか。これらの概念を考えてみると、「ストレス」や「リスク」や「インフレ」という語について自分がもともと抱いていたイメージに対して広がりや深まりが出て気はしないだろうか。「創造」とは内田樹の定義に従えば、自分がインプットした覚えのないアイディアが自らのなかからアウトプットされることである。「善玉」「悪玉」という冠語を施すだけでその体験が自覚されないか。これも言語の創造機能の一つだ。

例えば、私はこの文章を書くにあたって、何を書くかを事前に決めていたわけではない。ただ第一文である「知識と思考は異なる。」という文を打ってみた。すると、「『吾輩は猫である』は……」という段落がすらすらと私のなかから出てきた。「知識」と「思考」の差異を自分が説明するならこんな具体例かなというものが私のなかから湧き上がってきたのである。その後、「思考」について語っているとき、私のなかに「創造」について語る後半は想定されていなかった。「思考」について語っているうちに「思考」だけでは物足りない、「創造」についても語るべきだろうとする表現の核ともいうべきものが生まれてきたのである。これも言語の創造機能の一つである。

言語を道具と考えるものは、表現者にまず表現したいことがしっかりと存在し、それを的確かつ適切に表現するために構成や修辞が用いられるという順番で考える。しかし、そういう人とて、しっかりとプロットを立てて書き始めた文章のはずだったのに、出来上がった文章はまったくプロットとは異なるものに仕上がったという経験が一度や二度ではないはずだ。それは言語に創造機能があるからなのである。言語は使っているうちに思考を伴う。言葉による思考はそれまで自分が考えたこともなかったことを産み出す。しかもその瞬間瞬間に創造していく。そういうものなのだ。

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