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これからの二十年は四十代にかかっている

ある介護関係の仕事に就いている友人からこんな話を聞いたことがあります。

介護施設の職員があまりに老人がわがままを言うのでたしなめたところ、その老人が人格を否定するようなことを言い返してきた。そこで堪忍袋の緒が切れて殴りつけてしまったというのです。周りの職員が止めに入り、そんなことをしてはいけない、我慢しなければいけないと説得したところ、その職員がこう言ったというのです。

「オレはこれを我慢しなければならないほどの給料をもらっていない」

周りの人たちはそれを聞いて言葉を失ったともいいます。おそらくこの論理に対抗できる論理を周りの人たちもまた持たなかったのでしょう。さもありなんという気がします。

これは消費者マインドと消費者マインドがまともに対峙した事例といえます。介護される側の老人の方は自分はサービスを受ける側だからと自分の要求を訴える。自分は金を払ったのだから欲求を満たされる権利がある。だから自分がサービスの受け手として最大限のサービスを受けられるように、要するに利益を最大限にしようとする。消費者としては当然の権利を主張しているのだ。そういう論理でわがままを言います。

これに対して供給側が私はこれこれの金額によってこれこれという労働力を売っているに過ぎない。あなたの要求はそれを超えている。だからできない。それでもうるさく言うのなら、私はもう我慢しない。ふざけるな。つまり、私は外で消費者となるために一定の契約で限られた労働を売っているに過ぎない。従ってオーバーアチーブはしない。そう言っているわけです。これは権利者と権利者の闘いであり、消費者と消費者の闘いです。しかも本来は供給側の立場まで消費者として要求をし始めたわけですから、これに業界の論理(ここでいえば介護業界の法理や慣習)で対抗しようとしても無駄という他はありません。だって辞めることを前提に捨て身で自分が消費者だと訴えているわけですから。

市場経済の論理と市場経済の論理が交渉して決裂したら、もう永久に決裂するしかありません。

「いやいやそれでは高すぎる」
「いやいやこれ以上は勉強できません」
「そうですか、それでは今回の話はなかったということで」
「そうですね。残念ですが、そういうことにしましょう」

ということで供給側は顧客リストからはずし、需要側は二度とその営業とは会わない。そういうことになるのは必然です。今後両者が再び交渉することがあるとすれば、供給側が倒産しそうになって、藁をもすがる思いで少しでも可能性があればとかつて決裂した顧客にダメ元で営業をかけるときくらいでしょう。しかし介護施設に雇われる介護職員にそんな状況の訪れるはずはありません。もう生涯の決裂は決定的なのです。

私は教師の賃金がこれ以上カットされれば、同じ論理で過度な要求をする子どもや保護者を殴りつけ、「私はこれを我慢しなければならないほどの給料をもらっていない」という教員が出るのではないかとびくびくしています。或いは賃金がそのままであったとしても、子どもや保護者側の消費者マインドがいま以上に肥大して、同じように「もう辞~めた」と言い出す教員が量産されるのではないかとおろおろしています。

だってこの一か月を就労し続けるか否かによって退職金が百万円違うということになったとき、けっこうな人数の教員が早期退職を選んだのですから。そしてそれ以上に、その早期退職を選んだ教員たちに対して世論もマスコミも批判の声を上げられなかったのですから。つまりはこれは、教員だって労働者であり百万円の損をしてまで我慢して働く必要はないという論理を世間が肯定したことを意味するわけですから。

現在の四十代は、景気の良い時代を知っているバブル世代である四十代後半と、就職氷河期の始まるルサンチマン第一世代である四十代前半とが混在しています。混沌とした四十代、前後半で断絶する四十代でもあります。

しかしあの八○年代がつくり上げた消費者マインドだけは、四十代前半も後半も深く内面化しています。少なくとも後続世代よりは物欲に取り憑かれている世代です。おそらく私達の後続世代は四十代に比べてかなり慎ましやかで現実的です。それなのに私たちがこれから二十年近くにわたって学校運営の、もっと広く言うならこの社会の政策決定の主導権を握ろうとしています。この二○一○年代から二○二○年代にかけてはそういう時代なのです。

私は本書を通じて、どちらかというと消費者マインドによる市場経済的な発想で学校教育を考えるのではなく、これから「人の上に立つ」のだからもう少し共同生を大切にしませんかという論調で発言してきたつもりです。だって私たちは団塊世代が大嫌いではありませんか。団塊世代が自分勝手で不勉強でいつも得してると思って生きてきましたよね。後続世代に僕らはそう思われたくないな…とは思いませんか(笑)。

それを実現するか否かは私も含めて、これから二十年近くにわたる四十代の動きにかかっているのだと言って過言ではありません。私たち一人ひとりの自覚が学校教育を良い方向にも悪い方向にも向けてしまうのかもしれない、そんな意識をもつべきときが図らずも来てしまっているのです。

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