若手実践者のものの見方を学ぶ
同じことが教育書のライター、つまり実践者にも言えます。
現在、若い世代(さすがに二十代はあまりいませんが)の著作が次々に刊行されています。大型書店の教育書コーナーに行くと若い世代の著作であふれています。私もそのなかの何割かには目を通していますが、正直、玉石混交の感は否めません。
しかし、文学や学術とは異なり、教育実践者の論理には「時代を語る」という視点は欠落しているのが一般的です。学校教育における時代認識というのは教育史と密接に関係しており、若い世代(これは四十代も含めてです)には書きにくいという特徴があります。その意味では、若い世代の書き手から年長者が何かを学ぼうとする場合、教育書においては目的的な観点が必要になります。
前節において、私は「人は年齢を重ねるとともに、年上の人が減り年下の人が増えます」と述べましたが、実は年齢を重ねることにはもう一つ、見過ごしてならない大きな特徴があります。それは年齢重ねるとともに未来が減って過去が多くなるということです。これまたなにを当然のことを…と思われるかもしれません。しかし、この視点はものを考えるときにはかなり有効な視点です。「未来」という言葉を使うとき、四十代は教育を論じるなら今後二十年を、人生を論じるなら今後四十年をしか考えません。しかし、二十代なら教育を論じるなら今後四十年を、人生を論じるなら今後六十年を想定するのです。この違いには計り知れないものがあります。
例えば、二○六○年という年はここ五年ほど、子どもの将来を論じるうえで一つの鍵として機能する年になっています。それは国立社会保障・人口問題研究所が今後の出生率の変容予測をもとに二○六○年までの人口分布の予測を発表したことによります。それを見ると、二○六○年の日本の人口は八六○○万人、うち三五○○万人が六十五歳以上の高齢者になると推計されています。現在は二○一○年のデータで総人口が一億二八○五万六千人、高齢者が二九四八万四千人ですから、パーセンテージ比較すると高齢者は現在の二三・○パーセントから四○・七パーセントまで上昇することになります。ちなみに二○六○年の六十五歳は二○一五年現在二十歳の人たちです。
私は一九六六年生まれですから、二○六○年の日本について我が事として真剣に考えようとはどうしても思いません。自分がこの年まで生きている可能性は、少なくとも現在の私のなかではゼロなのです。しかし、現在の二十代、三十代にとってはまだまだ生きている可能性の高い年です。自分が老齢になったとき、この国はどんなカタチをしているのだろうか、少しでも社会に興味を抱いている人ならばそのくらいのことは考えるはずです。私だって二○五○年なら考えなくもありません。
さて、若い世代の著作を読んでいて注目すべきは、その世代の人たちがこれからの学校教育の在り方を、或いは子どもたちの将来像をどのように見ているかということです。私は本屋に行ったとき、立ち読みしながらこの学校教育の将来像、子どもたちの未来像を論述の軸に据えている若手の著作は買うことにしています。それがどれだけ奇想天外であったとしても、少なくとも本を著す程度の教師が自分の持てる能力を駆使して描いた未来像であるわけですから、それは「読む価値があり」と判断します。そこには私の世代では思いもつかないような予測が述べられているかもしれません。しかし、現在の実践のなかからちょっとした思いつきを並べているに過ぎないと見れば、そこに千数百円を支払うことを惜しみます。
要するに私は、若い世代の「ものの見方」を学ぼうとしているのであって、教育手法を学ぼうとは思っていないわけですね。しかし、新世代の「ものの見方」を学ぶことを、私は旧世代(自分よりも年長の論者たち)の「ものの見方」を学ぶことよりも優先順位としては高く位置づけています。それは前節で述べたのと同じように、その世代よりも更に若い世代を相手に仕事をしている身としては当然ことだと考えているからなのです。
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