知識と思考
知識と思考は異なる。
「吾輩は猫である」は夏目漱石の作品である。これは知識を伝える言葉だ。しかし、夏目漱石は理性と自然における「自然の優位性」をさまざまな作品を通して描いた。こう言えば、思考を喚起する言葉となる。前者を語る教師が多いなか、後者のような語りのできる教師が必要である。しかも、ここで大事なのは、訊かれれば具体例をたくさん挙げられる、そういう知性だ。
「吾輩は猫である」が漱石の作品であることは、「吾輩は猫である」を読んでいなくても語れる。漱石が「自然の優位性」をさまざまな作品を通して描いたことも、なにかから聞きかじれば語ることができる。しかし、その具体例を語るということになると、それは漱石の作品を多数読んでいないと語れない。しかも、それを自らの言葉で聴く者にわかりやすく伝えるとなると、多数の作品を読んでいるだけではだめで、それが自分のなかに溶けていなくてはならない。つまり、充分に咀嚼され、充分に消化され、充分に吸収されていなければならない。更に言えば、語るのに不必要な要素については排泄されている必要もある。そこまで語り手のなかに肉体化されているようなことでなければ、実は思考を喚起する言葉など語れないのだ。
例えば、「自然の優位性」をテーマにもつ漱石の代表的な作品の一つに「それから」がある。「それから」を具体例に「自然の優位性」を語るとしよう。これが肉体化されるほどに自らのなかに溶けている語り手には、高等遊民の未熟な論理性を理解するような経験がなくては難しい。また、社会批判を主とするそうした未熟な論理性を凌駕するような、人生を変えるような恋愛に陥ったことがあればなお良いだろう。更には不倫経験をもっていたなら、しかもそれが相手の配偶者にばれてしまい、その葛藤に悩み抜いた経験をもっていたなら、なおさら深く肉体化されるかもしれない。そしてそういう人物の語りが説得力をもち、聴く者の思考を喚起するのは、その語り手に我が事として自分なりに思考した経験があるからである。そうした経験こそがこの具体例を自らのなかに溶解させ、肉体化させることになる。言葉によって他者に思考を喚起しようとすれば、経験によって俗に言う魂の載った言葉を語ることが最も機能的である。
しかし、この論理は破綻している。不倫経験を思考させるには不倫経験をもっていなければならないとしたら、殺人を思考させるには殺人の経験をもたねばならず、死生観を思考させるには死の経験が不可欠とならざるを得ない。こうなってしまうと、死生観を語る資格をもつ者が世の中にいなくなってしまう。
人は自分の死を経験できない。しかし、自分の死が他人に与える影響を想像することはできる。それが自分の死の意味であると考えることもできる。それは自分の身内、或いは自分の身近な人の死が自分に与えた影響から想像するからだ。そうした人を亡くしたとき、人はこれまで当然のようにそこにいたはずの人を失う。自分の周り、自分の世界を構成していた重要なものを一つなくす。世界がいびつになる。なにかほかのもので埋めることは不可能である。ただそのいびつな世界に慣れるしかない。そして数年経つといつしかそのいびつな世界が普通の世界に、つまり日常となる。
また、そうした人を亡くしたとき、人はその人の人生とはいかなるものであったのかと考える。その人と共有した時間をすべて想い出しながら、あの言葉はこういう意味だったのではないか、あの表情はこういう意図だったのではないか、あの行動はあの言葉とつながっていたのではなかったかと思いを馳せる。その人のことばかり考える時間が数日、数週間、数ヶ月……場合によっては数年間続く。そんな時間が、人に死と人生の関係を思考させる。そんな時間が人に死生観をつくる。
本気で「殺したい!」と思ったことのある人間は、実際に殺してしまった人を見聞きする度に、その人と自分との分岐点はどこにあったのかと考えずにいられない。そしてその差は強度の理性や強力な意志などではなく、もしかしたらそこに包丁がなかったことかもしれない、もしかしたら介護を要する母親がいたことかもしれない、もしかしたら明日友達とランチの約束をしていたことかもしれない、もしかしたら……と考えざるを得なくなる。ほんのちょっとした違いかもしれないというところに思いが至ったとき、自分のなかにも殺人者となるかもしれぬ可能性が垣間見えてくる。結果、殺人者という存在の業について思考することになる。自分のなかの闇の部分に恐怖せざるを得なくなる。
こういう経験をしたとき、人は姿勢を語る言葉、殺人を語る言葉に魂を載せることができるようになる。そう。思考を喚起させる言葉を持ち得るのは、自ら思考した経験のある者だけなのだ。思考した経験をもつからこそ、その具体例も生々しく語ることができるのだ。自らのなかに肉体化しているとはそうした状態を指す。
ある種の挫折が、ある種の失敗が、ある種の失恋が、ある種の喪失が、総じてネガティヴな経験がときに人を大きく成長させる所以がここにある。そうした人々は魂を載せて語る言葉をもつに至る。必ずしも他人に語るとは限らない。自分に対してこういうことなのだと語る、その決意とともに生きる姿勢が変わることもある。いずれにせよ、そこには魂を載せた自分だけの言葉が形づくられている。幸福は「いまの肯定」を前提とするが、ネガティヴな経験は思考を伴うのだ。
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