はじまる…
2010年代がまた心理主義の時代であることがそろそろ鮮明になって来たように思う。00年代は社会学の10年だったし、90年代は心理学の10年だった。戦後、ほぼ10年周期で実存主義的な時代と現象学的な時代とが綱引きを繰り返している。
実存主義的な時代とは基本的に「自分から見た世界観」を肯定する人たちが世論や言論界を制す時代である。現象学的な時代とは基本的に「自分から見た世界観」を括弧に括って「自分に見えていない世界」を追究する人が世論や言論界を制す時代である。
90年代はまさしく心理主義に席巻された時代だった。トラウマ、自分探し、癒し、エヴァンゲリヲン…。そこには自らの弱さを肯定し、他人の痛みを理解しようという心性が流行する。そうした心理主義への反動が00年代には社会学の流行を産み出した。文化的にはバトルロワイヤル、デス・ノート、リアル鬼ごっこに顕著なように、自分の弱さを肯定しているだけでは搾取される、闘うしかない、という心性が流行した。そこにあったのは自分の視座を括弧に括って世界を俯瞰しようという視座だったように思う。言うまでもなく、こうした視座は...現象学的還元や構造主義と親和性をもつ。
おそらく現在、そうした心性の流行に疲れた者たちが再び癒しを求め始めている。90年代との違いは、90年代の心理主義の視線が自分に向いていたのに対し、10年代の心理主義の視線は他者との共生に向いている点だろう。でも、他者との広く浅いコミュニケーションに自己の規定を求めるのは危険すぎる。他者への信頼が裏切られ、深く傷つく人をたくさん出すだろう。おそらく20年代にはまた現象学的な時代が来るわけだが、90年代の「自分がわからない」と10年代の「他人がわからない」を経て創出される現象学的視線はこれまでで最も厳しいものになっていくに違いない。
言うまでもなく、教育は実存主義的な視座と親和性がある。90年代は新学力観とゆとり教育に沸いた10年間だった。現在も同じ雰囲気が生成されつつある。でも、きっとあと5、6年だ。5、6年経ったら、また教育が冬の時代を迎えるに違いない。いま、熱狂できるこの時期になにを、どこまで進めることができるか、注目すべき5年間が始まっていると僕は見ている。
ただし、現在、さまざまな提案をしている人たちが50前後の人たちであり、青春期を構造主義的機運のなかで過ごした人たちであることは知っておいたほうがいい。「自分に見えている世界観」を括弧に括って考えられる人たちが新しい提案をしているということを。ほとんどの提案がその根に80年代の構造主義的発想をもっている。俯瞰する視座をもつが故にそうでない裏側を隠しながら口あたりの良い言説を展開できる、そういう構造がある。
| 固定リンク
「今日のひとこと」カテゴリの記事
この記事へのコメントは終了しました。
コメント