教師冥利に尽きる遊びを想定する
私の教え子に水尻健太郎という男がいます。新採用から三年間の教え子ですから、平成十五年二月現在で三十六歳。教え子と言ってもいい大人です。実はこの水尻健太郎がすすきので小さなバーを経営しています。私はすすきのに行くたびに最後はこのバーに行って水尻とああでもないこうでもないと会話を愉しむことを常としています。朝方まで営業しているバーなので、帰宅が五時くらいになることも珍しくありません。
私の教え子に長麻美という女の子がいます。これまた新採用から三年間の教え子ですから、水尻と同い年です。札幌で小学校の教師をしています。担任したことはなく、授業でさえ一度ももったことがない教え子なのですが、演劇部で三年間指導した生徒なので、担任していた子どもたち以上に共有した時間は長かった生徒です。彼女は三十代も半ばを過ぎたいまでも舞台に立ち続けています。私にとって彼女の舞台を観に行くことは人生の楽しみの一つです。年に数回程度、彼女と呑みに行くこともあります。演劇論から教育論議まで話題も合いますから、ほんとうに楽しい時間を過ごすことができます。
さて、教え子を二人紹介しました。私がここで言いたいのは、教師という職業が時を隔てると教え子さえ遊び相手にしてしまう職業なのだということです。しかも単純に楽しむためだけの遊び相手ではありません。教え子はいまでこそ教室と家庭と地域だけを世界観にして生きていますが、将来はひとりの大人として、それもちゃんと自分の世界をもった一個の人間として目の前に現れるのです。かつては教師として自分がいろいろなことを教え、いろんなことを考えさせ、いろんなことを体験させた子どもたちが、いまは教師である自分と対等に話し、議論し、自分の知らないことをたくさん学ばせてくれる存在になるのです。こうした遊びは同じ遊びでも「教師冥利に尽きる遊び」と言えるのではないでしょうか。
こういう遊びを覚えて、私はいま目の前にいる子どもたち、いま担当している子どもたちに対する〈見る眼〉が変わりました。ああ、この子たちは数年後、自分に学びをもたらしてくれるのかもしれない。そう考えると、一人ひとりの子どもたちに対しても、手を抜けないなという気になるものです。
もちろん、教師は子どもたちから学ぶと言われます。子どもの反応から、子どもの在り方から教師は多くを学びます。しかし、それはあくまで〈教師としての学び〉です。私がいま言っているのは、教え子が将来、自分に〈人としての学び〉〈人間としての学び〉をもたらす存在になっていくのだということです。そしてそれを「教師冥利に尽きる遊び方」だと言っているわけです。
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