言語感覚を醸成する体験を積ませる
現行の指導要領に「伝統的な言語文化」が位置づけられました。中でも古典の音朗読、つまり「声に出して読むこと」が強調されました。さて、みなさんは古典を音読させる場合、どのような学習活動を組むでしょうか。おそらく、範読の後に追い読み、一斉音読を繰り返し、グループごとに朗読させたり群読させたりといったところが一般的なところではないかと思います。
しかし、ここで考えてみていただきたいのです。古典の音読が重視されるのはなぜなのでしょうか。古典を音読することによって何が身に付くのでしょうか。言い換えるなら、古典を音読させることによって何をねらっているのでしょうか。古典の音読にはどのような効果があるのでしょうか。
私は古典を音読することの最大の効果は、日本語特有のリズムにあると考えています。七五調や五七調はもとより、七七を繰り返して韻律を整えたり漢文調のリズムで某かの上巻を訴えたり、古典の文体はその作品によってまず間違いなくリズムが調えられています。一方、現代でも読みやすい文章、なんとなく面白く読める文章には、共通してリズムが意識されているという特徴があります。スピーチでもテンポの良いリズミカルな話には惹き付けられます。講演の中にちょっとした標語風の五七五が入っていると、聞いている側はなんとなく楽しい気分になれます。読者のみなさんにも経験があるのではないでしょうか。綾小路きみまろの話芸などはその典型といえるでしょう。
リズムの整った文章、リズミカルな話には表現された内容に加えて、日本語としてのある種の美意識が付与されています。これはかつて、「言語教育・文学教育論争」において西尾実先生が強調された点でもあります。そうした日本語の美的感覚を体感しつつ、その美意識についても考える、古典の音朗読を通して「伝統的な言語文化」について学ぶということは、おそらくそういうことなのです。
だとすれば、古典の音朗読にとって最も大切なのは、グループで朗読の仕方を考えたりどんな読み方が楽しいかということを考えること以上に、あくまでも個人で、古典作品を何度も何度も声に出して読むことです。声に出して繰り返し読むことによってしか、古典のリズムを〈体感〉することなどできないからです。従って、古典を音読する授業において何よりも大切なのは、数多く読ませるということになるわけです。
私は古典教材の授業を行うたびに、「平家物語」冒頭や「春はあけぼの」など暗唱する価値のある教材については暗唱テストを、暗唱する価値のない教材については音読テストを実施しています。暗唱テストにしても音読テストにしても、一人ずつ教卓に出て古典教材を題材としたテストを受けます。双方とも読み間違えてはダメ、一秒以上の間を空けてもダメ、句読点以外のところで間をおいてもダメ、読み間違えたり詰まったりしてもダメという厳しさです。
特に音読テストの対象となる教材は、例えば「平家物語」であれば「扇の的」や「敦盛の最期」(教育出版教科書の場合)になるわけですから、教科書で2~4頁のかなり長い文章です。これを一度も読み間違わず、詰まらず、一定のスピードで読み切ることを強いるわけですね。子どもたちは何度も何度も練習してきます。休み時間に練習している子も少なくありません。しかし、読みの練習を繰り返すと、どの子も必ず最後まで読み切れるようになります。
この音読テストの良さは、子どもたちが少なくとも五十回程度は音読を繰り返すことにあります。それも子どもたちの練習の仕方を見ていると、最初から声に出して読み始めて、一度詰まっては最初に戻り、もう一度詰まっては最初に戻り、という練習の仕方をしています。これが古典のリズムに必然的に慣れさせるという効果をもっています。私の受け持っている子どもたちは、中学2年生くらいになると、どの子もほぼ例外なく初めて読む古典作品であっても古典のリズムで読むようになります。「古典のリズムを〈体感〉する」とは、このレベルのことをいうのです。
もちろんグループ朗読や群読を否定しているのではありません。そういう指導以上に、あくまで子どもたち個々がリズムを〈体感〉することのほうが優先順位が高いのだと主張しているだけです。指導時数に余裕があるならば、朗読や群読を取り入れて、豊かな表現活動をも志向すべきでしょう。
また、「言語感覚の体感」には次のような作文の例もあります。
みなさんの学級に、作文を書かせると主述が乱れてしまう子がいないでしょうか。「ぼくは昨日、お母さんがお弁当をつくって、梶くんと学校に二人で来たときに、遠足に行きました。」のような文ですね。
こうした文はなぜできてしまうのでしょうか。実はその答えは簡単なのです。一文が長いから、それだけです。こういう文を子どもたちが書かなくなるようにするには、一文を短くさせ、「一つの文では一つのことしか言わない」という指導をすれば良いのです。つまり、「お母さんがお弁当をつくりました。」「梶くんと二人で学校に来ました。」「昨日は遠足に行きました。」という三つの文に分けて書くように指導するのです。これは一般に「一文一義」(『論理的思考』宇佐美寛・メヂカルフレンド社)と呼ばれています。
「一文一義」のような文章を書くうえでの感覚的なものは、一度指導した程度ではほとんど身につきません。しつこくしつこく指導し続け、しかも「一文一義」に留意して書き続けるという体験が必要です。私はすべての国語の授業で最後に二○○字短作文を課すことにしているのですが、私の経験からいうと、それだけ書かせて全員が「一文一義」ができるようになるのに、中学一年生で三ヶ月くらいかかります。それも「一文を短くするんだよ」「一文一義だよ」と毎時間毎時間言い続けてそのくらいかかるのです。こういった指導事項も、何も考えなくても「一文一義」を基本として文章を綴れるようになるまで〈体感〉させることが大事なのです。もちろん、夏休み明けや冬休み明けなどには再度、念入りに指導する必要も出て来ます。二年間程度、機会を見ては指導し続けることによって、やっとほぼ全員に近い子どもたちに定着するようになります。
さて、このように、古典の「韻律」とか作文における「一文一義」とか、こうした言語感覚的な指導事項は「教える」とか「伝える」とかいうものではなく「体感させるもの」であり、学級の雰囲気として「醸成するもの」です。そのためにはその指導事項を意識させながら「あびるほど読ませる」とか、「あびるほど書かせる」とか、要するに「あびるほど体験させる」ということが必要なのです。
このような指導事項の代表が「音読」と「作文」、そして「話し合い」(意見交流)です。この三つに関しては、「音読とはこうするものだ」「作文とはこう書くものだ」「話し合いとはこうやるものだ」という「取り立て指導」(例えば音読なら音読を目的に取り立てて行う授業)も大切ですが、年に何度かそんな授業をしたとしてもまず子どもたちに定着することはありません。そうした年に数回の「取り立て指導」により大きな効果をもたせるために、毎日、毎時間、日常的にあびるほど体験させておくことが必要なのです。あびるほど体験しているからこそ、年に数回の「取り立て指導」も子どもたちにとって効果が出てくるのです。
みなさんの授業には、「音読」「作文」「話し合い」がしっかりと位置づいているでしょうか。私の授業にはほぼすべての時間にこの三つがあります。もちろん題材によってもう少し複雑ではあるのですが、授業の基本パターンとしては、①音読する、②指導事項を説明する、③個人作業をする、④小集団で意見を交流する、⑤意見を二○○字作文にまとめる、この五段階です。みなさんも、「音読」「作文」「話し合い」の三つをすべての授業に必ず位置づける、そう決意し実行してみませんか。授業も、そして授業の効果も劇的に変わっていくことを保障します。
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