コスパを考えない
若い人たちの間で「コスパ」という言葉が流行っています。コストパフォーマンスの略語ですから、要は〈費用対効果〉のことです。
学校の先生も仕事ですから、〈費用対効果〉を考えることは大切なことです。何時間でもかけて、どんな重労働でも厭(いと)わず、必要なときには自腹を切って……というような仕事の仕方では長く続きません。それは確かです。
しかし、「コスパ」という言葉には、自分の時間を費やし、自分の労力を費やし、自分の金銭を費やしたなりの効果が、自分自身にどのくらい還ってくるかという意味合いがあります。これを学校教育にあてはめるのは、やはりいかがなものかと思います。
学校教育は教師の身になること、教師が成長すること、教師が自己実現することを目的としているのではありません。結果として教師がいい思いをすることも、教師が力量を高めることも、教師が自分の教師人生に満足することも、あくまで子どもたちの成長を介して獲得されるものでなければなりません。学校教育における「コスパ」を考えるならば、自分に還ってくることではなく、子どもにとってどんな成果が得られたかで考えるべきでしょう。つまり、学校教育で〈費用対効果〉を考えるのならば、教師の費やした時間や労力に対して、子どもたちにどんな効果があったかという枠組みで考えるべきなのではないでしょうか。
しかし、若い教師には、自分の施した指導にどのような成果があったのか、子どもの成長を見取る視座がまだまだありません。自分の施した指導に成果があったとしても、その分別のところでマイナスが生じているということが学校ではよく見られますが、それを把握する力もありません。そもそもそういうバランス感覚自体をもっていなくて、「あれども見えず」になってしまうのがむしろ普通です。
私は思うのです。学校教育で「コスパ」を考えるのは個人のであるべきではないのではないか、と。職員室全体で考えるものではないのか、と。例えば、ある行事に対して新しいアイディアが生まれたとします。準備には例年より時間がかかる、多くの先生方に労力を費やすことを強いることになる、どうやら学校予算も大きく浸食してしまうようだ、こうしたときに、さてこれだけのコストをかけてまで成果が得られる改革なのかと考える、学校教育ではこういう場合にのみ、コストパフォーマンスというものが問題になる、そう感じるのです。
私の言いたいことがおわかりでしょうか。まあ、口を悪く言えば、
「おまえらがコスパなんて考えんのは十年早えんだよ!」
ということになりましょうか(笑)。
〈費用対効果〉を考えるのは学校全体を動かすような仕事をするようになってからのことです。それまでは、学級経営にしても、授業づくりにしても、生徒指導にしても、行事への取り組みにしても、学級通信の作成や学級事務においてさえ、すべてが勉強なのだと謙虚に構えるべきなのです。そもそも生徒指導や不登校対応において、〈費用対効果〉を考えて仕事にあたるなどということが可能なのでしょうか。そんなことを考えていては、「ああ、先生はめんどくさがっている……」と子どもに伝わってしまいかねません。
確かになんでもかんでも全力でやっていては躰がきついこともあるでしょう。研究授業の指導案をつくっていれば、これで終わりというラインがないことにも気づきますから、やればキリがないという気持ちもわかります。しかし、そういう取り組みをしてみない限りは、いつまで経っても「ここが落としどころかな」というラインは見えてこないのではないでしょうか。
あんなに言って聞かせたのにこの子はまたこんなことをして……。この間あんなに泣いて反省したのはなんだったんだ……。子どもにはそういうことも確かにあります。しかし、それでも信じて時間と労力をかける、私たちはそういう仕事に就いているのです。
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