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日々発信の原理

自分の日常を発信型にすること──これが毎日の仕事を充実させるための最良の方法です。

自分の生活を発信型にすると必然的に受信が充実します。

例えば、毎日学級通信で子どもたちのエピソードを二つずつ紹介すると決めたとします。すると、学級を通信のネタが何かないかという目で見るようになります。最初は「これは!」という大きなエピソードばかりに目が向きがちですが、慣れてくると子どもの何気ないやりとりに実は大きな価値があることに気づかされたり、一度も通信にエピソードを書くことができないでいた子を集中して見ているうちにその子の意外な一面を発見したり、といった副産物が生まれ始めます。こうなるとしめたものです。子どもを見る目が急激に養われてきます。

何気ない、小さなエピソードを価値づける担任の目をどう表現するか、そんなことも考え始めます。その積み重ねが子どもに対する教師の指導言をも変えていきます。小さなことをしっかりと褒めることができるようになりますし、小さなことが後に大きなことにつながる可能性があるのだということを子どもに対する戒めとして語れるようになっていきます。要するに、子どもを見る技能が高まるだけでなく、子ども観、つまり「子どもを認識する目」が変わるのです。

古くから教師の力量形成に研究授業をたくさんすることが奨励されるのも同じ理由です。四月に、今年の十一月に「ごんぎつね」で研究授業をすることに決まったとしましょう。このとき、過去の指導案を一つ手に入れてそれをそのまま追試するなんていう教師はほとんどいません(皆無ではありません・笑)。本屋で「ごんぎつね」に関する本を一冊だけ買ってその通りに追試するなんていう教師もまずいません(こちらは皆無です。本屋に行く時点で指導案追試の人よりもはるかに前向きな人ですから・笑)。

たいていの場合、過去の指導案をいくつか手に入れ、「ごんぎつね」関連の書籍を三冊くらいは買うのではないでしょうか。そしてそれらを読み比べることで、自分はどんな「ごんきがつね」の授業をしたいのか、それはなぜなのか、それを実現するにはそれまでにどんな指導をしておかなければならないのか、そんなことを考えるはずです。そんななかで、物語の授業って子どもがどんな状態になれば成功したって言えるんだろうとか、そもそも物語って何のために勉強するんだろうとか、国語の授業って何のためにあるんだろうとか、さまざまな〈メタレベルの問い〉がもたげてきます。要するに、授業づくりの技能が高まるだけでなく、授業観、つまり「授業を認識する目」が備わっていくのです。

私は二十八歳で雑誌原稿を書くようになりました。三十歳の頃にほぼ毎月原稿依頼をいただくようになりました。三十二歳のときには、毎月、三~五本の原稿を寄稿するようになっていました。三十四歳のときには、三十歳のときに依頼された処女作を出版しました。あれこれ悩み、あれこれ考え、依頼を受けてから四年かかって上梓したのです。私はノリにまかせて簡単に書くのも、自分で納得できないものが自分の処女作になるのも絶対にいやでした。そのこだわりをしてまあ及第点かなと思われるものを書き上げるのに要した歳月が四年だったのです。その後、単著・編著をあわせて四十冊以上の著書を書いていますが、こうした執筆生活を送っていることで、私の教育観、つまり「教育を認識する目」はどんどん変化してきているのです。

発信型の生活に身を置くことは、実は受信を充実させるだけでなく、世界観、つまり「世界を認識する目」を高めることなのです。

いま、ブログやSNSで発信する教師がたくさんいます。ただ、ネット上で発信している若い教師を見ていて、私が違和感を抱くのは練られていない文章ばかりが羅列されていることです。垂れ流すように文章がアップされているのですが、どれもワンエピソードで分析がないもの、今日体験したちょっといい話的なものが多いのです。この手のものをいくら書いたとしても、実は発信型の生活に身を置くことにはなりません。

御多分に漏れず、私もブログやSNSに頻繁に発信し続けている教師の一人ですが、私はつれづれなるままに綴った文章をネット上に上げることはありません。一度も推敲していない文章をネット上に上げることもしません。もっと言うなら、最低限、教育雑誌に寄稿しても良いようなレベルだと自分でなさっとくできる文章しかネット上に上げないのです。ネット上にアップする小さな文章でさえ、一つのまとまりをもつ見解を述べているのです。

両者の違いを侮ってはなりません。前者は自分の感覚にこだわり続けることを前提とした自己満足的な投稿であり、後者は日々の世界観拡大に向けての意図的な営みなのです。「発信型の生活に身を置く」とはそういうことなのです。表現には必ず「相手意識」があります。「目的意識」もあります。「条件意識」や「方法意識」や「評価意識」もあります。これらがすべて揃った表現をすることだけが、「発信」の名に値するのです。だれに読まれることを想定もせずにただ漠然と書く、構成意識をもつことなくただつれづれに書く、書いたら書きっぱなしで自己評価することもない、こういう表現は自らの「世界観」に影響を与える表現にはなり得ないのです。

最後に、もう一度繰り返します。自分の日常を発信型にすること─これが毎日の仕事を充実させるための最良の方法なのです。

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