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遊びのなかで他者を学びの対象とする

ある年、勤務校のPTAの広報誌のインタビューに応えたことがあります。「好きなものはなんですか?」と問われたので、「金曜の夜と土曜の朝」と応えました。これがずいぶんとウケました。当時三年生を担任していたのですが、PTA会長から一年生の知らない生徒まで私を見つけては笑顔で話しかけてきました。かつて「土曜の夜と日曜の朝」という映画があって、私としてはそれをもじって遊んだだけだったのですが、これがこんなにもウケるということは、PTA会長も生徒たちもこの映画を知らないのだなあ…と淋しい想いを感じた次第です。

さて、私は金曜日の夜は徹底して遊ぶことにしています。私は週末に講演ツアーに出ることも多く地元にいないことも少なくないのですが、たとえ地元にいようと出先にいようと金曜の夜は仕事のことを一切忘れてただただ遊ぶことにしています。それもその日のうちに床に就くということがないほどに遊びます。明るくなりかけた頃に帰宅するなんていうこともしょっちゅうです。次の日にセミナー等の予定がなければ、まず間違いなく朝方の五時、六時まで遊んでいます。

毎週金曜日に呑みに出掛けるわけですが、一人で呑みに出るということは皆無です。必ずだれかと一緒です。大人数で飲みに出掛けるということもほとんどありません。多くはだれかと一緒に二人。多くて四人までです。私の遊びはどうしても識見を広げるということをゆる~くとはいえ意識していますから、一人の人の話をじっくりと聞くということになるのです。大人数の呑み会の雰囲気が私はあまり好きではありません。軽く意味のない話で盛り上がり続けるということを私は好みません。ですから職場の呑み会も最後まで全体に付き合うのは学年の飲み会くらいで、その他は二次会からだれかを誘って二人で離れてしまいます。歓迎会や忘年会など職員室全員の呑み会も同様で、二次会からは全体から離れます。こういう癖があるので、結果として、私はどの学校に行っても、いつのまにか職員室の多くの人たちと二人でじっくりと呑みながら語ったことがある……という人間になっています。

行ったことのない店を開拓することにも割と熱心です。しかも自分の行きつけの店にだれかを連れて行くのではなく、一緒に呑むそのだれかの行きつけの店に連れて行ってもらうことが多いです。馴染みの店に連れて行ってもらうとその人がどんな店を好むのかが分かりますし、自分の知っている店も広がっていきます。しかも自分では絶対に行かないようなタイプの店も知ることになりますから、大袈裟に言えば社会勉強にもなるわけです。

金曜日は遊ぶと私が決めたのは、四十代の前半だったと思います。それはちょうど『学級経営10の原理・100の原則』(学事出版)を上梓して、公務以外の仕事が一気に増えた頃と時期を同じくしています。それまでの私の生活はほとんど家に閉じこもり、書斎で本を読んだり原稿を書いたり音楽を聴いたりというものでした。夏休み・冬休みもほとんどが書斎に閉じ籠もっていました。たくさんの原稿を書くにあたって、少し一般感覚を身につけなくちゃいけないな……と感じたことがきっかけなのです。もちろん一般感覚とは金曜日の夜に朝方まで飲むことではありません。そういうなかで人の話を聞いたり、人の紹介する店に行ってみたり、世の中で旨いと言われるものを食べたり、そういうことですね。その意味で、私は特定の遊び友達というものを持っていません。

子どもの頃、重要なことは遊びのなかで学んだとだれもが感じているはずです。大人になると、しかも教師になると、みんな遊び方がおとなしくなります。しかし、子どもの頃と同様、遊びのなかには重要なことがたくさん散りばめられています。人の感じ方、サービス業の構造、そして世の人々の嗜好……。水商売の経営者は一般的な教師の知り得ないことをいっぱい知っていますし、酒や食材の微妙な味わいの違いには子どもたちの微妙な味わいの違いに通ずるものがあります。読書やセミナーはもちろん、セミナー後の同業者の懇親会だけが学びの場ではないという感性だけは持ち続けたいものです。

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