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世代的バイアスを意識する

人は年齢を重ねるとともに、年上の人が減り年下の人が増えます。なにを当たり前のことを…と思われる向きもあるかもしれませんが、人は年齢を重ねるとこの当然の原理を忘れます。城重幸やロスジェネ世代論者に見られるような「被害者の立場」の論述が出て、初めて年長者は「うるせえなあ」「めんどくせえなあ」と重い腰を上げ始めます。この国に巣くうメンタリティの最悪の構図の一つです。

人は年上の人間を尊重し年下の人間をなめてかかります。教師ばかりでなく、子どもたちを見ていてもその傾向がありますから、これは世代を超えた普遍的な構造です。しかし、必ずしも年長者が後続の人たちよりも優れているということはありません。これも同じように普遍的な構造なのです。どの世代にも東大生がいて、どの世代からも総理大臣が出るように、どの世代にも優秀な教師は出現するし、優秀でない教師は存在します。

例えば、あなたが若い頃から現在まで、無類の音楽好きだったとします。中学生・高校生の頃はなにか新しいミュージシャンがいないかとアンテナを張り巡らしていました。しかし、三十代になり四十代になったいま、青春期に好きだったミュージシャンの新譜は追うものの、若い世代のミュージシャンを追うことはない。そんなふうになっていないでしょうか。

例えば、あなたが若い頃から現在まで、無類の小説好きだったとしましょう。高校・大学、二十代あたりまでは芥川賞作品は必ず目を通すことにしていた。でも、三十代になった頃からどうも芥川賞作品に共感できないことが多くなってきた。そんなふうになってないでしょうか。具体的な例を挙げるなら、あたなは二○○四年に芥川賞を獲った綿谷りさの『蹴りたい背中』と金原ひとみの『蛇にピアス』を本気で読みましたか。私は綿谷りさの『インストール』という作品は文学史に残る名作だと考えています。

もう一つ例を挙げましょう。

宮台真司という社会学者がいます。九○年代に活躍した、読者に社会学という学問にフィールドワークのイメージを植え付けた社会学者です。『制服少女たちの選択』(講談社)を初めとする著作で援助交際ブームを巻き起こしたあの社会学者ですね。オウム真理教事件を契機に時代の機運を分析した『終わりなき日常を生きろ』(筑摩書房)は時代のキーワードにもなりました。現在の四十代は割と夢中になって読んだ方が多いはずです。

しかし、鈴木謙介はどうでしょうか。二○○五年に三十そこそこで『カーニヴァル化する社会』(講談社現代新書)という傑作を著した社会学者です。古市憲寿はどうでしょうか。二○一一年に『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社)で各社の成人の日の社説を批判し、二○一二年の成人の日の社説の論調を変えさせてしまった新進気鋭です。彼は一九八五年生まれですから、『絶望の国の…』は二十代半ばの著作ということになります。私は『カーニヴァル化する社会』も『絶望の国の幸福な若者たち』も、少なくとも出版時においては教師にとっては必読書であったと感じています。

そろそろ私の言いたいことがおわかりでしょうか。

言うまでもなく、人は年齢を重ねるとともに年上が減り年下が増えるわけですが、それとともに目を通す論者の数も減っていく傾向があるのです。しかも私たち教師は時代の風を胸いっぱいに浴びている子どもたちを毎日相手にしているにもかかわらず、その時代の風を受けて登場した若手論者の見解に興味を抱かない傾向があるのです。これは果たして、より良い教師の姿勢と言えるでしょうか。

教師は若い世代の論者からこそ意識的に学ぶべき職業なのです。次々に現れる後続世代から学び続けなければ、実は子ども理解などできないのです。同じような世代の論者、自分よりも年上の論者の著作ばかりを読んで「なるほどいまはそういう時代だ」とほくそ笑む視線にはかなりのバイアスがかかっていると自覚しなければなりません。四十代になると、人はどんどん視野が狭くなります。その自覚をもつことこそが必要なのです。

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