音読・黙読
〈音読〉は一般に活動概念と思われていますが、そうでない側面もあります。それは〈表現としての音読〉と〈理解としての音読〉があるからです。〈表現としての音読〉の技術は本書第七章で詳述しますが、よりよい音読表現(限りなく朗読に近づく)を目指すものです。これに対して〈理解としての音読〉は語単位・文節単位・句単位・文単位で文章内容を把握するために行うものであり、単元初発で行われる〈音読〉は基本的にこの〈理解としての音読〉です。いかなる文章読解も語、文節、句、文といったことばの単位レベルで内容を把握しなければ成立しません。その意味で、説明的文章に限らず、すべての「読むこと」の指導においては最初に最低でも五回程度、できれば十回程度の音読機会を保障することが大切です。
実生活で行われる読みは〈黙読〉であり、〈音読〉は一部の読み聞かせ等を除けば実生活ではあり得ない読みであるとして、一部に〈音読指導〉を批判する向きがありますが、〈黙読〉時においても頭のなかでは音声化されているのが〈黙読〉の本質であり、また、実際の授業では子どもたちに声を出させ、〈音読〉させなければことばの単位レベルのつまずきを教師が把握できない現実もあるため、〈音読〉は授業において重視されるべきものと考えるのが一般的です。私は〈黙読指導〉の基礎として〈問いかけ読み〉をしています。四~六人グループで一人ずつ一文を音読しては、その文に「なぜ」をつけてグループで考えます。「雨が降っていた」と読んだら、「なぜ雨が降っていたのか」という問を立て、「この後に雨が降る必然性があるかもしれない」という確認をして次に進む、といった活動です。学年が上がると、これを文節単位、文単位に移行させて、一言一句を蔑ろにしない読みの在り方を目指すわけです。
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