前─知性的ななにか
実は、人が瞬時に「わかってしまう」のは、なにも機嫌ばかりではない。
話し手としての教師は説得力のある物言いを望む。自分の言葉の説得力を高めようと話し方に気をつけもする。しかし、水が高きから低きに流れるようななめらかな言葉、幾つもの根拠に支えられた論理的で明快な言葉ばかりが人を説得するわけではない。私たちは話し手が力強い声で物事を主張するとき、その主張の中身と同時に、その人がその主張を心から信じているのだということを感じる。話し手があちらに行ったりこちらに来たりといった話をするとき、ああも言えるしこうも言えるんだけど、私はこれを選びたいんだというとき、その人が戸惑いながらも悩んだ末にその選択肢を選んだ誠実さを同時に感じている。その誠実さを感じたことが、話は難しくてよくわからなかったけれど、この人なら大丈夫と説得されることも少なくない。説得力とはそういうものだ。
他人の背中からその人の状態を理解するにしても、他人の自信や誠実さに説得されてしまうにしても、そこには〈前─知性的ななにか〉がはたらいている。その人がなにをしているのか、その人がなにを主張したいのかという〈意味〉はわからなくても、その人が愛着を抱くべき対象であるか、その人が信頼に足る人物であるかはちゃんとわかってしまうのだ。人と人のコミュニケーションとはそういうものである。
赤坂真理がおもしろいことを言っている。
私は二○一一年度から文化学院という学校で教師をしてきた。大正時代からあった日本最古の共学校で、私が職を得た当時、高等学校相当の課程と専門学校相当の課程があった(高等課程は、学校の経営が変わったことにより二○一四年度から新規募集停止。残念でならない)。そこで感じてきたのは、高校生、おおむね十五歳から十七歳くらいまでのティーンエイジャーが、面白そうな大人(教師)を感知して寄っていく力の、すごさだ。
ほとんど動物的に、存在そのもので感知し、全身で、近くにいようとする。データなんて知らないし、恥も外聞もない。互いに何もしなくても、へらへらしていても、何かを全身で聴いている。彼らにとってはそれが、目に見えない必須物質を摂るような、それでこのさき生きていけるか決まるような、死活問題なのだと思った。
〈『愛と暴力の戦後とその後』赤坂真理・講談社現代新書〉
そう。子どもとはこういうものなのだ。私たちにも覚えがあるのではないだろうか。この人の言うことはついつい聞いてしまう、あの先生の言うことはついつい納得してしまうというとき、私たちは決してその人のコミュニケーションスキルや知性によって納得させられたわけではなかったはずなのだ。それを判断させるのは前─知性的な、ほとんど動物的な〈嗅覚〉に他ならない。そんな〈嗅覚〉をだれに教わるでもなく、既にもっていたはずなのだ。
教師が聞き手の場合も同様である。子どもたちが相談しようとする教師は、適切なアドバイスをくれる教師ではない。自分の話にとことん付き合ってくれる教師である。子どもの話の腰を折り、それはこうだ、あれはこうだとアドは椅子する教師に子どもたちは相談を持ちかけない。
オープン・クエスチョン流行りの昨今だが、「どういうこと?」「どんな気持ちだった?」「例えば?」と次々に訊いてくる教師も相談対象としては向かない。ただ「なるほど」とうなずいてくれ、自分が考えているときにはその間を共有してくれ、自分が戸惑いを吐露したときにはいっしょに戸惑ってくれる、そんな聞き手こそが最上の聞き手なのだ。
そうした相手の態度からこれまた前─知性的に理解されるのは、「私の時間をあなたにあげますよ」というメッセージである。これまた、老若男女、だれもが〈嗅覚〉としてもっているものに他ならない。
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