言語技術と言語感覚を分けて考える
一九九○年前後から国語科における言語技術教育の必要性が叫ばれ始めました。いわく「国語の授業は何を学んだのかわからない」、いわく「国語の授業には効用感がない」、いわく「国語の授業は気持ちが悪くなるほど気持ちが問われる」、いわく「国語の授業は文学性ばかりを追い求めて実用性がない」などなど……。以来四半世紀。いまでは多くの教科書や資料集・ワークの類に「文章構成」「問題提起」「ナンバリング」「ラベリング」といった用語が多く見られるようになりました。文学的文章を題材とした「読むこと」領域でさえ、「設定」や「視点」などの用語こそ使わないものの、教科書の学習の手引きに言語技術教育の視座が大きく取り入れられるようになっています。言語技術教育運動は成果を挙げたのだと言って良いでしょう。
時代は「ゆとり教育」から「学力向上」へ。これは、ある面で「情意の教育」から「実用の教育」へとシフトしたことを物語っています。この流れが言語技術教育への追い風となったことも確かでしょう。いわゆる「PISA型読解力」の流行も言語技術教育の普及と無縁ではありません。「言語活動」も間違いなく活動させっぱなしではなくしっかりとしたスキルをという視座を提示しています。総じて、時代は言語技術教育隆盛に向かっている、といっても過言ではないかもしれません。
しかし、一つの考え方が普及し定着してくると、なんでもかんでもそれで解決できる、これをやっていれば安心だ、そう考える人たちが現れてきます。そうした人たちがその考え方に対する「万能主義」を喧伝し始めます。そしてそれが更にその「万能主義」を普及させ、どんなに新しい考え方も、どんなに有効な考え方も形骸化されていくのです。言語技術教育もこの悪弊と無縁ではありません。いま国語科において、とにかく技術を教えればよいのだと考える人たちが一定程度現れてきています。その風潮に言語技術教育を強力に推進してきた研究者・実践家でさえ眉をひそめている現状があります。
国語科の授業に言語技術教育の観点が必要であることは言うを待ちません。しかし、勘違いして欲しくないのは、決して「言語技術」がイコール「国語学力」ではない、ということです。
ここではまず、新学習指導要領の教科目標を見てみましょう。
「国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成し、伝え合う力を高めるとともに、思考力や想像力を養い言語感覚を豊かにし(小学校では「養い」・筆者注)、国語に対する認識を深め国語を尊重する態度を育てる。」
学習指導要領の目標は前半部に能力の目標が、後半部に態度の目標が設定されています。つまり、能力目標として「適切な表現」「正確な理解」「伝え合う力」「思考力」「想像力」「言語感覚」が挙げられ、態度目標として「国語に対する認識」「国語を尊重する態度」が挙げられているわけです。
さて、この目標を達成するために、私たちは実際にどのように授業計画を立てたらよいのでしょうか。
私は先に「決して『言語技術』がイコール『国語学力』ではない」と述べました。では、「国語学力」と「言語技術」とはいったいどういう関係にあるのでしょうか。また、「言語技術」以外の「国語学力」にはどういったものがあるのでしょうか。これを考えるうえでは、学習指導要領の目標に見られる八つの学力のうち、どれとどれが「言語技術」に当たるのか、或いはどれが「言語技術教育」と親和性が高いのかと考えてみるとよいでしょう。つまり、①適切な表現、②正確な理解、③伝え合う力、④思考力、⑤想像力、⑥言語感覚、⑦国語に対する認識、⑧国語を尊重する態度のうち、どれとどれが言語技術教育として進めるのがふさわしいのか、一度そういう発想で考えてみるわけです。読者の皆さんも先を読むのをちょっとだけ休むことにして、自分の頭で、自分の感覚で考えてみてください。
いかがでしょうか。多くの人が「適切な表現」「正確な理解」「思考力」の三つに関しては、自信をもって「言語技術教育」と親和性が高いと感じたはずです。しかし、「想像力」や「言語感覚」「国語を尊重する態度」については、「言語技術教育」と呼ぶには少々違和感を抱くのではないでしょうか。また、「伝え合う力」「国語に対する認識」の二つも、確かに「言語技術」は大きく関与しているけれど決して技術だけじゃないよなあ……などと感じはしなかったでしょうか。こう推測しますがいかがでしょう。
学習指導要領の目標に対して、私が毎日授業を行ううえで考えている構造は次のようなものです。
国語学力には、まず第一として、「適切な表現」や「正確な理解」の要素を細分化して言語技術(=スキル)として身に付けさせるという側面があります。「適切な表現」や「正確な理解」は「論理的であること」(思考力)を評価観点とし、子どもたちにもこの構えをしっかりと意識させたうえで授業に取り組ませることが必要になります。このような考え方に基づいた授業の在り方を「言語技術教育」と呼びます。
第二に、国語学力には、何度も何度も取り組むことによって、体験的に、体感的に、長い時間をかけて、少しずつ少しずつ身に付けていくというタイプの学力があります。少しずつ身に付けていくというよりは、いろんな言語活動に取り組んでいるうちに気づいてみると身についていたと気づく、そういうタイプの学力です。言語表現における「正誤」「適否」「美醜」などに対する感覚や言語形象による「想像力」、言語を活用しての「創造力」がこれにあたります。こうした学力を育む言語教育を、「言語技術教育」に対置して私は「言語感覚教育」と呼んでいます。
この「言語技術」と「言語感覚」という二つの学力をスパイラルに向上させながら育んでいくタイプの国語学力が「伝え合う力」であり、「国語に対する認識」であり、国語学力の最高峰たる「国語を尊重する態度」である。少なくとも私はそう解釈しています。
もう少し具体的に見ていきましょう。説明的文章にしても文学的文章にしても、読むこと領域においてだれもが取り組む学習活動に音読があります。音読には、その場にいる人たちのだれもが聞き取れる音量で読むことや、声の大小・強弱・緩急によって強弱をつけること、適切な間をとって余韻を残すことなど、言語技術教育的な側面が確かにあります。しかし、音読指導において、このような技術を伝えてそれを使って読んでみろという指導は果たして効果的でしょうか。音読力というものは技術を伝えてスキル訓練型で指導するよりも、何度も何度も音読を繰り返す中で、体験的に、体感的に、時間をかけて指導していくというほうが現実的なのではないでしょうか。そうです。国語学力としての音読力は言語感覚教育的に指導していくほうが適しているタイプの学力なのです。
おそらくこれは、音読というものが、唯一絶対に正しい音読方法があるとは想定しづらいからだろうと思われます。プロの俳優がぼそぼそ読んでいるように聞こえるのに聞いている側は涙が止まらなくなるほど感動してしまう……、そういった事例は世の中にたくさんあります。音読表現では、言語表現としての「正誤」や「適否」の問題ばかりでなく、「美醜」の観点が大きく影響するからなのだろうと考えられます。
国語科の授業づくりでは、その日に扱う指導事項が論理的思考力に培うための言語技術教育的なベクトルをもつものなのか、それとも想像力や創造力、言語表現の美醜感覚に培うための言語感覚教育的なベクトルをもつものなのか、教師がはっきりと意識して臨むことが必要なのです。こうした意識をもつことは、あなたの国語科の授業づくりを革命的に変えてくれます。そう断言して決して過言ではありません。
| 固定リンク
「書斎日記」カテゴリの記事
- なぜ、堀先生はそんなに本をたくさん書けるんですか?(2015.11.22)
- 出会い(2015.10.28)
- 神は細部に宿る(2015.08.20)
- スクールカースト(2015.05.05)
- リーダー生徒がいない(2015.05.04)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント