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文学と批評と文学教育

この原稿を書いているのは二○一五年二月二日である。昨日、イスラム国に人質に取られていた後藤健二さんが殺され、マスコミもネット上も大騒ぎである。後藤さんの人生が至るところで紹介され、それに感動し、惜しい人を亡くした、貴い人を亡くした、イスラム国許し難しと、多くの人々が声高に叫んでいる。ネット上では、教師もまた、この事件を子どもたちにどのように語るべきか、この事件は日本の学校教育にとってどのような意味をもつのかと丁々発止である。

しかし、私はこの議論はこの事件の安直な消費であると感じている。後藤健二さんへの冒涜であるとさえ感じる。後藤さんの五感が感じ、後藤さんの心が見出したものは、我々ごときが感得できるものではあり得ないし、ましてや言葉になどできるはずもない。これらの反応は船長を裁こうと躍起になり、船長の主張にただ憤る人々と同じ場所に在る。後藤さんの心情も真意も私などには理解できるわけはないのだと認めながら、静かに冥福を祈るのが私たちにできるせいぜいである。

二十年近く前のことである。勤務校で生徒同士による喧嘩があった。怒りに怒った男子生徒が技術室から自転車のチェーンを持ち出し、相手を鞭打った。事は加害者も被害者もただでは済まない流血の大事件である。技術室の鍵をかけ忘れた技術科教師の責任問題にも発展した。その後、周りの生徒も職員室の教師も、加害生徒に対して「人間ではない」かのごとき眼差しを向けた。私はこのときも、「人間だもの、そういうこともあるよ」と感じていた。私は当時、加害生徒だけを悪人に仕立て、自らに巣くう原罪を意識することなく自らを正義の場にいると疑わない周りの人たちに対する猜疑と軽蔑の目を見向けざるをえなかった。これも周りが船長に憤り裁こうとする人間たちと同様に見えたのだ。

宮崎勤、酒鬼薔薇聖斗、宅間守、加藤智大……世間が怖れたおぞましい事件を起こした者たちに私は常に同じことを思い、その事件におぞましさを感じ、怖れる世間は常に船長を裁こうとする者たちと重なって見えた。私はなにも、犯罪者を肯定しようとか庇おうとかしているのではない。人間とはどうしようもないものであり、少なくともどうしようもない部分をもっており、自分だって状況と環境によっては彼らと同じ地点に立つことがあるやもしれぬという可能性を怖れる感性をもっているだけである。それを教えてくれたのは例えば武田泰淳の「ひかりごけ」であり、例えば梅崎春生の「櫻島」であり、例えば大岡昇平の「野火」であり、例えば野間宏の「暗い絵」である。戦後派作家は戦時に剥き出しになる人間のエゴ体験、人間の原罪体験を赤裸々に披瀝した。そこから敷衍して自らの暗部に想像を馳せたまでである。

実は、武田泰淳「ひかりごけ」の船長にはモデルがある。戦時中、羅臼で同じような事件が起こっているのだ。その人物は私の住む北海道で天寿を全うするまで生きた。北海道後志の岩内という町である。これは合田一道が十数年に及ぶ取材をもとに詳細に報告している事実だ(「裂けた岬─『ひかりごけ』事件の真相」恒友出版)。決して純粋なフィクションではないのである。こんなあり得ないような事件でさえ、人間は起こすのである。

文学とは人間に対する認知を広げ、認識を広げ、世界観を広げる媒材である。詳細な叙述も、描写も、比喩も、修辞も、構成も、そのために用いられる。しかもただ道具として用いられるのでなく、あり得ない世界観を描いているにもかかわらず、読んだその瞬間に読者を鷲づかみにし、放さず、あたかも我が事であるかのように読者と一体化することを目的として存在する。だからこそ、その完成度が問題となるのである。文学教育とはちょうどこれとは反対の道筋を通って、自らの世界観を広げていく営みを目指す。そのためにこそ自分とその作品との関わりを批評に託すのだ。作品を読んでカタルシスを得て楽しむなどという安直な消費とは一線を画するのだ。

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