« 遊びのなかで他者を学びの対象とする | トップページ | 言語技術と言語感覚を分けて考える »

物見遊山の原理

私は金曜の夜はとことん遊ぶことにしています。それも、とことん愉しむことにしています。公務はもちろん、原稿も研究会も忘れて次の日の予定も考えずに遊ぶことにしています。それも早くて三時、遅ければ五時くらいまで遊ぶことにしています。土曜が休みなら朝帰りも珍しくありません。土曜が埋まっている日でも、朝方三時、四時まで呑んで土曜の九時半から講演……なんていうこともはしょっちゅうです。こういう時間も、私にとっては「活きている時間」です。

年々こういう生活がきつくなっていくのは感じていますが、きついから遊ぶのをやめたら総体的にはもっときつくなるという感じがしています。老いたから遊ばなくなるのではない、遊ばないから老いるのだという先人の言葉を私は心から信じています。どうせあと十年もすれば遊びたくても遊べなくなるのです。そのときにもっと遊べば良かった、もっと愉しめば良かったと後悔だけはしたくありません。

「物見遊山」という言葉があります。物見と遊山ですから、見物がてら遊び歩くことを言うわけですが、もともと「山」とは山寺のことで、「遊山」とは僧が修行の後に他山に赴いて修行遍歴の旅をして更に自分を高めることを言いました。次第に山野の美しさを観賞することに転じ、それに「物見」がついて、一般に仕事や学業の気張らしに出かけることを意味するようになったという経緯があります。修行僧が他山で自分の識見を広め深めようとしたように、私たちも学校のなかばかりにいては成長しません。

私にはバーのマスターやママ、居酒屋のマスターやママといった知り合いがいっぱいいます。彼らと親の介護について交流したり、政治や経済について愚痴ったり、下ネタ話に興じたりなんていう時間がたくさんあります。毎月髪を切る間の床屋談義はとても勉強になりますし、居酒屋でたまたま隣り合わせたお客さんと話し込むなどということもしょっちゅうです。特に最近は、若い頃の教え子たちが四十に近くなり、いろいろな職種に就いています。ばりばり働いている年代ですから、呑みながら話をしていると私の知らない世界をいっぱい教えてくれますから、教え子ともよく呑みに行くようになりました。そして私にはこれらが明らかに自分の仕事に活きているという実感があるのです。

ふと気づいたとき、仕事だけの人間になっていませんか? 学校と家庭を往復するだけのふりこのような生活に陥っていませんか? 付き合うのは同業者だけなんていう狭い環境で活きていませんか? 子どもや同僚を忘れて愉しむ時間をちゃんともっていますか? 明日の仕事、来週の仕事が頭から離れないままに休日を過ごしていませんか? そもそも、ちゃんと寝てますか?次の日に前日の疲れはとれていますか? もしかしたら、あなたの仕事が充実しない理由の一つに、リフレッシュが足りないということがあるのではありませんか?

どうせ遊ぶのなら悔いの残らないように遊ぶ。明日があるしなあ……などと考えながら中途半端に遊ぶのではなく、開き直ってちゃんとしっかり遊ぶ。その方が長い目で見れば良いサイクルに繋がっていく。どうせ休むのならしっかりと休む。時間の無駄だとか、ちょっとでも何かしようとか、そんなことは一切考えない。開き直ってちゃんとしっかり休む。それが私の信条です。

そもそも自分に遊ぶことを抑制している教師に、遊びこそを本質とする子どもの教育、遊び疲れたら寝ることを本質とする子どもの教育などできるのでしょうか。若干屁理屈じみていることを承知のうえで、私はそう思うのです。たった七十年か八十年の人生です。私たちは確かに教師ではありますが、宗教家ではありません。よりよく生きることも大切ですが、とことん遊ぶ、とことん寝るということの愉しさを捨て去る必要はありません。教職を崇高なものと神聖化してはいけません。遊びには遊びの崇高があり、休養には休養の崇高さがあるのかもしれません。そしてきっと、遊び尽くしたからこそ理解できる神聖もあるに違いありません。そういう開き直りが人生を豊かにすることもあるに違いありません。私はそう思うのです。

かつて小田実は「何でも見てやろう」と言いました。寺山修司は「書を捨てて町に出よう」と言いました。大江健三郎は「見る前に跳べ」と言いました。しかし、こういった物言いは、ある種の逆説なのです。人間はすべてを見ることはできない。だからこそ何でも見てやろうという意識が必要なのだ。書には自分を形作ってくれる世界観が詰まっている。しかし、それだけに頼ると本の真意は理解できない。だから町にも出る必要がある。見ることはだれもがしている。人間はそれに囚われる。だから跳べない。でも、跳ばない人間には実は見ることもできないのだ。見ようとするな。跳ぼうとせよ。そこに自ずから見えてくるものがある。簡単に言えば、私は先人たちがこうした構造を言っているのだと理解しています。

「物見遊山」が否定的なニュアンスで使われるようになりました。しかし、仕事を充実させ、自らの生活を充実させようとすれば、「物見遊山」は必要なのです。メリハリのない生活のうえに仕事の充実などあり得ないのです。

ただし、必要なのはメリハリであって、人生そのものが遊んでばかりになってしまっていけません。あくまで遊びは主従の従です。遊びを主としている教師もごく少数ですが見受けられるので、私が言っているのはそれとは違うということだけは付け加えておきます(笑)。

|

« 遊びのなかで他者を学びの対象とする | トップページ | 言語技術と言語感覚を分けて考える »

書斎日記」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 物見遊山の原理:

« 遊びのなかで他者を学びの対象とする | トップページ | 言語技術と言語感覚を分けて考える »