関数としての仕事
〈六割主義〉はただ単純に六割しか力を出さないということではない。Aさんの六割とBさんの六割は異なる。六割とはあくまで力を発揮する本人の心の持ち様であって、六割の力でどの程度の仕事ができるかは、その人の自力に比例する。
二十の力量しかもっていない人の六割は十二である。しかし、四十の力量をもつ人の六割は二十四である。つまり、二十の力量しかもっていない人の全力投球をゆうに超えるのだ。五十の力量をもつ人の六割は三十、八十の力量なら四十八である。百なら六十、二百なら百二十だ。教師の力量には二十の人と二百の人がいるほどに差があるものだろうか。そう思うかもしれない。しかし、私は断言する。ある。私の目から見ると、十倍程度の力量差ならば、そのへんにごろごろしている。
実は私の言う〈六割主義〉には、仕事を六割の力でやりながら、結果として得た時間的の余裕と精神的な余裕を地力を高めることに費やさなければならないという裏の含意がある。目の前の仕事に追われ、それを〈十割主義〉で片付けているだけではなかなか地力は高まらない。それは日常に埋没することを意味するだけだ。
地力を高めるのに最も大切なことは、仕事をしている自分自身を引いた目で眺めてみることだ。自分が良かれと思って取り組んだことがマイナス事象を引き起こしていないか、自分が一生懸命取り組んだ仕事がだれかに迷惑をかけることになっていないか、そうしたことを虚心な目で点検する視座をもつのである。こうした視座は、忙しい自分に驕っていたり頑張っている自分に酔っていたりしたのでは、決してもつことができない。忙しい日常に流れるのではなく、日常を構成する一つ一つの出来事について、自分自身の目で見つめ、自分自身の手で触れ、自分自身の頭で考える、そういう習慣を身につけなければならないのだ。〈十割主義〉で仕事をしているとなかなかこの習慣が身につかない。
例えば、〈十割主義〉で仕事をしていると、それが成功すれば成功するほどその仕事のしかたに対する確信が強くなくなっていく。もしもその仕事のしかたによって周りに困っている人がいたとしてもそれが見えず、それどころかどんどんその仕事のしかたを加速させてしまう。巨視的な眼差し、遠くを見ようとする眼差しからどんどん離れていく。周りで困っている人たちを余計に困らせていることに本人だけが気づかない。こういう状態に陥ってしまう。
また、〈十割主義〉で仕事をしている人は、自分が年齢を重ねて体力的に衰えてきたときに、若い頃と同様の仕事のしかたができないことに忸怩たる思いを抱くことになる。思うとおりに仕事のできない自分が許せなくなる。結果、精神的に病んでいくことさえある。心の病で休職するベテランの多くが、若い頃にバリバリ仕事を身していた人が多いことは私が言うまでもなく、この世界の常識ではないか。張り詰めている人ほど、張り詰められないことに弱い傾向をもつのだ。
もしそうであるならば、仕事は〈六割主義〉でするものと腹を括り、三十の地力を五十に高めることによって、十八の仕事量を三十の仕事量に現実的に増やしていくという在り方のほうが機能的とは言えまいか。同じ〈六割主義〉でも、地力の高低によって仕事量は変わるのである。
人間の力量は変数であり、仕事とは関数なのである。
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