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「教え方」と「在り方」

「指導力不足教員」という言葉がある。子どもたちに授業をしたり、生活指導をしたりするスキルが足りないと目される教師に与えられる不名誉な称号である。

指導は言葉でなされる。だから「指導力不足教員」は教科の授業をするだけの知識が不足していたり、よりよく生きるべく在り方を語れないことが例として上げられる場合が多い。しかし、話し手の聞き手との間にある流動的な関係に頓着しない、ただ知識としての正しさや規範としての正しさだけに目を向ける言葉は本人の意図に反してその味わいをなくし、かえって乾いたものになっていく。

実は、教師に必要なのは子どもたちの知性にはたらきかける「指導力」以前に、子どもたちに前─知性的にはたらきかける「感化力」なのである。「感化力」を有する教師の言葉は説得力をもち、子どもたちを納得させる。反対に「感化力」のない教師が明快に正しさを語るとかえって反発を招く。「指導力」とはスキルなどではなく、もっとそれ以前の〈前─知性的ななにか〉なのだ。その〈なにか〉がないままにスキルだけを先行させると、それは自分では〈スキル〉を使っているように思っていながら、実は〈スキル〉に使われているという現象に陥ってしまう。

子どもたちも人間である。教師とは人間を相手にする商売である。とすれば、そこにあるコミュニケーションには〈スキル〉以前に、両者がともに感得する潤いある〈コンテクスト〉を必要とするのだ。

滔々としゃべることよりも、寄り道をしながら誠実に語ることのほうが説得力を生む。ともにもがき、ともに右往左往する時間を共有することのほうが納得を生む。人間関係にはそういうことが少なくない。いや、少なくないなどではなく、そちらのほうが多いくらいなのだ。ビジネスライクになめらかにしゃべることのほうが忌み嫌われ、傾聴しているよというわざとらしさにかえって馬鹿にされているような印象を抱かされる、そんなことが私たちの日常には多くはないか。

教師は「教え方」の〈スキル〉を身につける必要はもちろんある。しかし、「教え方」以上に問われるのは「在り方」なのである。

〈指導主義〉から〈感化主義〉へ考え方を改めるべし。〈感化〉あってこその〈指導〉であると心得るべし。このことを肝に銘ずれば、私たちの目も、自然に自分の「在り方」に向いていくはずである。

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