教養を志向する構え
教師には昔から、同業者の実践、同業者の理論からしか学ばないという悪弊がある。その実態は研究の名に値しない。こう現場の実践研究を皮肉り強烈に喝破したのは、いまは亡き香西秀信先生である。
言い得て妙だと思う。この言葉は以後、私に取り憑き、私を解放してくれない。各地域の官製研に群がる御用役人的な教師から自己顕示欲の強い民間教育畑の教師まで、この構造は変わらない。狭い世界の狭い狭い先行実践から見出した思いつきのアイディアを披瀝し合っている、というのが実態であり、しかもそこには盗作と搾取がはびこっている。
最近の教育界は、前にも増してこの悪弊が顕著になってきているように思う。各地域の官製研がかつてのような力を失い、各大学の附属学校がかつてのような魅力を失い、各大学の教員養成学部は実学に走り、教育書は看板に偽りありの人寄せタイトルの嵐、薄っぺらい内容を雨後の筍のように量産している。ちょっとした思いつき実践にちょっと囓った理屈をつけて垂れ流す○○セミナーという名の出店。その姿は神社のお祭りのテキ屋を彷彿させる。ここに群がるのもセミナーに参加し、他地域の同業者とつながることで学んだ気になっている「先生と呼ばれる馬鹿」たちである。量産される教育書も、数あるセミナーもなにも新しいものを産み出していない。まさに「同業者の実践、同業者の理論からしか学ばないという悪弊」を体現した、カタルシスの場と化している。
少々辛口に述べてきたけれど、私はこれだけの教育書が量産され、これだけ多くの教育実践セミナーが開催されていることに危惧を抱いている。それはまるで芸能人のライヴを見に行くような趣で教育書の著書に会いに行く、いわばかつてのAKB48のような手の届くアイドルのような形で消費されているように思えるからだ。果たして彼ら彼女らの教室の現実は、教育書を読んだりセミナーに参加することによって具体的な向上を示しているのだろうか。それが至極疑問なのだ。
時代はSNSの時代である。セミナーの写真もセミナー後の懇親会の写真もフェイスブックによくアップされている。その写真を見るとはなしに眺めていると、だれもかれもがどこかで見たことのある教師ばかりなのである。あの人のセミナーにもこの人のセミナーにも同じ参加者がいる。もちろん、さまざまな人から広く学ぶことは悪いことではない。しかし、週末ごとにセミナー通いをする人たちは、いったいいつ「自分の研究活動」をしているのだろうか。いったいいつ本を読んでいるのだろうか。「移動中」という答えが返ってきそうである。しかし、移動中にできる研究などたかが知れてるし、移動中に読める本などテレビにも似た読みやすいものでしかない。それは移動の多い私にはよくわかる。
彼ら彼女は研究をしていない。私には確信がある。少なくとも私の言う意味での研究はしていない。同業者の理論ともつかぬ理論を受信し、同業者の実践を摘み食いすることによってなんとか教室を綱渡りで運営しているだけである。
高みから発言ではばかられるが、私は仕事が早い方である。研究的な活動なら他を圧倒するくらいに早いはずである。本をかなりのスピードで読むことができるし、原稿も四百字詰め原稿用紙二百枚くらいならば一日で書き上げることができる。そんな私でも、週末とか、三連休とか、夏休み中の数日とか、そうしたまとまった時間でじっくりと思考する日を確保しなければ実践研究などできない。
そもそも彼ら彼女らは教育書以外の本を読んでいるのだろうか、という疑いがある。そして教育実践者以外のセミナーにも参加しているのだろうか、という疑いもある。彼らはいったい、同業者以外の主張にどれほど触れているのだろうか。もしかしたらほとんど触れていないのではあるまいか。そしてその姿勢は、教育界を教育界として捉えるのではなく、あくまで実社会に生きながら「学校」を特別な場所として認知している子どもや保護者の視線と齟齬を来さないのか。実は、いま、教師は「先生と呼ばれる馬鹿」にさえ至らない、閉じられに閉じられた世界で右往左往しているのではないか。
よく教育実践セミナーにQ&Aコーナーが設けられている。そこに出てくる質問の質の低さに辟易することがある。そこには、教職五年目という教師が新卒時代にクリアしていなければならないような基礎的な教育技術を知らなかったり、教育基本法や学校教育法で定められていることを知らなかったり、文科省の出している各種教育用語の定義を知らなかったりということが平然と起こっている。これらは学校現場で普通に仕事をしていれば職員室で話題になるような事象である。もしかしたら彼ら彼女らは職員室からさえ遊離しているのではないか、とついつい疑いたくなる。
先生と、呼ばれるほどの、馬鹿でなし。
この諺は、教師方は周りから「先生、先生」と呼ばれて良い気分になっているけれど、呼ぶ側は敬意を込めて言っているわけではない、と教師を揶揄した言葉である。そこには「先生」なんて呼ばれているけれど、教師が知っている程度のことは教養ある人間ならばだれでも知っているよという含意がある。教師の住む世界が狭い世界とはいえども、教師が最低限の教養は身につけていることが前提なのだ。しかし、教師が最低限の教養さえもたず、閉じられた世界に閉じこもって社会から遊離しているのでは話にならない。もはや子どもにも保護者にも接する資格自体が疑われてしまうではないか。
教育書の著者やセミナーの講師も含めて、同業者の集団があくまで狭い世界であり、決して優秀な階層の集まりでもないと自覚することで、その他の世界に目を向けるべきではないのか。「先生と、呼ばれるほどの、馬鹿でなし。」という矢を、他ならぬ自分自身に向けながら。
教養とは、内田樹の言葉を借りるなら、「なんだかまるで分からないけれど、凄そうなもの」と「言っていることは整合的なんだけれど、うさんくさいもの」とを「直感的に識別する」能力のことである。人の師として子どもたちの前に立つならば、せめてわかりやすものだけを求めてカタルシスに浸るのでなく、「わからないけれど凄そうなもの」に触れようとする構えくらいは常にもっていたいものである。
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