意匠と工夫と実験
おそらく四半世紀振りに三浦哲郎の「忍ぶ川」を読んだ。
三浦哲郎が妻との馴れ初めを書いた私小説であり、三浦の出世作であり、芥川受賞作でもある。僕にとっては正直、学生時代にはあまりピンと来なくて、なぜこれが芥川賞かといぶかしく思われたものだが、五十に手が届こうかという年齢になって、これほど世の男どもが理想とする女性像を描いた青春小説も珍しいと合点が入った。
僕が読んだのは新潮文庫版なのだが、この解説を奥野健男が書いている。奥野は「忍ぶ川」が私小説であると聞いて読まずにいたと言う。それが芥川賞を受賞したというので驚き、芥川賞の選考委員が新人発掘において私小説を選択したかと違和を抱いたとも言う。
現代文学は私小説ではなく、言わば「現代の時代認識の解き明かし」でなければならず、その評価規準には「前衛」があらねばならない、私なりに奥野の違和を翻訳すればこんな表現になろうか。
事実、奥野健男自身がこのように書いている。
『忍ぶ川』はいわゆる現代的な小説ではない。文芸批評家としてのぼくが、懸命に考え、追求し、待望している、かくあるべき現代文学の姿とも異なっている。ぼくが論理として持っている文学理念や現代文学の可能性とは遠く距たっているのだ。(三二七頁)
これらの作品(芥川賞候補となった他の作品・筆者注)は現代のメカニズムをどのように文学化しようか、奇怪な自己の観念をどのように表現しようか、方法的にも発想的にも、さまざまな意匠が工夫が実験が試みられている。このような作品はいわばぼくの文学論の囊中(のうちゅう)にあり、その試みの可否について縦横に論評することができるのだ。(同)
こう言っておきながら、それを引っ繰り返す奥野の「忍ぶ川」評が粋である。実際に「忍ぶ川」を読んでみると、選者たちがこの作品を芥川賞に選んだのは当然のことであり、自分が選者だったとしても「忍ぶ川」を推したであろうとさえ言う。「自分の文学主張なり、理論なりを忘れて、というよりそれを超えて、愛着し捨てがたくなる作品」と結論づけ、「忍ぶ川」を読みながら自身が幾度か「目頭があつくなった」と吐露するのである。ともあれ、読者の皆さんにも三浦哲郎作「忍ぶ川」の一読をお勧めする。生涯に一度は読んでおきたい名作である。
しかし、奥野はこうも言う。
ぼくはこの気持ちのよい爽やかな恋物語に、けなげな志乃の姿にホロリとし思わず目頭があつくなったと書いた。しかしそれはホロリとさせられてから、あわててあたりを見廻わし、誰かに見つからなかったかと狼狽するような羞(はず)かしい気持ちもまじっているのだ。(三二九頁)
この感覚は昭和の時代に、奥野健男のような大批評家ならずとも、少しでも漱石・鷗外以来の近現代文学を囓った者ならだれしも実感することのできる共通感覚である。奥野の言葉を借りれば、「論理としての文学理念や現代文学の可能性」を示す文学と、「思わずホロリとさせられてしまう羞かしさ」を伴う文学と、文学にはふた通りがある。そして、少なくとも昭和の時代に文学を囓った者のなかには、文学の王道は前者にある。
教師として国語の授業で文学作品を扱っていると、ともすると後者ばかりが文学性であるかのように感じてしまう。没入し、夢中になり、感動することが文学性であるかのように勘違いしてしまう。しかし、文学は方法的にも発想的にもさまざまな意匠と工夫と実験の試みなのである。それを分析したり解析したりできない国語教師が多すぎることに、僕は不満を感じている。ワクワクしたり、ホロリとしたり、その程度の読みなら、わざわざ学校で教わらなくてもできる。そんな読みはテレビと変わらない。僕はそう感じている。
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