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向上的変容を連続的に保障する

長く国語科授業は「経験主義的」な学力観・授業観で展開されてきました。

かつて国語科の教科目標が「国語科学習指導の目標は、児童・生徒に対して、聞くこと、話すこと、読むこと、つづることによって、あらゆる環境におけることばのつかいかたに熟達させるような経験を与えることである」(昭和二十二年版の学習指導要領試案)と規定されていた時代がありました。様々な環境を設定して言語活動の経験を与えれば、言語能力は必然的に伸びていくと考えられていたわけです。それが指導事項をはっきりさせずに行われる話し合い指導や、何も指導せずに原稿用紙を五枚渡されて「さあ書け」と言われる作文指導、教材を読んで教材内容をまとめるだけの説明的文章指導、やたらと登場人物の気持ちばかり考えさせる文学的文章指導を現出させたという歴史的経緯があります。その結果が、本章の冒頭でも述べた「国語科授業は何を学んだのかわからない」「国語科授業には効用感がない」「国語科授業は気持ちが悪くなるほど気持ちが問われる」「文学作品ばかり追い求めて実用性がない」という批判であった、といえるでしょう。

こうした批判が高まるにつれ、指導事項そのものを国語科授業の〈目的〉としようとする言語技術教育が提唱されたり、経験を与えることを大切しながらも指導事項を明確にさせることを説いた新単元学習が提唱されたりしました。しかし、私がこうした提案の中で最も現場に活かせる発想だと膝を打ったのは、野口芳宏の「向上的変容の連続的保障」(「国語教師・新名人への道」明治図書)というテーゼでした。

「向上的変容」論とは、効力感のない国語科授業の在り方を廃し、一時間一時間の国語の授業において「今日はこれを学んだ」と子ども自身がいえるような国語の授業をしよう、という提案です。その一時間で「今日はこれを学んだ」と子ども自身が言えるということは、子どもが〈向上的〉に〈変容〉したということを意味します。また、子どもがその一時間の学びを言えるということは、授業がその一時間の指導事項を明確にして行われているということを意味します。また、授業において指導事項が明確化されているということは、他ならぬ教師自身がその一時間の指導事項を明確に意識して授業したことを意味します。こうした授業を毎時間、すべての授業で一年間保障していく、それが「向上的変容の連続的保障」です。

さて、皆さんは「向上的変容」を連続的に保障すべき学力をどんなものだと考えるでしょうか。換言すれば、一時間一時間で子どもたちに培いたい学力をどのような質のものだと想定するでしょうか。言語技術でしょうか。学習意欲でしょうか。それとも国語を尊重する態度でしょうか。

私はこれを「言語技術」「国語教養」「言語感覚」の三つだと考えています。先にも述べましたが、私は国語学力を考えるにあたって、縦軸に「実用─教養」、横軸に「認識─体感」としてマトリクスをつくります。実用的で認識的な学力を「言語技術」、教養的で認識的な学力を「国語教養」、実用・教養を問わず体感的な学力を「言語感覚」と呼んでいます(本章「授業づくりの原理4」を参照)。

次頁の図1をご覧下さい。もう何度も述べたことですが、「言語技術」には基本的に「言語知識→言語技術→言語技能」という習熟三段階があります(「授業づくりの原理2」を参照)。これはこのマトリクスで説明するなら、まずは実用的な知識として「言語技術」を認識させ、何度も何度も意識的に使わせることによって「言語感覚」にまで定着させようという試みを意味します。これを〈スキル訓練型授業〉といいます。こうした授業は間違いなく、「向上的変容」を連続的に保障します。スキルを学び、そのスキルを使ってみることによってだんだん上手に使えるようになっていくわけですから、当然のことといえます。

この構図は実は「国語教養」にも見られます。国語科授業において古くから行われている〈発問─指示型授業〉がそれです。古典にしても文学的文章にしても、ある種の読み方が想定され、その読み方を何度も何度も経験することによって身につけていく、従来の授業はこういう構造だったのです。ただ「言語技術」のように指導事項が明確ではなく経験主義的であったために、教師にも子どもたちにもあまり自覚されることがなかっただけなのです。ということは、逆にいえば、それが明確に教えられ、子どもたちに伝わるのならば「向上的変容」を自覚させることができるということでもあります。私たち教師は「国語教養」を扱う場合にも、「ほら、この副詞がポイントだね。」とか「ほら、ここは『だ』って言い切っているでしょ。」といった、読み取りのポイントを曖昧にしないでしっかりと扱うべきだったのです。

しかし、国語科の授業はこのような「認識的学力」から「体感的な学力」へという一方向では成立しません。子どもたちが無意識に使っている言語能力について意識化させ、それを繰り返すことによって自分なりの言語能力体系をつくっていくという営みがあります。図2のような方向性ですね。そしてこのような「体感的な学力」から「認識的な学力」へと顕在化させる授業形態を実は〈ワークショップ型授業〉というのです。

国語科授業を展開するにあたって教師に何よりも必要なのは、こうした〈スキル訓練型〉〈発問─指示型〉と〈ワークショップ型〉とを明確に意識しながら、子どもたちにもわかるように使い分けることなのです。私はそれこそが「向上的変容の連続的保障」を実現するために最も必要なのだと考えています。

「言語技術」「国語教養」「言語感覚」の「向上的変容」が連続的に保障されることによってのみ、「思考力」や「学習意欲」といった大きな学力が醸成されていくのです。私はこのテーゼを信じて疑いません。

では、次章から、私の考える各領域別の一○○の言語技術の体系を提示していきたいと思います。それらの言語技術もまた、「向上的変容の連続的保障」が機能しなければ何の意味もないのだとご理解いただきたいと思います。

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