承認欲求を満たさなければならない
よく知る女の子が婚活を始めました(伝聞情報なので定かではありません。既に長い付き合いになりますが、さすがに彼女も私に「婚活始めたの」とは言いません)。四十代の女性教師です。一説によると四十代女性の婚活成功率は一%を切るという話があります。婚活ビジネスへの登録はそれなりにお金がかかると聞いていますが、成功率が一%を切るとなるとこれはもはや〈投資〉ではなく〈投機〉です。そもそも私たちは普通、成功率が一%を切るようなものにお金を払いません。五分五分でも払いません。成功率八割と言われて初めて「うーん、どうしよう」と迷う。その程度が一般的なのではないでしょうか。しかし、それでも婚活したいと本人が言うのに対して他人があれこれ言うわけにもいきません。「成功率一%に金を払うなんて馬鹿げてるよ」とでも言おうものなら、これまで築き上げてきた人間関係は瞬時に破綻してしまうでしょう。
婚活ビジネスは顧客の承認欲求をうまく利用するところにその本質があります。どこかに自分と相性ぴったりの相手がいるのではないかという想いは、どこかに自分を一生涯心から承認し続けてくれる相手がいるのではないかというのと同義です。しかし、そういう相手はいくら婚活しても一般的には現れません。なぜかと言えば、婚活ビジネスは相性ぴったりの人が現れない人間が多ければ多いほど婚活ビジネスは利益を上げられます。そういうビジネスモデルです。だって一九六○年代から七○年代にかけての国民の九九%以上が結婚できた時代に婚活ビジネスが成立しますか?単純な算数の問題に過ぎません。婚活ビジネスは独身のままでい続ける人が多ければ多いほど、離婚する夫婦が多くなればなるほど利益を上げられるビジネスなのです。
実は就活ビジネスにも同じことが言えます。同じというのは顧客の承認欲求をうまく利用するところに本質があるという意味です。どこかに私の適性にぴったりの仕事があるに違いない。そう思って転職をする人が多くなれば多くなるほど、就活ビジネスは利益を上げられます。人々の承認欲求を利用したビジネスモデルであるという点でいえば、メイドカフェやホストクラブと構造的には変わりません。
実は学校教育も承認欲求産業の方向に突き進んでいます。かつては学校というのは健全な市民、社会に役に立つ生産者にするための機関でしたが、それが八○年代をエポックとして次第次第にサービス業としての役割を付与されてきました。これはかつて子どもたちが「私は学校では集団のなかの一人に過ぎない」と思っていたものが、「私はいつでもどこでも『かけがえのない私』である。もちろん学校でも…」ということになったことを意味します。保護者にとって子どもは分身のようなもので一体化していますから、保護者も同じ要求を学校に突きつけるようになります。その結果、喧嘩が起こってもどちらも相手が悪いと言い続けるとか、自分の子に学習発表会の主役をやらせろと要求するとか、そういうことが起こるようになりました。
また、二一世紀になって登場した特別支援教育やアレルギー対応といった教育政策も「かけがえの私」を学校教育は承認するべきたという論理展開から浮上してきたものです。四十人の多様な「かけがえのない私」が多様な要求を突きつけてくる。担任は一人で四十人分の「かけがえのない私」とその背後にいる「かけがえのないうちの私たち親子」と思っている人たちを相手にしなければならない。「うちの子はこういう子だからこんなふうに対応して欲しい。それができなければ教師じゃない」と。これは消費者マインドに他なりません。私たちが変わる必要はない。学校が私たちに合わせなさいと。
しかも、私たちは彼らを愛さなければならないと有形無形に脅されます。メイドカフェやホストクラブなら擬似恋愛だけを想定すれば事足りますが、私たちには子どもたちを全人的に愛すのが当然だという眼差しが向けられます。保護者に対しても心から親身になることが当然だという眼差しが向けられます。
おそらく現在、私たちが投げ込まれているのはそうした地点です。
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