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柔らかい自我をもつ

あなたは自分のことをどんな人間だと思っているでしょうか。誠実な人でしょうか、ちゃらんぽらんな人でしょうか。暗い人でしょうか、それともノリのいい人でしょうか。そんなことひと言じゃ言えないよ……というのが本音かもしれません。

みなさんは「abstract」という単語をご存知でしょうか。名詞としても形容詞としても機能する単語ですが、動詞としては「抽象する」という意味と「捨象する」という意味をもっています。つまり、「取り出す」と「捨てる」ですね。もしかしたら、一つの単語が「取り出すこと」と「捨てること」というまったく異なる意味をもつことが不思議に思えるかもしれません。しかし、「取り出すこと」と「捨てること」はまさしく同じ意味なのです。

例えば、私は中学校の国語教師です。これを「堀裕嗣は中学校の国語教師である」と表現します。これは堀裕嗣という人物が中学校で国語を教えている先生であることを意味します。要するに、堀裕嗣という人物から中学校国語教師であるという特徴を取り出しているわけです。

しかし、自分で言うのもなんなのですが、私は中学校の国語教師であること以外にもいろんな特徴をもっています。例えば学生時代に野球部でいまでも野球が大好きであること、大学時代から演劇をやっていて長く演劇部をもっていたこと、犬が大好きで自宅に二匹のミニチュアダックスを飼っていること、酒好きで日本酒なら一升くらいは軽く飲めること、などなど、このへんでやめておきますが、要するに堀裕嗣という人物はほんとうはこうしたたくさんの特徴の複合体としてあるわけです。

実は「堀裕嗣は中学校の国語教師である」と中学校国語教師という特徴を取り出すことは、その他のさまざまな特徴を捨てることを意味しています。つまり、「抽象すること」は「捨象すること」と同時に行われるわけです。

実は〈自我〉にも同じことがいえます。人の人格は決して全人的ではありません。こう言ってわかりづらければ、決して統一体ではありません。一個の人格としていついかなるときも同じような判断をし同じような行動する、そういう確固たる統一体ではないのです。むしろ、さまざまなもの、さまざまな人に影響を受けながら、その瞬間瞬間に形や趣を変えていく、そういうものです。〈自我〉というと「自分」を確固としてもっているというよなイメージがありますが、むしろ〈自我〉とはさまざまな環境に影響を受けながら形や趣を変えていく柔らかいものだという捉え方をするほうがみなさんの実感にも沿うのではないでしょうか。

教師としての人格、教師としてのキャラクターも実は同じなのです。決して統一体ではあり得ません。なにか本を読んで感銘を受ける。だれか人に会い視野が開ける。なにか失敗をしてこれまでの自分を内省する。関係のうまくいかない子どもや保護者と出会って、教師観・教育観を変えざるを得ない。そんなことの連続が教師人生なのだと言っても過言ではありません。

本や重大な出来事、出会った人の存在によって自分が変容する。そうしたとき、自分を変容させるものを私は〈触媒〉と呼んでいます。自分に化学変化をもたらす媒介物ということですね。

私たち教師も、さまざまな〈触媒〉によって揺れ動くことにこそ本質があります。さまざまな〈触媒〉によって形を変え趣を変えることにこそ本質があるのです。そしてそのとき、その変容が〈向上的な変容〉であったとき、私たちはそれを〈成長〉と呼ぶのではないでしょうか。

〈成長〉するためには〈柔らかい自我〉が必要です。決して「教師とはこうあるべきだ」などという固定観念を抽象して、その他の可能性を捨象してはいけません。その意味で、「abstract」は〈成長〉の敵なのです。

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