授業の牽引力は教材・題材に求める
かつて「教材を教えるのか、教材で教えるのか」という論争がありました。例えば、国語の授業で「ごんぎつね」を扱うということは、「『ごんぎつね』という作品自体を読ませることなのか、それとも『ごんぎつね』を用いて作品外にある指導事項を教えることなのか」という議論です。前者であれば「ごんぎつね」は小学校四年生に読ませるべきかけがえのない作品ということになりますし、後者であればたまたま「ごんぎつね」が教科書に掲載されているだけで、同じ指導事項を扱うことができるのなら代替可能ということになります。
この問題には既にほとんど決着がついていて、「教材で教える」派がかなり優勢になったと見て良いでしょう。教材によって教えるべき指導事項を言語技術だと主張する人もいれば、豊かな情操だと主張する人もいますが、どちらにしても教材を読むこと自体が目的ではないとしている点で構造的には共通しています。
さて、こうした動きと同時進行で発展してきたのが、九○年代の「新学力観」や二○○○年代の「ゆとり教育」を背景として流行してきた「関心・意欲・態度」の教育です。学校教育の目的は何より子どもたちの「関心・意欲」を喚起して「主体的に学ぶ態度」を育成していくことである、それさえ身に付けさせればあとは子どもたちが主体的に学んでいくようになるはずだ、こうした議論です。
もちろん、こうした主張には一理も二理もあるのですが、私はそれが限度を超えて、先に述べた「教材で教える」論と相俟って、あまりにも教材内容を軽視する風潮につながっているように感じています。「教材内容よりも言語技術」「教材内容よりも関心・意欲・態度」といった感覚が強くなりすぎているのです。
例えば、私はある研究授業において、「天国のごんに手紙を書こう」という授業を見たことがあります。終末の感想を書きやすくするために手紙形式にしようとするのはいいとして、そこで手紙の書き方まで教えようとしているのはいかがなものかと思いました。子どもたちが「拝啓 日に日にあたたかくなる今日この頃、天国でも……」などと書いているわけです。その授業を参観している大勢の先生方の中に、この「拝啓 ごん様」実践に違和感を感じたのは決して私だけではなかったと思います。授業者の中で、なぜ手紙の書き方、手紙の形式を教える場面が「ごんぎつね」なのか、或いは「ごんぎつね」でなければならないのか、というようなことが全く検討されていないのです。
例えば、私はある研究授業で、「メロすごろく」という「走れメロス」の授業を見たことがあります。「走れメロス」の人物や出来事などの設定を確認していくために、「走れメロス」の内容になぞらえたすごろく形式で授業が進んでいくわけですが、正直、「そんな小さなことにこんな大規模な仕掛けをつくって、長い時間をかけるなんて……。そんなことは15分くらいで片付けてしまって、もっとほかに学習効果を高められるような授業計画を建てた方がよいのではないか」と感じざるを得ませんでした。
この二つは極端な例にしても、二十一世紀に入って教材を軽視するといいますか、教材内容をちゃんと読まない実践が増える傾向にあります。特に文学的文章においては、九○年代末の「文学的な文章の詳細な読解に偏りがちであった指導の在り方を改め」というあまりにも有名なフレーズがその傾向を強めました。これはあくまで「偏り」を改めよと指摘したのであって、決して「詳細な読解」をするなという意味ではなかったのですが、現場の多くに文学軽視、教材内容軽視の風潮が広がってしまったのです。この傾向は「教材で教える」という立場から見ても、明らかによくない傾向だったといえるでしょう。
例えば、教材を用いて教えるべきが「言語技術」だとしましょう。「言語技術」をしつかりと身に付けようと思えば、教材を本気で読む必要があります。本気で読もうとするからこそ、そこで習った「言語技術」の効果が実感できるのです。教材を用いて培うべきが「関心・意欲・態度」だとしても同様です。教材内容を本気で理解しようとし、本気で格闘する経験を積むことなしに、ことばに対する「関心・意欲・態度」を育成することができるはずもありません。教材内容に正面から向かい合うからこそ、そこで教えられる「言語技術」の効果が実感され、「関心・意欲・態度」も培われるのです。これが、私が基本的には授業の牽引力は教材・題材に求められなければならないと考える所以です。
かつて「学習ゲーム」の始祖ともいえる横山験也氏が「学習ゲームはふりかけに過ぎないのに、ふりかけばかりが肥大化している現状がある」と、無自覚な「学習ゲーム」実践に警鐘を鳴らしているのを聞いたことがあります。食べさせたいのは〈ごはん〉であって〈ふりかけ〉ではない、〈ふりかけ〉はあくまで〈ごはん〉を食べさせるための食欲促進剤に過ぎない、という意味です。「学習ゲーム」のゲーム性の開発ばかりに目が向いて、本当に食べさせなければならない〈指導事項〉の検討が曖昧になっている現状に、「学習ゲーム」の始祖が苦言を呈したわけです。
最近の「学習ゲーム」の実践を見ていると、〈ふりかけ〉がどんどん肥大化し、〈カツの卵とじ〉のような主役になってきているのをよく見ます。〈ふりかけ〉であればそれなりに〈ごはん〉といっしょに食べることにもなりますが、〈カツ丼〉になってしまうともう〈カツの卵とじ〉が主役になってしまいます。しかも、それがあまりにおいしくてカロリーが高いために、〈ごはん〉を残してしまう人まで現れます。これではいけません。「学習ゲーム」はあくまでも学習効果を高めるためのゲームであって、ゲームを主役にしてしまってはいけないのです。先にあげた「メロすごろく」の例などは、完全に〈カツ丼〉になってしまっている例といえるでしょう。
これと同じような構造が「拝啓 ごん様」にも見られます。「ごんぎつね」の終末の感想を書くことも、「手紙の書き方」を身に付けることも確かに重要な指導事項です。その意味では、比喩的にいえば立派な〈ごはん〉です。しかし、これでは〈ごはん〉をおかずに〈ごはん〉を食べさせられているようなもので、どらが主食なのか子どもたちは迷ってしまいます。簡単に言えば、重要な指導事項を二つまとめて学習活動をつくることによって、かえって指導事項がにごってしまっているのです。「手紙の書き方」は両親に感謝の手紙を書くとか、総合でお世話になった講師に礼状を書くといった、あくまで手紙を書くのにふさわしい「実の場」を設定すべきでしょうし、「ごんぎつね」の終末の感想はあくまで「ごんきつね」の内容を想起させたうえでできるだけ抵抗のない形で書かせるのが筋でしょう。
本書は第二章において、各領域別に合計一一○の言語技術を提示します。しかし、言語技術はそれだけを提示して教え込めばよい、教材や題材はどうでもよくて言語技術だけをとにかく〈スキル訓練〉型で練習させればよい、というものではありません。あくまでもその言語技術が効果的に機能しているような教材によって、その効果を理解させ実感させながら身に付けさせていく必要があります。それがないと言語知識としては覚えているものの、その効果の実感されない「技術主義」に陥ってしまいます。
特に「読むこと」領域においては、教材の中でどんな言語技術がどのように使われ、どんな効果をあげているのかということを、教師がよく理解していなければ成り立ちません。教材内容軽視の風潮は、かつて国語科授業の命ともいわれた「教材解釈」「素材研究(=作品研究)」の必要性をも軽視させている現状があります。「教材を教える」から「教材で教える」への転換は、「教材解釈」や「素材研究」を不必要にしたのではありません。むしろ、教材が〈何を語っているのか〉だけでなく、〈どのように語っているのか〉までしっかりと捉えることが必要とされるようになったのです。「教材で教える」という立場が、かつての「教材を教える」立場よりも「教材研究」の重要性を高めたのだといっても過言ではありません。
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