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2015年3月

効率性を重んじる

新採用から十年、学級づくりを中心にがむしゃらにやってきました。自分なりに自信もついてきました。自分一人でできる仕事、自分一人ではできない仕事があることも理解できてきました。ただがむしゃらに突き進めば良いわけではない、ときには立ち止まることが必要なときもある。そんなことを実感する経験もしたかもしれません。三十代は二十代と比べて学びの段階が一段上がっているように感じられるものです。

第一章でも述べましたが、三十代は学校経営への参画の準備段階です。職員室全体を動かすタイプの仕事も次々に任されますし、自分の所属する学年の運営には中心的な働きをしなくてはなりません。学年に二十代の若手教師やメンタル的に弱いタイプの教師がいる場合にはフォローの役回りもしなくてはなりません。お金の仕事、要するに予算・執行・決算をどのように会計文書としてまとめるのかを覚えなければならないのもこの時期です。企画力・実行力・フォロー力・会計力などなど、すべてを発揮しながら、それでいて学期夕経営や生徒指導などでは若手教師の手本とならなければならない。それでいてさまざまな場面で実働部隊の長として動かなければならない。生涯の教師人生で最も忙しいのは三十代かもしれません。しかし、仕事が最もおもしろいのも三十代でもあるのです。二十代の頃とは違って自分の裁量で動かせる仕事がどんどん増えていく時期ですから。こうした意味で、三十代の学びはその後の退職までの二十年を決めてしまうほどに重要な時期なのだと言えるでしょう。

このようなあふれるほどの仕事を抱えながら、その一つ一つを的確に処理し、適切に運営していくために覚えなければならないことがあります。それは〈効率性を重んじる〉という構えです。

確かに自分の裁量で全体を動かせる仕事はおもしろいものです。自分のアイディアを実現していく仕事ですからやり甲斐もあります。しかし、そういう仕事があると同時に学級担任だってもっているわけです。学級外の仕事に夢中になったり学級外の仕事に追い立てられたりして、自分の学級がうまくいかないのでは話になりません。そういう仕事をこなしながら、二十代の若手教師たちの手本としても機能することが求められているわけですから、二十代教師たちよりも力量の高いところを見せ続けなくてはならないのです。しかも学級編制では若い担任に配慮して自分の学級にやんちゃ系の子や難しい保護者をもつことにもなっているはずです。ちょっと手を抜いたりちょっと油断したりすると学級経営自体がままならなくなる、あなたのもつ学級はそうした、いわゆる「重たい学級」であるはずです。もしそうでないとしたら、学級編制会議がどれだけ平均的な学級をつくろうと話し合われていたとしても、それはあくまでうわべの話で、実はあなたは同僚の先生方があなたの力を信頼していない可能性があるとさえ言えるほどです。

こうした仕事の在り方が求められているときに、ただがむしゃらに時間や労力の許す限り頑張り続ける……という心持ちで仕事をしていたのでは、うっかりなにかを忘れてしまったとかちょっとしたミスが重なって深刻な事態に陥ってしまうとか、そうした危険性を伴います。それではいけません。〈効率性〉を重んじながら時間を確保して自分の担任する学級にもしっかりと時間と労力をかける。そういう姿勢が必要なのです。

〈効率性〉とは二つのことを意味します。

一つは、自分の裁量で職員室全体を動かすタイプの仕事、要するに企画系の仕事については、〈費用対効果〉を徹底して考えるということです。そのときの敵は「自己満足」です。自分のアイディアを実現するのはとてもやり甲斐のあることですから、思いついたアイディアはなんとか実現させたい、機能させたいと思うものです。しかし、そればかりを考えて職員室の先生方に過剰な負担をかけて疲弊させてしまってはいけません。張り切りすぎた先生の提案が職員会議で受け入れられないことがしばしば見られるのにはそういう構造があります。その企画はほんとうに先生方にそんなにも過剰な負担をかけてまで実行するだけの効果が子どもたちにあるのか、それを常に考えなくてはなりません。

もう一つは、あふれる仕事群をどういった優先順位で処理していくのかということを常に考え、そのときどきに判断しながら仕事に取り組んでいく癖をつけることです。より良い企画とは、より良い実務とは、より良い会計とは、よりよい学級づくりとは、より良い若手フォローとは……とすべてに全力で打ち込んでいたのでは時間がいくらあっても足りません。特に学級における子どものトラブルや若手教師のフォローなどはいつ必要なるかわからない、予測のつかないものです。忙しい時期にそうしたトラブルが起こると、仕事が滞ってしまうというのでは、社会人としては安定感がないと評価されます。

企画系の仕事で力を入れて創造力を発揮するのは年に一回程度、それも優先順位が高いと思われる一つに絞る、あとは基本的に前年度踏襲、これが安定的な仕事の仕方の平均値です。実務系の仕事、会計処理などのルーティンワークは淡々と粛々とこなす。そして自分の学級づくりにちゃんと時間と労力を注ぐ。これがあるべき姿なのです。

実はそれでもまだ足りません。これだけやってもまだ糸をピンッと張った状態になってはいけないのです。若手教師やメンタル的に弱い先生になにかあったときにすぐに動ける、そうした時間と心の余裕を常にもっている状態を確保しておくことさえ必要なのです。

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やめることも提案である

学校は無駄の多い場所です。

毎年、職員会議では新しいことが提案されます。確かにいまはそれが必要かもしれないと多くの先生が感じたとき、その提案は通ります。こうして学校を挙げて新たな活動が始まります。しかし、問題なのは、数年が経ってその始まった活動が当初ほどの効果を上げなくなっても続けられてしまうことです。それがいまなお効果を上げているのか否かもなかなか検討される機会がありません。

その活動の立ち上げ時を知っている古くからいる先生は始めたときの熱気を記憶しています。新しく来た先生はこの学校はこういうシステムなのだなと仕方なくその活動に参加します。その仕事の担当者も自分の仕事なのだと思って、効果もわからずに淡々とその仕事を進めます。結局、その活動はその効果の実態もよくわからないままに続けられます。そして、また新しい提案がなされるのです。いまあることをやめようというのには勇気がいりますから、なかなかそういう声も上がりません。仕事は増えていく一方。

こうして時宜を逸した過去の遺物が無駄として残り続けるのです。多くの学校にこうした構造があります。

二十代の若い先生方はまだ仕事を覚えようとしている段階です。いまある仕事にただがむしゃらに対峙していることが多いものです。逆に四十代以上のベテラン教師には、いまあるものをやめようとはなかなか言いにくい現状があります。学校で行われている活動には、どんな活動にもそれなりの良い面がありますから、ベテランはいまあるものを費用対効果を考えてカットしようという発想にはなかなか立てないのです。また世代を問わず、無難に過ごそう、無難に教師生活を送ろうと考えるタイプの人々には、なにかを始めること以上になにかをやめるという発想は出てきません。そういうものです。多少の労力をかけてそれをこなせば無難な教師生活が続くわけですから(笑)。

実はこうした費用対効果の合わない仕事に対して、一番敏感になれる可能性が高いのは三十代なのです。三十代は学校において実働部隊の長となることの多い世代です。二十代は言われたとおりにやることで精一杯ですし、ベテラン教師の視線は実働部隊として働くよりも、全体計画を立てたり企画を立てたり周りのフォローにあたったりということに向いています。

新しいことを提案したり開発したりすることは楽しく有意義なことです。三十代はそういうことに楽しいこと、有意義なことに心血を注いで構わないですし、むしろ注ぐべきでしょう。しかし、ただ一方的に新しいことを始めるだけでは同僚の先生方を、つまり職員室を疲弊させてしまいかねません。新しいことを始めるばかりでなく、効果のあまりない馴れ合いになっている事柄をやめることにも目を向けた方が良いのです。

現状をそのままにしておきながら新しいことを提案すると、職員室の仕事は増えていく一方です。現状でも多忙感を抱いている先生方にはあなたの新たな提案は迷惑がられてしまうかもしれません。提案も通りにくくなります。しかし、日常的に効果の薄い仕事をカットしていくことも同時に進めているならば、新たな提案も通りやすくなります。必然的にあなたのモチベーションも上がるわけです。

とは言っても、先にも言ったように、いまあることをやめるという提案には抵抗をもたれてしまうことが少なくありません。四十代以上のベテランや管理職に稲井に説明したり相談したり根回ししたりしながら、うまく提案を整えていくことが必要となります。こうした提案を通していく報・連・相の妙を覚えることは、今後迎える四十代、学校経営に参画していく四十代に向けて決してマイナスにはなりません。

なにかを始めるときにはなにかをやめる。費用対効果をよく考えてやめるべきはやめようと提案する。更に費用対効果で言うなら、そのほうが新たな提案に対する職員室のモチベーションも高まり、費用対効果が更に高まるかもしれないのです。

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周りに配慮しながら提案する

三十代になってくると職員会議で発言力をもち始めます。職員室全体を動かすような提案をすることも珍しくなくなってきます。そのとき、自分の発言が自分だけの趣向、自分だけの正しさに基づいていないかと常に点検する視座が必要です。

例えば、「子どもたちのために」という言葉は職員会議を通すときの一つの常套句です。しかし、この言葉を使う教師にはその裏に「時間と労力を惜しまずに」という思想があります。また、時間と労力を割かない教師に対する批判的な視座がある場合も少なくありません。要するに、時間と労力をかけることを厭わずに何時まででも学校に残って仕事をする、子どもたちのために準備を怠らない、この教師はそうした美学をもっているわけですね。もちろん、自分がそういう仕事の仕方をすることはだれにも迷惑をかけませんから、だれからも批判される筋合いはありません。

しかし、そこに一般性を付与して他の人たちにも強制しようとしだしたら話は別です。時間と労力を割かない教師は、ほんとうに時間と労力を「割かない教師」なのか、もしかしたら「割けない教師」なのではないか……その想像力の欠落した教師には、職員室全体を動かす提案をする資格がありません。もちろん、時間と労力を割けない同僚の先生も、一度くらいならその提案に従うことができるかもしれません。その提案に乗って、予定をやりくりしたりちょっと無理をしたりすることによって時間と労力を割くことができるかもしれません。でも、家庭の事情や健康上の事情というものは、一度無理をするとそれを取り返すのに倍以上の時間と労力がかかってしまうものなのです。

多くの三十代はまだまだ躰に無理が利きます。最近は晩婚化が進んでいますから、まだ家族をもっていないということもしばしばです。自分の親も多くの場合まだ現役で働いていてまだまだ元気です。要するに、健康に留意しながら仕事をやっている先生や、子どもが小さかったり介護を必要とする親がいてなんとか時間をやりくりしながら仕事をしている先生の気持ちが理解できないのです。

ここではこう考えることが必要なのです。この提案はそこまで先生方に無理を強いてまで実現させる意義のあるものなのか、と。そこまでしてでも子どもたちの成長にとって効果の高い提案なのか、と。それは事情のある先生方の力を借りなくても、自分や若い教師たちが少々無理をすれば成り立たせられるような提案なのか、と。これを冷静に考えてみるべきなのです。そして、先生方にそれほどの負担を強いるほどの効果はないと判断されるようならば、或いは一部の教師の少々の無理では成立しないと判断されるならば、潔くその提案は引っ込めるべきなのです。だって、すべての先生方が過剰なストレスにさらされず、笑顔で子どもたちに接することができることほど子どもたちに良い影響をもたらす教育はないわけですから。

しかし、それでも通すべき提案というのはあり得ます。この改革はこの学校を間違いなく良い方向に持っていくとか、いまこの行事に取り組ませ成功させることが子どもたちの大きな成長につながるとか、そういった確信がもてる場合ですね。

こういう場合、私なら職員会議でこう言います。「この提案は子どもたちをかくかくしかじかのように成長させるものと確信しております。いろいろお考えはおありかと思いますが、どうか、ここは曲げてご了承いただきたく存じます。オーバーワークにつきましては、私と若者軍団を中心に取り組みまして、できるだけみなさんに過剰なご負担をおかけしないように致しますので、ここはどうぞ伏してお願い致します」

そして、仲の良い若手に「なあ、佐久間!」などと振るわけです。すると佐久間くんが「はっ、はい!」など言い、職員会議に笑いが起こります。

提案が通れば、あとは事情のある先生方を気遣い、配慮しながら仕事を進めていけば良いだけです。ときには事情のある先生も無理をして手伝ってくれる場合もあります。そんなときには深く感謝の気持ちを抱かなくてはなりません。

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仕事を通じて仲良くなる

学校の先生もチームで仕事をする時代になりました。

確かに担任学級は自分で責任をもたなければなりませんが、その責任は自分だけが負っているわけではありません。あなたになにかミスがあって保護者からクレームが来た……なんてことがあれば、学年主任の先生や教頭先生、校長先生が一緒に謝罪してくれます。あなたの学級のやんちゃ系の子や特別な支援を要する子の対応は、学年の先生や生徒指導の先生、保健室の先生などが緻密な連絡をとりながら進めて行かないとうまくはいきません。一人で抱えるのではなく、みんなで取り組む。そういう時代になったのです。逆に言えば、多くの若い教師の失敗事例を見ていると、一人でできると思うから失敗するのだという側面があります。

さて、とは言うものの、職員室にはどうしても近寄りがたい先生とか、どうしても苦手な先生、好きになれない先生というはいるものです。人間ですからそれは致し方ない部分もあります。でも、それをそのまま放っておいて、いつまでたっても近寄りがたい、いつまでたっても苦手、いつまでたっても嫌いというのでは、もしかしたら大事な成長の機会を逃しているのかもしれません。世の中には、近寄りがたいと思っていた先生が付き合ってみると意外にも上に厚い先生だったとか、苦手だなあと思っていた先生と意外な共通の趣味があったとか、嫌いだなと感じていた先生がちゃんと付き合ってみると実はとてもいい人だったとか、そんなことはいっぱいあるのです。

吉川英治に「我以外皆我師」という言葉がありますが、若い時代にはこの心持ちでいるのが最も良い在り方なのかもしれません。

極端に言えば、反面教師も教師です。やってはいけないことを学ばせてくれる良い教師なのかもしれません。反面教師から学ぶにしても、その教師と人間関係があってその人がどういうつもりでそんなことをしているのかが知れる場合と、その人と付き合いが一切なくてその人の行動だけ見て自分の解釈だけで学びにするのとでは、学びの質が大きく変わるはずです。どんな人でも人間関係があることは自分にとってプラスになります。

私はセミナーのQ&Aコーナーなどで、若い教師に先輩教師との人間関係がうまくいっていない旨の質問を受けたときには、必ずその先輩教師に〈頼ってみること〉〈一緒に小さな仕事をすること〉の二つを勧めています。

「いまこんなことで悩んでいるんですけど、何か良い方法はないでしょうか」とか、「いまこういうことをしたいんですけど、なにか良い実践はありませんか」とか、職員室の四方山話のなかで問いかけてみるのです。それに対してバッサリと「ない!」とか「知らない!」という人はいないはずです。

そして、できれば先輩教師のその助言をちょっとだけ取り入れてみるのです。先輩教師の言うとおりにすべてを取り入れる必要はありません。発想の一部を取り入れるとか、ちょっと自分なりに工夫して取り入れてみるとか、そういう取り組みをしてみるのです。それもできるだけ早く。更にはその教師に、「先生に教えてもらったことをこんなふうに取り入れてみたらうまくいきました」とか「先生の実践をそのままは無理だったので、こんなふうにちょっとだけ取り入れてみたらとっても楽しかったです」などと報告してみるのです。その先輩教師との関係はみるみるうちに改善されるはずです。

まず、何といっても会話の機会が劇的に増えるはずです。一緒に笑う機会も増えるはずです。そして何より、その先輩教師はまず間違いなくあなたに助言してくれたりフォローしてくれたりする人に変わるはずです。若い人に頼りにされて意気に感じない人というのはまずいません。これは日本人の特徴といっても良いくらい一般的なことです。

もう一つは、一緒に小さな仕事をしてみることです。ほんとうに小さな仕事でいいのです。道徳の指導案を一つ一緒につくってみる。成績の点検活動を一緒にやってみる。朝の登校指導を一緒に担当してみる。そんなことで構いません。意外な人生観をもっているとか、意外にも効率的に仕事をする術をもっているとか、朝の子どもたちへの声かけのあり方にその人の人間味が出ているとか、なにかしら良いところを発見できるものです。

そしてそれを学ぶのです。そうしたものの見方や効率的な仕事のスキルや滲み出る人間味というものは、自分自身に取り入れられる可能性があるはずです。それは間近いなく、自分の成長につながるはずです。

しかもここが大事なのですが、あなたはそういう意識でその先輩教師を観察することになっていくはずです。その先輩教師に興味をもつことになるはずなのです。そうすると、その人生観や効率性や人間味が日常のさまざまな場面で発揮されていることに気づくはずなのです。もうこうなると、その先輩教師は既に近寄りがたい人でも苦手な人でも好きでない人でもなくなっているはずなのです。

大人社会、職場社会というのは、学生時代とは違って人間関係先にありきではないのです。仲が良いから一緒に仕事ができるのではありません。一緒に仕事をしているうちに、あくまでも仕事を通じて仲良くなるのです。この順番を間違えてはなりません。

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適切にいじられる

「適切にいじられる」という言葉を私に教えてくれたのは、京都橘大学の池田修先生であったように思います。私は聞いた瞬間に膝を打った記憶があります。適切にいじられる後輩、適切にいじる先輩。適切にいじられる子ども、適切にいじる先生。こうした人間関係には不安を見出せません。もちろんただいじりいじられるというだけでなく、「適切に」ということが肝腎です。

「いじめ」と「いじり」の関係がよく問題になります。これだけ「いじめ」が問題視される昨今ですから、学校現場では「いじり」もどこかネガティヴなイメージで捉えられがちです。私は「いじめ」は相手が嫌いだから行うもの、「いじり」は相手が好きで潤滑油として行われるものと考えていますが、いくら相手に好印象を抱いていたとしても度を過ぎた「いじり」や集団化した「いじり」は「いじめ」と見分けがつかなくなります。そこで「適切な」という言葉がつくわけですね。

さて、〈いじりの適切さ〉ということについて考えてみましょう。どのような「いじり」であれば〈適切〉で、どのような「いじり」であれば〈適切〉でないのでしょうか。

しかしそれは一概には言えません。人間関係によるとしか言いようがないのです。

こう考えてみましょう。

職場では毎年、忘年会が開かれます。歓迎会や送別会は転勤者のスピーチが主ですが、忘年会にはそういう主役がいませんので、余興としてゲームが行われることが多いと思います。学年対抗だったりテーブル対抗だったりで行うあれですね。

そういうゲームには罰ゲームがつきものです。一問間違うごとにすずらんテープでつくったかつらを被らされたり、鼻眼鏡をかけさせられたり、例えばそういう類のものです。 職員室が仲が悪い場合、こうした罰ゲームを課されると「なんで私がそんな恥ずかしい格好しなくちゃなんないの」と否定的な気持ちになります。「そういう罰ゲームがあるから忘年会は嫌いだ」ということにもなります。しかし、職員室の仲がいい場合には、みんなの前でその程度の恥をかくことなど、なんのことはないと簡単にできてしまいます。人は仲がいい人たちの前ではそんな程度の恥をかくことくらいはなんでもないわけです。ちょっとくらい恥をかく程度のことなら、その場の雰囲気を優先するものだということもできますし、むしろみんなで大笑いしているだけでそれを恥と感じないことさえ少なくありません。

三月、私は最後の学活でフルーツバスケットをすることが多いのですが、鬼になるのが三階目になったら罰ゲームというルールで行います。罰ゲームはみんなの前でやるのが恥ずかしいようなものを設定します。「よし!次の罰ゲームは教卓の上で尻文字で自分の名前を書く!」とか、「じゃあ、次の罰ゲームはみんなの真ん中で踊りながらハトぽっぽ歌う!」とか、そんなくだらないけれどちょっと恥ずかしいというタイプの罰ゲームを設定するわけです。

学級づくりが成功していると、こうした罰ゲームをやんちゃ系の男の子はもちろん、大人しめの女の子でさえゲラゲラ笑いながらなんなくやってしまいます。逆に学級づくりがうまくいっていないとこうした罰ゲームは危険を伴います。保護者クレームにつながることさえあるかもしれません。しかし、これもやはり、その集団が仲がいいかそうでないかに規定されているわけです。

基本的に先輩教師がいじってきた場合には、まずは受け入れてみることをお勧めします。それが自分を好ましく思ってくれて発せられているのかそうでないかなどは、人間なら一瞬で見抜けるものです。また、〈適切ないじり〉をしている先輩教師は、後輩にいじられることも厭わない傾向にあります。職場の人間関係において、適度ないじりいじられる関係があるということは、職場を明るくし、人間関係を充実させるものです。

「適切にいじられる人」でありたいものです。

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中学校学級経営・生徒指導10回連続セミナー2015in札幌

【拡散希望/受付開始/定員40/残席32】
中学校学級経営・生徒指導10回連続セミナー2015in札幌 http://kokucheese.com/event/index/253255/

中学校・学級経営研究ネットワーク
中学校学級経営・生徒指導セミナー弥生2015in札幌


学級経営の研究会はいろいろあるけれど、中学校を対象としたものはなかなかない……
研究会に参加しても、成功例ばかりが自慢げに語られていて、いま一つ役に立たない……
同僚の先生方のやり方を真似てみても、どうもうまくいかない……
そんなことを感じてはいませんか?
期末懇談、通知表所見、行事の指導、朝学活・帰り学活での指導の仕方……
どれもこれも他の担任の具体的な方法を見ることはできません。
もしも、それらを見ることができたら……そんなことは思ったことはありませんか?
この度、そんなあなたの要望にお応えしようと、7年振りにこのセミナーが1年間だけ復活です。

第1回テーマ:学級開きのポイント・生徒指導のイロハのイ
日時:2015年3月28日(土)9:15~16:45
場所:札幌市産業振興センター
参加費:3000円

講師
堀 裕嗣(ほり・ひろつぐ/札幌市立中学校・教諭)
「研究集団こと のは」代表・「教師力BRUSH-UPセミナー」顧問。「学級経営10の原理・100の原則」「生徒指導10の原理・100の原則」「一斉授業10の原理・100の原則」(以上学事出版)、「教師力ピラミッド」「必ず成功する学級開き」(以上明治図書)、「中学校・通知表所見文例」(小学館)など著書・編著は50冊以上。現在、教師の上達論に基づいた「教師が20代で身につけたい15の構え」「同30代」「同40代」を執筆中。また、国語科授業づくり、「THE 教師力」シリーズなど多方面で活躍。

石川 晋(いしかわ・しん/十勝管内中学校・教諭)
NPO法人「授業づくりネットワーク」代表・「教師力BRUSH-UPセミナー」顧問。「学級通信を出しつづけるための10のコツと50のネタ」「笑顔と対話があふれる校内研修」(以上学事出版)、「学級担任の合唱コンクール指導」「『教室読み聞かせ』読書活動アイディア38」(以上明治図書)、学校学級担任のためのポジティヴ・コミュニケーションカード」(民衆社)など、著書・編著多数。コミュニケーションとワークショップを中心に全国でさまざまな提案を続けている。

千葉幸司(ちば・こうじ/十勝管内中学校・教諭)
十勝ライフスキル研究会代表。いじめ撲滅運動の一環として「ピンクシャツデー」を中心的展開。「不登校指導入門」(明治図書)、「いじめは絶対にゆるさない」(学事出版)など、不登校指導・いじめ対応・保護者対応のスペシャリスト。現在、「保護者対応入門」を執筆中。

山下 幸(やました・みゆき/札幌市中学校・教諭)
「中学校・学級担任の責任」「THE 給食指導」「THE 清掃指導」「学校週五日制・教師の仕事術」(以上明治図書)など著書・編著多数。現在、勤務校では学年主任を務め、ロールプレイやファシリテーションの手法を導入した多彩な実践を展開。


プログラム

講座1 学級開き5つのポイント~3・7・30・90の法則
/9:15~10:15/60分/山下幸
学級開きの〈3・7・30・90の原則〉をご存知ですか。学級開きには最初の3日間、1週間、1ヶ月、3ヶ月でそれぞれやるべきことがあるのです。学級経営を組織していくための基本的な原理を伝授します。

講座2 ワークショップ!中学校生徒指導に必要な構えと技術
/10:25~11:55/90分
/ファシリテーター:石川晋
/指定討論者:千葉孝司・山下幸・高橋勝幸・高橋和寛
/FG:米田真琴
どうも学級経営が苦手だ、生徒指導が苦手だ、初めての担任で何をどうしていいかわからない、そんな悩みにお答えするワークショップです。特に年度当初の学級担任にとって絶対的に必要な構えと技術を明らかにします。

講座3 小学校の現状~小学校高学年担任が語る子どもの変容
/12:55~13:55/60分
/司会:米田真琴/小学校担任:高橋裕章・大野睦仁・山口淳一・宇野弘恵
中学校の諸問題の萌芽は、ちもろん小学校高学年時期から散見されます。小中一貫教育が叫ばれる昨今、小学校高学年担任たちの本音を聞くことによって学びます。

講座4 保護者懇談・PTA役員決定の技術
/14:05~14:55/45分/千葉孝司
年度当初の一大仕事は保護者懇談とPTA役員の決定です。これからうまくいけば、年度当初を気持ち良くスタートできる……それが担任の本音ではないでしょうか。その裏技を紹介します。

講座5 教師の仕事術~こうすれば仕事が劇的に変わる
/14:55~15:45/45分/堀裕嗣
仕事をスムーズに進めて行くには、また教師として少しでも豊かな在り方を求めるためには、「最低限の仕事術」が必要です。学級開き10の原理、時間術、手帳術を中心に紹介します。

講座6 鼎談で深める中学校教育の現状と課題
/15:45~16:45/60分
/堀裕嗣・石川晋・千葉孝司
/FG:髙橋和寛・米田真琴
新年度のスタートにあたってまず必要なのは現状認識です。堀裕嗣・石川晋・千葉孝司の3人が縦横無尽に語り尽くします。フロアからの質問や講座2で提示された問題意識にもお応えします。


【お知らせ・1】
なお、このセミナーの次の日、3月29日(日)に同じ場所において、「生徒指導セミナー」が開催されます。当セミナーの参加者はこちらのセミナーへの参加を1000円値引きさせていただきます。

第1回生徒指導セミナー2015in札幌
どっぷり考える!いじめ指導・不登校指導の在り方
講師:堀裕嗣・千葉孝司・山下幸・高橋裕章・大野睦仁・山口淳一・宇野弘恵
日時:2015年3月29日(日)9:15~
場所:札幌市産業振興センター
参加費:3000円

プログラム
講座1)年度当初から取り組む「いじめ指導」「やんちゃ対応」の原則・BASIC
/09:15~10:45/司会:山下幸
/事例報告:高橋裕章・大野睦仁・山口淳一・宇野弘恵
/指定討論者:堀裕嗣・千葉孝司
講座2)年度当初から取り組む「不登校指導」の原則・BASIC
/11:00~12:30/司会:山下幸
/事例報告:高橋裕章・大野睦仁・山口淳一・宇野弘恵
/指定討論者:堀裕嗣・千葉孝司
講座3)年度当初から取り組む「不登校指導」の原則・ADVANCE
/13:30~15:00/千葉孝司
講座4)年度当初から取り組む「いじめ指導」「やんちゃ対応」の原則・ADVANCE
/15:15~16:45/堀裕嗣

【お知らせ・2】
このセミナーは10回連続講座の第1回です。10回連続講座思い込みの方は3000円×10=30000円のところ、20000円にて申し込めます。ご希望の方はメッセージにて御連絡をお願いします。なお、開催日は3/28・4/25・5/09・7/25・8/29・9/26・10/24・11/21・12/26・2/6(すべて土曜日)の10回です。

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場の雰囲気を共有する

職場に三人の新卒さんがいるとします。いまは職場の呑み会の二次会でカラオケにやってきました。先輩教師が「よし!新卒、順番に一曲ずつ歌え~!」と言いました。

新卒Aはカラオケが嫌いです。歌が苦手だからと最後までかたくなに拒否しました。新卒Bはカラオケが大好きです。ビブラートを利かせて得意のバラードを歌いました。新卒Cはカラオケが得意ではありません。どちらかというと苦手です。それでも「僕、筋金入りの音痴なんですよ」と言って、超音痴な流行りのアイドルの歌を披露しました。それも踊りながら……。

さて、新卒A~Cのなかで今後最も先輩方にかわいがられるのはだれでしょうか。これがまず間違いなくCくんなのです。これは理屈ではありません。どんなにそれが理に適っていない、不条理だと言われても、世の中とはそういうふうにできているのだから仕方ありません。多くの人たちがCくんに好感を抱いてしまうことをだれも責められないのです。

これからの時代に求められる能力の筆頭として〈コミュニケーション能力〉が叫ばれるようになって久しくなりました。就職面接でも〈コミュニケーション能力〉の査定が最も大きな要素を占めると言われます。しかし、猫も杓子も〈コミュニケーション能力〉と叫ぶのに、その内実はよくわかりません。多くの若者たちはそれをビジネスライクに捉えます。要するに、プレゼンテーション力とかディベート力とか交渉力とかいったタイプの能力ですね。でもこれらの能力は確かにこれからの時代に必要とは言われていますが、日本人にとってはイメージ的にどうしても馴染まない能力群です。みんな口ではこれらの能力が必要だと言っていますが、実はそれはどこかに「口達者なだけの人」というイメージがつきまとい、本音ではあまり好まれていないのです。

日本人にとっての〈コミュニケーション能力〉は、実は他人に共感できるとか、他人を楽しませることができるとか、一緒にいると気楽でいられるとか、そういう人がもつ雰囲気のことです。要するに机を並べて一緒に仕事をしたいと思わせる雰囲気を漂わせているかどうか、実はそれこそがこの国で言う〈コミュニケーション能力〉の実態なのだと私は感じています。

前者の〈コミュニケーション能力〉であれば、もしかしたらBくんのほうが優れているかもしれません。Bくんのほうが仕事をそつなくこなす力ももっているかもしれません。しかし、後者の〈コミュニケーション能力〉については、圧倒的にCくんが優れているのです。「愛される力」「かわいがられる力」に大きな差異があるのです。Bくんは評価されるけど愛されない、Cくんは愛されるからこそ評価される、そういう差が生じているのです。ついでに言うと、Aくんはどんなに仕事ができても評価されることもなければ愛されることもありまらせん。いくら不合理だ、不条理だと叫んでもそういうものなのだから仕方ありません。

別の言葉で整理すると、Aくんの優先順位の一番は「自分を守ること」、Bくんの優先順位の一番は「自分をアピールすること」、Cくんの優先順位の一番は「場の雰囲気を共有すること」と言えるかもしれません。少なくとも先輩教師にはそう見えたはずです。人の評価というものはこうした何気ないことの積み重ねで形成されていくのです。

納得できない……そう思われる読者もいるかもしれません。でも、こう考えてみましょう。子どもたちのなかで、あなたがなんとなく親近感を抱く子はどんな子どもでしょうか。この子はかわいいなと思うのはどんな子でしょうか。おそらくは人なっこくて、どこかおっちょこちょいのところがあって、でも自分のミスを笑い飛ばしてしまう。また、同じような失敗を繰り返すことさえ少なくない。そんな子なのではないでしょうか。決して一度した失敗を二度と繰り返さないタイプの優等生的な子ではないはずです。そういう子は、かえって教師にちゃんと指導しなくちゃ、失敗はできないぞというプレッシャーを与えてしまうのではないでしょうか。職場の人間関係もそれと同じなのです。

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教養を志向する構え

教師には昔から、同業者の実践、同業者の理論からしか学ばないという悪弊がある。その実態は研究の名に値しない。こう現場の実践研究を皮肉り強烈に喝破したのは、いまは亡き香西秀信先生である。

言い得て妙だと思う。この言葉は以後、私に取り憑き、私を解放してくれない。各地域の官製研に群がる御用役人的な教師から自己顕示欲の強い民間教育畑の教師まで、この構造は変わらない。狭い世界の狭い狭い先行実践から見出した思いつきのアイディアを披瀝し合っている、というのが実態であり、しかもそこには盗作と搾取がはびこっている。

最近の教育界は、前にも増してこの悪弊が顕著になってきているように思う。各地域の官製研がかつてのような力を失い、各大学の附属学校がかつてのような魅力を失い、各大学の教員養成学部は実学に走り、教育書は看板に偽りありの人寄せタイトルの嵐、薄っぺらい内容を雨後の筍のように量産している。ちょっとした思いつき実践にちょっと囓った理屈をつけて垂れ流す○○セミナーという名の出店。その姿は神社のお祭りのテキ屋を彷彿させる。ここに群がるのもセミナーに参加し、他地域の同業者とつながることで学んだ気になっている「先生と呼ばれる馬鹿」たちである。量産される教育書も、数あるセミナーもなにも新しいものを産み出していない。まさに「同業者の実践、同業者の理論からしか学ばないという悪弊」を体現した、カタルシスの場と化している。

少々辛口に述べてきたけれど、私はこれだけの教育書が量産され、これだけ多くの教育実践セミナーが開催されていることに危惧を抱いている。それはまるで芸能人のライヴを見に行くような趣で教育書の著書に会いに行く、いわばかつてのAKB48のような手の届くアイドルのような形で消費されているように思えるからだ。果たして彼ら彼女らの教室の現実は、教育書を読んだりセミナーに参加することによって具体的な向上を示しているのだろうか。それが至極疑問なのだ。

時代はSNSの時代である。セミナーの写真もセミナー後の懇親会の写真もフェイスブックによくアップされている。その写真を見るとはなしに眺めていると、だれもかれもがどこかで見たことのある教師ばかりなのである。あの人のセミナーにもこの人のセミナーにも同じ参加者がいる。もちろん、さまざまな人から広く学ぶことは悪いことではない。しかし、週末ごとにセミナー通いをする人たちは、いったいいつ「自分の研究活動」をしているのだろうか。いったいいつ本を読んでいるのだろうか。「移動中」という答えが返ってきそうである。しかし、移動中にできる研究などたかが知れてるし、移動中に読める本などテレビにも似た読みやすいものでしかない。それは移動の多い私にはよくわかる。

彼ら彼女は研究をしていない。私には確信がある。少なくとも私の言う意味での研究はしていない。同業者の理論ともつかぬ理論を受信し、同業者の実践を摘み食いすることによってなんとか教室を綱渡りで運営しているだけである。

高みから発言ではばかられるが、私は仕事が早い方である。研究的な活動なら他を圧倒するくらいに早いはずである。本をかなりのスピードで読むことができるし、原稿も四百字詰め原稿用紙二百枚くらいならば一日で書き上げることができる。そんな私でも、週末とか、三連休とか、夏休み中の数日とか、そうしたまとまった時間でじっくりと思考する日を確保しなければ実践研究などできない。

そもそも彼ら彼女らは教育書以外の本を読んでいるのだろうか、という疑いがある。そして教育実践者以外のセミナーにも参加しているのだろうか、という疑いもある。彼らはいったい、同業者以外の主張にどれほど触れているのだろうか。もしかしたらほとんど触れていないのではあるまいか。そしてその姿勢は、教育界を教育界として捉えるのではなく、あくまで実社会に生きながら「学校」を特別な場所として認知している子どもや保護者の視線と齟齬を来さないのか。実は、いま、教師は「先生と呼ばれる馬鹿」にさえ至らない、閉じられに閉じられた世界で右往左往しているのではないか。

よく教育実践セミナーにQ&Aコーナーが設けられている。そこに出てくる質問の質の低さに辟易することがある。そこには、教職五年目という教師が新卒時代にクリアしていなければならないような基礎的な教育技術を知らなかったり、教育基本法や学校教育法で定められていることを知らなかったり、文科省の出している各種教育用語の定義を知らなかったりということが平然と起こっている。これらは学校現場で普通に仕事をしていれば職員室で話題になるような事象である。もしかしたら彼ら彼女らは職員室からさえ遊離しているのではないか、とついつい疑いたくなる。

先生と、呼ばれるほどの、馬鹿でなし。

この諺は、教師方は周りから「先生、先生」と呼ばれて良い気分になっているけれど、呼ぶ側は敬意を込めて言っているわけではない、と教師を揶揄した言葉である。そこには「先生」なんて呼ばれているけれど、教師が知っている程度のことは教養ある人間ならばだれでも知っているよという含意がある。教師の住む世界が狭い世界とはいえども、教師が最低限の教養は身につけていることが前提なのだ。しかし、教師が最低限の教養さえもたず、閉じられた世界に閉じこもって社会から遊離しているのでは話にならない。もはや子どもにも保護者にも接する資格自体が疑われてしまうではないか。

教育書の著者やセミナーの講師も含めて、同業者の集団があくまで狭い世界であり、決して優秀な階層の集まりでもないと自覚することで、その他の世界に目を向けるべきではないのか。「先生と、呼ばれるほどの、馬鹿でなし。」という矢を、他ならぬ自分自身に向けながら。

教養とは、内田樹の言葉を借りるなら、「なんだかまるで分からないけれど、凄そうなもの」と「言っていることは整合的なんだけれど、うさんくさいもの」とを「直感的に識別する」能力のことである。人の師として子どもたちの前に立つならば、せめてわかりやすものだけを求めてカタルシスに浸るのでなく、「わからないけれど凄そうなもの」に触れようとする構えくらいは常にもっていたいものである。

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自分の分

われわれは自分の実力以下の職に就けば大物に見える可能性があるが、分の過ぎた  職に就くとしばしば小物に見える。

史上最高の毒舌家ラ・ロシュフコーの言葉である。皮肉な毒舌家といえども、その言葉は本質を突いている。教職という狭い世界のなかである程度の成功をおさめているからと言って、自分がなにか他人に影響を与えられる人物ででもあるかのように過信するのはあさましい。教職は社会全体から相対的に見れば、知的な職業でもなければ専門的な職業でもない。ましてや社会の優秀な階層が集まる職種でもない。ラ・ロシュフコーのこの言葉は私たちにそれを自覚させてくれる。

事実、新採用で赴任した最初の学校では仕事がうまくまわっていたのに、転勤した二校目の学校では学級崩壊を起こすという事例がよくある。四十代くらいになって、転勤を機に自身を失い、結果的に休職してしまうという例も多々見られる。どちらも子どもが変われば、地域が変わればどれだけ教育理念や教育手法を変えなければならないかということに無頓着だったことによって起こる。わずかばかりの成功を過信し、教育の神髄を得たような気になっている高飛車な人物に多く見られる事例だ。まさに「先生と呼ばれる馬鹿」がこうした不幸に見舞われる。

おまけにこうした教師たちは、学級崩壊の憂き目にあっても、なかなか自分の手法を変えようとはしない。かつての成功イメージが取り憑いてしまって、そこから離れられないのだ。「先生と呼ばれる馬鹿」病にひとたび感染してしまうと完全治癒は殊の外難しい。分の過ぎた職業どころか、同業同職種にスライドしただけなのにこの有り様である。われわれはほんとうは小物の集まりなのだ。

書店の教育書コーナーをにぎわす著者とて同様である。教育界では少しばかり名を馳せているものの、その実態は数万の市場において数千の売り上げに一喜一憂している小物にすぎないとも言える。狭い世界における、しかも閉じられた世界における成功など、自らを過信させるほどの価値などないのだ。

私は教師を貶めたいのではない。自分の仕事に対して、或いは自分自身に対して、ある意味、このくらい冷めた眼差しを向けていたほうが謙虚になれるよと言いたいのだ。「先生と呼ばれる馬鹿」に陥らないためにも、〈自分の分〉というものに自覚的であるべきだと言いたいのだ。

私も教師である。自分が子どもたちに与える影響を大きさを知っている。自分の指導が昨日したときの喜びもよく知っている。ときに子どもたちを囲い込みたくもなると、職員室で自分の正しさを声高に主張したくもなる。しかし、少なくとも私は、自分自身を高めること以上に、自分の勤務する学校を少しでも良い学校にすることを主眼に毎日を過ごしている。そのために同僚を大切にしたり、みんなが働きやすい環境をつくって間接的に子どもたちに還元したりということを日々考えている。そのために、ときには管理職と軋轢を起こすことにさえためらわない。

私は断言するが、「先生と呼ばれる馬鹿」は、自分のために仕事をしているからこそ陥る病である。教師は自己実現のためにある職業ではない。子どもを育ててなんぼ、子どもの活き活きとした姿があってなんぼの職業である。授業がなめらかに進んだり、集団を統率するスキルを身につけたり、或いは自分のやりたい教育手法を周囲と軋轢を起こしながらゴリ押ししたりしながら自己実現を図る職業ではないのだ。

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見えない選択肢

先生と、呼ばれるほどの、馬鹿でなし。

教師や弁護士、医者、その他もろもろの「先生」と呼ばれる職業に就く人たちは、周りから「先生、先生」と呼ばれて良い気分になっているけれど、呼ぶ側は敬意を込めて言っているわけではない。「先生」と呼称される人々を戒める警句である。

「先生」の代表はだれがどう考えても教師である。「先生」は「先に生まれた」「先に生きていた」と書く。先に生まれていさえすれば、子どもたちに教える程度の某かはもっているものである。つまりは、だれにでもできる職業に過ぎない。自分の身をどこかその程度に考えておくのがいい。私はそう感じている。

新採用から数年間、教師として仕事をし、それなりに学級をうまくまとめ、それなりの成果を上げた人たちが、なんとなく高飛車になっていくのを見てきた。新採用の頃はこんな校則がなぜあるのだろうとか、こんなことを学んで何の益があるのだろうとか、こんなことを強制するのは実社会とかけ離れてるよなとか、学校現場にさまざまな疑問を抱いていたのに、数年経つと〈学校的リアリズム〉に一切の疑問をもたなくなる。そうなったとき、教師は文字通り「先生と呼ばれる馬鹿」になる。

先日、私は国語の単元テストの試験監督をしていた。授業で一つの単元が終わり、予告してペーパーテストをするわけだ。子どもたちはこのテストが評定資料とされることをよく理解している。高校入試においても社会生活においても、国語の力があるのとないのとでは大きな差が出ると私に言われ続けてもいる。子どもたちも必死に勉強して臨む。

試験時間は三十五分。ちょうど解くのに三十五分間かかるような、記述式問題の多く出題されているテストである。

試験監督をしていた私は、ふと子どもたちの様子を観察した。もちろん、それまでだって試験を受ける子どもたちを眺めてはいた。しかしそれは、カンニングがないようにとにらみを効かせていただけであって、子どもたちがどんな様子かと観察していたわけではなかったのだ。

子どもたちは必死に問題に取り組んでいる。カリカリカリ…と、教室には解答用紙に書き込む音だけが響いている。だれ一人、さぼっている者はいない。諦めている者もいない。寝ている者もいない。ただの一人もいないのだ。手元のストップウォッチに目を向けると二十九分五○秒を指している。残り時間は五分である。普通の感覚でいえば、もう終わっているボーッとしている者や、諦めて机に伏している者がいて良さそうな時間帯である。なのにいない。だれ一人いない。みんな、私の言う国語は大切だという言葉にただ従っているのだ。

私は正直、気持ち悪いと感じた。自分はなんと罪深いことをしているのだろう、と。自分のやっていることが教育ではなく、洗脳なのではないかと自戒した。しかし、ある意味、教育の成功とはこういうものなのだ。教育の成功とは、いかにそうと気づかせずに、子どもたちに「別の選択肢」があることを見えなくさせるかという営みなのである。いかなる教師もこの場所からは逃れられない。

試験学力の向上を目指す教育ばかりがそうなのではない。協同学習と称してみんなで力を合わせて課題を解決することが尊いという教育においても、子どもたち全員が嬉々としてそれに取り組む状態が形成されるならば、それは「別の選択肢」を見えなくさせているのである。おそらく協同学習に嬉々として参加する子どもたちのなかから村上春樹のような才能は出づらいし、かつて多くの研究者が体現していたような寝食を忘れて学術に没頭する変人学者も出現しにくいだろう。

部活動において、練習し結果を出すことに必死になる子どもたちも同様である。それは部活動に熱中する選択肢を選ばされた故に、ゆるやかな学校生活を送るという選択肢を剥奪されているとも言える。教育の成功とはそうしたところにある。

成功している教師ほど、こうした構造に無頓着である。このことに無頓着なままに自分をいっぱしの教師だと感じるようになる。おそらく、「先生と呼ばれる馬鹿」はそんなふうに生まれていく。仕事だからこの営みをやめることはできないけれど、そのことに対する疑いを抱き、怖ろしさを抱く感性だけは持ち続けたいものである。

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ことばと経験

学習指導要領は「適切な表現」「的確な理解」「言語感覚」「国語を尊重する態度」等々、あたかもあるべき言語の使い方、だれもに共通する言語の美醜感覚があるかのように語る。いわゆる「道具言語観」に立っている。しかし、言語は表現したり理解したりするための道具なのではなく、人間にとって世界観を形づくるための「思考そのもの」であり「創造そのもの」なのである。国語科を「言語の教育」と位置づけることは、こうした「思考」や「創造」の営みを子どもたちに経験させ、その子なりの言語による世界観を構成させることに他ならない。

この世には古くから、「ことば」と「経験」はどちらが広いかという議論がある。言語を「思考そのもの」と考えるとき、思考経験をもつ者ほどあざやかなことばを使うことができるという意味で、「ことば」と「経験」は「経験」のほうが広い。しかし、「鏡蛇」を経験することができないことからもわかるように、言語がその創造機能をはたらかせるとき、「ことば」は「経験」を凌駕する広さをもつ。この世にないもの、自分の経験にはなかったものを創り出すことがある。

国語科が「言語の教育」であるということは、子どもたちにこの両方の経験を意図的・計画的に体験させ、言語というものに畏敬を抱かせる、そんな教育になるのではないか。こう考えると、先に挙げた学習指導要領の目標の文言も道具言語観に見えなくなってくる。

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思考と創造

国語科が「言語の教育」と規定されたのは一九七○年代である。既に五十年が経過しようとしている。なのにいまだに(いや、もしかしたらいまだからこそなのかもしれない)、言語を道具だと考えているあさはかな教師が多い。言語とは「思考」そのものである。言語教育とは思考の教育である。国語科が「言語の教育」というのは、国語科が「思考の教育」であることに他ならない。

思考は母国語に規定される。思考どころか、認知・認識自体が母国語に規定される。日本人には犬の鳴き声は「ワンワン」と表現され、多くの日本人が犬の鳴き声を「ワンワン」と聞いている。それは喃語としてさえ機能し、「あっ、ワンワンだ」と言葉を覚えたての幼児が犬を指さして叫ぶほどに馴染み深い語である。しかし、犬の鳴き声はよく知られるように、英語圏では「バウワウ」と表現される。フランス語なら「ウアウア」、中国語なら「ウーウー」、スペイン語なら「グゥアウグゥアウ」、ドイツ語なら「ワウワウ」……というように、それぞれの人がそれぞれの母語に応じた犬の鳴き声をもっている。この鳴き声の表現の違いは、それぞれの母語に応じて異なったイメージの犬の観念を形づくっているはずである。

また、英語ではタコとエイを併せた「デビル・フィッシュ」という概念があるが、日本語にはこの概念がない。日本人にとってはタコはタコ、エイはエイだ。この概念をもつ文化圏ともたない文化圏で海洋生物に対する分類認知が異なるであろうことは想像に難くない。私たちは文末を聞き終えるまで発話の意味が肯定を意味するのか否定を意味するのかがわからない言語文化圏で育ってきた。その成文構造は私たちの思想形成と無関係ではないはずだ。主語の次に述語が来る、術語以前に肯定否定を明らかにする成文構造をもつ言語文化圏の人々と、コミュニケーションの在り方が同じであるはずがない。

外国語との比較ではわかりにくいというなら、国内の方言の違いを考えてみるとよい。特に関西弁を考えるとみるとわかりやすいだろう。関西弁が関西文化圏のあの独特の雰囲気をつくっているのはほぼ間違いないと感じられるのではないだろうか。人間関係のつくり方から空気の読み方、なにをおもしろいと思うかに至るまで、関西人の認知・認識は関東圏のそれとは明らかに異なる。加えて関西以外の人たちが上京したとき、自らの出身地の方言を極力控えて標準語に近い話し方をしようと意図するのに対し、関西人だけが東京においても関西弁で強弁するあの在り方が、関西弁を用いてきた文化圏としての生育環境と無関係とはとても思われないはずである。

思考は母国語(母語)に規定されているのである。

更に言うなら、言語の機能は思考だけではない。言語は新たな意味をつくり出すことがある。いわば「創造」の機能をもつ。

例えば、「鏡」を思い浮かべていただきたい。次に「蛇」を思い浮かべていただきたい。双方ともに生活経験から簡単に思い浮かべることができるはずだ。では、次である。「鏡蛇」というものを思い浮かべてみよう。いかがだろうか。全身鏡張りの蛇が思い浮かびはしないか。それも「鏡」や「蛇」を思い浮かべたときと同様の簡単なイメージ化によって。もちろん、この世に「鏡蛇」なるものは存在しない。しかし、世に存在しないものを、私たちは言葉を用いることによっていとも簡単に頭のなかに生成してしまう。もしも言葉がなかったらとしたら、私たちにこの機能はない。たとえ鏡を見ることができ、蛇を認識することができたとしても、そこに「鏡」という語と「蛇」という語がなかったならば、その概念をもたなかったならば、この世に存在しない「鏡蛇」を思い浮かべることは不可能だったはずなのだ。これが最も基礎的な言語の創造機能である。

かつてコレステロールは健康を害するものとのみ規定されていた。後に善玉コレステロールが発見され、これがないと健康を維持できないとされるようになった。「コレステロール」という語に新たな側面が発見されたのだ。このどちらかというネガティヴな語に「善玉」「悪玉」とつけてみる。すると新たな側面が創造される。こんな実験をしてみよう。例えば「善玉ストレス」と「悪玉ストレス」。例えば「善玉リスク」と「悪玉リスク」、「善玉インフレ」と「悪玉インフレ」などなど……。いかがだろうか。これらの概念を考えてみると、「ストレス」や「リスク」や「インフレ」という語について自分がもともと抱いていたイメージに対して広がりや深まりが出て気はしないだろうか。「創造」とは内田樹の定義に従えば、自分がインプットした覚えのないアイディアが自らのなかからアウトプットされることである。「善玉」「悪玉」という冠語を施すだけでその体験が自覚されないか。これも言語の創造機能の一つだ。

例えば、私はこの文章を書くにあたって、何を書くかを事前に決めていたわけではない。ただ第一文である「知識と思考は異なる。」という文を打ってみた。すると、「『吾輩は猫である』は……」という段落がすらすらと私のなかから出てきた。「知識」と「思考」の差異を自分が説明するならこんな具体例かなというものが私のなかから湧き上がってきたのである。その後、「思考」について語っているとき、私のなかに「創造」について語る後半は想定されていなかった。「思考」について語っているうちに「思考」だけでは物足りない、「創造」についても語るべきだろうとする表現の核ともいうべきものが生まれてきたのである。これも言語の創造機能の一つである。

言語を道具と考えるものは、表現者にまず表現したいことがしっかりと存在し、それを的確かつ適切に表現するために構成や修辞が用いられるという順番で考える。しかし、そういう人とて、しっかりとプロットを立てて書き始めた文章のはずだったのに、出来上がった文章はまったくプロットとは異なるものに仕上がったという経験が一度や二度ではないはずだ。それは言語に創造機能があるからなのである。言語は使っているうちに思考を伴う。言葉による思考はそれまで自分が考えたこともなかったことを産み出す。しかもその瞬間瞬間に創造していく。そういうものなのだ。

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知識と思考

知識と思考は異なる。

「吾輩は猫である」は夏目漱石の作品である。これは知識を伝える言葉だ。しかし、夏目漱石は理性と自然における「自然の優位性」をさまざまな作品を通して描いた。こう言えば、思考を喚起する言葉となる。前者を語る教師が多いなか、後者のような語りのできる教師が必要である。しかも、ここで大事なのは、訊かれれば具体例をたくさん挙げられる、そういう知性だ。

「吾輩は猫である」が漱石の作品であることは、「吾輩は猫である」を読んでいなくても語れる。漱石が「自然の優位性」をさまざまな作品を通して描いたことも、なにかから聞きかじれば語ることができる。しかし、その具体例を語るということになると、それは漱石の作品を多数読んでいないと語れない。しかも、それを自らの言葉で聴く者にわかりやすく伝えるとなると、多数の作品を読んでいるだけではだめで、それが自分のなかに溶けていなくてはならない。つまり、充分に咀嚼され、充分に消化され、充分に吸収されていなければならない。更に言えば、語るのに不必要な要素については排泄されている必要もある。そこまで語り手のなかに肉体化されているようなことでなければ、実は思考を喚起する言葉など語れないのだ。

例えば、「自然の優位性」をテーマにもつ漱石の代表的な作品の一つに「それから」がある。「それから」を具体例に「自然の優位性」を語るとしよう。これが肉体化されるほどに自らのなかに溶けている語り手には、高等遊民の未熟な論理性を理解するような経験がなくては難しい。また、社会批判を主とするそうした未熟な論理性を凌駕するような、人生を変えるような恋愛に陥ったことがあればなお良いだろう。更には不倫経験をもっていたなら、しかもそれが相手の配偶者にばれてしまい、その葛藤に悩み抜いた経験をもっていたなら、なおさら深く肉体化されるかもしれない。そしてそういう人物の語りが説得力をもち、聴く者の思考を喚起するのは、その語り手に我が事として自分なりに思考した経験があるからである。そうした経験こそがこの具体例を自らのなかに溶解させ、肉体化させることになる。言葉によって他者に思考を喚起しようとすれば、経験によって俗に言う魂の載った言葉を語ることが最も機能的である。

しかし、この論理は破綻している。不倫経験を思考させるには不倫経験をもっていなければならないとしたら、殺人を思考させるには殺人の経験をもたねばならず、死生観を思考させるには死の経験が不可欠とならざるを得ない。こうなってしまうと、死生観を語る資格をもつ者が世の中にいなくなってしまう。

人は自分の死を経験できない。しかし、自分の死が他人に与える影響を想像することはできる。それが自分の死の意味であると考えることもできる。それは自分の身内、或いは自分の身近な人の死が自分に与えた影響から想像するからだ。そうした人を亡くしたとき、人はこれまで当然のようにそこにいたはずの人を失う。自分の周り、自分の世界を構成していた重要なものを一つなくす。世界がいびつになる。なにかほかのもので埋めることは不可能である。ただそのいびつな世界に慣れるしかない。そして数年経つといつしかそのいびつな世界が普通の世界に、つまり日常となる。

また、そうした人を亡くしたとき、人はその人の人生とはいかなるものであったのかと考える。その人と共有した時間をすべて想い出しながら、あの言葉はこういう意味だったのではないか、あの表情はこういう意図だったのではないか、あの行動はあの言葉とつながっていたのではなかったかと思いを馳せる。その人のことばかり考える時間が数日、数週間、数ヶ月……場合によっては数年間続く。そんな時間が、人に死と人生の関係を思考させる。そんな時間が人に死生観をつくる。

本気で「殺したい!」と思ったことのある人間は、実際に殺してしまった人を見聞きする度に、その人と自分との分岐点はどこにあったのかと考えずにいられない。そしてその差は強度の理性や強力な意志などではなく、もしかしたらそこに包丁がなかったことかもしれない、もしかしたら介護を要する母親がいたことかもしれない、もしかしたら明日友達とランチの約束をしていたことかもしれない、もしかしたら……と考えざるを得なくなる。ほんのちょっとした違いかもしれないというところに思いが至ったとき、自分のなかにも殺人者となるかもしれぬ可能性が垣間見えてくる。結果、殺人者という存在の業について思考することになる。自分のなかの闇の部分に恐怖せざるを得なくなる。

こういう経験をしたとき、人は姿勢を語る言葉、殺人を語る言葉に魂を載せることができるようになる。そう。思考を喚起させる言葉を持ち得るのは、自ら思考した経験のある者だけなのだ。思考した経験をもつからこそ、その具体例も生々しく語ることができるのだ。自らのなかに肉体化しているとはそうした状態を指す。

ある種の挫折が、ある種の失敗が、ある種の失恋が、ある種の喪失が、総じてネガティヴな経験がときに人を大きく成長させる所以がここにある。そうした人々は魂を載せて語る言葉をもつに至る。必ずしも他人に語るとは限らない。自分に対してこういうことなのだと語る、その決意とともに生きる姿勢が変わることもある。いずれにせよ、そこには魂を載せた自分だけの言葉が形づくられている。幸福は「いまの肯定」を前提とするが、ネガティヴな経験は思考を伴うのだ。

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日々発信の原理

自分の日常を発信型にすること──これが毎日の仕事を充実させるための最良の方法です。

自分の生活を発信型にすると必然的に受信が充実します。

例えば、毎日学級通信で子どもたちのエピソードを二つずつ紹介すると決めたとします。すると、学級を通信のネタが何かないかという目で見るようになります。最初は「これは!」という大きなエピソードばかりに目が向きがちですが、慣れてくると子どもの何気ないやりとりに実は大きな価値があることに気づかされたり、一度も通信にエピソードを書くことができないでいた子を集中して見ているうちにその子の意外な一面を発見したり、といった副産物が生まれ始めます。こうなるとしめたものです。子どもを見る目が急激に養われてきます。

何気ない、小さなエピソードを価値づける担任の目をどう表現するか、そんなことも考え始めます。その積み重ねが子どもに対する教師の指導言をも変えていきます。小さなことをしっかりと褒めることができるようになりますし、小さなことが後に大きなことにつながる可能性があるのだということを子どもに対する戒めとして語れるようになっていきます。要するに、子どもを見る技能が高まるだけでなく、子ども観、つまり「子どもを認識する目」が変わるのです。

古くから教師の力量形成に研究授業をたくさんすることが奨励されるのも同じ理由です。四月に、今年の十一月に「ごんぎつね」で研究授業をすることに決まったとしましょう。このとき、過去の指導案を一つ手に入れてそれをそのまま追試するなんていう教師はほとんどいません(皆無ではありません・笑)。本屋で「ごんぎつね」に関する本を一冊だけ買ってその通りに追試するなんていう教師もまずいません(こちらは皆無です。本屋に行く時点で指導案追試の人よりもはるかに前向きな人ですから・笑)。

たいていの場合、過去の指導案をいくつか手に入れ、「ごんぎつね」関連の書籍を三冊くらいは買うのではないでしょうか。そしてそれらを読み比べることで、自分はどんな「ごんきがつね」の授業をしたいのか、それはなぜなのか、それを実現するにはそれまでにどんな指導をしておかなければならないのか、そんなことを考えるはずです。そんななかで、物語の授業って子どもがどんな状態になれば成功したって言えるんだろうとか、そもそも物語って何のために勉強するんだろうとか、国語の授業って何のためにあるんだろうとか、さまざまな〈メタレベルの問い〉がもたげてきます。要するに、授業づくりの技能が高まるだけでなく、授業観、つまり「授業を認識する目」が備わっていくのです。

私は二十八歳で雑誌原稿を書くようになりました。三十歳の頃にほぼ毎月原稿依頼をいただくようになりました。三十二歳のときには、毎月、三~五本の原稿を寄稿するようになっていました。三十四歳のときには、三十歳のときに依頼された処女作を出版しました。あれこれ悩み、あれこれ考え、依頼を受けてから四年かかって上梓したのです。私はノリにまかせて簡単に書くのも、自分で納得できないものが自分の処女作になるのも絶対にいやでした。そのこだわりをしてまあ及第点かなと思われるものを書き上げるのに要した歳月が四年だったのです。その後、単著・編著をあわせて四十冊以上の著書を書いていますが、こうした執筆生活を送っていることで、私の教育観、つまり「教育を認識する目」はどんどん変化してきているのです。

発信型の生活に身を置くことは、実は受信を充実させるだけでなく、世界観、つまり「世界を認識する目」を高めることなのです。

いま、ブログやSNSで発信する教師がたくさんいます。ただ、ネット上で発信している若い教師を見ていて、私が違和感を抱くのは練られていない文章ばかりが羅列されていることです。垂れ流すように文章がアップされているのですが、どれもワンエピソードで分析がないもの、今日体験したちょっといい話的なものが多いのです。この手のものをいくら書いたとしても、実は発信型の生活に身を置くことにはなりません。

御多分に漏れず、私もブログやSNSに頻繁に発信し続けている教師の一人ですが、私はつれづれなるままに綴った文章をネット上に上げることはありません。一度も推敲していない文章をネット上に上げることもしません。もっと言うなら、最低限、教育雑誌に寄稿しても良いようなレベルだと自分でなさっとくできる文章しかネット上に上げないのです。ネット上にアップする小さな文章でさえ、一つのまとまりをもつ見解を述べているのです。

両者の違いを侮ってはなりません。前者は自分の感覚にこだわり続けることを前提とした自己満足的な投稿であり、後者は日々の世界観拡大に向けての意図的な営みなのです。「発信型の生活に身を置く」とはそういうことなのです。表現には必ず「相手意識」があります。「目的意識」もあります。「条件意識」や「方法意識」や「評価意識」もあります。これらがすべて揃った表現をすることだけが、「発信」の名に値するのです。だれに読まれることを想定もせずにただ漠然と書く、構成意識をもつことなくただつれづれに書く、書いたら書きっぱなしで自己評価することもない、こういう表現は自らの「世界観」に影響を与える表現にはなり得ないのです。

最後に、もう一度繰り返します。自分の日常を発信型にすること─これが毎日の仕事を充実させるための最良の方法なのです。

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研究集団ことのは×北の教育文化フェスティバル/2015年3月21日(土)・22日(日)

【拡散希望/受付開始/定員37/残席28】
研究集団ことのは×北の教育文化フェスティバル/14の模擬授業で学ぶ学級開き・授業開き/2015年3月21日(土)・22日(日)/札幌市産業振興センター/4000円
http://kokucheese.com/event/index/247342/

「研究集団ことのは」×「北の教育文化フェスティバル」
合同研究会2015春in札幌/2015年3月21日(土)・22(日)

テーマ:ロケットスタート!学級開き・授業開きの基礎基本

会場:札幌市産業振興センター
参加費:両日参加4000円/一日参加3000円


【プログラム/1日目】

09:05~09:15 受付
09:15~09:45 講座1/山田洋一
「学級開きの思想~そのダイナミズム」
09:45~10:15 講座2/堀 裕嗣
「学級開きの10の原理~そのミニマムエッセンシャルズ」
10:15~11:15 トークセッション:山田洋一×堀裕嗣
「学級開き~やるべきこと、やってはいけないこと」

11:30~11:45 模擬授業1:中学校国語/朝岡郁晶
11:45~12:30  トークセッション:宇野弘恵×大野睦仁×山下幸
「授業開きでやってはいけないこと~朝岡授業を題材に」

12:30~13:30 昼食・休憩

13:30~13:40 模擬授業2:小学校国語/駒井敬子
13:40~14:00 模擬授業3:中学校国語/松森亮介
14:00~14:20 模擬授業解説/山田洋一・堀裕嗣・山下幸

14:30~14:45 模擬授業4:小学校算数/近藤麻里子
14:45~15:00 模擬授業5:小学校理科/近藤真司
15:00~15:15 模擬授業6:小学校社会/森優也
15:15~15:35 模擬授業解説/山田洋一・宇野弘恵・大野睦仁

15:45~16:00 模擬授業7:小学校道徳/江渡和恵
16:00~16:15 模擬授業8:中学校道徳/髙橋和寛
16:15~16:35 模擬授業解説/山田洋一・大野睦仁・堀裕嗣

16:45~18:00 模擬授業徹底分析!授業開きの基礎技術
コーディネーター:山下幸
指定討論者:山田洋一・堀裕嗣・宇野弘恵・大野睦仁


【プログラム/2日目】

09:10~09:15 受付
09:15~09:35 模擬授業9:学級開き・小学校低学年/宇野弘恵
09:35~09:55 模擬授業10:学級開き・小学校高学年/大野睦仁
09:55~10:15 模擬授業11:学級開き・中学校1年/米田真琴
10:15~10:35 模擬授業12:学級開き・中学校3年/山下 幸

10:45~11:45 トークセッション:山田洋一×堀裕嗣
「四つの学級開きから見えること、見えないこと」

11:45~12:45 昼食・休憩

12:45~13:15 模擬授業13:学級開き・小学校/山田洋一
13:15~13:45 模擬授業14:学級開き・中学校/堀 裕嗣

14:00~15:30 クロージング・セッション/宇野弘恵
「半月後の学級開きのために~いまからできる準備」
指定討論者:山田洋一・堀裕嗣・山下幸・大野睦仁



【講師紹介】

山田洋一(やまだ・よういち)
北海道札幌市生まれ。2年間私立幼稚園に勤務した後,公立小学校の教員になる。大学時代の同期とつくった教育実践研究サークルふろむAで,教育実践研究をみっちりと積む。その後,教育研修サークル「北の教育文化フェスティバル」をつくり,代表に。
著書:『発問・指示・説明を越える対話術』『発問・指示・説明を越える技術 タイプ別上達法』『発問・指示・説明を越える 説明のルール』(さくら社)
『教師を元気にする56の言葉』『子どもとつながる教師・子どもをつなげる教師』(黎明書房) /『山田洋一 エピソードで語る教師力の極意』『小学校初任者研修プログラム 教師力を育てるトレーニング30』(明治図書) など多数。

堀裕嗣(ほり・ひろつぐ)
札幌市立北白石中学校教諭。「研究集団ことのは」代表。主な著書に『国語科授業づくり入門』『教師力ピラミッド~毎日の仕事を劇的に変える40の鉄則』『教師力トレーニング・若手教師編~毎日の仕事を劇的に変える31の力』『スペシャリスト直伝!教師力アップ 成功の極意』『エピソードで語る 教師力の極意』『教室ファシリテーションへのステップ1~3』『THE 教師力』シリーズなど(以上明治図書)、『学級経営10の原理・100の原則』『生徒指導10の原理・100の原則』『教室ファシリテーション10のアイテム・100のステップ』『一斉授業10の原理・100の原則』『コミュニケーション能力って何?』など(以上学事出版)、『堀裕嗣のツイートを読み解く』『反語的教育論』(以上黎明書房)など。

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ゆるく設定される到達点

〈十割主義〉から〈六割主義〉へと転換することは、手を抜くことでもなければ、さぼることでもない。ロープをピンと張るのではなく、少しだけ遊びを残しておくようなイメージの〈戦略的構え〉である。ロープが余裕なく張ってしまえば、そこに人が来ればロープに当たって怪我をする。車が来ればロープは切れざるを得ない。遊びがあることによって、そのどちらも避けられる準備をしておく、そんなイメージの〈戦略〉である。それは相撲で言えば、腰をしっかり落として相手の攻撃に対応できる体勢を取ることを意味するだろうし、野球で言えば、バックホームにもダブルプレイにも対応できる中間守備を意味するかもしれない。

いずれにせよ、その本質は自分本位で猪突猛進するのではなく、相手や状況に応じて臨機応変に動ける体勢をキープしておくことにある。相手や状況と正面からぶつかって腹を立てるのでなく、相手や状況に流されて意に反して漂い続けるのでもない、ちゃんと臨機応変の動きができる準備を事前にしておく、そういう意味合いなのだと理解して欲しい。他人をフォローするにはフォローできるだけの体勢を整えておく必要があるのだ。 

若い教師には、研究授業を例にすればわかりやすいかもしれない。指導案を進めることだけが頭のなかを占めているとき、子どもの予想外の反応に教師は対応することができない。その発言に頭が真っ白になって立ち往生したり、その発言を無視したり、いずれにしてもその子に対応しできたとは言い難い状況に陥る。

しかし、力量の高い教師は指導案は書くものの、その指導案に縛られ過ぎることなく、あくまでもベクトルとして、到達点をゆるく設定している。だから子どもの予想外の反応も自分の授業に取り込むことができるのである。こうしたことができるのは、到達点をゆるく設定するだけの力量があってこその芸である。私の言う〈六割主義〉もこうした力量に支えられた、到達目標をゆるく設定する〈戦略的な構え〉なのだ。

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更新し続けること

ただし、〈六割主義〉で仕事に向かい、余力を自らの力量を高めることに向けるというスタンスで臨むとき、一つだけ肝に銘ずべきことがある。それは、「わかった気にならない」ということだ。

成長にとって最も足枷となるのは「慢心」である。人は新しいことを知ったとき、新しい世界が見えたとき、その喜びに慢心に陥りやすい。わかった気になり、他人の意見を軽視し、自らを堕落させてしまう。成長を欲する者は自らの発見に〈健全な猜疑心〉を抱かねばならない。ほんとうにはわかっていないことを納得した気持ちにならないようにする努力を自覚的に行われなければならない。メルロ・ポンティが「哲学とは自分自身の根拠が常に更新されてゆく経験である」と言ったが、その意味では、仕事上の成長も「哲学する者」こそが勝者となる。

自分自身の目で見、自分自身の手で触れ、自分自身の頭で考える習慣を身につけた者は毎日が発見の連続となる。毎日が発見の喜びに包まれる。自ら発見したものはそれを信じる気持ちも強くなる。その発見を絶対視したくなる。しかし、発見したものがスキルであろうと価値であろうと、それが絶対であることはあり得ない。世の中に万能なスキルはないし、絶対的な価値も存在しないのである。

むしろ、スキルは用いられる状況との相関で機能したりしなかったりするところにこそ本質があり、価値は状況によって流動することにこそ本質がある。スキルを用いるときに大切なのは状況を見極めることであり、価値観を形成するうえで大切なのは常に状況との遠近法でその価値を捉えることができるか否かなのだ。

しかし、人間は自らの発見に固執する生き物である。その発見には、発見されたものの価値以上の価値を付与してしまいがちである。そのバイアスを冷静に見極めなければならない。少なくとも冷静に見極めようとする志向性をもたなければならない。自分の発見には価値がある、そう考えたい自分をこそ疑わねばならない。そういう浮ついた感覚にこそ〈健全な猜疑心〉を向けなければならないのだ。

また、自ら発見したスキルや価値は、ときに周りの称賛を受ける場合がある。「先生の考えた方法はすごい」「先生の開発したシステムはすごい」「先生に僕はいっぱい学ばせていただきました」などなど、自分を慢心に陥らせる誘惑に取り囲まれることさえ珍しくない。しかし、こうした称賛にも〈健全な猜疑心〉は向けられるべきなのである。

何らかのスキルや価値を開発することは、然るべきときにそれを破壊し新たに創造するためにこそ行われるものなのだ、すべてのスキルも価値観も常に更新されることにこそ意義がある、そのくらいの構えでいたいものである。一つの場所に留まることは、力量を高めるうえではむしろ敵なのだ。

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あとがき

企画から上梓まで十二年の歳月を要した。説明的文章・文学的文章ともに「読むこと」領域の言語技術体系を二十にまとめることに曲折した故である。「話すこと・聞くこと」「書くこと」の二領域の体系づくりは既に二○○○年には完了していた。「読むこと」領域の文学的文章の言語技術体系は一度整理し、著書にもまとめもした。しかし、文学的文章教材指導の体系はそれでは納得がいかず、ましてや説明的文章指導の体系は整理がつかないままに年齢だけを重ねた。此度、本書を上梓するに至ったことに、感無量とはこういうことを言うのだろうと、また一つ実感的な語彙を増やしたことに一人ほくそ笑んでいる。

本書の内容はこの四半世紀に出会った多くの人々の支えによるものである。中でも、宇佐美寛先生、高橋俊三先生、大内善一先生、市毛勝雄先生、渋谷孝先生、阿部昇先生、鶴田清司先生、小森茂先生、大森修先生には言語技術教育の在り方について直接教えをいただいた。ここに深く感謝申し上げたい。また、野口芳宏先生には授業づくりにおいていかなる壮大な理念も機能させないことには無いと同じであることを、腹の底から実感させていただいた。私が生意気盛りの三十代前半に野口先生と出会えた幸運に感謝したい。更には、文学的文章教材指導の言語技術体系づくりに私が迷っていた折に教えをいただき、目を見開かれることになった田中実先生、須貝千里にも深く感謝申し上げたい。両先生にはご自身の提案が言語技術教育の体系に組み込まれることにはご不満を抱かれるとは承知しておりますが、どうかお許しいただきたく存じます。

私が教職に就いたのは一九九一年のことである。以来、「研究集団ことのは」という教育実践サークルで言語技術教育の研究を続けてきた。本書が形になったのは先達に教えを受けたことによるばかりでなく、「ことのは」でともに議論し続けてきた仲間がいたからこそである。森寛・對馬義幸・市川恵幸という「研究集団ことのは」草創期をともにつくった仲間たちにまずは感謝申し上げたい。私をトゥルミンモデルと出会わせてくれた田中幹也、ワークショップ型授業と出会わせてくれた石川晋、ディベート教育と出会わせてくれた田村和幸、「研究集団ことのは」でいまなお私を支え続けてくれている山下幸、常に私の教材開発に力を貸してくれている小木恵子の諸氏にも深く感謝したい。

そして、何と言っても私の国語教育研究を基礎づけてくれた、今は亡き師匠森田茂之に感謝申し上げます。あなたへの手土産がまた一つ増えました。来世でまた酒を酌み交わすのを楽しみにしています。

国語学力はもちろん言語技術だけではありません。しかし、国語学力のなかに技術的な側面があるのは確かなことです。その技術的な側面さえ整理できなくて、どんな国語教育ができるというのだ。そんな思いを抱いて、十二年間この仕事に取り組んできました。ここに私の国語教育実践研究人生の中間まとめとして本書を提出させていただきます。

今後も国語科授業づくりの研究、実践に精進することを決意して、あとがきに代えさせていただきます。

最後になりましたが、編集の及川誠さん、杉浦美南さんには企画から出版まで大変お世話になりました。特に本書原稿が完成するまでにはずいぶんと時間をいただきお待たせしてしまいました。ここに深く深くお詫び申し上げます(でも、お二方ともよくご存知のように、ほんとはそんなこと思っちゃいませんが……笑)。

松山千春/季節の中で を聴きながら……
二○一五年○月○日 自宅書斎にて 堀  裕 嗣

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まえがき

本書を江部満に捧ぐ。

二十数年前、私が同人誌に書いたたった一本の実線原稿に目を留め、著書の執筆を依頼してくれたのは江部満その人である。昭和から平成にかけて氏は明治図書の大編集長だった。その功績は明治図書出版一社に限らない。氏のプロデュースした「教育科学国語教育」「現代教育科学」の両誌は間違いなく昭和から平成前半の国語教育界をリードした。雑誌をプロデュースするのみならず、国語教育界をプロデュースしたと言ったら言い過ぎだろうか。氏の編集者生活は前半は文学教育を、後半は言語技術教育を間違いなく先導した。事実、氏の炯眼によって世に出た国語教育研究者・実践家のなんと多いことか。

実は、私が本書を江部氏に提案したのは二○○三年のことである。氏に「堀先生、これはすごい。これができたら国語教育を変えられるかもしれない」と余りある言葉をいただいたことをつい昨日のように想い出す。しかし、書けるという想いは空回りするばかり、形になるまでになんと十二年もかかってしまった。本書が形になる前に江部氏が明治図書を退職し、「現代教育科学」が廃刊になるなどとは、当時の私には想像だにできなかった。江部満の企画として本書を上梓したかったというのが本音である。私の筆があまりにも遅かったことを悔やんでも悔やみきれない想いである。

私の国語教師生活も四半世紀が経とうとしている。生活綴り方と一九五○年代の日文協の文学教育の研究からスタートした私の国語研究は、三十代に入ると同時に言語技術教育の観点を導入し、なんとか現代にも通じる綴り方実践と文学教育を打ち立てられないものかとの試行錯誤に明け暮れた感がある。私はかつての生活綴り方や文学教育と、言語技術教育やファシリテーションとをなんとか融合できぬものかといまだに実践と研究を重ねる者だが、此度、自分がそれなりに納得できる義務教育で培いたい言語技術の体系をまとめるに至ったことは、遅きに失したとはいえ万感の想いである。今後、これを基礎として「文学教育」はどうあるべきか、「綴り方教育」はどうあるべきか、そのためにどのような現実的な「言語活動」があり得るのか、そうした提案を創っていこうと考えている。とにかく、ここに中間まとめを提出できたことを素直に喜びたい。

さて、本書は学校現場で国語の授業を担当する小学校・中学校の教師が、国語学力の技術的な側面を曖昧にしたままに日常の授業に取り組み、試行錯誤しながらもときに手応えを得、万全の準備との手応えを得ながらも実際には紆余曲折する、そんな授業づくりを送っている現状をなんとか変えられないかとの強い想いを抱いて執筆したものである。できる限り難解な技術や専門的な技術を廃し、あくまでも日常の授業で使える言語技術に絞って提案したつもりである。しかも、各領域・カテゴリーの技術をそれぞれ二十に抑え、普通の教師が常に頭に入れたおけるだけの数に絞りもした。国語教育研究の専門家からすれば不備不足が多いことは承知しているが、学校現場の国語科授業を具体的に変えるためには、このような方法が良いのだと私なりに熟慮した結果の提案である。国語教育の専門家に御批正いただきたいのはもちろんだが、私がそれ以上に望むのは現場の教師たちに本書を使ってもらうことである。

私は私なりに、この体裁に整えるためにときにはほんとうは書きたいことを抑制し、ときには私自身の実践にはあまり必要としないことに紙幅を割いた。私の国語教育観、私の世界観においては、義務教育の現場教師に必要と想われる言語技術体系を提示したつもりである。本書が毎日の国語の授業づくりに悩む現場教師にとって少しでも力になるなら、それは望外の幸甚である。

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冒頭部・展開部・終末部

物語は基本的に三つの場面に分かれます。

a 冒頭部 … 物語の導入。登場人物の紹介や舞台設定の説明を主たる目的とした場面で、物語を進める〈事件性〉がない場合が多い。
b 展開部 … 物語の中心事件を描く場面。対役と大きくかかわった主人公が精神的成長を遂げる場面。
c 終末部 … 登場人物のその後の展開を描く場面で、この場面のない作品も多い。

〈冒頭部〉は『ごんぎつね』(新美南吉・小四)における語り手が茂平さんから聞いたと紹介する場面や『少年の日の思い出』(ヘルマン・ヘッセ作/高橋健二訳・中一)の第一部など、中心事件が起こる前の導入場面を言います。

〈展開部〉は物語を具体的に進める〈事件性〉のある部分であり、登場人物同士がかかわりあい、多くの場合、主人公がその中心事件を通して大きく精神的な成長を遂げます。教科書教材として採択されるような文学作品は主人公の成長物語である場合が多いので、〈展開部〉には主人公の成長(=成熟)があると言ってまず間違いありません。

〈終末部〉は中心事件を描いた〈展開部〉の後に、〈冒頭部〉に対応して後日談や語り手のその事件に対する評価が語られる場面です。教科書教材でこの〈終末部〉がないことが多く、物語の最終場面には『ごんぎつね』でも語り手の登場がありませんし、『少年の日の思い出』でも「客」と向かい合う「わたし」が再び描かれることなく物語が終わっています。

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文体

古くから「文は人なり」と言われ、〈文体〉には書いた人の人間がそのまま出ると言われます。

言い切らずに曖昧な表現の多い人は曖昧な人ですし、言い切りの連続で断定表現の多い人は自信家です。義務教育で〈文体〉というと「常体」か「敬体」かばかりが取り上げられますが、「と思う」なのか「と考える」なのか「と思われる」なのか、「~だ」なのか「~かもしれない」なのか「~であろう」なのか、こうした文末表現の特徴に最初から最後までこだわれる読み手を育てたいものです。

また、曖昧な表現ばかりでなく、大袈裟な表現がないか、情意表現は多いのか少ないのか、抽象論理を積み重ねているのか具体例で印象づけようとしているのか、疑問や反語の連続によって強調してはいないか、読者への問いかけや勧誘によってなにを喚起しようとしているのか、こうしたことに常に目が向く読者こそが国語学力の高い読者と言えます。実は説明的文章を読むことは、このような慣用表現や定型表現を無意識に収集することをも意味します。私たち教師も子どもの頃から数多くの説明的文章を読み、慣用表現や定型表現を身につけたからこそ、現在の文章力が身についているわけですから、子どもたちにも説明的文章をできるだけ多く読ませるべきです。〈多読〉の必要性が叫ばれて久しいですが、多くの提案が文学的文章を対象にしていて説明的文章の〈多読〉の実践はあまりありません。しかし、説明的文章こそ〈多読〉の必要性があるのです。

説明的文章をできるだけ多く読ませる。しかも、それぞれの機会に読み書きの関連指導を意識して、文章表現の機会を設ける。関連指導と言うと筆者の意見を取り上げて自分の意見を主張することばかりが実践されますが、筆者の〈文体上の特徴〉を活かして関連指導に取り組むことも必要なのではないでしょうか。

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文章構成

文章表現には構成意識が大切です。〈主想〉をわかりやすく伝えるために、提示する順序を組み立てて書くということです。義務教育を想定した場合、教師は次の六つを意識すると良いでしょう。

a 起承転結 … 漢詩の構成を取り入れた四段階の文章構成で、一般に物語創作・生活作文に向いているとされる。
b 双括型 …… はじめとまとめで二度にわたって結論を提示する文章構成で、一般に論説・評論に向いているとされる。
c 頭括型 …… 最初に結論を提示する文章構成で、一般に短い文章に向いているとされる
d 尾括型 …… 最後に結論を提示する文章構成で、多くの文章がこの構成を採用している。
e 無括型 …… 主張を明確にしない、序・本・結を明確にしない文章構成。情緒的な文章に適しており、随筆に向いているとされる。実は非常に難しい感性的な文体であり、多くの場合「駄文」となるので注意が必要である。
f 順次法型 … 事実・事件の経緯について順次性を第一義として提示する文章構成。一般に、記録文・報告文に向いているとされる。

この他に、市毛勝雄が『説明文の読み方・書き方』(明治図書・一九八五年)で提唱した説明的文章の構成「起承束結」が義務教育の作文指導ではかなり有効です。私自身は自分の授業においては日常的に用いていますが、一般的にこの呼び名は市民権は得ていません。興味がおありの方は一読をお勧めします。

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関数としての仕事

〈六割主義〉はただ単純に六割しか力を出さないということではない。Aさんの六割とBさんの六割は異なる。六割とはあくまで力を発揮する本人の心の持ち様であって、六割の力でどの程度の仕事ができるかは、その人の自力に比例する。

二十の力量しかもっていない人の六割は十二である。しかし、四十の力量をもつ人の六割は二十四である。つまり、二十の力量しかもっていない人の全力投球をゆうに超えるのだ。五十の力量をもつ人の六割は三十、八十の力量なら四十八である。百なら六十、二百なら百二十だ。教師の力量には二十の人と二百の人がいるほどに差があるものだろうか。そう思うかもしれない。しかし、私は断言する。ある。私の目から見ると、十倍程度の力量差ならば、そのへんにごろごろしている。

実は私の言う〈六割主義〉には、仕事を六割の力でやりながら、結果として得た時間的の余裕と精神的な余裕を地力を高めることに費やさなければならないという裏の含意がある。目の前の仕事に追われ、それを〈十割主義〉で片付けているだけではなかなか地力は高まらない。それは日常に埋没することを意味するだけだ。

地力を高めるのに最も大切なことは、仕事をしている自分自身を引いた目で眺めてみることだ。自分が良かれと思って取り組んだことがマイナス事象を引き起こしていないか、自分が一生懸命取り組んだ仕事がだれかに迷惑をかけることになっていないか、そうしたことを虚心な目で点検する視座をもつのである。こうした視座は、忙しい自分に驕っていたり頑張っている自分に酔っていたりしたのでは、決してもつことができない。忙しい日常に流れるのではなく、日常を構成する一つ一つの出来事について、自分自身の目で見つめ、自分自身の手で触れ、自分自身の頭で考える、そういう習慣を身につけなければならないのだ。〈十割主義〉で仕事をしているとなかなかこの習慣が身につかない。

例えば、〈十割主義〉で仕事をしていると、それが成功すれば成功するほどその仕事のしかたに対する確信が強くなくなっていく。もしもその仕事のしかたによって周りに困っている人がいたとしてもそれが見えず、それどころかどんどんその仕事のしかたを加速させてしまう。巨視的な眼差し、遠くを見ようとする眼差しからどんどん離れていく。周りで困っている人たちを余計に困らせていることに本人だけが気づかない。こういう状態に陥ってしまう。

また、〈十割主義〉で仕事をしている人は、自分が年齢を重ねて体力的に衰えてきたときに、若い頃と同様の仕事のしかたができないことに忸怩たる思いを抱くことになる。思うとおりに仕事のできない自分が許せなくなる。結果、精神的に病んでいくことさえある。心の病で休職するベテランの多くが、若い頃にバリバリ仕事を身していた人が多いことは私が言うまでもなく、この世界の常識ではないか。張り詰めている人ほど、張り詰められないことに弱い傾向をもつのだ。

もしそうであるならば、仕事は〈六割主義〉でするものと腹を括り、三十の地力を五十に高めることによって、十八の仕事量を三十の仕事量に現実的に増やしていくという在り方のほうが機能的とは言えまいか。同じ〈六割主義〉でも、地力の高低によって仕事量は変わるのである。

人間の力量は変数であり、仕事とは関数なのである。

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信頼性の担保

聞き手の態度として意外と指導されないのが、聞いた話をむやみに他人に漏らさないという、当たり前と言えば当たり前の、それでいて重要なマナーです。教師は子どもたちがよくこの点でトラブルを起こすことに、いやというほど遭遇しています。大人でもよくトラブルになるのは、皆さんもご存知のとおりです。

しかし、社会に出ると、守秘義務を課せられたり、信頼関係を築くために言ってはいけないことは言わないという態度がとても大切であったり、或いは情報を漏らさないことがかえってビジネス上の戦略となったりといったことがあるものです。その意味で、「聞いた話をむやみに他人に漏らしてはいけない」というテーゼは、マナーとしてのみでなく、「聞くこと」の態度として公教育で指導されるべき指導事項の一つである、と私は考えています。

生徒指導上の秘密や恋愛話などを教材化して、他人に漏らしても良いことと良くないこととを分けてみる、良くないという場合にはその理由も考えてみる、それを小グループや学級全体で交流してみる、そうした授業が年に数回はあって然るべきと思います。

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口形

口形正しく発声する。それが滑舌の良さをつくる。だれもが知っていることですが、これが意識的に指導されるということはほとんどありません。

いいえ、実は小学校の一年生ではかなり念入りに指導されます。一年生の国語の教科書には、昔から冒頭に「あ・い・う・え・お」の口形の写真が掲載され、すべての国語教室でその口の開け方がしっかり指導されているのです。しかし、学年が上がるにつれて、口形は指導事項として一切意識されなくなる……そういう現実があります。

おそらく小学校高学年から中学校にかけては、一年間の指導の中で一度も指導されることがないのではないでしょうか。子どもたちが正しい口形で発声しているのならともかく、指導事項としての基礎の基礎ができていないわけですから、教師はしっかりと意識して指導したいものです。

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場(描かれる場所・場面)

〈設定読み〉の第三は〈場〉です。物語によっては描かれる場面の位置関係や遠近などについて明らかにしないと場面設定を読み取れないという場合が少なからずあります。東西南北のどの方向に何が見えているか、或いは対象を見下ろしているのか見上げていのかという、主人公に見えている情景の在り方を明らかにすることが必要な場合もあります。主人公が場所を移動したことは子どもも理解するのですが、場所が移動したことによって主人公のいる位置の高さが変わり、見える風景が一変するということはよくあることなのです。

〈場〉の特徴を整理するには、登場人物の感じている〈五感描写〉に留意する必要があります。即ち、情景描写としてさり気なく描かれている〈視覚描写〉〈聴覚描写〉〈嗅覚描写〉〈味覚描写〉〈触覚描写〉です。「遠くに海が見える」とか「遠くに波の音が聞こえる」とか「どこからか花のような甘い香りがしました」とか「ざらざらとした冷たい風が吹いてきました」とか、こういった描写は、登場人物のいまいる場所の常体や雰囲気を読み取るべき描写と言えます。

また、『故郷』(魯迅作・竹内好訳・中三)の冒頭に見られるように、「空模様が怪しい」「鉛色の空」「わびしい村々」といった視覚描写、「冷たい風がヒューヒューと音を立てて吹き込んできた」といった聴覚描写や触覚描写といった情景描写が同時に描かれることで、主人公に「寂寥の感」を抱かせるというような、〈場〉の設定が物語の主題にかかわるような重要な要素となる場合さえあります。

〈設定読み〉で大切にされるべきは決して〈人物〉ばかりでなく、文学的文章の〈登場人物〉はみな、〈時間〉や〈場所〉との関係のなかで生きているのだと読み手は肝に銘ずる必要があります。

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表記

一つ一つの言葉をどのように〈表記〉するかということには、筆者の〈主想〉が顕れます。〈表記〉は単なる書き癖の場合も少なくありませんが、無意識に用いた〈表記〉だからこそ、その筆者の本質的な〈主想〉が顕れるということもあるのです。

例えば、「堀はひどいやつだ」と書くか、「堀はひどいヤツだ」と書くか、「堀はひどい奴だ」と書くかという三通りには、平仮名か片仮名か漢字かということ以上の違いがあります。読む側の語感の問題もありますから一概には言えませんが、「やつ」と「ヤツ」を比べた場合、現在の言語感覚では一般的には「ヤツ」の方が批判的な意味合いが込められているのが一般的ではないでしょうか。また、もしも筆者がかなり年齢が高いのであれば、片仮名表記は単なる音を表す意味で用いたのかもしれません。「奴」と表記すれば、筆者には軽蔑の眼差しが強いかもしれませんし、自分よりも下に見ているというニュアンスが加えられているかもしれません。いずれにしても、「堀はひどいやつだ」という一文においてさえ、「やつ」を「ヤツ」や「奴」と比較してみることでこれだけの思考が生まれるのです。文章を読む際に授業にこのような活動を入れて少し検討するだけでも、そうした体験を重ねれば子どもたちの〈言語感覚〉は大きく高まるはずなのです。      

日本語の表記は、唯一正しいものがあると考えてしまうとかえって思考の深みを失います。「寂しい」なのか「淋しい」なのか、「ことのは」なのか「コトノハ」なのか「言の葉」なのか、「ロマンチック」なのか「ロマンティック」なのか、文学的文章を読むときはもちろんですが、説明的文章を読む場合にも文章表現する場合にも、このような〈表記〉の違いに敏感であるほど国語学力が高いと言えるのです。

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選材

〈主想〉を伝えるために集めた〈素材〉から選択して〈題材〉化する観点、即ち〈主想〉に合致した〈主材〉を選択する観点を〈選材〉と言います。多くの題材を網羅的に取り上げて説得力を増す場合と、題材を焦点化して取り上げることによって意外性を喚起する場合とがあります。

例えば、「川釣りの魅力」について語りたいと考えた場合、収集した素材からその地域で釣ることのできる川魚を八種類挙げながら、そのそれぞれについて短く魅力を語っていくことによつて説得力を高めるという方法があります。これが前者の方法です。後者はその地域で釣ることのできる「幻の魚」を取り上げ、それを追っている地域の人を紹介することによって「川釣りの魅力」を醸し出そうというような〈題材〉の選び方を考えるとわかりやすいでしょう。

また、抽象的な主張、例えば「環境問題」について主張するとしましょう。この場合、身近な環境問題を三~五つくらい挙げたうえで、それらが地球や人々に及ぼす影響を伝えていくというのが前者の在り方です。これに対して、一見、環境問題とは関係がないと思われる〈題材〉を一点選び、それができるまでの経緯やそれが与える影響などを深く掘り下げ、実はこれほどまでに地球環境に影響を与えているのだ、私たちも日常生活のなかで意識すべきなのではないかと投げ掛けるのが後者のタイプと言えます。

網羅的に取り上げるか焦点化して取り上げるかは、どちらが良い悪いという問題ではありません。前項〈主材〉でも述べたように、「相手」「目的」「条件」に鑑みて、どのような〈選材〉の仕方がより文章表現として効果的かをよく考えて行うというのが良い在り方なのです。

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肯定的な質問

「ねえ、ひょっとして真琴じゃない?」 
「うわ~、悠子~。元気だった?いま、何してるの?」
「しっかり働いてますよ(笑)。真琴は?」
「私だって働いてるわよ~。お給料出たから、今日は買い物。ほら(両手いっぱいの買い物袋を見せる)」
「すっごーい!たくさん……どこで買ったの?」
「北武百貨店で夏物のバーゲンやってて、スーツ買っちゃった。それにね、四越デパートが……」

この会話を盛り上げているのがゴシックで示したような質問で  あることがおわかりでしようか。質問というものは、会話をふく  らませ、会話に勢いをつけるものです。多くの場合、聞き手の質  問がその会話の流れを決めるのです。主導権を握るのは聞き手だ  と言っても良いかもしれません。

ただし、質問は「肯定的な気持ち」から生まれた質問であると  いう条件があります。「そんなのおもしろい?」「何がしたいの?」 といった否定的な質問では、会話話は途切れてしまいます。

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発声

小学校から高校まで、教師は子どもたちに「声が小さい!」とか「もっと大きな声で」とか言って指導しています。しかし、ほとんど効果が上がりません。これに対して、部活動では声を出すことが奨励され、男女を問わず大きなかけ声が響いています。この違いは何なのでしょうか。

教師の多くは子どもたちの気持ちの問題だと思っています。もちろんそうした要素もあるでしょう。しかし、多くの場合、子どもたちが適切な声量という基準をもっていないことを要因としています。子どもたちはあの小さな声で、自分の声量が適切だと考えているのです。

実は適切な声量を決めるのは、その場の会場となっている箱の大きさで決まります。教室でスピーチするのと、体育館でスピーチするのと、グラウンドでスピーチするのとでは、それぞれ適切な声量は変わります。こうした会場の広さに応じて、適切な声量は変わるのだという意識を、子どもたちに早い段階でもたせたいものです。

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向上的変容を連続的に保障する

長く国語科授業は「経験主義的」な学力観・授業観で展開されてきました。

かつて国語科の教科目標が「国語科学習指導の目標は、児童・生徒に対して、聞くこと、話すこと、読むこと、つづることによって、あらゆる環境におけることばのつかいかたに熟達させるような経験を与えることである」(昭和二十二年版の学習指導要領試案)と規定されていた時代がありました。様々な環境を設定して言語活動の経験を与えれば、言語能力は必然的に伸びていくと考えられていたわけです。それが指導事項をはっきりさせずに行われる話し合い指導や、何も指導せずに原稿用紙を五枚渡されて「さあ書け」と言われる作文指導、教材を読んで教材内容をまとめるだけの説明的文章指導、やたらと登場人物の気持ちばかり考えさせる文学的文章指導を現出させたという歴史的経緯があります。その結果が、本章の冒頭でも述べた「国語科授業は何を学んだのかわからない」「国語科授業には効用感がない」「国語科授業は気持ちが悪くなるほど気持ちが問われる」「文学作品ばかり追い求めて実用性がない」という批判であった、といえるでしょう。

こうした批判が高まるにつれ、指導事項そのものを国語科授業の〈目的〉としようとする言語技術教育が提唱されたり、経験を与えることを大切しながらも指導事項を明確にさせることを説いた新単元学習が提唱されたりしました。しかし、私がこうした提案の中で最も現場に活かせる発想だと膝を打ったのは、野口芳宏の「向上的変容の連続的保障」(「国語教師・新名人への道」明治図書)というテーゼでした。

「向上的変容」論とは、効力感のない国語科授業の在り方を廃し、一時間一時間の国語の授業において「今日はこれを学んだ」と子ども自身がいえるような国語の授業をしよう、という提案です。その一時間で「今日はこれを学んだ」と子ども自身が言えるということは、子どもが〈向上的〉に〈変容〉したということを意味します。また、子どもがその一時間の学びを言えるということは、授業がその一時間の指導事項を明確にして行われているということを意味します。また、授業において指導事項が明確化されているということは、他ならぬ教師自身がその一時間の指導事項を明確に意識して授業したことを意味します。こうした授業を毎時間、すべての授業で一年間保障していく、それが「向上的変容の連続的保障」です。

さて、皆さんは「向上的変容」を連続的に保障すべき学力をどんなものだと考えるでしょうか。換言すれば、一時間一時間で子どもたちに培いたい学力をどのような質のものだと想定するでしょうか。言語技術でしょうか。学習意欲でしょうか。それとも国語を尊重する態度でしょうか。

私はこれを「言語技術」「国語教養」「言語感覚」の三つだと考えています。先にも述べましたが、私は国語学力を考えるにあたって、縦軸に「実用─教養」、横軸に「認識─体感」としてマトリクスをつくります。実用的で認識的な学力を「言語技術」、教養的で認識的な学力を「国語教養」、実用・教養を問わず体感的な学力を「言語感覚」と呼んでいます(本章「授業づくりの原理4」を参照)。

次頁の図1をご覧下さい。もう何度も述べたことですが、「言語技術」には基本的に「言語知識→言語技術→言語技能」という習熟三段階があります(「授業づくりの原理2」を参照)。これはこのマトリクスで説明するなら、まずは実用的な知識として「言語技術」を認識させ、何度も何度も意識的に使わせることによって「言語感覚」にまで定着させようという試みを意味します。これを〈スキル訓練型授業〉といいます。こうした授業は間違いなく、「向上的変容」を連続的に保障します。スキルを学び、そのスキルを使ってみることによってだんだん上手に使えるようになっていくわけですから、当然のことといえます。

この構図は実は「国語教養」にも見られます。国語科授業において古くから行われている〈発問─指示型授業〉がそれです。古典にしても文学的文章にしても、ある種の読み方が想定され、その読み方を何度も何度も経験することによって身につけていく、従来の授業はこういう構造だったのです。ただ「言語技術」のように指導事項が明確ではなく経験主義的であったために、教師にも子どもたちにもあまり自覚されることがなかっただけなのです。ということは、逆にいえば、それが明確に教えられ、子どもたちに伝わるのならば「向上的変容」を自覚させることができるということでもあります。私たち教師は「国語教養」を扱う場合にも、「ほら、この副詞がポイントだね。」とか「ほら、ここは『だ』って言い切っているでしょ。」といった、読み取りのポイントを曖昧にしないでしっかりと扱うべきだったのです。

しかし、国語科の授業はこのような「認識的学力」から「体感的な学力」へという一方向では成立しません。子どもたちが無意識に使っている言語能力について意識化させ、それを繰り返すことによって自分なりの言語能力体系をつくっていくという営みがあります。図2のような方向性ですね。そしてこのような「体感的な学力」から「認識的な学力」へと顕在化させる授業形態を実は〈ワークショップ型授業〉というのです。

国語科授業を展開するにあたって教師に何よりも必要なのは、こうした〈スキル訓練型〉〈発問─指示型〉と〈ワークショップ型〉とを明確に意識しながら、子どもたちにもわかるように使い分けることなのです。私はそれこそが「向上的変容の連続的保障」を実現するために最も必要なのだと考えています。

「言語技術」「国語教養」「言語感覚」の「向上的変容」が連続的に保障されることによってのみ、「思考力」や「学習意欲」といった大きな学力が醸成されていくのです。私はこのテーゼを信じて疑いません。

では、次章から、私の考える各領域別の一○○の言語技術の体系を提示していきたいと思います。それらの言語技術もまた、「向上的変容の連続的保障」が機能しなければ何の意味もないのだとご理解いただきたいと思います。

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時(描かれる時間軸)

〈設定読み〉における第二は〈時〉です。年月日、季節、期間(何日間の出来事かとか何ヶ月程度が経っているか)といったことを明らかにするだけでなく、主人公にとって時間が早く感じられているとかゆっくり感じられるとか、或いは時間が止まって感じられているなどといった心象時間までを含んだ概念です。

一般的に、小学校中学年までの文学的文章は、物語に起こった順序に沿って描かれています。しかし、学年が上がるにつれて回想シーンが登場したり、場面の変わり目が数年も経っていたりといった貴陽材が出てきます。子どもたちはこの〈時〉の流れが一定でない描かれ方に戸惑いを示します。教師や学力上位の子どもたちには違和感のない当然のことが、一部の子どもたちには読みの大きな障壁になっていることがあるので、授業においては〈時〉の確認を怠ってはなりません。

また、「ある日」「ある朝」といった任意の〈時〉を描いているように見えて、それが前の場面と後の場面の間のわずか数日にしか候補がないとか、月の満ち欠けやお祭り、戦時中の出来事などが描かれていて年月日を確定できるなどという場合も少なくないので、教師の側にも留意が必要です。

更には、登場人物の心象によって時間の感じ方が異なるのではないかという想像力を授業にもちこむことも有効です。「残雪」を捕らえるための良い仕掛けを思いついてがんの季節を待つ「大造じいさん」と、「残雪」を捕らえ後に逃がすことを決意して過ごす「大造じいさん」とでは、同じ時間でも長く感じたり短く感じたりすることがあり得るはずです。また、『お手紙』の「がまくん」と「かたつむりくん」のように同じ時間でも登場人物によって意味の違う時間を過ごすということも考えられます。

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語彙

人間は世界を言葉を認識しますから、〈語彙〉を増やすことは世界認識を広げることにつながります。その意味では、国語教育の核は〈語彙指導〉であると言っても過言ではありません。

〈語彙指導〉の一般的なイメージは「辞書を引くこと」です。古くから全国的に「辞書引き」の活動も流行しており、国語教室経営の核としている教師も少なくありません。辞書を引くことによって〈理解語彙〉をできるだけ増やし、実際にそれらを自分の表現に用いることで〈使用語彙〉にまで高めて行くという発想が「辞書引き」活動にはあります。しかし、〈語彙指導〉が「辞書を引くこと」とイコールであると考えるのは、間違いとは言わないまでも国語教育としては偏った学力観に基づいていると言わざるを得ません。国語教育には重要な指導事項として〈言語感覚〉が挙げられますが、〈言語感覚〉には文脈に即して〈理解語彙〉にない語句について「こういう意味ではないか」と想像しながら把握していくという活動が必須なのです。

日本語は〈真名(まな)〉(=漢字)と〈仮名〉でできています。漢字は言うまでもなく「表意文字」ですから、漢字の意味を知っていれば熟語の意味を想像するということができます。それを語義について漢字の表意に基づいて想像することも思考することもなく、一足飛びに辞書に頼るという在り方は〈語彙指導〉としては不十分です。しかも、辞書的な語義と、個々人が抱いている日常的で観念的な語義とでは、その指し示す広さが異なります。辞書は「赤」を「血の色」と説明しますが、私達は「赤」に対して「血の色」以上のさまざまな観念を付随させているはずです。むしろ、一般的に平仮名表記される和語(例えば「まほろば」「うたかた」など)を調べるときにこそ、「辞書引き」が全面的に機能すると言えます。

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主材

〈主材〉とは、書き手が〈主想〉に基づいて表現するにあたって、さまざまな素材のなかから選択した題材のことです。例えば、川釣りの魅力について語りたいと思ったときには、ただ「川釣りはおもしろい」と言うのではなく、ヤマメの魅力について語ったり川魚がえさに食いついたときの感触について語ったりします。この場合、「川釣りはおもしろい」というのが〈主想〉、「ヤマメの魅力」や「川魚がえさに食いついたときの感触」が〈主材〉ということになります。ですから、〈主想〉と〈主材〉とは必ずしも一致しません。むしろ〈主想〉と〈主材〉とが一致した文章はどうしても内容が抽象的になり、読者を惹き付けない傾向さえあります。

〈主材〉は更に二つに分けて捉えるほうが有効です。〈素材〉と〈題材〉の二つです。

A 素材 … 〈主想〉を読み手に伝える上で、具体例として書き手が選んだ事物・事象(=もの・こと)
B 題材 … 〈主想〉を読み手にわかりやすく(或いは楽しく)伝えるために、「素材の取り上げ方」「焦点の当て方」「記述・叙述上の力点の置き方」等の観点で加工した素材。

こう考えますと、〈主想〉を表現するために〈主材〉を選ばせるにしても、①どんな素材があり得るかを収集するという段階と、②収集した素材から中心的な具体例や論拠となる素材を選択する段階、更に③選択された素材をわかりやすく楽しく表現するために加工する段階、という三段階があることが理解されるはずです。

素材を加工して題材かするためには、だれに〈主想〉を伝えようとしているのか(相手意識)、その相手になんのためにその〈主想〉を伝えようとしているのか(目的意識)、③その相手にその目的で伝えるにあたってどんな制約があるか(条件意識)などに配慮する必要があります。

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自己顕示欲の抑制

会議などにおいて、話したいことを明確にもっている人ほど、他人の話を最後まで聞かなかったり話の途中で人の話を遮って割り込んだりするものです。自己主張をしたいとか、自分の主張の正しさを信じているとか、そういう人に多く見られる傾向です。

実は、子どもたちの中にも、もこうした傾向をもつ者が決して  少なくありません。人の話にすぐに割り込み、「いまは自分の番  ではない」という意識が希薄なのです。

しかし、聞く態度として、これらは批判されるべきことです。コミュニケーションを円滑に進めようとすれば「番意識」、つまり、「いまはだれだれがしゃべる番」という意識が不可欠です。

また、話に割り込むことはないのですが、自分に都合の良いように聞いてしまう、という傾向も現代人には見られます。まずは話し手の意図している通りに話の内容をまるごと聞き取る、次に自分の見方や考え方と照らし合わせてみる、更にはなぜ話し手がそういう意見をもつに至ったのかというコンテクストにまで思いを馳せてみる、そうした聞き方がよりよい聞き方なのです。

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呼吸

主にスピーチやプレゼンテーションが想定される「話すこと」において、言語技術として「呼吸」が挙げられると、読者の皆さんがまず最初に思い浮かべるのは腹式呼吸だろうと思います。

しかし、そうではありません。週に数回しかない国語の授業において子どもたち全員に腹式呼吸をマスターさせることは不可能です。私はかつて、十数年間、演劇部の顧問をしていました。生徒たちには毎日毎日三十分以上の発声練習を課していました。私はかなり厳しめの顧問でしたから、生徒たちは発声練習にまじめに取り組みました。それでも、女子生徒の七人に一人程度は、三年間やっても腹式呼吸をマスターすることができませんでした。三年間、ほとんど休むことなく毎日発声練習をしても女子生徒の七人に一人を取りこぼすのです。このことは腹式呼吸というものが国語の授業程度で身につくものではないということを意味しています。

私の言う「呼吸」はもっと単純です。それは「たっぷりと息を吸い込む」ということです。ある授業でのことです。私がある男子生徒を突然指名したことがありました。「~ってどういう意味なんだろうねえ。はい、敏夫くん!」といった感じです。敏夫くんは即座に「はい」とささやくような
声で返事をしました。息を吸わずに返事をしたのです。私はこれを見て合点がいきました。そうか。子どもたちの声が小さいのはちゃんと息を吸っていないからだ、と。皆さんも自分の学級の子どもたちを観察してみてください。きっと同じような例がたくさん見られるはずです。

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人(登場人物)

文学的文章は、叙景詩など極一部を除いて〈人物〉が登場します。多くの場合、文学的文章(特に物語)を読ませることは人物を読ませることと言っても過言ではありません。その意味で、登場人物を規定することは文学的文章を読み取るうえで必須の作業となります。〈設定読み〉においては、物語の登場人物を明らかにするとともに、主人公・対象人物・脇役・端役などを整理することは、小学校低学年から中学校に至るまで文学他的文章読解の基礎中の基礎です。私は次のように整理しています。

a 登場人物 …物語において実際に活躍(行動や会話)する人物であり、原則として動植物は含まない。ただし、ファンタジーやメルヘンなどにおいて、動植物が擬人化されている作品においてこの限りではない。

b 主人公 ……物語の最初から最後まで登場する登場人物であり、対役との関係において精神的な成長を遂げる。一人称視点で語り手を兼ねることがあり、また、三人称限定視点では、唯一、内面が描かれる登場人物となる場合が多い。場合によって「主役」と呼ばれることもあるし、「対役」とあわせて「中心人物」と呼ばれることもある。

c 対象人物 …主人公と最も多くやりとりする登場人物であり、事件を起こして物語を進展させる役割を担うことが多い。主人公に精神的成長をもたらす役回りを担う場合が多い。

d 脇役 ………主人公・対役以外の主要な登場人物。

e 端役 ………その他の登場人物。

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音読・黙読

〈音読〉は一般に活動概念と思われていますが、そうでない側面もあります。それは〈表現としての音読〉と〈理解としての音読〉があるからです。〈表現としての音読〉の技術は本書第七章で詳述しますが、よりよい音読表現(限りなく朗読に近づく)を目指すものです。これに対して〈理解としての音読〉は語単位・文節単位・句単位・文単位で文章内容を把握するために行うものであり、単元初発で行われる〈音読〉は基本的にこの〈理解としての音読〉です。いかなる文章読解も語、文節、句、文といったことばの単位レベルで内容を把握しなければ成立しません。その意味で、説明的文章に限らず、すべての「読むこと」の指導においては最初に最低でも五回程度、できれば十回程度の音読機会を保障することが大切です。

実生活で行われる読みは〈黙読〉であり、〈音読〉は一部の読み聞かせ等を除けば実生活ではあり得ない読みであるとして、一部に〈音読指導〉を批判する向きがありますが、〈黙読〉時においても頭のなかでは音声化されているのが〈黙読〉の本質であり、また、実際の授業では子どもたちに声を出させ、〈音読〉させなければことばの単位レベルのつまずきを教師が把握できない現実もあるため、〈音読〉は授業において重視されるべきものと考えるのが一般的です。私は〈黙読指導〉の基礎として〈問いかけ読み〉をしています。四~六人グループで一人ずつ一文を音読しては、その文に「なぜ」をつけてグループで考えます。「雨が降っていた」と読んだら、「なぜ雨が降っていたのか」という問を立て、「この後に雨が降る必然性があるかもしれない」という確認をして次に進む、といった活動です。学年が上がると、これを文節単位、文単位に移行させて、一言一句を蔑ろにしない読みの在り方を目指すわけです。

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主想

文章には内容と形式があります。文章表現において書かれる内容は、①執筆したいという動機をまず抱き、②その動機に基づいてよりよい題材を求める、という二段階を通って規定されます。書き慣れている人たちにとってはこの二段階が当然のことであり、未分化になってしまいがちなのであまり意識されませんが、子どもたちに指導する場合にはこの二段階をしっかりと意識する必要があります。このときの①執筆したいという動機に当たるのが〈主想〉です。

〈主想〉は書き手にとって内的に胚胎した動機のことですから、多くはその文章表現の主題になります。要するに、さまざまな事物・事象(=モノ・コト)のなかから、価値あるテーマを発見する書き手の心的な動機のことです。しかし、こうした書き手の動機は一般的に、書き手自身のなかから溢れ出るようなイメージで捉えられることが多いようですが、必ずしもそうとは限りません。他者から書いてくれと依頼されたとか、他者から書くように促されたことによって、書いているうちに動機の胚が事後的に生まれてくるということも少なくありません。ですから、教師は必ずしも子どもたちが自主的に書きたがるのを待つとか、無理にテーマが胚胎するような経験を与えようなどとせずに、書くことを日常化するなかでよりその子らしい〈主想〉に高めていくというような意識をもつほうが現実的です。そもそも教師でさえ、通知表所見や学級通信を書くときに、必ずしも当初から〈主想〉をもっているわけではないことがあるものです。しかし、書かなければならないという意識が日常の子どもをよく観察させたり現実を分析させたりしていきます。子どもだって同じです。授業を発信型にすることによってこそ、子どもたちの〈主想〉も高まっていくのだと心得ましょう。

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傾聴三動作

「うなずき」「あいづち」「おどろき」を〈傾聴三動作〉と言い ます。聞き手として話を聞くときに、話し手に話しやすい環境を  つくるための三つの動作です。

聞くということはよりよい情報を知るために行う「理解行為」  です。とすれば、話し手が気持ちよく話してくれるほど良質な情  報を得られることになります。その意味で、聞き手は常に「より  良い聞き手」になることを意識しなければなりません。そこで、  〈傾聴三動作〉なのです。

もちろん、〈傾聴三動作〉を子どもたちに学ばせる意義として  は、話し手に対する礼儀という観点もあります。特に、目上の人  の話を聞くときや、パブリックな場面で話を聞くときには、話し  手に対して礼を失することは許されません。また、友人同士の対  話・会話においても、〈傾聴三動作〉はコミュニケーションを円  滑に進めていくためのツールにもなります。〈傾聴三動作〉を身  につけた子どもたちは、それだけで好感を抱いてもらうことにつ  ながります。是非、身につけさせたい態度です。

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姿勢

「話すこと」は発声機能を旨としていますから、合唱や演劇同様、表現者の姿勢が大切です。しかし、「良い姿勢で話しましょう」と言っても、子どもたちには伝わりません。「良い姿勢」の要素を細分化して伝えなければなりません。姿勢や態度の指導は、その要素を細分化して指導するというのが原則です。

さて、「良い姿勢」とひと口で言いますが、その要素は次の四つです。

①背筋を伸ばす。
②胸を張る。
③顎を引く。
④肩の力を抜く。

野口芳宏はこの四つの要素が満たされた状態を〈安定した自然体〉と呼びました(『教室音読で鍛える・上』明治図書・一九九一年六月)。私は基本的に、子どもたちの音声表現の姿勢指導の基準をこの〈安定した自然体〉に置いています。

スピーチやプレゼンテーションはもちろん、音読や朗読、暗唱、そして劇指導や合唱指導など音声表現の基本姿勢としては応用範囲が広く、小学校一年生でも理解できるシンプルな指導事項にもなっていて、義務教育で指導するには最適だと考えています。

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ワークショップ型授業で活用させる

二○○○年代に入って「ワークショップ型授業」の必要性が叫ばれるようになりました。子どもたちに体験的に学ばせることによって、学習意欲を引き出すとともに実感的に指導事項を身につけることができるというわけです(『ワークショップ型授業で子どものやる気を引き出す』上條晴夫・学事出版/『ワークショップ型授業で国語が変わる』上條晴夫・図書文化など)。

いわゆる「ワークショップ型授業」は、次の三つの段階で構成されています。

【 説 明 】 体験型学習のフレーム、ルールを説明する。
【 体 験 】  フレーム、ルールに従って体験させる。
【振り返り】  体験によってどのようなことを学んだか、気づきや発見を交流させる。

時間配分としては、私の経験から〈説明〉に一割、〈体験〉に六割、〈振り返り〉に三割が理想的だと思います。もちろん固定的なものではなく、あくまでも目処に過ぎません。

「ワークショップ型授業」を構想するためには、それだけ時間をかけて体験する価値のある〈ワーク〉が必要になります。例えば、「ディベート」や「ペア・インタビュー」といったある程度の規模をもつ学習ゲームや、「グループ・ディスカッション」や「ワールド・カフェ」といったあるテーマに基づいて交流するためのルールのはっきりした創造的・対話的コミュニケーション形態です。こうした大規模なゲームやコミュニケーション形態を体験させることによって子どもたちはゲームやコミュニケーションに熱中し、知らす知らずのうちに既習の言語技術を用いてコミュニケーションを図ることになります。

〈説明〉→〈体験〉→〈振り返り〉という「ワークショップ型授業」の基本構成は、こうした時間的には三十分程度かかるような言語活動体験を中心に置き、そのフレームやルールの〈説明〉と体験による気づきや発見の〈振り返り〉とで挟み込む一時間を意味しています。もちろん、「ディベート」のように大規模な学習ゲームになると、一時間いっぱい〈説明〉した上で数時間かけての〈体験〉し、録音した音声や録画したビデオを見ながら〈振り返り〉を行うという大単元の構成もあり得ます。

「ワークショップ型授業」の実践者の多くは、子どもたちに一時間かけて体験する価値のある学習活動をと、ゲームの開発や交流の題材づくりに腐心しますが、最も大切なのは〈ワーク〉ではなく、むしろ〈振り返り〉です。もちろん、〈ワーク〉自体が子どもたちが熱中するようなおもしろい〈ワーク〉でなくては「ワークショップ型授業」が成立しないのは確かです。しかし、それを成立させることはあくまで〈方法〉であって、〈目的〉はその〈ワーク〉においてどのような気づきや発見があったかを語り合うことにこそ学習機能があるのです。ここを勘違いしてはいけません。

〈振り返り〉は私の場合、小集団での〈振り返り〉や学級全体での〈振り返り〉など、要するに集団での〈振り返り〉の後に、必ず個人での〈振り返り〉をさせることが大切だと考えています。指導事項としての言語技術も、学習意欲としての関心・態度にしても、国語学力は子どもたち個々に身につかなければ授業とはいえません。集団でよりよいものをつくったという経験は大切ですが、それは特別活動や総合的な学習の時間ならばともかく、国語の授業の目標としては成り立ちません。その意味で、最終的には必ず個人による〈振り返り〉をさせることが大切です。多くの場合、それは学習作文(=今日のこの時間で何を学んだのか、何に気づき何を発見したかを、授業の最後に短作文で書かせる作文形態)を書かせることが効果的です。例えば、〈ワーク〉の体験が終わって〈振り返り〉に十二分間を使えるとしたら、八分間をグループでの〈振り返り〉に、それをもとにして残り四分間を個人で〈振り返り〉の作文を書く、といった流れです。このように〈振り返り〉を設定すれば、他者の観点を学ぶこともでき、更に個人で自らの学びも確認できるということになるのです。

さて、「ワークショップ型授業」と聞くと、多くの読者は「話すこと・聞くこと」領域における大規模な学習ゲームを想定するのではないでしょうか。或いは、「読書へのアニマシオン」や「ペア・グループ学習」といった、教育界にある程度普及している提案型実践を想定する方も多いかもしれません。いずれにせよ、日常の授業とは少々距離のある、大きな活動をイメージしがちです。しかし、指導事項を明確にもち、言語技術教育や言語感覚教育をしっかりと意識していれば、「ワークショップ型授業」は日常実践とつながったものとして、また気軽に導入できる授業形態として効力を発揮するようになります。

例えば、ある物語を音読技術(第七章を参照)を中心に学習したあとに、四~六人の小集団をつくって、その物語からある場面(一~二頁程度)を選んで「群読」を考えさせる。「群読」のバリエーションを教えるとともに「群読」を考えるのに一時間、練習時間を少しとった後に発表会、小集団での〈振り返り〉と個人での学習作文とで一時間。これならば気軽にできるのではないでしょうか。この授業は、事前に音読の言語技術を学習しているが故に、その後の「ワークショップ型授業」が事前の学習の定着機能をもつ学習として位置づいているのです。

例えば、「主題の読み取り方」(第六章の言語技術15を参照)として、主人公が中心事件を介して学び成長するという構造を学んだとしましょう。その主人公の学びこそが主題であるというわけです。この構造を初めて教えるときには、まずは既習の教材を用いるのが効果的です。たとえば私は、中学一年生で教えるときにも、「おにたのぼうし」や「わすれられないおくりもの」といった小学校二・三年生の教科書教材を使います。そうした教材でこの構造を教えた上で、四人グループを十グループつくり、小学校四~六年生の物語教材を与えます。教材は一つの教材について二グループずつ、つまり、十のグループがあれば五つの教材を用意します。こうしてその与えられた教材から、主人公の中心事件を介しての学びと成長の構造を読み取らせ、主題を発見させるという小集団学習を行います。これが二十五分程度。その後は、同じ教材の主題を読み取った二つのグループ、計八人が集まって十分程度の〈振り返り〉を行い、更に五分程度で〈学習作文〉を書く、という流れです。これも事前の言語技術指導とその後の「ワークショップ型授業」とが、指導事項でがっちりと結びついている例といえます。

新しい提案というものはなんとなくとっつきにくく、実践するのに臆してしまいがちです。しかし、多くの場合、新たな提案は学習の〈方法〉であって、〈目的〉ではありません。指導事項を明確に意識してそれに基づいた学習活動を仕組む(本章「授業づくりの原理4」を参照)ということを意識していれば、新たな提案の在り方を自分なりに工夫することで効果的に取り入れることができるのです。

既に指導した言語技術を〈活用〉させることを〈目的〉にしたとき、「ワークショップ型授業」はこれ以上ないという効果を発揮する授業形態ともいえるのです。

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「まかせる」と「押しつける」

年齢を重ねると、もう一つ覚えなくてはならないことがある。

それは仕事を下の者に「まかせる」ということだ。

経験が多ければ多いほど、仕事のコツを覚えていく。一つ一つの仕事について自分なりの理想像もできてくる。自分本位に考えるなら自分でやりたい仕事もたくさん出てくる。しかし、ベテランがその仕事をすべてやってしまったのでは若者は育たない。ベテランにとっては、若者に仕事をまかせることも若者に仕事を教えることも仕事のうちなのだ。

若者が与えられた仕事に取り組んでいるのを見ているとジリジリしてくる。うまくできないのがじれったくてたまらなくなる。しかもあまりにも遅い。自分がやればとっくにできてるのに……と感じる。ついつい手を出してしまいたくなる。仕事のできる自分本位な人ほど、待てずに手を出してしまう。しかし、それでは若者は育たない。

若者にはいい若者もいればダメな若者もいる。ダメな若者はわからないのに周りに訊くことをしない。ダメな若者は自分一人でやろうとしてヘルプを出さない。どちらの若者も遂に時間切れとなって、いよいよどうしようもできないという段になって助けを求めてくる。こんなとき、〈十割主義〉で仕事をしているとその若者に怒りがわいてしまう。「なぜ、もっと早く言わない!」というわけだ。しかし、〈六割主義〉で仕事をしていれば余裕がある。今日言われて明日までと言われても、なんとかその日だけ〈十割〉を発揮すればなんとかなる。

そう。「まかせる」ということは、いざというときにはその仕事を「かぶる」ということなのだ。「まかせる」と「かぶる」は表裏一体。「かぶる覚悟」のない「まかせる」は、「まかせる」とは言わない。「押しつける」と言う。「押しつける」のではなく「まかせる」ためには、やはり〈十割主義〉では「かぶる覚悟」をもてないのだ。そのためにも年齢が上がると〈六割主義〉がいい。

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張り詰めない仕事のしかた

あなたは毎日、どのくらいの力で仕事をしているだろうか。

常に全力投球だろうか。それとも手を抜くところは抜いて、ほどほど主義だろうか。

私は三十歳を超えた頃から全力投球で仕事をするのをやめた。全力投球は長い目で見たら、百害あって一利なしと感じたからだ。全力投球では九イニングがもたない。教師にとって九イニングとはその一年のことではない。退職までである。投球の相手は退職までに出会う数千の、校種によっては一万数千人の子どもたちである。

私は三十歳を超えたとき、〈八割主義〉で仕事をすることに決めた。四十歳を過ぎてからは〈六割主義〉に更に落とした。つまり、自分のもっている力の六割しか発揮せずに仕事に向かうのだ。

こんな言い方をすると不遜に聞こえるかもしれない。しかし、若いうちなら〈十割主義〉で仕事をしても良いけれど、年齢が上がるにしたがってそれではきつくなる。体力的にきつくなるということもゼロではないけれど、それ以上に仕事の質が変わってくることのほうが理由としては大きい。年齢が上がれば上がるほど、仕事の内容に他人のフォローの占める割合が高くなっていくのだ。自分が常に全力投球で張り詰めているのでは、他人のフォローなどままならない。私が言っているのはそういう意味である。

例えばこんなふうに考えてみよう。

あなたの隣の担任がどうも精神的にまいってしまっているようだ。いま抱えている仕事を軽減してあげなければならない。学校長にもそう頼まれた。さて、自分が全力投球で仕事をしていたら、この隣の担任を気持ち良く助けてあげられるだろうか。現実が現実だから助けるのは助けるだろう。でも、ここで大切なのは「気持ち良く」という部分だ。「オレだって忙しいのに、まったく…」と思いながら助けるのではなく、「大丈夫だよ、そのくらい、なんにも気にしないで僕に任せてくれていいよ」と助けてあげられるかと言っているわけだ。

〈十割主義〉で仕事をしていると、心の病で休職する人が許せなくなる。〈十割主義〉で仕事をしていると、精神的に落ちてしまって力を発揮できない人が迷惑な人になる。〈十割主義〉で仕事をしていると、子どもの送り迎えや親の介護で残業できない人がうとましく思われてくる。自分はこんなに仕事をしているのに……、自分はたくさん仕事を抱えているのに……、自分は常に忙しいのに……と、その人と自分を比べてしまう。自分で好んでそうなったわけではない他人の不幸にまで、優しくなることができない。優しさのない援助は、援助される側を傷つける。もしかしたら、助けないこと以上に傷つけるのではないかという気さえする。

若いうち、つまりフォローされる側の立場であるうちは〈十割主義〉もいい。力量がないわけだから、むしろ手を抜くことで周りに迷惑をかけてしまう。しかし、年齢が上がって他人をフォローする立場になったら、〈十割主義〉で仕事をすることはむしろ罪なのである。張り詰めない仕事のしかたを覚えなくてはならない。

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仕事を道楽と心得る

教職を「子どもたちとの闘い」だと表現する人がいます。実践研究を「修業」だと表現するもいます。なかには「修行」と表現する人さえいます。しかし私は、教職という仕事も実践研究も、ある種の〈道楽〉だと感じています。自分は〈道楽〉で喰わせてもらっていて幸せだな、と……どこかそんな感覚を抱いています。

教職の大きな特徴は、ここからが仕事、ここからが生活と分けられないところにあります。生活どころか、〈遊び〉とさえ明確に分けることができません。生活上のさまざまな事柄が教室での出来事を判断する規準となります。趣味や遊びで取り組んでいることが学級づくりや行事運営に大きく役立つこともあります。それもたくさんあります。こういう職業は珍しいのではないでしょうか。

例えば、趣味がギターの弾き語りだとしましょう。人前でギターの弾き語りをしたいと思ったとき、三十人、四十人の観客を集めることはかなり難しいものです。街中で路上ライヴをする若者をよく見ますが、足を止めて聴き入っている人はほんの数人です。ギターケースになにがしかの金額を投げ入れる人はもっと少ないのが現状です。それなのに私たちは教師であるというだけで常に三、四十人の人に聴いてもらうことができます。たいしてうまくもないのに、「先生、うまいね」と言ってもらえます。そんな良い気持ちにさせてもらっておきながらお金がもらえちゃうのです。なんと良い職業なのでしょう。

例えば、マジックを趣味としているとしましょう。ちょこちょこっと練習しただけの決して本格的なマジックでないとしても、子どもたちはちょっと大袈裟なんじゃないの?と思うくらいに驚いてくれます。そんな良い気持ちにさせてもらっておきながらお金までもらえちゃうのです。なんと良い職業なのでしょう。

例えば、教職に就いていなかったとしたら、あなたごときの人生観をだれが聞いてくれるでしょうか。勤務時間のなかで人間とはかくかくしかじかであるとか、人にはこうこうこういうことが大切だとか、そんな個人の見方、考え方を真剣に聴いてもらえる人というのは世の中にどのくらいいるのでしょうか。個人の人生観などというものは、ふつうは喫茶店や居酒屋で学生時代から仲の良い友達くらいしにしか聴いてもらえない、普通はそういうものなのではないでしょうか。なのに私たちときたら、子どもたちだけでなく、その保護者にまでえらそうに語ることが許されているのです。そんな良い気持ちにさせてもらっておきながら、世の中から見れば決して安くはない給料がいただけるのです。しかもみんなが汗水垂らして支払った税金からです。これを良い職業と言わずして何と言えばよいのでしょうか。

こう考えると、私が教職を〈道楽〉と呼ぶのも少しはなるほどなと思えるのではないでしょうか。

それなのにいつの間にか多くの教師が、子どもたちが自分の話を聴くのは当然だと思うようになります。この子たちは話を聴かないと子どもたちを責めるようになります。子どもたちが自分がせっかく書いた学級通信を読んでくれないと子どもたちを責めるようになります。しかし、あなたの話や書く内容は果たして市井の人々が聴きたい、読みたいと思うような内容なのでしょうか。子どもたちを責める前に、自分自身のコンテンツ自体を振り返ってみるべきなのではないでしょうか。

この話したり書いたりするコンテンツを充実させる営み、質を高める営み、それを「実践研究」と言います。コンテンツは、私たちが実社会のなかで楽しいと感じたりなるほどと感嘆したりすればするほど充実していくという特徴をもっています。つまり、学んだことはもちろんなのですが、遊びのなかで体験したエピソードや趣味で身につけたちょっとしたスキルなどが品点津を充実させていくわけです。そうしたエピソードやスキルを集めることが、「闘い」や「苦行」であるはずがありません。

しかも、です。人の表現というものは、表現者が楽しいと思っていることを語れば語るほど、受け取る側にもそれが伝わるという特徴をもっています。表現者が本気で楽しんでいるものほど、実はよく伝わっていくものなのです。それならば、自分自身が本気で楽しめることを中心にコンテンツ開発をしていくというのが最も良い在り方ということになるのではないでしょうか。やはり、「実践研究」もまた、〈道楽〉なのです。

世の中のさまざまなことにおもしろさを感じられるほど、世の中の小さなことに興味深さを感じられるほど、実は教師としてのコンテンツの質は高くなっていくのです。それは決して、学校内に閉じられるべきものではありません。なんでも良いのです。学校というところは、社会にあるものならほぼなんでも取り入れることのできる稀有な場所です。つまり、自分が興味を抱いたり楽しいと感じたりしたことを取り入れることのできる、たいへん恵まれた場所なのです。そういう場を仕事としていることを私たちはもう少しポジティヴに捉えるべきでしょう。

最後にもう一度繰り返します。教職という仕事も実践研究も、ある種の〈道楽〉なのです。よく学び、よく遊ばなければならないのは子どもたちだけではありません。我々教師がよく学ぶと同時によく遊ぶべきなのです。子どもたちに語るべきことの質を少しでも高めるために……。

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教師冥利に尽きる遊びを想定する

私の教え子に水尻健太郎という男がいます。新採用から三年間の教え子ですから、平成十五年二月現在で三十六歳。教え子と言ってもいい大人です。実はこの水尻健太郎がすすきので小さなバーを経営しています。私はすすきのに行くたびに最後はこのバーに行って水尻とああでもないこうでもないと会話を愉しむことを常としています。朝方まで営業しているバーなので、帰宅が五時くらいになることも珍しくありません。

私の教え子に長麻美という女の子がいます。これまた新採用から三年間の教え子ですから、水尻と同い年です。札幌で小学校の教師をしています。担任したことはなく、授業でさえ一度ももったことがない教え子なのですが、演劇部で三年間指導した生徒なので、担任していた子どもたち以上に共有した時間は長かった生徒です。彼女は三十代も半ばを過ぎたいまでも舞台に立ち続けています。私にとって彼女の舞台を観に行くことは人生の楽しみの一つです。年に数回程度、彼女と呑みに行くこともあります。演劇論から教育論議まで話題も合いますから、ほんとうに楽しい時間を過ごすことができます。

さて、教え子を二人紹介しました。私がここで言いたいのは、教師という職業が時を隔てると教え子さえ遊び相手にしてしまう職業なのだということです。しかも単純に楽しむためだけの遊び相手ではありません。教え子はいまでこそ教室と家庭と地域だけを世界観にして生きていますが、将来はひとりの大人として、それもちゃんと自分の世界をもった一個の人間として目の前に現れるのです。かつては教師として自分がいろいろなことを教え、いろんなことを考えさせ、いろんなことを体験させた子どもたちが、いまは教師である自分と対等に話し、議論し、自分の知らないことをたくさん学ばせてくれる存在になるのです。こうした遊びは同じ遊びでも「教師冥利に尽きる遊び」と言えるのではないでしょうか。

こういう遊びを覚えて、私はいま目の前にいる子どもたち、いま担当している子どもたちに対する〈見る眼〉が変わりました。ああ、この子たちは数年後、自分に学びをもたらしてくれるのかもしれない。そう考えると、一人ひとりの子どもたちに対しても、手を抜けないなという気になるものです。

もちろん、教師は子どもたちから学ぶと言われます。子どもの反応から、子どもの在り方から教師は多くを学びます。しかし、それはあくまで〈教師としての学び〉です。私がいま言っているのは、教え子が将来、自分に〈人としての学び〉〈人間としての学び〉をもたらす存在になっていくのだということです。そしてそれを「教師冥利に尽きる遊び方」だと言っているわけです。

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はじまる…

2010年代がまた心理主義の時代であることがそろそろ鮮明になって来たように思う。00年代は社会学の10年だったし、90年代は心理学の10年だった。戦後、ほぼ10年周期で実存主義的な時代と現象学的な時代とが綱引きを繰り返している。

実存主義的な時代とは基本的に「自分から見た世界観」を肯定する人たちが世論や言論界を制す時代である。現象学的な時代とは基本的に「自分から見た世界観」を括弧に括って「自分に見えていない世界」を追究する人が世論や言論界を制す時代である。

90年代はまさしく心理主義に席巻された時代だった。トラウマ、自分探し、癒し、エヴァンゲリヲン…。そこには自らの弱さを肯定し、他人の痛みを理解しようという心性が流行する。そうした心理主義への反動が00年代には社会学の流行を産み出した。文化的にはバトルロワイヤル、デス・ノート、リアル鬼ごっこに顕著なように、自分の弱さを肯定しているだけでは搾取される、闘うしかない、という心性が流行した。そこにあったのは自分の視座を括弧に括って世界を俯瞰しようという視座だったように思う。言うまでもなく、こうした視座は...現象学的還元や構造主義と親和性をもつ。

おそらく現在、そうした心性の流行に疲れた者たちが再び癒しを求め始めている。90年代との違いは、90年代の心理主義の視線が自分に向いていたのに対し、10年代の心理主義の視線は他者との共生に向いている点だろう。でも、他者との広く浅いコミュニケーションに自己の規定を求めるのは危険すぎる。他者への信頼が裏切られ、深く傷つく人をたくさん出すだろう。おそらく20年代にはまた現象学的な時代が来るわけだが、90年代の「自分がわからない」と10年代の「他人がわからない」を経て創出される現象学的視線はこれまでで最も厳しいものになっていくに違いない。

言うまでもなく、教育は実存主義的な視座と親和性がある。90年代は新学力観とゆとり教育に沸いた10年間だった。現在も同じ雰囲気が生成されつつある。でも、きっとあと5、6年だ。5、6年経ったら、また教育が冬の時代を迎えるに違いない。いま、熱狂できるこの時期になにを、どこまで進めることができるか、注目すべき5年間が始まっていると僕は見ている。

ただし、現在、さまざまな提案をしている人たちが50前後の人たちであり、青春期を構造主義的機運のなかで過ごした人たちであることは知っておいたほうがいい。「自分に見えている世界観」を括弧に括って考えられる人たちが新しい提案をしているということを。ほとんどの提案がその根に80年代の構造主義的発想をもっている。俯瞰する視座をもつが故にそうでない裏側を隠しながら口あたりの良い言説を展開できる、そういう構造がある。

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チューニング能力を高める

教職経験も長くなってきました。その間、若い教師をたくさん見てきました。その結果、一つだけこれだけは言えるな……ということがあります。それは「遊べない教師はだめだな…」ということです。「遊ぶときにはとことん遊べる教師が良い教師になるな…」と言ったほうが良いかもしれません。

〈遊べる〉ということは、実は物事の楽しみ方を知っているいうことです。どんなメンバーとも、どんな場所でも、おもしろさを発見してそれを心から楽しむことができる、ということです。どうでしょう。この資質が教室でどう活かされるか、考えまでもなく理解できるはずです。〈遊べる〉ということは実はそういう資質のことなのです。

子どもの本質は〈遊び〉にあります。昔から「よく学び、よく遊べ」と学校の至るところに貼ってあるのを見ましたが、子どもというものは〈遊び〉のなかに人間関係の機微を学び、〈遊び〉のなかで自分と社会、自分と世界との関係性を学びます。よく遊ぶ子ほど自分を高めて行ける……それが子どもの世界です。言うまでもないことですが、子どもはおもしろいことが大好きです。世界にはおもしろいものがたくさんある、よく遊ぶ子どもは無意識のうちに毎日それを実感しながら生きていきます。

こういう子どもたちと毎日接しているというのに、担任教師が日常生活のなかに楽しみを見出せないタイプの人では、子どもたちがかわいそうです。やはり一緒にゲラゲラ笑ってくれる先生、子どもたちが陰に隠れてやるいたずらを叱りながらもそのおもしろさには共感してくれる先生、必要なときには呆けてくれ必要なときにはツッコミを入れてくれる先生、そういう先生こそがやはり子どもたちを育てていくのだろうと思います。

こうした教師が子どもたちを育てるのは、決して授業力が高いとか指導力があるとかいったこととは別の能力なのだと思います。つまり、スキルではない、ということです。私はこれを〈共鳴力〉と呼んで、教師力の大きな要素の一つだと捉えています。教師が〈遊べる〉ということは、実は他者への〈共鳴力〉が高いことを意味しています。

〈遊べる〉ということは、実は〈チューニング能力〉の高いということです。一緒に遊んでいるそのメンバーを楽しめない、その場を楽しめないということは、実はそのメンバーや場所にチューニングを合わせられないことを意味しています。その場がAMの場なのに自分のFMの世界に閉じ籠もっている。そんなイメージですね。

学級崩壊を起こす教師、子どもに反発される教師を見ていると、このことが実感されます。子どもの発している電波とは異なった電波で受信しようとしている。子どもの電波とは合致しない、自分自身のたった一つの電波しかもっていない、そういう教師が子どもたちとのコミュニケーションを断絶させてしまいます。

子どもたちがバスケットボールを投げてきているのに、教師の側は卓球のラケットで打ち返そうとしているようなものです。教師には「いまはバスケットなのだ」「いまはバレーボールなのだ」「いまはカーリングなのだ」と即座にチューニングを合わせられる、そんな〈共鳴力〉がなによりも必要なのではないでしょうか。

ああ、いまこの子は私をかわしてレイアップシュートを打とうとしているなとか、あっ、こいついま自分にいいトスを上げてきたなとか、おおっ、ここはいいコースに決まりそうだ、ブラシで掃いてあげなくちゃとか、子どもと接するときというのはこうした判断にの連続です。学級崩壊を頻繁に起こす教師、子どもたちとのコミュニケーションが下手な教師というのは、実はこれができないのです。

これを教室のなかで、つまり子どもたちのやりとりのなかで鍛えようとするのはかなり難しいことです。教室のなかには利害関係がありますし、教師にはどうしても子どもたちに対する責任を負っている意識が働きますから単純に楽しむやりとりにはならないわけですね。やはり、気の合わない人、知らない人とも遊んでみる、そこに楽しみを見つけてみるというのが近道であるように思います。

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ピン芸人を目指す

私は多くの研究団体で学んできました。三十歳の頃には国語教育だけで十七もの研究団体に所属し、毎週末にどこかしらで研究発表をしていました。

私はその後、幸いにして国語教育関係の書籍を上梓できる立場になりましたが、私の国語教育に対する考え方の基礎はこの時期にでき上がったと言えます。国語教育はさまざまな論者がさまざまな主張をしています。諸派諸説が乱立する世界です。そうした毛色の異なる研究団体で毛色の異なることを同時に学んだことが私の国語教育観を形づくっていると言って間違いありません。私の国語教育実践は基本的に、日本文学協会の国語教育部会で学んだ文学教育と言語技術教育学会で学んだ言語技術教育とを融合した地点にあります。経験主義的な認識教育の権化のような国語教育理論と、系統主義的な実用教育の権化のような国語教育理論、要するに国語教育界の対極にあるような理論・実践を私なりに整理したところにあるわけです。

国語教育に限らず、教育実践の研究というものは〈創造性〉が鍵になります。〈創造性〉は一般的にこの世にないものを創り出すことというイメージがありますが、人間がゼロからなにかを創り出すということはあり得ません。必ず先行する理論や実践があって、それらを融合したり、多くの人が過小評価している事柄に注目して別の枠組みを提示したり、その別の枠組みからさまざまな理論・実践を整理しなおしたり、そうした営みのことなのです。つまり、できるだけ毛色の違う理論・実践に広く接しているほうが〈創造性〉が培われるということが言えます。

特に、一般的に対極にあるとされるものを融合したり、一見まったく関係性が見られない二つのものを組み合わせたりということは、人の〈思考〉を活性化させ、〈創造〉を喚起するものです。私は若いうちから意図的にそういう場に身を置くことが大切だと考えています。

しかし、社会は若者の〈創造性〉を促すようにはできていないところがあります。官製・民間を問わず、多くの研究団体は常に若者を自分たちの組織に取り込もうとします。有望な若者ほどそういう誘いを受けます。しかも、他の研究団体に所属しながら自組織でも活躍してもらうという発想をもちません。その結果、「この組織だけで学べ」「この組織で学ぶことこそが最も成長を保証するんだよ」という論理で手を換え品を換えて囲い込もうとします。それに乗せられてしまうか、すべてに適度な距離感をもってフラットな地点に留まるか、まだ世の中の構造を理解できていない若い段階で迫られるその判断が生涯の教師生活を決めてしまうところがあります。

私は「学びの場を一つにしぼれ」という圧力をかけてきた組織からは離れるという判断を常にしてきました。いま考えても、その判断は正しかったなと感じています。学びの場を一つにしぼることは、先に言った〈abstract〉と同じ構造をもちます。一つにしぼることは研究の対象、学びの対象を〈抽象化〉することであり、他の研究、他の学びの可能性を〈捨象〉することです。まださまざまな可能性をもっている時期に、まだその他の可能性を理解できていない時期に、いろんな可能性を捨ててしまって良いわけがありません。

いまでもさまざまな教育運動体が若者を囲い込もうと手を換え品を換えて働きかけています。FBのグループをはじめ、さまざまなSNSで囲い込みを図ろうとする動きもあります。そうと気づかないままに囲い込まれる若者が後を絶ちません。そういう若者たちを見ていると、私は残念に思えてなりません。

教育界に限らず、運動体というものは立ち上げのときには諸派乱立から始まります。それぞれがそれぞれの主張を展開して活況を呈するものです。しかし、数年が経って運動の形が整ってくると、必ず運動体の代表がしめつけを始めます。「学びの場を一つにしぼれ」と言い出します。メンバーに他の可能性を捨てさせようとし始めます。運動立ち上げの頃に貢献した実力者が切り捨てられます。十年が経った頃には、ヒエラルキーが形成され、ある種の宗教のような構造を示し始めます。私はこのことを「教育運動は十年経つと宗教化する」という言い方をしています。

私も「研究集団ことのは」という小さな組織の代表を務めていますが、こういう考え方を基本としている私は、所属する若者たちに「堀の追試をしようなんて考えるんじゃない」「他の場にたくさん行って学んで来なさい」といつも言っています。その結果、「研究集団ことのは」は私とはまったく異なる発想で、独自の提案をしている人をたくさん輩出してきました。私が「ピン芸人」と呼んでいる、一人で勝負できる実践者をたくさん輩出してきました。そして彼らの提案が代表である私に多くの学びをもたらし、更に組織を活性化させるという結果になっています。組織とはこういう在り方こそが理想なのだと私は考えています。

学びの場は決して一つしぼってはいけないのです。私が二十代のみなさんに声を大にして言いたいことです。

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説明・指示・発問の違いを意識する

古くから教師の指導言の王道は〈発問〉だと言われてきました。素晴らしい発問をつくることが教材研究の王道であり、素晴らしい発問さえつくれば子どもたちは必然的に思考を始めるというわけです。従って、長く発問研究の本がたくさん出されてきましたし、著名な実践家の優れた発問もずいぶんと追試されてきました。

しかし、この発想は基本的に間違っています。

言うまでもなく、教師の指導言には〈発問〉と〈指示〉と〈説明〉の三つがあります(『授業づくり上達法』『発問上達法』大西忠治・民衆社)。原則として、〈発問〉とは子どもの思考に働きかける指導言であり、〈指示〉とは子どもの行動に働きかける指導言であり、〈説明〉とは授業のフレームをつくる指導言です。つまり、〈説明〉は〈発問〉や〈指示〉の前提となる指導言であり、〈説明〉なくしては〈発問〉も〈指示〉もあり得ないのです。

こう考えてみましょう。〈発問〉や〈指示〉のない授業は想像できますが、〈説明〉のない授業は想像できません。例えば、文法の学習において主語と述語の関係を説明することなしに、「この文の主語・述語は何ですか」という発問は成立しません。何をどのように書くのかという説明なしに「ノートに書きなさい」という指示も成立しません。授業において最も大切なのは、〈発問〉でも〈指示〉でもなく、〈説明〉なのです。

よく研究授業を参観したときに、教師の発問が子どもたちによく伝わらず、子どもたちが首をかしげているのを見た教師が何度も言い直しているのを見ます。「どっちがふさわしいと思いますか」と発問したときに、その「どっち」の対象となっているAとBとが子どもたちに把握されていないために、授業に混乱を来しているというような場面です。この場合、混乱の原因は「どっちがふさわしいと思いますか」という〈発問〉の文言にあるのではありません。そうではなく、この〈発問〉をする前段階の指導言、つまりこの〈発問〉の前提となっているAとBとを理解させる〈説明〉が不適切であったために、子どもたちに選択肢が理解されていないのが原因なのです。子どもたちが何を訊かれているのかわからないという表情をするとき、多くの場合、それは前提となっている事柄の共通理解が図られていないことに要因があるのです。教師がそれを何度も言い直しているわけです。

誤解を怖れずに言えば、〈発問〉などというものは「なぜですか?」「どのようにしましたか」「だれですか」「いつですか」「どこですか」「何ですか」といった5W1Hが基本としてできるものに過ぎないのです。〈発問〉とは「問い」を「発する」ことですから、基本的には日本語の問い形を超えて成立することはあり得ません。せいぜい「どっちですか」「いつからいつまでですか」「どこからどこまで移動しましたか」といった、5W1Hの組み合わせのバリエーションがある程度です。授業を混乱させないためには、その〈発問〉の前提となっている事柄がきちんと学級全体に共有化された状態をつくることなのです。その事柄の〈説明〉が的確になされたか、子どもたちに落ちているか、そこにこそ〈発問〉の成否、その〈発問〉が機能するか否かのポイントがあるのです。

〈指示〉にも同様のことがいえます。「新学力観」から「ゆとり教育」への活動型授業の隆盛によって、国語科の授業おいても〈指示〉の重要性が意識されるようになりました。「三度読みなさい」「ノートに書きなさい」「指摘しなさい」といった従来型の〈指示〉に加えて、「話し合いなさい」「交流しなさい」「結論を一つにまとめなさい」「グループで調べなさい」「わかりやすく説明しなさい」など、小集団を使っての協同学習に取り組ませる〈指示〉が多くなっているのが近年の特徴といえます。しかし、こうした〈指示〉にも、まず例外なくその方法の説明、つまり「話し合い方」「交流の仕方」「調べ方」「説明の仕方」といったやり方が説明されているはずなのです。この方法の〈説明〉が不的確であった場合、その協同学習は混乱します。この方法の〈説明〉が的確になされたか、子どもたちに落ちているか、そこにこそ〈指示〉の成否、その〈指示〉が機能するか否かのポイントがあるのです。

私たち教師がまずもって身につけなければならないのは的確な〈説明〉の在り方です。短く明快に説明できることこそが、授業の成否にとって、子どもたちの学力形成にとって最も重要なポイントなのです。

ある授業において、次のような指導言があったとしましょう。

このとき、亜希子は「うれしい」とか「楽しい」とかいう「プラスの感情」を抱いたでしょうか、それとも「悲しい」とか「悔しい」とかいう「マイナスの感情」を抱いたでしょうか、これに対してみんなは両方あるって言うんだね。(子どもたちを見渡して)それじゃあ、もっと突っ込んで訊くよ。「プラスの感情」と「マイナスの感情」では、どちらかというとどちらが大きいだろうか。ノートに「プラス」か「マイナス」とどちらかを書いて、その下に理由を「~だから」という形で一文で書きなさい。

この指導言において、〈発問〉は「『プラスの感情』と『マイナスの感情』では、どちらかというとどちらが大きいだろうか。」という一文だけです。また、「ノートに『プラス』か『マイナス』とどちらかを書いて、その下に理由を『~だから』という形で一文で書きなさい。」というのが〈指示〉に当たります。しかし、この指導言を機能させているのは、決してこの〈発問〉と〈指示〉ではありません。これまでの授業内容をまとめて「プラス」と「マイナス」の両方があるのだという確認、そして「それじゃあ、もっと突っ込んで訊くよ。」という今後の進んでいく授業の展望の確認、この二つこそがこの指導言の核なのです。そしてこの二つは、言うまでもなく、授業のフレームを構築する機能をもっている指導言、即ち〈説明〉なのです。私たち教師は、自分が発している指導言の一つ一つについてこのようにな細かく分析する必要があるのではないでしょうか。

さて、指導言を考える上で、もう一つ注意しなければならないことがあります。それは指導言というものがコンテクストに支配されやすい側面をもっているという点です。コンテクストとはテクスト外という意味ですが、ここでは指導言の文言以外の情報や空気と考えるとわかりやすいでしょう。つまり、その指導言が発せられる教室環境や、その指導言を発する教師と子どもたちとの人間関係の影響を受けやすい、ということです。

読者の皆さんにこういう経験はないでしょうか。四月に新しい学級を受け持ちます。前の学級でしたのと同じ説明をしているはずなのにいま一つ通じない、やたらと細かなことを質問される、それに応えているうちに時間が過ぎてしまう、前の学級よりもこの子たちは理解力が低いのかなあ……と感じる、こんな例です。

こうした現象が起こるのは、決して新しく受け持った子どもたちの理解力が低いからではありません。前の学級の子どもたちはもう一年近くもあなたのものの言い方、考え方、指導言の在り方に慣れてしまっていたために、必要以上に説明しなくてもツーカーで理解してくれていたのです。少々厳しくいえば、あなたの授業はあなたの授業に慣れた子どもたちに甘えることによって成立していたのです。こうした現象を勘違いして、「今年の子どもたちはちょっとなあ……」と感じてしまう事例は殊の外多く見られます。ぜひ心構えとしてもっておきたい原理です。

研究会で模擬授業や講座の登壇機会を多くもつ人たちはこの構造を熟知しています。だからだれにでも伝わる、わかりやすい指導言を発することができるのです。皆さんもたまには他学級で授業をしてみて、自分の指導言が通じるか否かを点検してみると良いでしょう。

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マイクロシーベルト

ついさっき、テレビニュースで「マイクロシーベルト」という単位を聴いて、正直、「久し振りに聴いたな…」と感じた。自分では意識していなかったのだが、自分のなかでやはり風化してきているのだなと感じざるを得ない出来事だった。

今朝から普段通りに働く先生方や普段通りに登校する生徒たちを眺めながらいろんなことを考えた。中学校に勤めていると、今後、震災がどのように風化していくのかを目の当たりに見る想いがする。3年生は当時5年生、あの映像とあの空気をはっきりと覚えている。2年生は4年生、多くがあの映像とあの空気を覚えているけれど、意識のない子がちらほら見られる。1年生は当時3年生、東日本大震災に対する思い入れが2年生とははっきり違うのを感じる。現在の小学校5年生あたりからはあの毎日のように流れたテレビ映像さえ記憶にないという子どもたちになっているはずだ。

かく言う私も、たまたま気仙沼に親しい友人がいて、たまたま震災の数年前に研究会で気仙沼を訪れていて、あの震災で空襲かと思われるような気仙沼の映像を見たからこその思い入れともいえる。それがなければ他人事だったかもしれない。いや、いまだって関係者から見れば当事者意識の薄い私はそもそもが他人事なのだろうが、その当事者意識は気仙沼とのつながりがなければもっともっと薄かったはずなのだ。人間なんてそんなものなのだろう。
こうした原罪意識を忘れないでいたいものである。

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帰納的指導と演繹的指導を分けて考える

「言語技術教育」を標榜する実践家の授業を見ていると、授業構成の在り方に二つのタイプがあることに気づかされます。一つは、授業の冒頭である言語技術を教え、それを使って活動させるタイプ。もう一つは、まずは課題を与えて活動させてみて、どんなことに注意して活動したかを子どもたちに尋ね、そこから言語技術をまとめていくタイプ。私は前者を「演繹的な言語技術指導」、後者を「帰納的な言語技術指導」と呼んでいます。ここでは、この二つの授業構成の使い分けについて考えてみましょう。

まず第一に、大まかに考えて、この二つの授業構成は領域別に使い分けることが必要である、と言うことができます。「帰納的指導」はある言語技術をこれまで無意識になんとなく使っていた経験の中から、一度ちゃんと言語技術を抽出してみて意識的に使える技術にしよう、という場合に適しています。つまり、日常体験の中にその言語技術があったのだが意識していなかったというものを意識させるというタイプの言語技術指導に向いているわけです。この指導の在り方は基本的に「音声言語」指導に向いている授業形態といえます。

「話すこと・聞くこと」は日常生活の中にあふれています。どうしたら相手に伝わるか、どうしたら相手にわかってもらえるか、どうしたら相手にわかりやすく話せるか、こうした思考を経験したことのない子どもはいません。小学校一年生は一年生なりに、中学校三年生は三年生なりに、間違いなくそういう経験をもっています。とすれば、わざわざ「○○という言語技術を使いなさい」と先に指示しなくても、多くの子どもたちは学習活動を行わせるだけでそれなりにわかりやすく伝えようという意識をもって活動するのだということです。その学習活動から言語技術を抽出し、教師がそれを取り上げてまとめると、子どもたちはその言語技術を実感的に捉えることができます。

しかし、文字言語指導ではそうはいきません。まずは「読むこと」領域を考えてみましょう。文学的文章教材にしても説明的文章教材にしても、作者・筆者がどのような工夫をしながらその文章を書いたのか、どんな論理展開でその文章を書こうとしているのか、こうしたことは日常経験で本格的な文章を書く機会のない子どもたちにはなかなか実感的に捉えられないものです。こうしたとき、教師が最初に「こういう工夫があるんだよ。」と教え、「この作者はそういう工夫をいっぱいしているから探してごらん。」とやるのが理に適っています。

「書くこと」領域においては少し違う要素があります。教師が何も指示せず書かせたとします。その作文ができ上がったあと、「実はこういう言語技術があるんだよ」と伝えて「これを使って書き直してごらん」と言ったとしてら、子どもたちはどう感じるでしょうか。「おいおい、最初からいえよ。せっかく苦労して書いたんだぜ」ということにならないでしょうか。作文指導は使って欲しい言語技術、教えなければならない指導事項は事前に指導し、その上で「それを使って書いてみよう」という順番で行うのが定石なのです。

原則として、「話すこと・聞くこと」領域の「音声言語」の指導では「帰納的指導」で授業を展開し、「読むこと」「書くこと」領域の「文字言語」の指導においては「演繹的指導」で授業を展開するのが理に適っている、といえるでしょう。

第二に、ある言語技術を初めて教える場合と、既習事項として扱う場合との差を考える必要があります。ある言語技術を教えるという場合に、その言語技術の必要性も理解していないうちに、ただこういう言語技術があると教えてしまうと技術主義に陥ります。それを避けるためには、まずは言語生活においてこういう困ったことが起こることがあるということを実感的に体験させ、ではどうすればいいかと十分に考えさせた上で言語技術を教える、という必要が出てきます。要するに、初めて教える場合には基本的に「帰納的指導」が適しているということです。

逆に、既に既習の言語技術に関してああでもないこうでもないいじくりまわした上で、「実はこういう言語技術があったよね。」では時間の無駄です。上位の子どもたちは「なんだ、前に習ったよ。」となるでしょう。こういう場合には、「前に○○という言語技術を習ったよね。これを使ってみる練習だよ。」と、今日は〈スキル訓練型〉の授業であることを宣言してしまったほうが子どもたちも納得して活動できるわけです。

これも原則として、初めて教える言語技術は「帰納的指導」で授業を展開し、既習の言語技術は「演繹的指導」で〈スキル訓練型〉の授業を展開するのが理に適っている、といえるでしょう。

第三に、〈言語技能〉にまで定着させなければならない言語技術と、〈言語技術〉の段階で良しとする言語技術との指導の差も考えなくてはなりません。〈言語技能〉段階の言語技術には、本人はちゃんとやっているつもりでも端から見るとできていないということが多いからです。

いわゆる「言語技術」には、その言語技術を知っているけれど使えないという〈言語知識〉の段階、その言語技術を意識しながら使えるという〈言語技術〉の段階、その言語技術を使い慣れていて無意識に使えるという〈言語技能〉の段階、という「習熟三段階」があります(本章「授業づくりの原理2」を参照)。〈言語技能〉段階を目指す言語技術の指導は多くの場合、その学習集団を指導するようになった初期段階で終えているのが一般的です。例えば、「みんなに聞こえるような大きな声で発言する」とか、「音読のときに句読点では間をとる」とかいった言語技術がこれにあたります。こうした指導事項について、発言の度に、音読の度に、「さあ、みんなに聞こえるような大きな声で話すんだよ。」とか「今日も句読点でちゃんと間をとって音読するんだよ。」といった演繹的な指導が行われるのはナンセンスです。多くの子どもたちはできているわけですから、学習活動の中でそれができていない子が顕れたときに個別に指導する、というのが理に適っています。いわば個別的な「帰納的指導」です。

また、「話し合い」指導においてはこれが顕著に表れます。「話し合い」指導において司会の手法を教えたり、論点整理の手法を教えたりというのにも、「帰納的指導」が向いています。「話し合い」や「対話型の音声言語指導」(インタビューや面接など)は他の学習活動に比べて展開が予想しづらい〈動的な学習活動〉です。事前に今日の話し合いや対話で留意すべきことを演繹的に確認することが必要ではありますが、より効果が表れるのは活動時間中の〈事中指導〉です。司会が手を挙げて発言しようとしている子がいるのにそれに気づかなかったり、誤った方向に議論を整理しようとしたりした場合には、即座に介入して場に応じた適切な指導を施すことが必要です。話し合いや対話において、何が論点なのかを子どもたちが見失ってしまって、水掛け論のような形になってしまった場合にも、一つ高い次元の論点で整理してあげて、なぜこのような水掛け論に陥ってしまったのかを冷静な視座から助言してあげるのが必要でしょう。こうした指導事項は、学習活動を数多く経験し、失敗と成功を数多く経験することによって、言語感覚的に身についていくところに本質があるからです。「ちゃんと冷静に論点が何なのかを見極めようね」という「演繹指導」など、何も指導していないのと同じなのです。

原則として、〈言語技能〉段階として位置づけられている言語技術や、多くの活動経験の中から言語感覚的に身につけていく指導事項については、事前の「演繹的指導」でもなく事後の「帰納的指導」でもなく、事中に個別的に「帰納的指導」を施すのが理に適っている、といえるでしょう。

指導してから活動させるのか、活動させてから指導するのか、この二つの授業スタイルも指導事項との関連によって決まるのです。教師が指導事項をしっかりと捉えた上で授業しなければならない所以です。

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外に目を向ける

教師人生は初任校での出会いに規定される─いきなりこんなことを言ったらあなたは眉をひそめるかもしれません。おいおい、じゃあもう取り返せないじゃん……。そんな声も聞こえてきそうです。

でも、最初の勤務校で最初に配属された学年を想い出してみてほしいのです。あなたのいま担任している学級の当番活動の在り方や係活動の在り方は、そのとき隣の学級の先生から学んだものではないでしょうか。あなたのいま担任している学級で毎日行われているあなたが得意でない教科の授業の形式は、初任校の同じ学年の先生方から影響を受けたものではないでしょうか。あなたのいま担任している学級の教室の掲示物は、どんな貼り物をつくるかはもとよりどこに貼るかに至るまで、なんとなく初任校で形成されたイメージが残ってはいないでしょうか。なかには初任校でお世話になった先輩教師に誘われて入った研究団体で、いまなお活動しているなんていう人もいるのではないでしょうか。右も左もわからない教員人生のスタート、最初の学校で出会った先輩教師というのはかなり大きな影響力をもつものなのです。

しかし、私はそれが悪いと言っているわけではありません。初任校は教員人生の基礎固めの時期ですから、すべてを自分で考えるとかすべてを自分で勉強しながら工夫するなんてことはできるわけがありません。問題なのはその後なにも考えずに、なんとなくそのやり方を継続してしまうということなのです。もちろん継続した方がいいような素晴らしいシステムを初任校で教えてもらえることがないわけではありません。そういう運のいい人が運のいいままになんとなく過ごしてもうまくいくということがないではないでしょう。しかし、どんないいシステムにも授業法にも、常に工夫と改善を加えながら磨きをかけていくことは必要です。ましてやそれほどでもないシステムや授業法にそれしか知らないばかりにしがみつく結果になるのはいただけません。

私は一度無難に一年間を過ごすことができたら、次の年には視野を広げて新たなことを学び始めるべきだと考えています。初任の年に無難に過ごすことができたら教師生活二年目には外に眼を向けてみるわけですね。そうした心構えをもって「井の中の蛙」にはならないぞと意識するのです。

ただし、一度無難に一年間を過ごすというのは絶対条件です。初年度に学級を崩壊させてしまったとか、初年度に心ならずも給食してしまったとか、そういうことがある場合には自分にはなにが足りないのかと謙虚に構えることが必要になります。そういう経験をした人は、周りの意見に聞く耳をもたなかったり周りを否定的に見たりということが多いようです。そういう人はまだ自分では気づいていませんが、子どもたちに対して〈悪しきヒドゥン・カリキュラム〉(自分では意識していないのに、子どもたちに与えてしまっている悪影響)を形成してしまっている場合が多いのです。まずはそれを意識するために周りの意見に耳を傾けなくてはなりません。

また、初任校が地域的に「荒れた学校」というイメージをもつ場合にも注意が必要です。そうした学校では、職員室全員が「この学校だから仕方ない」ということを前提に学校運営がなされている場合が少なくありません。理想を高くもつことを最初からあきらめて、低い目標設定で学校が運営されている場合があるのです。そういう意識の学校では、子どもたちのまだまだ伸びる可能性を職員集団が摘んでしまっているという場合が多々見られます。それに同化してしまってはいけません。

いずれにせよ、学校教育界は広いのです。あなたの知らないこと、あなたが考えたこともないようなことに一生懸命に取り組んでいる教師が全国の至るところにいます。そういう実践を知り、できれば自分の眼で確かめ、少しでもそのエッセンスを自分の学級に、自分の指導の在り方に取り込めないかと模索する。そういう人生でありたいものです。

二年目からは外に目を向ける。これを意識しましょう。

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柔らかい自我をもつ

あなたは自分のことをどんな人間だと思っているでしょうか。誠実な人でしょうか、ちゃらんぽらんな人でしょうか。暗い人でしょうか、それともノリのいい人でしょうか。そんなことひと言じゃ言えないよ……というのが本音かもしれません。

みなさんは「abstract」という単語をご存知でしょうか。名詞としても形容詞としても機能する単語ですが、動詞としては「抽象する」という意味と「捨象する」という意味をもっています。つまり、「取り出す」と「捨てる」ですね。もしかしたら、一つの単語が「取り出すこと」と「捨てること」というまったく異なる意味をもつことが不思議に思えるかもしれません。しかし、「取り出すこと」と「捨てること」はまさしく同じ意味なのです。

例えば、私は中学校の国語教師です。これを「堀裕嗣は中学校の国語教師である」と表現します。これは堀裕嗣という人物が中学校で国語を教えている先生であることを意味します。要するに、堀裕嗣という人物から中学校国語教師であるという特徴を取り出しているわけです。

しかし、自分で言うのもなんなのですが、私は中学校の国語教師であること以外にもいろんな特徴をもっています。例えば学生時代に野球部でいまでも野球が大好きであること、大学時代から演劇をやっていて長く演劇部をもっていたこと、犬が大好きで自宅に二匹のミニチュアダックスを飼っていること、酒好きで日本酒なら一升くらいは軽く飲めること、などなど、このへんでやめておきますが、要するに堀裕嗣という人物はほんとうはこうしたたくさんの特徴の複合体としてあるわけです。

実は「堀裕嗣は中学校の国語教師である」と中学校国語教師という特徴を取り出すことは、その他のさまざまな特徴を捨てることを意味しています。つまり、「抽象すること」は「捨象すること」と同時に行われるわけです。

実は〈自我〉にも同じことがいえます。人の人格は決して全人的ではありません。こう言ってわかりづらければ、決して統一体ではありません。一個の人格としていついかなるときも同じような判断をし同じような行動する、そういう確固たる統一体ではないのです。むしろ、さまざまなもの、さまざまな人に影響を受けながら、その瞬間瞬間に形や趣を変えていく、そういうものです。〈自我〉というと「自分」を確固としてもっているというよなイメージがありますが、むしろ〈自我〉とはさまざまな環境に影響を受けながら形や趣を変えていく柔らかいものだという捉え方をするほうがみなさんの実感にも沿うのではないでしょうか。

教師としての人格、教師としてのキャラクターも実は同じなのです。決して統一体ではあり得ません。なにか本を読んで感銘を受ける。だれか人に会い視野が開ける。なにか失敗をしてこれまでの自分を内省する。関係のうまくいかない子どもや保護者と出会って、教師観・教育観を変えざるを得ない。そんなことの連続が教師人生なのだと言っても過言ではありません。

本や重大な出来事、出会った人の存在によって自分が変容する。そうしたとき、自分を変容させるものを私は〈触媒〉と呼んでいます。自分に化学変化をもたらす媒介物ということですね。

私たち教師も、さまざまな〈触媒〉によって揺れ動くことにこそ本質があります。さまざまな〈触媒〉によって形を変え趣を変えることにこそ本質があるのです。そしてそのとき、その変容が〈向上的な変容〉であったとき、私たちはそれを〈成長〉と呼ぶのではないでしょうか。

〈成長〉するためには〈柔らかい自我〉が必要です。決して「教師とはこうあるべきだ」などという固定観念を抽象して、その他の可能性を捨象してはいけません。その意味で、「abstract」は〈成長〉の敵なのです。

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新刊『教師力入門』まえがき・あとがき

まえがき

みなさん、こんにちは。堀裕嗣です。札幌で中学校の国語教師なんていうヤクザな仕事をしています。そもそもがヤクザな仕事に就いているのに、私の仕事振りは更にヤクザです(笑)。そんなヤクザな教師にもそれなりの理屈があるもので、それを皆さんにご紹介したいと本書をしたためました。

私の考える「教師力」は三つの要素でできているように自分では感じています。一つ目に、出世なんか考えず、組織の中心に行きたいとの志ももたず、基本的には職員室の端っこ、社会の端っこの方で教職という仕事を目一杯楽しみたいという姿勢です。二つ目に、負担をみんなで分かち合い、成果も楽しさもみんなで分かち合う、だれか一人が突出するのではなく、みんなでまあそこそこの教師生活を送ろうよ、というような共同性意識が挙げられます。三つ目には、自分の教師生活のなかに知的生活習慣を成立させようという意識が色濃くあります。まあ、外に向けて自己主張できる程度の発言権と発言力くらいはもちたいな、ということですね。

この三つが有機的に繋がり、不可分に融合して、私という教師が存在している。そんな実感があります。

本書が皆さんのお役に立つか甚だ心許ないのですが、まあ四半世紀近く教職にいる者の話でも聞いてみるかという気持ちで、気軽にお読みいただければ幸いです。

あとがき

本書は私がここ数年で、さまざまな共著書や教育雑誌に書き散らした文章を「総論」「スキル」「行事」「仕事術」の四つの章に分けて一冊にまとめたものです。その多くは「THE教師力」シリーズに書いた文章をもとにしています。ただし、このシリーズの原稿が4頁を基本としているのに対し、本書は6頁を基本にまとめています。シリーズ原稿で書き足りなかったところ、少々考えが変わったところについて、現在の視点から加筆修正してまとめているわけです。

私は現在、四十代をそろそろ終えようとしている年齢で、教師生活も四半世紀になろうとしているところです。四十代というのはまずまず仕事をまわせるようになっていて、仕事上のことで困るということがほとんどありません。それでいて責任は重くなり、仕事の半分近くが他人のフォローになるという年代でもあります。そんな仕事の仕方をしていると、若い教師やメンタル的に弱いタイプの教師たちが何に戸惑い、どこで躓いているのかということを日常的に意識しながら仕事をすることになります。そうした日常生活で考えたこと、見えてきたことが本書には遺憾なく発揮されている……そう自負しております。

「THE 教師力ハンドブック」シリーズは「~入門」という書名で入門書の体裁を仮象しておりますが、実はどっこい、言葉遣いが易しいだけで中身は本格的なものが多いという特徴をもっています。著者としては本書もその流れを汲んだつもりでおりますが、なにせ「教師力」などという総論中の総論を、地方の中学教師が一人で書いているわけですから少々の偏りがあるのはお許しくださいませ。そこを責められても私としては「ごめんなさい」という他ありません(笑)。読者のみなさんには、「堀裕嗣の偏った教師力入門」くらいのつもりでお読みいただければ私としては幸いです。

本書の内容は札幌市立北白石中学校勤務の6年間に私が考えたこと、私が出会った人とのエピソードを中心に綴っています。かつて学事出版から上梓した「10原理・100原則」シリーズは前任校の札幌市立上篠路中学校実践をもとにしていたわけですが、自分であのシリーズと比較してみると、ずいぶんと考え方が変わったなとか、広がったなとか、深まったなとか、そういうところをたくさん見つけることができました。五十に近くなっても、「ああ、自分はまだ成長過程にいるな」「自分はまだ発展途上にあるな」と自覚することができて、ちょっと嬉しく思いました。私としてはなにより、成長が止まったら教師として終わりだなと思っていますから。

今後も教職を楽しみながら、自分の成長を自覚できるような人生を送れたら……と切に願っているところです。

MANIC MONDAY/THE BANGLES を聴きながら…
2015年3月9日(月)自宅書斎にて 堀 裕嗣

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先の見えない方を選ぶ

最近の若い人に見られるもう一つの特徴は、失敗を極度に怖れるということです。もしかしたら「そんなことないよ」という読者もいらっしゃるかもしれませんが、長年若者たちを見ていて、最近このことを特に感じます。

確かに世の中は失敗に寛容ではなくなりました。学校現場にも確かにその傾向があります。管理職は保護者からのクレームを極度に怖れているところがありますからね。ひと昔前と違って、子どもを育てること以上にクレームをもらわないことを優先する決定というのを私も幾度か見てきました。

でも、それは管理する側の論理であって、前線で仕事をしている学級担任がそういう心持ちで仕事していては、うまく行くものもうまくいかなにくなってしまいます。失敗から学ぶというのが一番学びとしては身になります。クレームをもらったときに誠実に謝罪することによって許してもらったという体験、小さなミスをして気づかなかったことがかえってそれを取り返すのに時間と労力を費やすことになってしまったという体験、こういう体験こそがあとで振り返ると一番良い学びになったということはよくあるものです。

あっさり言ってしまえば、仕事にはコストもかかればリスクもあるということです。しかし、そこでコストを支払うことを忌避したりリスクを取るのを避けたりすれば、やはりコストを支払わなかったなりの教員人生、リスクを取らなかったなりの教員人生にしかならないわけです。しかも、これだけ変化の激しい時代ですから、無難に生きようとした教員人生がかえって無難にいかなかった……なんてことにもなりかねません。やはり、時間と労力はかけなければならないのだと腹を括ることが大切なのだと思います。

私は二十代の指針として「先の見えない方を選ぶ」という言い方をしています。

実は、私は新採用から十七年間、演劇部の顧問をしていましたから、ステージ発表の指導を得意としています。自分で脚本も書きますし、演出もそれなりにできます。

私の学級用ステージの定番に「ミッキーマウスとゆかいな仲間たち」というステージ発表があります。学校祭で最初に上演したのは一九九四年、私が新採用から四年目のことでした。ディズニーキャラクターの被り物をたくさんつくって、衣装もたくさんつくって、舞台装置もたくさんつくって、学級でつくるステージ発表としてはかなり大規模なものでした。ステージは大成功で、学級の生徒たちも大きな満足感を得ましたし、全校生徒からも同僚からも保護者からも拍手喝采をいただきました。

以来、それと同じステージを私は学校祭で二回行いました。でも、確かにステージ発表としては成功しているのですが、初めてやったときのような楽しさがないのです。私にもないし、生徒たちにもないのです。私は「はて?」と考えました。そうして到達した結論は、「ははあ、初めてやったときには自分にも生徒たちにも先の見えない状態でつくっていった。だから毎日がアイディアの出し合いであり、毎日が壁への挑戦であり、毎日が試行錯誤の連続だった。だからこそ、終わったときにはあれだけの満足感を得られたのだ」というものでした。二回目、三回目とやっていくと、私のなかには既に完成イメージがあって練習をステートさせますから見通しはもてます。でも、私のなかにはドキドキ感もなければワクワク感もありません。そのドキドキ・ワクワクのなさが、生徒たちを初めてやったときのようには盛り上げないのです。

確かに私が定番としているステージ発表ですし、大規模なステージ発表でもありますから成功はするのです。みんなからそれなりの評価は得られますし、生徒たちだってやって楽しかったとは言うのです。ただ、私だけが知っている、あの初めてやったときのような躍動感はない。私にも生徒たちにもない。そういう状態になってしまうのです。

さて、みなさんにはこの構造がおわかりでしょうか。

そうです。私は目の前にある確実な成功を選んだわけですね。「先の見える方」を選んだわけです。ほんとうは「先の見えない方」を選んで、明日はどうなるか、本番までにほんとうに完成するのか、おいおい、こことぜうする?とやって行った方が、ドキドキ・ワクワクしながら進めて行けたのに、私に先が見えているからどうしても小手先の技術に走り、小さくまとまってしまうわけです。

それ以来、私はどんなに成功したステージ発表も二度と再び上演するということをしなくなりました。

実はこういうことは世のなかにたくさんあります。私は全国を講演やセミナーでまわることが多いのですが、そんなときでも新ネタを話すときには失敗しても楽しいのに、方々で何度もしゃべっている内容のときには成功しても楽しくない。しかも、新ネタのときには失敗しても自分の成長を感じられるのに、いつものネタのときには成功しても消化試合みたいに盛り上がらない。そんなことがよくあります。

先の見える方を選ぶのが成功のコツ。

先の見えない方を選ぶのが成長のコツ。

成功と成長。あなたはどちらを選びますか?二十代のみなさんには、胸を張って、「私は成長を選ぶ」と言って欲しいのです。時間と、労力と、お金がかかることを厭わずに。

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これからの二十年は四十代にかかっている

ある介護関係の仕事に就いている友人からこんな話を聞いたことがあります。

介護施設の職員があまりに老人がわがままを言うのでたしなめたところ、その老人が人格を否定するようなことを言い返してきた。そこで堪忍袋の緒が切れて殴りつけてしまったというのです。周りの職員が止めに入り、そんなことをしてはいけない、我慢しなければいけないと説得したところ、その職員がこう言ったというのです。

「オレはこれを我慢しなければならないほどの給料をもらっていない」

周りの人たちはそれを聞いて言葉を失ったともいいます。おそらくこの論理に対抗できる論理を周りの人たちもまた持たなかったのでしょう。さもありなんという気がします。

これは消費者マインドと消費者マインドがまともに対峙した事例といえます。介護される側の老人の方は自分はサービスを受ける側だからと自分の要求を訴える。自分は金を払ったのだから欲求を満たされる権利がある。だから自分がサービスの受け手として最大限のサービスを受けられるように、要するに利益を最大限にしようとする。消費者としては当然の権利を主張しているのだ。そういう論理でわがままを言います。

これに対して供給側が私はこれこれの金額によってこれこれという労働力を売っているに過ぎない。あなたの要求はそれを超えている。だからできない。それでもうるさく言うのなら、私はもう我慢しない。ふざけるな。つまり、私は外で消費者となるために一定の契約で限られた労働を売っているに過ぎない。従ってオーバーアチーブはしない。そう言っているわけです。これは権利者と権利者の闘いであり、消費者と消費者の闘いです。しかも本来は供給側の立場まで消費者として要求をし始めたわけですから、これに業界の論理(ここでいえば介護業界の法理や慣習)で対抗しようとしても無駄という他はありません。だって辞めることを前提に捨て身で自分が消費者だと訴えているわけですから。

市場経済の論理と市場経済の論理が交渉して決裂したら、もう永久に決裂するしかありません。

「いやいやそれでは高すぎる」
「いやいやこれ以上は勉強できません」
「そうですか、それでは今回の話はなかったということで」
「そうですね。残念ですが、そういうことにしましょう」

ということで供給側は顧客リストからはずし、需要側は二度とその営業とは会わない。そういうことになるのは必然です。今後両者が再び交渉することがあるとすれば、供給側が倒産しそうになって、藁をもすがる思いで少しでも可能性があればとかつて決裂した顧客にダメ元で営業をかけるときくらいでしょう。しかし介護施設に雇われる介護職員にそんな状況の訪れるはずはありません。もう生涯の決裂は決定的なのです。

私は教師の賃金がこれ以上カットされれば、同じ論理で過度な要求をする子どもや保護者を殴りつけ、「私はこれを我慢しなければならないほどの給料をもらっていない」という教員が出るのではないかとびくびくしています。或いは賃金がそのままであったとしても、子どもや保護者側の消費者マインドがいま以上に肥大して、同じように「もう辞~めた」と言い出す教員が量産されるのではないかとおろおろしています。

だってこの一か月を就労し続けるか否かによって退職金が百万円違うということになったとき、けっこうな人数の教員が早期退職を選んだのですから。そしてそれ以上に、その早期退職を選んだ教員たちに対して世論もマスコミも批判の声を上げられなかったのですから。つまりはこれは、教員だって労働者であり百万円の損をしてまで我慢して働く必要はないという論理を世間が肯定したことを意味するわけですから。

現在の四十代は、景気の良い時代を知っているバブル世代である四十代後半と、就職氷河期の始まるルサンチマン第一世代である四十代前半とが混在しています。混沌とした四十代、前後半で断絶する四十代でもあります。

しかしあの八○年代がつくり上げた消費者マインドだけは、四十代前半も後半も深く内面化しています。少なくとも後続世代よりは物欲に取り憑かれている世代です。おそらく私達の後続世代は四十代に比べてかなり慎ましやかで現実的です。それなのに私たちがこれから二十年近くにわたって学校運営の、もっと広く言うならこの社会の政策決定の主導権を握ろうとしています。この二○一○年代から二○二○年代にかけてはそういう時代なのです。

私は本書を通じて、どちらかというと消費者マインドによる市場経済的な発想で学校教育を考えるのではなく、これから「人の上に立つ」のだからもう少し共同生を大切にしませんかという論調で発言してきたつもりです。だって私たちは団塊世代が大嫌いではありませんか。団塊世代が自分勝手で不勉強でいつも得してると思って生きてきましたよね。後続世代に僕らはそう思われたくないな…とは思いませんか(笑)。

それを実現するか否かは私も含めて、これから二十年近くにわたる四十代の動きにかかっているのだと言って過言ではありません。私たち一人ひとりの自覚が学校教育を良い方向にも悪い方向にも向けてしまうのかもしれない、そんな意識をもつべきときが図らずも来てしまっているのです。

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札幌市中学校教諭車上荒らし事件に寄せて

同業者の車上荒らしにたいへんなショックを受けている。

なぜこんなにも自分がショックを受けているのか理解できないでいたけれど、こういうことなのではないか。

車上荒らしという犯罪行為がもともと生存の危機に瀕するときに増えるタイプの犯罪であり、比較的に平和で豊かな社会では下層階級の起こすタイプの犯罪であるからだ。この手の犯罪は国が貧困にあえぎ、社会が混乱しているときに増える、そういうタイプの犯罪なのだ。事実、この手の犯罪は1950年代まではものすごい数で立件されていた。そういう時代の犯罪と今回の犯罪は親和性をもっている。それが教員から出たということがショックなのだろうと思う。

札幌市ではこの10年、体罰があり、飲酒運転事故があり、パチンコ屋でパッキーカードを盗むというような事件があった。おそらく公にはされていないまでも、セクハラやパワハラの問題も多数あったことだろう。

まず、体罰は教育特有の問題であるからこれはいっしょに議論できない。むしろ社会では暴行であるものが現場が学校だと「体罰」と称される社会的慣習による呼び名に過ぎない。生徒の万引きが窃盗と呼ば...れずに社会が「万引き」と呼び、学校と保護者が同伴して謝罪すればたいていの場合許されてしまう慣習と同様の構図がある。従ってこれはこの議論から除外。

飲酒運転もセクハラもパワハラも世の中が平和で豊かだから問題になるタイプの犯罪である。生命の危機に瀕している、明日の命がどうなるかわからない、こうした状況のとき、この手の問題は優先順位が低くなる。しかも、おそらくこの手の犯罪は公にされないだけで、飲酒運転は一日に数万件、セクハラやパワハラに至っては厳密に判断すれば一日に数百万件の単位で起こっているに違いない。それが公にされなかったり被害者が我慢したり被害・加害で和解したりできるのは、これらが多分にモラルの問題を含んでいるからだ。モラルの問題だから、どんな職業の人間にもモラルハザード人間は一定数いる。だから教員から出ても警察官から出ても官僚から出ても大企業の社長から出でも、「馬鹿なヤツがいるもんだ」で僕らは済ますことができる。(もちろん、飲酒運転の事故で被害者が亡くなったとか、ハラスメントで被害者が自殺したという問題になれば大問題だが、それは別の論議だ。)「自分はしない」で済ますことができる。モラルの問題と考えることができるだからだ。

パチンコ屋のパッキーカードにいたっては、完全に平和な社会でしかあり得ない。なにせ娯楽施設での出来事である。「馬鹿だなあ…」という以外に言葉の出ない事案だ。多くの教師はただ嘲笑したはずである。

しかし、車上荒しは違う。これはモラルの問題ではない。まったく次元の違う問題なのだ。

生存の危機に瀕したとき、人のものを盗む、人を殺してでも盗むという事件は多くなる。犯罪白書に見る戦後から1950年代までのデータはそれを示している。その後、私たちは平和で豊かな社会を実現させ、こうした犯罪をかなり抑制することに成功した。しかも、教師は田中角栄内閣以来、身分的に大きく保障され、こういう犯罪を犯すような経済状態に陥らないようにと配慮されているのである。なのにこういう犯罪が教員のなかで起きるとすれば、この身分保障の前提が崩れてしまいかねないのだ。こんな犯罪を犯すような職業なら、教員の給料なんて300万くらいでいいじゃん…という論理に抗えなくなるのだ。つまり、これは僕らの職業的アイデンティティ、セルフイメージにかかわる問題なのだということだ。「自分はしない」で済ませられる事案ではないのだ。

僕が今回の報道に大きなショックを受けたのはこういうことなのだろうと思う。今回の容疑者には、もし容疑が事実なら僕は同業者として厳罰を望む。

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コスパを考えない

若い人たちの間で「コスパ」という言葉が流行っています。コストパフォーマンスの略語ですから、要は〈費用対効果〉のことです。

学校の先生も仕事ですから、〈費用対効果〉を考えることは大切なことです。何時間でもかけて、どんな重労働でも厭(いと)わず、必要なときには自腹を切って……というような仕事の仕方では長く続きません。それは確かです。

しかし、「コスパ」という言葉には、自分の時間を費やし、自分の労力を費やし、自分の金銭を費やしたなりの効果が、自分自身にどのくらい還ってくるかという意味合いがあります。これを学校教育にあてはめるのは、やはりいかがなものかと思います。

学校教育は教師の身になること、教師が成長すること、教師が自己実現することを目的としているのではありません。結果として教師がいい思いをすることも、教師が力量を高めることも、教師が自分の教師人生に満足することも、あくまで子どもたちの成長を介して獲得されるものでなければなりません。学校教育における「コスパ」を考えるならば、自分に還ってくることではなく、子どもにとってどんな成果が得られたかで考えるべきでしょう。つまり、学校教育で〈費用対効果〉を考えるのならば、教師の費やした時間や労力に対して、子どもたちにどんな効果があったかという枠組みで考えるべきなのではないでしょうか。

しかし、若い教師には、自分の施した指導にどのような成果があったのか、子どもの成長を見取る視座がまだまだありません。自分の施した指導に成果があったとしても、その分別のところでマイナスが生じているということが学校ではよく見られますが、それを把握する力もありません。そもそもそういうバランス感覚自体をもっていなくて、「あれども見えず」になってしまうのがむしろ普通です。

私は思うのです。学校教育で「コスパ」を考えるのは個人のであるべきではないのではないか、と。職員室全体で考えるものではないのか、と。例えば、ある行事に対して新しいアイディアが生まれたとします。準備には例年より時間がかかる、多くの先生方に労力を費やすことを強いることになる、どうやら学校予算も大きく浸食してしまうようだ、こうしたときに、さてこれだけのコストをかけてまで成果が得られる改革なのかと考える、学校教育ではこういう場合にのみ、コストパフォーマンスというものが問題になる、そう感じるのです。

私の言いたいことがおわかりでしょうか。まあ、口を悪く言えば、

「おまえらがコスパなんて考えんのは十年早えんだよ!」

ということになりましょうか(笑)。

〈費用対効果〉を考えるのは学校全体を動かすような仕事をするようになってからのことです。それまでは、学級経営にしても、授業づくりにしても、生徒指導にしても、行事への取り組みにしても、学級通信の作成や学級事務においてさえ、すべてが勉強なのだと謙虚に構えるべきなのです。そもそも生徒指導や不登校対応において、〈費用対効果〉を考えて仕事にあたるなどということが可能なのでしょうか。そんなことを考えていては、「ああ、先生はめんどくさがっている……」と子どもに伝わってしまいかねません。

確かになんでもかんでも全力でやっていては躰がきついこともあるでしょう。研究授業の指導案をつくっていれば、これで終わりというラインがないことにも気づきますから、やればキリがないという気持ちもわかります。しかし、そういう取り組みをしてみない限りは、いつまで経っても「ここが落としどころかな」というラインは見えてこないのではないでしょうか。

あんなに言って聞かせたのにこの子はまたこんなことをして……。この間あんなに泣いて反省したのはなんだったんだ……。子どもにはそういうことも確かにあります。しかし、それでも信じて時間と労力をかける、私たちはそういう仕事に就いているのです。

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圧倒的なデーベースが欲しい

婚活ビジネスも就活ビジネスも学校教育も、同じように消費者マインドに基づいた承認欲求ビジネスの様相を呈している。なのに婚活と就活はビジネスとして成功するのに学校はただ大変になるだけである。いったいなにが違うのでしょうか。婚活ビジネスや就活ビジネスにあって学校教育にないものは何なのでしょうか。

それはおそらく〈データベース〉なのではないかと私は考えています。婚活も就活もこういうタイプの人にはこういうものを…と即座に取り出すことのできる圧倒的なデータベースをもっているのです。

支援を要する子を担任したとき、見たことも聞いたこともない症例や現象が見られて学校を挙げて大混乱を起こすことがよくあります。どう対応して良いかわからない。体当たりで奮闘してみても、専門家という人たちに聞いてみてもどうもうまくいかない。そりゃそうです。だれもどうして良いのかわからないのですから。結局、教室は基本的に混乱したまま、周りが慣れることによってある程度落ち着き、その子にとってなにも良いことの起こらないままに卒業を迎えます。或いは、一部の子は専門家に預けられることによって教室が落ち着きます。しかしそれはその子の対応を専門家が請け負ってくれたというだけで事の本質は変わりません。現場が移っただけです。

しかし、もしも文部科学省が全国的なデータベースをつくっていたらどうなるでしょうか。東京のある学校に支援を要する子がいるとします。その学校の先生方はその子の症例を見たことも聞いたこともない。近隣校に聞いても近くの専門家に聞いても明らかにならない。でも、その症例と対応の在り方が札幌にはあるかもしれない。鹿児島にはここ十年で二例あったかもしれない。これを繋ぐ〈データベース〉がないのです。

特別支援教育に限らず、すべての子どもたち、すべての保護者たちは、自分たちが学校になにをして欲しいのか、どうして欲しいのか、実はその当事者さえよくわかっていないというのが本質なのではないでしょうか。

ちなみにこう考えてみましょう。あなたはいま、なにが欲しいですか? こう問われて即座になになにが欲しいと明確に応えられる人というのはあまりいません。なにかが満たされないけれど、なにか欲しいものがある。そんな感覚的なものしか自分自身でも捉え切れていない。そんなものです。アマゾンで本やCDを買ったとき、「あなたが次に欲しいものはこれではありませんか?」と言われて、「ああそうそう。自分が欲しかったのはそれだったのだ」と購入をクリックしたことはありませんか? 人間の欲求なんてものはそんなものなのです。子どもがパニックを起こしたり保護者がクレームを言ってきたりするのも、教師のある言動が触媒となって違和感が起動されることによって生じるのに過ぎません。最初から「これはいやだ」と言語化できる子どもも保護者もほとんどいないというのが実態です。そして「あなたの欲しいものはこれではありませんか?」とすべての顧客の欲求を起動するアマゾンの裏には、膨大な〈データベース〉があるのです。

かつてアマゾンが普及し始めた頃、〈ロングテール〉という語が流行しました。みんなが欲しがるような売れ筋のものというのは極一部で、その裏には一部の人しか欲しがらない膨大な商品の種類があるのだということを尻尾で表現した比喩です。商品の需要というのは尻尾のように、つけ根の太い部分から先っぽの極細いところまで長く長く続くのだという意味です。そうした極々一部の需要まで満たしたところにアマゾン的ビジネスのビジネスモデルがあったわけです。

しかし、学校教育はいま、〈デーベース〉もないのにアマゾンになれと言われています。ある稀少な書籍をある人が五十万で買ったという情報はアマゾンにとっては、或いは神田の古書店にとっては貴重な情報かもしれません。しかし、大型新刊書店にとってはそれは何の意味もない情報です。現在の学校教育はこの大型新刊書店にあたるのです。アマゾンになれというのであれば、絶対的に〈データベース〉が必要なのではないでしょうか。

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承認欲求を満たさなければならない

よく知る女の子が婚活を始めました(伝聞情報なので定かではありません。既に長い付き合いになりますが、さすがに彼女も私に「婚活始めたの」とは言いません)。四十代の女性教師です。一説によると四十代女性の婚活成功率は一%を切るという話があります。婚活ビジネスへの登録はそれなりにお金がかかると聞いていますが、成功率が一%を切るとなるとこれはもはや〈投資〉ではなく〈投機〉です。そもそも私たちは普通、成功率が一%を切るようなものにお金を払いません。五分五分でも払いません。成功率八割と言われて初めて「うーん、どうしよう」と迷う。その程度が一般的なのではないでしょうか。しかし、それでも婚活したいと本人が言うのに対して他人があれこれ言うわけにもいきません。「成功率一%に金を払うなんて馬鹿げてるよ」とでも言おうものなら、これまで築き上げてきた人間関係は瞬時に破綻してしまうでしょう。

婚活ビジネスは顧客の承認欲求をうまく利用するところにその本質があります。どこかに自分と相性ぴったりの相手がいるのではないかという想いは、どこかに自分を一生涯心から承認し続けてくれる相手がいるのではないかというのと同義です。しかし、そういう相手はいくら婚活しても一般的には現れません。なぜかと言えば、婚活ビジネスは相性ぴったりの人が現れない人間が多ければ多いほど婚活ビジネスは利益を上げられます。そういうビジネスモデルです。だって一九六○年代から七○年代にかけての国民の九九%以上が結婚できた時代に婚活ビジネスが成立しますか?単純な算数の問題に過ぎません。婚活ビジネスは独身のままでい続ける人が多ければ多いほど、離婚する夫婦が多くなればなるほど利益を上げられるビジネスなのです。

実は就活ビジネスにも同じことが言えます。同じというのは顧客の承認欲求をうまく利用するところに本質があるという意味です。どこかに私の適性にぴったりの仕事があるに違いない。そう思って転職をする人が多くなれば多くなるほど、就活ビジネスは利益を上げられます。人々の承認欲求を利用したビジネスモデルであるという点でいえば、メイドカフェやホストクラブと構造的には変わりません。

実は学校教育も承認欲求産業の方向に突き進んでいます。かつては学校というのは健全な市民、社会に役に立つ生産者にするための機関でしたが、それが八○年代をエポックとして次第次第にサービス業としての役割を付与されてきました。これはかつて子どもたちが「私は学校では集団のなかの一人に過ぎない」と思っていたものが、「私はいつでもどこでも『かけがえのない私』である。もちろん学校でも…」ということになったことを意味します。保護者にとって子どもは分身のようなもので一体化していますから、保護者も同じ要求を学校に突きつけるようになります。その結果、喧嘩が起こってもどちらも相手が悪いと言い続けるとか、自分の子に学習発表会の主役をやらせろと要求するとか、そういうことが起こるようになりました。

また、二一世紀になって登場した特別支援教育やアレルギー対応といった教育政策も「かけがえの私」を学校教育は承認するべきたという論理展開から浮上してきたものです。四十人の多様な「かけがえのない私」が多様な要求を突きつけてくる。担任は一人で四十人分の「かけがえのない私」とその背後にいる「かけがえのないうちの私たち親子」と思っている人たちを相手にしなければならない。「うちの子はこういう子だからこんなふうに対応して欲しい。それができなければ教師じゃない」と。これは消費者マインドに他なりません。私たちが変わる必要はない。学校が私たちに合わせなさいと。

しかも、私たちは彼らを愛さなければならないと有形無形に脅されます。メイドカフェやホストクラブなら擬似恋愛だけを想定すれば事足りますが、私たちには子どもたちを全人的に愛すのが当然だという眼差しが向けられます。保護者に対しても心から親身になることが当然だという眼差しが向けられます。

おそらく現在、私たちが投げ込まれているのはそうした地点です。

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札幌市中学校教諭、車上荒らし・暴行で逮捕

【車上荒らしで教諭逮捕=強盗致傷容疑-札幌】

http://news.nifty.com/cs/headline/detail/jiji-2015030700134/1.htm

緊急で校長が招集されて、服務規程が確認されて、日常生活においても教育公務員としての自覚をと職員に徹底しろとか言うのだろうか。そして再発防止に努めるとか言うのだろうか。

酒気帯び運転とかセクハラ発言とか、百歩譲って淫行までは「再発防止に努める」のを許そう。でも、こんなものはどう考えても再発しない。もしも行政がそういう対応を取るなら、一般教諭をなめてるとしか言いようがない。

それにしても、正直、知らない人でホッとした。

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連続型テキストと非連続型テキストを関連させる

まだまだ一般的には知られていませんが、いわゆる「説明的文章教材」には、三つの下位項目があります。「説明文」「記録文」「論説文」の三つです。一般には、「説明的文章教材」のすべてをまとめて「説明文」と呼ばれることが多いようですが、本来、「説明文」とは「説明的文章教材」の要素である一つの文種の呼び名に過ぎません。「文学的文章教材」が物語・小説・詩・短歌・俳句・随筆等々の文種に分かれるように、「説明的文章教材」もまた「説明文」「記録文」「論説文」に分かれるのです。

おおまかにいえば、次のような違いがあります。

【説明文】 ある題材に関する知識をもつ筆者が、知識をもたない読者に対して説明する説明的文章。
【記録文】  ある事件や歴史的な出来事について、時系列に並べて説明する説明的文章。
【論説文】  筆者が自らの意見を主張するために、具体例を挙げながら論理的に説得する説明的文章。

小中学校の説明的文章教材で最も多いのは確かに「説明文」です。おそらく、「説明的文章教材」をまとめて一般に「説明文」と呼ばれているのもそのせいなのでしょう。しかし、小学校高学年から中学校にかけては、「論説文」や「記録文」が一定程度の割合で載っています。高学年の説明的文章教材で先生方から「この説明文、難しいな」という感想が聞こえてくるものは、だいたいが「論説文」です。また、中学校の説明的文章教材は「説明文」よりも「論説文」のほうが多くなります。「記録文」は、小学校ではいわゆる「伝記」が、中学校では歴史の謎が解き明かされるまでの経緯を解説したり、ある人物が苦労をしながら某かの成功をおさめるまでを記録したりした文章がよく載せられています。

「文学的文章教材」の授業において、物語には物語の読み取るべきことがあり詩には詩の読み取るべきことがあるように、「説明的文章教材」においても、「説明文」と「記録文」と「論説文」とではそれぞれ読み取るべきことが異なります。その意味で、この〈文種意識〉は、授業における教師の心構えとしてとても大切になります。

これもおおまかにいえば、次のような違いがあります。

【説明文】 内容的には筆者が説明している〈情報〉を過不足なく捉え、形式的には(表現の仕方としては)いかに素人にもわかりやすく説明しているかを捉える。
【記録文】 内容的には筆者が解説している出来事を〈時系列〉で捉え、形式的には出来事の転換点(成功のきっかけや理由など)をどのように描いているかを捉える。
【論説文】 内容的には筆者の〈主張〉を捉え、形式的にはどのような論理(筋道)でその主張に至っているかという主張と具体例の関係を捉える。

文種の違いは、筆者がその文章を書いた〈目的〉の違いでもあります。新指導要領では〈目的〉に応じて読んだり書いたりすることが求められているわけですから、説明的文章を読むときに筆者の〈目的〉を捉えることは、基礎的な指導として大変有効といえるでしょう。

さて、「連続型テキスト」と「非連続型テキスト」との関連指導について、一見無関係とも思われる「説明的文章教材」の下位項目である文種について、かなりの紙幅を割いて説明してきました。

「連続型」「非連続型」というテキストの分類は、いわゆる「PISA型読解力」の流行とともに提示された、文字情報によるテキスト(=連続型テキスト)と図表やグラフを中心とした視覚的なテキスト(=非連続型テキスト)とを表します。現行指導要領は「PISA型読解力」の影響を色濃く受けていますから、「連続型テキスト」と「非連続型テキスト」との関連指導が、「言語活動の充実」の観点としてもかなり大きく強調されています。しかし、「非連続型テキスト」から〈情報〉を取り出したり解釈したり信憑性を評価したりといった読解力は、基本的には国語科よりも社会科や理科、数学科の仕事といえます。では、国語科ではどんな学習事項を担うのかといえば、おそらく「説明的文章教材」の授業において文章内容を視覚化する学力を形成すること、となるでしょう。具体的には、その文章にふさわしい視覚資料を見つけてわかりやすく書き直したり、文章中の情報を図表やグラフにして視覚化したり、本文内容を読み取って文図や文章構成図にしたりといった作業が中心になります。

私は先に、「説明的文章教材」の下位項目として、「説明文」「記録文」「論説文」の三つの文種があると書きました。この三つの文種を意識することが教師の授業づくりにとって大切であるとも書きました。この文種意識は「非連続型テキスト」との関連指導においても大きくその効力を発揮します。

第一に「説明文」の場合。これは筆者が読者にとって未知の〈情報〉を伝えようとしているわけですから、題材に関する〈情報〉そのものを図示することになります。例えば、かつて「宿替えの名人『ヤドカリ』」という、ヤドカリの形態や生態、飼い方などを解説した「説明文」が教科書に載っていたことがありますが、これならば題材であるヤドカリの形態を読み取って図示したり、ヤドカリの生態を場合分けして図示したり、飼い方をイラスト入りで注意事項とともに図示したりといった作業になるわけです。規模としてはノート一頁にまとめるのが適しています。

第二に「記録文」の場合。これはある出来事の流れを時系列に従って解説しているわけですから、基本的には年表型でまとめることが適しています。例えば、「田中正造」のような伝記ならば、本文に掲載されている出来事を年表型に整理し、重要な項目だけは赤で記述する、というような学習活動になります。また、かつての「幻の錦」のように二つの国で起こったことがそれぞれに語られていき、最後にそれがつながって謎が明らかになるといった記録文であれば、二つの国で起こったことをそれぞれ年表に書きながら、最後にその年表が融合するというような図示が必要になるわけです。これもノート一頁がふさわしい規模です。

第三に「論説文」の場合。これは筆者が自らの主張を述べるために具体例を施しながら論理的に解説しようとする文章ですから、筆者がどういった論理で主張に至っているかということを図示することになります。左の図のような文章構成図を全体で確認した上で、基本的にはこの形に添ってそれぞれの大段落について、本文中のキーワードやキーセンテンスから重要事項を抽出した文図を描かせるのが適しています。よく文図を描かせると絵の上手な、カラフルなものが評価されがちなのですが、国語では絵の上手さよりも論理展開が捉えられているかに評価基準が置かれなければなりません。こうした文図の規模はノート見開き二頁が適しています。

同じように「説明的文章教材」から本文情報を抽出して視覚化するにしても、文種に応じた視覚化するのにふさわしいまとめ方、図示の仕方があるのです。「PISA型読解力」の流行とともに、視覚化が授業手法として一つの流行になっていますが、それがなぜ必要なのかまでよく考えて取り組む必要があるでしょう。

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十年後を考える

あなたは毎日、何時に退勤しているでしょうか。七時でしょうか。九時でしょうか。毎日十時をまわってるな……なんて人もいるかもしれません。

では、あなたは、一つ一つの仕事にどのくらい時間を使っているでしょうか。それを意識したことがあるでしょうか。例えば学級通信を一枚書くのに、あなたは゛とのくらいの時間と労力をかけているでしょうか。周りの先生方の学級通信に眼を通す。なにか時事ネタはないかとインターネットを開く。文章を書き始めれば、今回の内容にふさわしい格言はないかと探し、辞書を引きながら言葉を探す。そんな書き方をしているはずです。

あなたの教室には、自腹を切って買って来たものがどのくらいあるでしょうか。可愛い検印や連絡用のホワイトボード、プリントをはさむためのファイル、小物を整理するためのちょっとしゃれた小物入れ……。どれも四月に、百円ショップや雑貨屋に足を運んで買いそろえてきたはずです。それも退勤後の一つの楽しみだったはずです。

では、こう考えてみましょう。十年後、あなたは三十代になっています。あなたは三十代になっても、その仕事の仕方ができるでしょうか。あなたは結婚しているかもしれません。もしかしたら子どももできているかもしれません。ご両親に介護が必要になっているかもしれません。隣の学級に自信のない、仕事もままならない後輩がいて、そのフォローに奔走しているかもしれません。そして何より、いまあなたをフォローしてくれたり相談に乗ってくれたりしている同僚の先輩教師は、もうあなたを一人前だと認識していてフォローしてくれる存在ではなくなっているのです。

一つ一つの仕事に対して、いま現在の時間のかけ方、いま現在の労力のかけ方、いま現在のお金のかけ方は間違いなくできなくなります。毎日、子どもの保育園の送り迎えをしなければならないかもしれません。家族サービスをしなければならなくて、週末をあてにできなくなるかもしれません。たまに外食したり、思い切って買ったマンションのローンがあって、細かく金額を計算しながら過ごす毎日になるかもしれません。生活とはそういうことであり、大人になるということはそういうことです。

時間も、労力も、お金も、自分だけの判断で自分の思いどおりに使えるのは、実はいまだけなのです。

しかしながら、私は、だから時間と労力とお金の節約を始めなさい、と言いたいわけではありません。もう少ししたらそれらのインフラがなくなってしまうのだから、いまのうちに思う存分に費やしたほうがいい、と言いたいのです。

ただし、一つだけポイントがあります。

どうせ時間をかけるなら、漫然と時間をかけないで、時間をかけられなくなったときにはこれをカットしようとか、これをセーブしようという優先順位を考えながら身取り組んでみてはいかがでしょうか。どうせ学級通信のネタを集めるなら、十年後にも使えそうなものを集めてみてはいかがでしょうか。どうせ授業プリントを一枚つくるのならば、十年後にも使えそうなしっかりしたものをつくることを意識したほうがいいのではないでしょうか。百円ショップや雑貨屋で教室環境グッズを買いそろえるならば、そのときのノリで買うのではなく、少しくらい高くても今後十年くらいは使えそうな丈夫で長持ちしそうなものを買ってみてはいかがでしょう。本を選ぶのも「十年後にも役立ちそうなものは?」という観点を抱くだけでずいぶんと変化が訪れそうです。

時間も、労力も、お金も、ちょっとだけ遠くを見てみると、その使い方を考えるようになります。無駄にしたくないなと思うようになります。私は若いうちに、自分の生活レベルのことについて「自分の頭で考えてみる」ということがとても大切だと考えています。

もちろん、十年後のために買ったのだからと、その後十年間それを断固として使い続けるなんていう頑固さはいりませんが、少なくとも自分自身で考えてみたということが、その後変わるにしても変わらないにしても大きな成長につながると思うのです。

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授業の牽引力は教材・題材に求める

かつて「教材を教えるのか、教材で教えるのか」という論争がありました。例えば、国語の授業で「ごんぎつね」を扱うということは、「『ごんぎつね』という作品自体を読ませることなのか、それとも『ごんぎつね』を用いて作品外にある指導事項を教えることなのか」という議論です。前者であれば「ごんぎつね」は小学校四年生に読ませるべきかけがえのない作品ということになりますし、後者であればたまたま「ごんぎつね」が教科書に掲載されているだけで、同じ指導事項を扱うことができるのなら代替可能ということになります。

この問題には既にほとんど決着がついていて、「教材で教える」派がかなり優勢になったと見て良いでしょう。教材によって教えるべき指導事項を言語技術だと主張する人もいれば、豊かな情操だと主張する人もいますが、どちらにしても教材を読むこと自体が目的ではないとしている点で構造的には共通しています。

さて、こうした動きと同時進行で発展してきたのが、九○年代の「新学力観」や二○○○年代の「ゆとり教育」を背景として流行してきた「関心・意欲・態度」の教育です。学校教育の目的は何より子どもたちの「関心・意欲」を喚起して「主体的に学ぶ態度」を育成していくことである、それさえ身に付けさせればあとは子どもたちが主体的に学んでいくようになるはずだ、こうした議論です。

もちろん、こうした主張には一理も二理もあるのですが、私はそれが限度を超えて、先に述べた「教材で教える」論と相俟って、あまりにも教材内容を軽視する風潮につながっているように感じています。「教材内容よりも言語技術」「教材内容よりも関心・意欲・態度」といった感覚が強くなりすぎているのです。

例えば、私はある研究授業において、「天国のごんに手紙を書こう」という授業を見たことがあります。終末の感想を書きやすくするために手紙形式にしようとするのはいいとして、そこで手紙の書き方まで教えようとしているのはいかがなものかと思いました。子どもたちが「拝啓 日に日にあたたかくなる今日この頃、天国でも……」などと書いているわけです。その授業を参観している大勢の先生方の中に、この「拝啓 ごん様」実践に違和感を感じたのは決して私だけではなかったと思います。授業者の中で、なぜ手紙の書き方、手紙の形式を教える場面が「ごんぎつね」なのか、或いは「ごんぎつね」でなければならないのか、というようなことが全く検討されていないのです。

例えば、私はある研究授業で、「メロすごろく」という「走れメロス」の授業を見たことがあります。「走れメロス」の人物や出来事などの設定を確認していくために、「走れメロス」の内容になぞらえたすごろく形式で授業が進んでいくわけですが、正直、「そんな小さなことにこんな大規模な仕掛けをつくって、長い時間をかけるなんて……。そんなことは15分くらいで片付けてしまって、もっとほかに学習効果を高められるような授業計画を建てた方がよいのではないか」と感じざるを得ませんでした。

この二つは極端な例にしても、二十一世紀に入って教材を軽視するといいますか、教材内容をちゃんと読まない実践が増える傾向にあります。特に文学的文章においては、九○年代末の「文学的な文章の詳細な読解に偏りがちであった指導の在り方を改め」というあまりにも有名なフレーズがその傾向を強めました。これはあくまで「偏り」を改めよと指摘したのであって、決して「詳細な読解」をするなという意味ではなかったのですが、現場の多くに文学軽視、教材内容軽視の風潮が広がってしまったのです。この傾向は「教材で教える」という立場から見ても、明らかによくない傾向だったといえるでしょう。

例えば、教材を用いて教えるべきが「言語技術」だとしましょう。「言語技術」をしつかりと身に付けようと思えば、教材を本気で読む必要があります。本気で読もうとするからこそ、そこで習った「言語技術」の効果が実感できるのです。教材を用いて培うべきが「関心・意欲・態度」だとしても同様です。教材内容を本気で理解しようとし、本気で格闘する経験を積むことなしに、ことばに対する「関心・意欲・態度」を育成することができるはずもありません。教材内容に正面から向かい合うからこそ、そこで教えられる「言語技術」の効果が実感され、「関心・意欲・態度」も培われるのです。これが、私が基本的には授業の牽引力は教材・題材に求められなければならないと考える所以です。

かつて「学習ゲーム」の始祖ともいえる横山験也氏が「学習ゲームはふりかけに過ぎないのに、ふりかけばかりが肥大化している現状がある」と、無自覚な「学習ゲーム」実践に警鐘を鳴らしているのを聞いたことがあります。食べさせたいのは〈ごはん〉であって〈ふりかけ〉ではない、〈ふりかけ〉はあくまで〈ごはん〉を食べさせるための食欲促進剤に過ぎない、という意味です。「学習ゲーム」のゲーム性の開発ばかりに目が向いて、本当に食べさせなければならない〈指導事項〉の検討が曖昧になっている現状に、「学習ゲーム」の始祖が苦言を呈したわけです。

最近の「学習ゲーム」の実践を見ていると、〈ふりかけ〉がどんどん肥大化し、〈カツの卵とじ〉のような主役になってきているのをよく見ます。〈ふりかけ〉であればそれなりに〈ごはん〉といっしょに食べることにもなりますが、〈カツ丼〉になってしまうともう〈カツの卵とじ〉が主役になってしまいます。しかも、それがあまりにおいしくてカロリーが高いために、〈ごはん〉を残してしまう人まで現れます。これではいけません。「学習ゲーム」はあくまでも学習効果を高めるためのゲームであって、ゲームを主役にしてしまってはいけないのです。先にあげた「メロすごろく」の例などは、完全に〈カツ丼〉になってしまっている例といえるでしょう。

これと同じような構造が「拝啓 ごん様」にも見られます。「ごんぎつね」の終末の感想を書くことも、「手紙の書き方」を身に付けることも確かに重要な指導事項です。その意味では、比喩的にいえば立派な〈ごはん〉です。しかし、これでは〈ごはん〉をおかずに〈ごはん〉を食べさせられているようなもので、どらが主食なのか子どもたちは迷ってしまいます。簡単に言えば、重要な指導事項を二つまとめて学習活動をつくることによって、かえって指導事項がにごってしまっているのです。「手紙の書き方」は両親に感謝の手紙を書くとか、総合でお世話になった講師に礼状を書くといった、あくまで手紙を書くのにふさわしい「実の場」を設定すべきでしょうし、「ごんぎつね」の終末の感想はあくまで「ごんきつね」の内容を想起させたうえでできるだけ抵抗のない形で書かせるのが筋でしょう。

本書は第二章において、各領域別に合計一一○の言語技術を提示します。しかし、言語技術はそれだけを提示して教え込めばよい、教材や題材はどうでもよくて言語技術だけをとにかく〈スキル訓練〉型で練習させればよい、というものではありません。あくまでもその言語技術が効果的に機能しているような教材によって、その効果を理解させ実感させながら身に付けさせていく必要があります。それがないと言語知識としては覚えているものの、その効果の実感されない「技術主義」に陥ってしまいます。

特に「読むこと」領域においては、教材の中でどんな言語技術がどのように使われ、どんな効果をあげているのかということを、教師がよく理解していなければ成り立ちません。教材内容軽視の風潮は、かつて国語科授業の命ともいわれた「教材解釈」「素材研究(=作品研究)」の必要性をも軽視させている現状があります。「教材を教える」から「教材で教える」への転換は、「教材解釈」や「素材研究」を不必要にしたのではありません。むしろ、教材が〈何を語っているのか〉だけでなく、〈どのように語っているのか〉までしっかりと捉えることが必要とされるようになったのです。「教材で教える」という立場が、かつての「教材を教える」立場よりも「教材研究」の重要性を高めたのだといっても過言ではありません。

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女性教師に気持ち良く働いてもらう

女性教師に気持ち良く仕事をしてもらえるか否か。現在の職員室運営はこの視座を抜きには語れません。これは男性上司ばかりのことを言っているのではなく、女性上司でも同様です。現在の職員室は小学校なら半数程度、中学校でも三割程度は女性教師であるはずです。もう女性教師が少数派である時代は既に数十年前に終わっています。

男性教師を動かす原理で女性教師を動かそうというのははっきり言って無理です。出世をちらつかせることはまったく効き目がありません。ライバル間で切磋琢磨して育つという原理もまったくとは言いませんがほぼありません。そもそも仕事における競争意識がないのですから、この手の原理で考えること自体がナンセンスなのです。それはちょうど偏差値教育からゆとり教育を経て再び学力向上が叫ばれるようになった昨今、「勉強すれば将来は安定した職業に就けて幸せになれるんだ」という論理が無効になり、担任教師が魅力的な授業を展開し、魅力的な人間にならなければ子どもたちが動かなくなったのに似ています。それと同じように、女性もまたニンジンでは一切動かせないのです。

そもそも旧時代でさえ、ニンジンで釣りながら動かしていたこと自体が本来間違っていたと言うべきではないしょうか。人間はパブロフの犬ではありません。いくらベルを鳴らしてニンジンを与えたとしても、ベルだけでよだれを垂らすようにはならないのです。

さて、私は前節において、「人の上に立つ者」の配慮として、一人ではないというメッセージを投げ続けること、一人ひとりがほんとうにやりたいことについては保証し続けることを挙げました。女性の場合には更に配慮が必要です。

第一に「一年間、絶対に責めない」という覚悟をもつことです。どんなミスをしても、どんな失敗をしても、どんなトラブルを起こしても、絶対に責めてはいけません。それまでの関係がどんなに円滑であったとしても、一度でも責めたらアウトという女性が一定数います。もちろん全員ではありませんが、一部の女性にはそういう特質があります。しかも男性上司は人間関係がうまくいっていると、「この人は大丈夫」という感覚を抱いて責めてしまう場合がありますがそれもダメです。例えばその女性が体育系でどれだけ強く見えようとも、付き合いが長く自分との関係がどれだけ円滑であろうとも、一方的に責めることは厳禁です。むしろ自分のフォローが足りなかったことを謝罪するスタンスで行くべきです。これは男性四十代の既婚者ならばわかるはずです(笑)。

第二に「常に見ているよ」という姿勢を示し続けることです。その女性教師になにか良い動きがあった場合には間髪を入れずに褒める。その日のうちに褒める。また、その女性教師が組織のために頑張ってくれたら間髪を入れずに感謝する。その日のうちに感謝の意を言葉にする。この癖をつけることが必要です。男性上司は言葉にしなくてもわかるだろうと思いがちですが、それは共通のニンジンを追う者同士の男性原理に過ぎません。言葉にしない評価も、言葉にしない感謝も、この世の中ではないに等しいのです。そしてこれらの褒め言葉や感謝の言葉は他の人に聞こえないところで発しなければなりません。廊下や帰りがけの玄関、場合によっては携帯メールなど、他の人たちには見えない場、聞こえない場でその人だけに向けて発しなくては意味がないのです。

第三に自分の下に女性教師が複数いる場合には、どの女性教師とも等しい距離感覚を保つということです。一人の女性教師とは距離が近く、他の女性教師との距離は遠いというように差があるのでは、最初は良くても一年間はもちません。距離の近い女性教師が五十代で、自分の方が依存しているという場合ならばあまり問題はありませんが、自分ど同世代以下の女性教師である場合には、距離感覚に差があっては早晩人間関係が破綻します。一方の女性教師にもう一方の悪口を言うとか、この二人は仲が良いからと自分が知っている一方の秘密をもう一方に語ってしまうとか、そういうことも厳禁です。仲が良いように見える二人の女性が実は仲が悪かったなんていうことは世の中にあふれています。

以上が最低限のマナーです。女性のみな様、好き勝手を申してすみません(笑)。

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指導事項に基づいた学習活動を仕組む

国語の授業がもうそろそろ新しい教材に入ります。あなたは教材研究をしなければなりません。一度、自分で教材を読んでみます。そのとき、あなたは頭の中でどんなことを考えるでしょうか。多くの人がまず例外なく、「この教材、どうやって授業しようかなあ……」と考えるのではないでしょうか。

実は意外かも知れませんが、この思考法、この発想法こそが、多くの教師が子どもたちの学力を向上させられない一番の要因になっています。

教材研究をするときにまずしなければならないことは、指導事項を決めることです。思考法でいうなら「この教材で何を教えようかなあ」とか「この教材で何を扱おうかなあ」と考えることを指します。授業というものは、①指導事項(WHAT=何を教えるか)を明確に設定し、②その指導事項を扱うためのふさわしい学習活動(HOW=どのように教えるか)は何かという順で構想されるべきものなのです。算数・数学や理科ならこういう発想で当然のように授業が行われているのですが、なぜか国語の授業だけはそうなっていません。その結果、「天国のごんに手紙を書く」という学習活動がまずあって、その活動でどんな国語学力がつくのかが曖昧なままに授業が行われる、「○○に関する説明を考えて交流し合う」という学習活動が先にあって、その活動で身に付けるべき指導事項が曖昧なままに授業が進められる、そんな本末転倒の現実があります。

本来、学習活動というものは指導事項によってその意味・意義が変わるものです。同じ〈方法〉であってもその〈目的〉によって意味・意義が変わる、と言い換えても構いません。

さて、このことを詳しく見ていくことにしましょう。

私の考える「国語学力の構造」は五つの下位項目でできています。「学習意欲」「思考力」「言語技術」「言語感覚」「国語教養」の五つです。

上の図1をご覧下さい。これは私が講演や講座において、現場の先生方にわかりやすく説明するために、「国語学力」の構造を便宜的にまとめた図です。

まず、縦軸は「実用─教養」、横軸は「認識─体感」としてマトリクスをつくります。

「国語学力」には実用的なものと教養的なものがあります。例えば手紙の書き方とかスピーチの仕方などというものは実用的な学力ですし、文学史や古典、短歌・俳句などの指導事項は教養的な側面の色濃い学力といえます。また、「国語学力」に は「わかる」というタイプの学力と「感じる」というタイプの学力とがあります。前者を「認識的な学力」、後者を「体感的な学力」とここでは呼ぶことにしましょう。

すると、実用的で認識的な学力がいわゆる「言語技術」です。「言語技術」はまず「わかる」ことから始まり、実用性を旨としているからです。また、教養的で認識的な学力が「国語教養」です。文学史的な知識や古文・漢文の基礎知識、語の構成、方言と共通語など、国語学力にはこうした要素は決して少なくありません。更に、私は、実用的か教養的かにかかわらず体感的な学力については「言語感覚」であると位置づけています。このマトリクスはこういう意味です。

さて、このマトリクスを用いて、音読を例に「指導事項」(=目的)と「学習活動」(=方法)との関係について考えてみましょう。

まず図2を見てください。図2は物語や小説において音読の言語技術を教え、その言語技術を意識して音読練習をするという授業を表した図です。例えば、「題名を張りのある大きな声で読み、作者名はトーンを落として読む」とか、「地の文はトーンを落として読み、会話文はトーンを上げる。会話文の前後には少しだけ間をとるとよい」といった言語技術を教えて、その練習をしてごらん、というような授業ですね。これは言語技術を教えるため(=目的)に言語技術教育の手法(=方法)を使っているわけですから、すべてが図で言う右上の象限「言語技術の世界」で行われています。

これに対して図3は、前節で詳述した古文の音読をさせる場合の構造を図で表したものです。古文を音読させるということは、歴史的仮名遣いや主語の省略など、いわゆる「国語教養」的な指導事項を確認することが必要です。従って子どもたちはこれが古典の基礎知識を定着させるための学習活動だと捉えています。しかし、授業者の私としてはこの学習は古文特有の韻律(=リズム)を体感させること(=目的)をねらっています。ですから、音読の回数が多ければ多いほどいい、ということになります。ここからどんな些細な読み間違いも許さないというゲーム性を施して、「楽しく練習させちゃおう」という発想(=方法)が出てくるわけですね。しかも、こうした韻律を体感することによって、将来、文章を書いたりスピーチをしたりするときに、リズムを意識しながら書いたり話したりする子どもたちが生まれるのではないか、そんな実用的で、遠くにある目的を意識した活動にもなっているわけです。

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コミュニケーション能力は配慮力である

四十代になると主任クラスの仕事を任されます。一人でやる仕事から多くの同僚を動かしながら、しかもコンセンサスを取って勧めていく仕事が増えていきます。多くの人たちを納得させられる〈コミュニケーション能力〉が必要とされます。納得というものはいくら論理的に説得しても得られません。納得させるということをひと言でいうなら情を制することです。情を制しない限り、いくら詭弁を弄しても納得などさせられません。納得してもらうのに必要なのは口舌ではなく行動なのですから。

職員室において、たとえ一部の人たちとはいえ「人の上に立つ」ということは、自分の思い通りにただ仕事を進められるということをまずは捨てることから始まります。それができないうちは「人の上に立つ者」としては半人前です。だって自分一人ではできない仕事を担っているわけですから、他の人たちに動いてもらわないことにはその仕事は進まないのです。そしてその人たちに気持ち良く仕事をしてもらうための動きを自分に徹底して課さなければなりません。それも日常的に、一日も怠ることなく。

情を制するのに必要な第一は、「絶対に一人にしないよ」というメッセージを投げ続けることです。人は自分の身を守ろうとします。いえ、人だけではありません。これはすべての生物の本能です。しかし、自分の身を守る人ばかりがいくら集まっても改革はできません。新しいアイディアを採用するよりも現状維持の方が身の安全は確保しやすいわけですから当然のことです。

他人に対してなにか新しいアイディアの実現を依頼するという場合には、「きみは一人じゃない」「すべてをきみの責任に帰したりしない」「人手が必要なときにはみんなで手伝う」「この一年間、絶対に一人にはしない」ということを行動で示し続ける必要があります。「何月何日までにやっといてね」で人が動くと思っているのでは話になりません。しかもその先生ができなかったからと言って「社会人としてのいかがなものか」なんて思っているようでは、あなたの方が上司失格なのです。この第一の原理は「人の上に立つ者」としては基本中の基本です。この覚悟がないなら他人を動かす仕事自体を四月の段階で引き受けてはいけないのです。孤高を貫くべきなのです。

情を制するのに必要な第二は、その人が一番やりたいことを絶対的に保証してあげるということです。例えば、ある人が部活動の指導をやり甲斐として教師になったとしましょう。その人はできれば毎日放課後は部活動に徹底して付きたいのです。しかし、学校現場はそのようにはできていません。あなたが主催する臨時の会議をどうしても設けなければならなかったり、今日のうちにみんなで力を合わせてやっておかなければならない作業があったりということがあり得ます。その先生だってそんなことはわかっています。

しかし、あなたの下で働く部活動に熱心な先生がどんな日程で部活動に取り組んでいるのかについては、あなたは熟知していなければなりません。自分には関係のない部活動だったとしても、大会日程がどうなっているのか、大会の直前のミーティングはいつどこで行うことを常としているのか、その先生が今年はどこまで結果を残したいと考えているのか、そういうことを把握していなければなりません。そして臨時の会議や喫緊の作業においても、「今日はちょっと…」とその先生に言わせるのではなく、「先生にとっては今日が大事な日だってわかってるから、今日はいいよ。次にお願いね」とこちらから声をかけるのです。これができないと「人の上に立つ者」としては失格なのです。下の者に対していかにストレスを軽減してあげるか、それと同時に言葉は悪いですがいかに小さな恩を売るか、仕事を円滑に進めるための人間関係の調整というものはこのレベルの配慮なのてす。

もちろん、それでもどうしてもという緊急事態はあり得ます。その場合にも、「ごめんね。こんな大事な日に」というひと言があるかどうかで、先生方の気持ちはまったく変わるものです。

こういうレベルのことを〈コミュニケーション能力〉と呼ぶのです。

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ただ受け止め、ただ引き受ける

親父が亡くなる一年二か月ほど前のことです。両親と私と妹と、四人で温泉に行きました。定山渓温泉といって札幌の中心部から四十分ほどのところ。一泊二日でした。「これから毎年行こうね」と言っていましたが、それが家族四人の最後の旅行になりました。

親父が亡くなる二か月前のことです。両親と私と妹と、四人でジンギスカン鍋を囲みました。両親が一緒に入っている介護施設の敬老会というイベントでのことでした。「これから毎年食べようね」と言っていましたが、それが家族四人の最後の食事になりました。

親父が逝ったのは二○一三年十一月二十五日、月曜日の一七時三分のことでした。それまでの荒かった呼吸がスーッと消えて行きました。とても静かな時間でした。私が前日まで熊本に講演に行っていました。眠い目をこすりながら授業をしていたら、午前中に容態急変の電話がありました。親父は私の帰りのを待っていたのだなと感じました。

親父が脳梗塞で倒れたのは二○一一年八月末のことでした。ちょうどお袋が八月初旬から札幌で入院していて、親父は一日置きに四十分ほど高速を飛ばして見舞っていました。親父が倒れたのはお袋が退院して六日目のことでした。もしも親父の脳梗塞が一週間ほど早くてお袋の入院中であったならば、親父は救急車さえ呼んでもらえずそのまま亡くなっていたことでしょう。「運が良かったね」というのが私たち家族の合い言葉でした。

しかし、それからが大変でした。お袋はそれから毎日、七十五を超えているというのに車を飛ばして病院に通う毎日。使命感からか親父のもとに通うことは怠らないのですが、毎晩家に戻ってからは一人でボーッとしていたようで、少しずつ認知症が進んでいきました。親父が四ヶ月間の入院加療から退院したあと、この老夫婦が二人だけで暮らすことはやはり無理でした。それから一年数ヶ月、私と妹が相談して両親ともに同じ施設に入れるまでいろんなことがありました。

ほんとうにいろんなことです。

この間の良い想い出は定山渓温泉だけなのでした。仕事もままなりませんでした。三日連続で欠勤した後に、授業をすべて午前中にしてもらって午後は一週間連続でまるごといない、なんていうこともありました。親父はかつて公務員でした。社会保障としてはかなり恵まれています。しかし、国がどれだけ社会保障を充実させていても、細かいところでどうしようもないことが次々に起こります。間違いなくこの程度で済むのは恵まれているのだと頭ではわかっているのですが、やはりそんなふうに考えるのは無理でした。幸い、当時の校長も教頭も、僕のお世話になっている家庭科の先生も同じ学年の数学の先生も要介護の親を抱えていましたから、私は有り難い配慮を次々にしてもらえました。

結局、二○一三年の三月、両親が施設に入り、そのいろんなことのほとんどが解決しました。私と妹はほっとしました。もう親父の「死にたい」という言葉を聞かなくていいのだ、もう私がお袋を怒鳴ったりしなくていいのだ、そんなことを想って脱力しました。親父が逝ったのはそれから半年後のことでした。

いまではその施設にお袋が世話になっています。もうすっかり慣れたようで、いまのところ何一つ問題の起こらない日々が続いています。私は月に二度ほどお袋のもとに顔を出しますが、施設の次の行事を楽しみにしている様子です。隣り合って設置されていたかつて親父の入っていた部屋には、もう別の人が入居しています。私はその部屋の権利を買いたいくらいに想うことがありますが、そうもいきません。

実家にはまだ親父の洋服も親父の寝ていた介護用のベッドもそのままにしてあります。家にはまだ親父の匂いがはっきりと残っていて、私はたまにモノクロの親父の青春期のアルバムを眺めながらそこでひと晩を過ごすことがあります。そんなことをしていると、実家ではときたま親父の気配を感じることがあります。もしかしたらまだいるのかもしれません。もうお袋も住んでいないあの部屋に。

こういう文章を書いていると、知らないうちに涙がこぼれてきます。人間とはそういうものです。そしてこういう世界が四十代にとってはもうすぐそこまで来ているのです。

しかし、これは人間にとって必要な経験なのだと思います。私はあの時間が尊いものだったと思いますし、あの時間が愛惜しいものであったとも思います。お袋が逝くときにはもう少しイライラせずに、脇目を振ることなく自分のすべての時間をお袋に渡そうと決意しています。

親父とお袋を見ていると、人が必要以上に自分の人生に意味を見出そうとすることの不毛性に気づかされます。最低限のお金は必要ですが、それ以上のお金で買えるような物事を人は最終的には欲しがらなくなるということもわかってきます。旨いものも旨い酒も欲しがらなくなります。静かなありふれた時間とゆるやかでおだやかな安心だけを求めるようになります。それだけでいいと思うようになるようです。

人が年齢を重ねるとともに他人に対して優しくなっていくのはこういうことなのだろうと思います。本書でも四十代が目指すのは成熟であると繰り返してきましたが、成熟は本に議論によっては得られません。いま目の前にあることをただ受け止め、ただ引き受けるしかないのだという経験だけが人を成熟に向かわせるのだと思います。

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文学と批評と文学教育

この原稿を書いているのは二○一五年二月二日である。昨日、イスラム国に人質に取られていた後藤健二さんが殺され、マスコミもネット上も大騒ぎである。後藤さんの人生が至るところで紹介され、それに感動し、惜しい人を亡くした、貴い人を亡くした、イスラム国許し難しと、多くの人々が声高に叫んでいる。ネット上では、教師もまた、この事件を子どもたちにどのように語るべきか、この事件は日本の学校教育にとってどのような意味をもつのかと丁々発止である。

しかし、私はこの議論はこの事件の安直な消費であると感じている。後藤健二さんへの冒涜であるとさえ感じる。後藤さんの五感が感じ、後藤さんの心が見出したものは、我々ごときが感得できるものではあり得ないし、ましてや言葉になどできるはずもない。これらの反応は船長を裁こうと躍起になり、船長の主張にただ憤る人々と同じ場所に在る。後藤さんの心情も真意も私などには理解できるわけはないのだと認めながら、静かに冥福を祈るのが私たちにできるせいぜいである。

二十年近く前のことである。勤務校で生徒同士による喧嘩があった。怒りに怒った男子生徒が技術室から自転車のチェーンを持ち出し、相手を鞭打った。事は加害者も被害者もただでは済まない流血の大事件である。技術室の鍵をかけ忘れた技術科教師の責任問題にも発展した。その後、周りの生徒も職員室の教師も、加害生徒に対して「人間ではない」かのごとき眼差しを向けた。私はこのときも、「人間だもの、そういうこともあるよ」と感じていた。私は当時、加害生徒だけを悪人に仕立て、自らに巣くう原罪を意識することなく自らを正義の場にいると疑わない周りの人たちに対する猜疑と軽蔑の目を見向けざるをえなかった。これも周りが船長に憤り裁こうとする人間たちと同様に見えたのだ。

宮崎勤、酒鬼薔薇聖斗、宅間守、加藤智大……世間が怖れたおぞましい事件を起こした者たちに私は常に同じことを思い、その事件におぞましさを感じ、怖れる世間は常に船長を裁こうとする者たちと重なって見えた。私はなにも、犯罪者を肯定しようとか庇おうとかしているのではない。人間とはどうしようもないものであり、少なくともどうしようもない部分をもっており、自分だって状況と環境によっては彼らと同じ地点に立つことがあるやもしれぬという可能性を怖れる感性をもっているだけである。それを教えてくれたのは例えば武田泰淳の「ひかりごけ」であり、例えば梅崎春生の「櫻島」であり、例えば大岡昇平の「野火」であり、例えば野間宏の「暗い絵」である。戦後派作家は戦時に剥き出しになる人間のエゴ体験、人間の原罪体験を赤裸々に披瀝した。そこから敷衍して自らの暗部に想像を馳せたまでである。

実は、武田泰淳「ひかりごけ」の船長にはモデルがある。戦時中、羅臼で同じような事件が起こっているのだ。その人物は私の住む北海道で天寿を全うするまで生きた。北海道後志の岩内という町である。これは合田一道が十数年に及ぶ取材をもとに詳細に報告している事実だ(「裂けた岬─『ひかりごけ』事件の真相」恒友出版)。決して純粋なフィクションではないのである。こんなあり得ないような事件でさえ、人間は起こすのである。

文学とは人間に対する認知を広げ、認識を広げ、世界観を広げる媒材である。詳細な叙述も、描写も、比喩も、修辞も、構成も、そのために用いられる。しかもただ道具として用いられるのでなく、あり得ない世界観を描いているにもかかわらず、読んだその瞬間に読者を鷲づかみにし、放さず、あたかも我が事であるかのように読者と一体化することを目的として存在する。だからこそ、その完成度が問題となるのである。文学教育とはちょうどこれとは反対の道筋を通って、自らの世界観を広げていく営みを目指す。そのためにこそ自分とその作品との関わりを批評に託すのだ。作品を読んでカタルシスを得て楽しむなどという安直な消費とは一線を画するのだ。

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形象と感動と世界観

実は、「忍ぶ川」には加藤剛と栗原小巻を主演とし、名作と呼ぶに相応しい映画が巨匠熊井啓監督によってつくられている。それは見事と言わざるを得ない、素晴らしい作品で、巷の評価、専門家の評価ともに非常に高い作品として知られている。しかし、例えば、「忍ぶ川」という小説を読んでの感動の質は、映画「忍ぶ川」を観ての感動の質とどう異なるだろうか。

ここで問題にしているのはあくまで「感動の質」である。もちろん、映画を観ての志乃は栗原小巻以外にあり得ないが、小説の志乃は読み手の想像に自由をもたらす。かつての青春期のほろ苦い恋の対象を思い描くのも、自分の好きな女優を思い描くのも、その権利は読者の掌中にある。また、「忍ぶ川」に描かれる深川の町や東北の町を思い描くにも、読者は縦横無尽にその形象を形づくることができる。映画にはそれができない。そこは確かに違う。しかし、小説「忍ぶ川」を読んで志乃のけなげな姿にホロリとするのと、映画「忍ぶ川」を観て志乃のけなげな姿にホロリとするのとでは、その感動の質にいかなる違いがあるだろうかと私は問うているのである。「忍ぶ川」のごとき、だれもが体験し得る題材をだれもが認知し得る感性で描いている作品においては、小説形象がもたらす感動の質と映像形象がもたらす感動の質とが同質のものになりはしないか。少なくとも限りなく合同に近い相似形を為しはしないだろうか。

もしも私のこの物言いを読者諸氏が首肯していただけるなら、私はこう主張したいのだ。だれもが体験し得る題材をだれもが認知し得る感性で描いている作品を読む訓練ならば、それは小学校中学年までで仕上げてしまうべきだと。いや、実際の壁と言われる四年生において、新美南吉の「ごんぎつね」を読むときには既に、その域の訓練とは異なったレベルの読解体験・鑑賞体験・批評体験であるべきと。本稿の私の主張はここにある。

「忍ぶ川」と同じ熊井啓の九○年代の作品に「ひかりがこけ」がある。三國連太郎・奥田瑛二主演、当時は話題作だった。舞台は昭和一九年冬の北海道羅臼、知床半島の突端である。

戦時中、転覆した艦船から四人の乗り組み員が生き残り、羅臼の洞窟に避難する。しかし、厳冬のさなかである。周りは完全なる雪景色。おまけに知床であるから常に吹雪きだ。町を求めて外に出れば、迷うことは必至である。四人は喰い物のないなか、洞窟に留まることを選ぶ。まず一人が死ぬ。残された三人のうち、三國連太郎演ずる船長と奥田瑛二演ずる西川はその仲間の遺体を喰らう。もう一人の乗り組み員は仲間の肉は喰えないと拒否し、やがて死んでいく。二人はその肉も喰らう。仲間の肉を喰って生き延びた二人だが、西川は船長がこの先、自分を殺して自分の肉を喰らい生き延びようと企んでいるに違いないと疑心暗鬼になる。そして船長に喰われるくらいならと、洞窟から逃げようとする。船長はそんなもったいないことをするなと西川を殺し、その肉を喰らう。結局、生き延びたのは船長一人であった。

戦後、船長は殺人と死体損壊の罪で裁判にかけられる。人肉を喰う罪を裁く法律はない。従って、罪状は殺人と死体損壊でしかないのだ。しかし船長は裁判官の問いかけに、この裁判は自分とは無関係のように思える、と主張する。自分を裁けるのは自分がその肉を喰らった三人だけであり、そして自分を正当に裁くことができるとすればそれは自分が喰われることだけだ、とその思いを吐露したのである。裁判は混迷を極める。だれもが船長の主張に憤る。それでも船長は周りがいかに理解できなくとも、この自分の主張の構造は正しいと考えている。法律や裁判に従うのはやぶさかではないが、たとえ自分が死刑になろうとも法律や裁判では自分を裁けない。そう物語は主張しているわけだ。粗い整理であるが、こんな作品である。

実は、この映画がひどく駄作なのだ。三國連太郎に奥田瑛二と名優を配しながら、映像にしてしまうとどうしても世界観が薄っぺらくなるのだ。巨匠熊井啓にしてこの世界観を描ききれないのである。もちろん、三國と奥田の演技が下手なのではない。作品の世界観と映像という手法とが齟齬を来しているのである。原作は武田泰淳であるが、小説作品は戦後文学を代表する実験小説として至上の評価を得ている。そして小説作品ならば、船長の実存、理屈にできない孤独と理屈にできない原罪意識とがその文学形象によって見事に描かれるのである。その感動の質たるや、だれもが体験し得る題材をだれもが認知し得る感性で描いた「忍ぶ川」が与える感動とはまったく質の異なるものである。次元が異なると言っても良い。それは読者の認知を、認識を、人生観を、世界観を覆す。詳細は原作を読んでいただきたいが、文学形象による感動とはこうした次元であるべきだと私は思う。

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クラゲのように生きる

男性の三人に一人が、女性の四人に一人が生涯独身を貫くという時代になりました。職員室を見渡してみても、四十代の独身者は男性・女性を問わずけっこうな数がいるものです。男性独身者の四十代はまだ体力もありますから、パチンコに行ったり飲みに行ったりとそれなりに楽しむことのできる年代ですが、女性独身者にとっては四十代はかなり深刻な時期のようです。私は時を隔てて、四十代半ばの複数の独身女性教師から「もういつ死んでもいいなってよく考えるのよね」という言葉を聞いて驚いたことがあります。彼女たちはいまも生きていますからもちろん本気で積極的に死のうと考えていたわけではありません。しかし、「もういつ死んでもいい」という言葉が出るほどに今後の人生に楽しみを見出せないとしたら、やはり深刻という他はありません。

もう一生独身なのだろう。子どもも現実的にはもてないだろう。老後は一人淋しく過ごすのだろう。仕事に充実感を感じるわけでもない。週末に女友達とランチする程度のことしか楽しみがない。こんな生活をあと数十年続けることに何の意味もない。だから自殺しようとまでは思わないけれど、いつ死んでもいいのよね……。こういうことなのだろうと思います(これは私がある居酒屋のカウンターで飲んでいた折、隣にいた四十代と思しき女性二人がしていた会話を盗み聞きしたものを要約しました)。

さて、結婚とか子づくりの限界性については私にはわかりませんが、こと仕事についてならばこういうことが言えると思います。

男性でも女性でも四十代ともなれば、二十代・三十代の頃のように一生懸命にならなくてもそれなりに「仕事がまわせる」という状態になります。これをすればこうなる、あれをすればこうなる、これをしても状況は変わらない、これをすることにはリスクが伴うから安全策を採ろう、毎日そういうことが見えている状態で仕事をしています。しかもちょっと仕事が立て込んだとかちょっと最近さぼってしまったとかがあって仕事が溜まってしまったとしても、時間が自由になりますから二、三日頑張って残業すれば処理できてしまいます。要するに仕事に大きくやり甲斐を感じる機会もなければ、深刻な状況に陥ることもないわけです。要するに仕事に変化がなくなるわけですね。

一部に管理職を目指してバリバリという女性教師も少数散見されますが、多くの女性教師は出世競争に参加する気など毛頭ない。八○年代に男女雇用機会均等法が施行され、一時期はキャリアウーマン志向も生まれましたが、そうした機運もすっかり落ち着いてしまっている。仕事もバリバリ、円満な家庭とも両立…のようなイメージを若い頃にはもっていたけれど、いまはその一方の要素が絶望的に消え失せようとしている。生活には困らないだけの収入もあるし安定もしている。教職は本来やり甲斐のある仕事であり、やろうと思えば限界のない仕事であることはわかっているけれど、そこまで時間と労力をつぎ込んでもコスパが合わない。これが生活に変化がなくなる思考形態のステレオタイプです。

さて、と…。どうしましょうか。婚活しますか? それとも思い切ってシングルマザーでも目指しますか? まさかね。まだまだ教師は聖職イメージ。そうもいきません。結局、毎日なんとなくドラマ、なんとなくフェイスブック…。週末にはなんとなくランチ…。誘われればちょっと高級なイタリアン…。そのくらいの収入はありますからね。

あなたはいま、思い切って生活を変えるか否かの瀬戸際です。人生は〈先が見えない〉方がおもしろくなります。恋愛だって仕事だって遊びだってゲームだって、先が見えたらなんのおもしろみもないのです。人生も同じです。変えようと思えば、〈先の見えないもの〉へと突き進んでいくしかありません。

仕事なら管理職を目指すとか、これまでやったことのない仕事に就いてみるとか、学年イチの問題児や学校イチのクレーマー保護者を担任してみるとか……。どれもいやですよね。私も勧めません(笑)。

酒井順子やジェーン・スーでも読みながら、お茶でもしてみてはいかがでしょうか。

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復路をどう生きるかを決める

四十代はいわゆる「先の見えてくる」年代です。自分はここまでだなという〈仕事上の限界値〉が意識されてくるようになります。三十代までのようにただ子どもたちとあれこれ試行錯誤するのが楽しいとだけは思っていられませんし、出世についても良くてこのあたり最低だとこのあたりというのが見えてきます。

教師生活は約四十年。最初の二十年を往路、あとの二十年を復路と考えれば四十代前半あたりがちょうど折り返し地点ということになります。しかも復路の二十年は現実的にさまざまな規制があります。管理職試験を受ければ管理職の言うことは絶対になりますし、若手教師やメンタル的に弱い先生のフォローに時間と労力を費やさねばならないということもあるでしょう。結局、教師生活の復路は教師生活の往路でどれだけスキルや人間的魅力を貯蓄し得たかで決まります。多くの教師にとって教師生活の復路は多かれ少なかれ、往路の貯金を切り崩しながらなんとかその場その場でバランスを取っていくという仕事の仕方になるのが現実です。それなりの貯蓄があればバランス感覚の発揮、貯蓄がなければ辻褄合わせ、それが教師生活の復路です。

そんな復路の生き方において、世の中にはふた通りの過ごし方があるように思います。

一つは社会の中心にしっかりと軸足を置いて、つまりは仕事上の組織の中にしっかりと身を置いて、職務を機能させたり降りかかった火の粉を振り払ったりしながら生きる人たちです。なにか不祥事があったときに記者会見で謝罪したり弁明したりしている教育行政の人たちや校長を見ていると、組織に軸足を置くことは良いこともありますがあのような責任もあるということを痛感させられます。

もう一つは社会の端っこの方で適度な適当さをもって楽しく生きる人たちです。出世も考えなければ金儲けも考えない。家族が大事、趣味が大事、自分自身が大事などなどなにを大事にするかは人それぞれですが、仕事や組織に自分が掠め取られることを忌避する人たちです。所属する組織を優先順位の一位に置かない人たちと言っても良いかもしれません。ちなみに私は既に二十代の頃から、組織に掠め取られることだけはいやだと思って生きてきましたから、明らかに後者の人生を歩んでいます。

四十代は半ばから後半にかけて、人は前者と後者のどちらの道を選ぶのかを決めなくてはなりません。どっちつかずの姿勢を取っているとどちらも中途半端になります。揺れ動くのが人の本質ではありますが、中心で生きていくならちゃんとその覚悟をもって生きる方が自分の人生を肯定できますし、周辺で楽しむことを選ぶなら迷いなくちゃんと楽しんだ方が自らの人生を充実させられるはずです。

どちらを選ぶかは人それぞれです。趣味・嗜好の範疇です。ただ、私の本などを買う読者の皆さんなら、こうした実践研究生活のようなものに興味を抱いている方々が多いのだろうと想像しますから、一つだけ可能性として伝えておきたいことがあります。

みなさんは野中信行先生をご存知だろうと思います。また、多賀一郎先生をご存知だろうと思います。このおふた方が処女作を上梓したのは五十代の半ばです。いまやおふた方ともさまざまな学習会やセミナー、行政の研修講座や学校の公開研究会の講師として引っ張りだこですが、五十代半ばまでは少なくとも全国的には無名でした。私もいまでこそおふた方と親しくお付き合いさせていただいていますが、十年前にはおふた方とも存じ上げませんでした。

私が言いたいのは、社会の中心で生きるにはさまざまな段階で年齢制限があり定年もありますが、社会の周辺側で楽しむ自由な生き方の方には年齢制限も定年もないのだということです。もちろん、だから中心ではなく周辺を選ぶべきだと言っているわけではありません。ただ私は野中先生も多賀先生もご自身の人生をまったく後悔していないと思うものですから、こうしたことが人生の選択のヒントの一つになるだろうと思って申し上げているだけです。

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言語感覚を醸成する体験を積ませる

現行の指導要領に「伝統的な言語文化」が位置づけられました。中でも古典の音朗読、つまり「声に出して読むこと」が強調されました。さて、みなさんは古典を音読させる場合、どのような学習活動を組むでしょうか。おそらく、範読の後に追い読み、一斉音読を繰り返し、グループごとに朗読させたり群読させたりといったところが一般的なところではないかと思います。

しかし、ここで考えてみていただきたいのです。古典の音読が重視されるのはなぜなのでしょうか。古典を音読することによって何が身に付くのでしょうか。言い換えるなら、古典を音読させることによって何をねらっているのでしょうか。古典の音読にはどのような効果があるのでしょうか。

私は古典を音読することの最大の効果は、日本語特有のリズムにあると考えています。七五調や五七調はもとより、七七を繰り返して韻律を整えたり漢文調のリズムで某かの上巻を訴えたり、古典の文体はその作品によってまず間違いなくリズムが調えられています。一方、現代でも読みやすい文章、なんとなく面白く読める文章には、共通してリズムが意識されているという特徴があります。スピーチでもテンポの良いリズミカルな話には惹き付けられます。講演の中にちょっとした標語風の五七五が入っていると、聞いている側はなんとなく楽しい気分になれます。読者のみなさんにも経験があるのではないでしょうか。綾小路きみまろの話芸などはその典型といえるでしょう。

リズムの整った文章、リズミカルな話には表現された内容に加えて、日本語としてのある種の美意識が付与されています。これはかつて、「言語教育・文学教育論争」において西尾実先生が強調された点でもあります。そうした日本語の美的感覚を体感しつつ、その美意識についても考える、古典の音朗読を通して「伝統的な言語文化」について学ぶということは、おそらくそういうことなのです。

だとすれば、古典の音朗読にとって最も大切なのは、グループで朗読の仕方を考えたりどんな読み方が楽しいかということを考えること以上に、あくまでも個人で、古典作品を何度も何度も声に出して読むことです。声に出して繰り返し読むことによってしか、古典のリズムを〈体感〉することなどできないからです。従って、古典を音読する授業において何よりも大切なのは、数多く読ませるということになるわけです。

私は古典教材の授業を行うたびに、「平家物語」冒頭や「春はあけぼの」など暗唱する価値のある教材については暗唱テストを、暗唱する価値のない教材については音読テストを実施しています。暗唱テストにしても音読テストにしても、一人ずつ教卓に出て古典教材を題材としたテストを受けます。双方とも読み間違えてはダメ、一秒以上の間を空けてもダメ、句読点以外のところで間をおいてもダメ、読み間違えたり詰まったりしてもダメという厳しさです。

特に音読テストの対象となる教材は、例えば「平家物語」であれば「扇の的」や「敦盛の最期」(教育出版教科書の場合)になるわけですから、教科書で2~4頁のかなり長い文章です。これを一度も読み間違わず、詰まらず、一定のスピードで読み切ることを強いるわけですね。子どもたちは何度も何度も練習してきます。休み時間に練習している子も少なくありません。しかし、読みの練習を繰り返すと、どの子も必ず最後まで読み切れるようになります。

この音読テストの良さは、子どもたちが少なくとも五十回程度は音読を繰り返すことにあります。それも子どもたちの練習の仕方を見ていると、最初から声に出して読み始めて、一度詰まっては最初に戻り、もう一度詰まっては最初に戻り、という練習の仕方をしています。これが古典のリズムに必然的に慣れさせるという効果をもっています。私の受け持っている子どもたちは、中学2年生くらいになると、どの子もほぼ例外なく初めて読む古典作品であっても古典のリズムで読むようになります。「古典のリズムを〈体感〉する」とは、このレベルのことをいうのです。

もちろんグループ朗読や群読を否定しているのではありません。そういう指導以上に、あくまで子どもたち個々がリズムを〈体感〉することのほうが優先順位が高いのだと主張しているだけです。指導時数に余裕があるならば、朗読や群読を取り入れて、豊かな表現活動をも志向すべきでしょう。

また、「言語感覚の体感」には次のような作文の例もあります。

みなさんの学級に、作文を書かせると主述が乱れてしまう子がいないでしょうか。「ぼくは昨日、お母さんがお弁当をつくって、梶くんと学校に二人で来たときに、遠足に行きました。」のような文ですね。

こうした文はなぜできてしまうのでしょうか。実はその答えは簡単なのです。一文が長いから、それだけです。こういう文を子どもたちが書かなくなるようにするには、一文を短くさせ、「一つの文では一つのことしか言わない」という指導をすれば良いのです。つまり、「お母さんがお弁当をつくりました。」「梶くんと二人で学校に来ました。」「昨日は遠足に行きました。」という三つの文に分けて書くように指導するのです。これは一般に「一文一義」(『論理的思考』宇佐美寛・メヂカルフレンド社)と呼ばれています。

「一文一義」のような文章を書くうえでの感覚的なものは、一度指導した程度ではほとんど身につきません。しつこくしつこく指導し続け、しかも「一文一義」に留意して書き続けるという体験が必要です。私はすべての国語の授業で最後に二○○字短作文を課すことにしているのですが、私の経験からいうと、それだけ書かせて全員が「一文一義」ができるようになるのに、中学一年生で三ヶ月くらいかかります。それも「一文を短くするんだよ」「一文一義だよ」と毎時間毎時間言い続けてそのくらいかかるのです。こういった指導事項も、何も考えなくても「一文一義」を基本として文章を綴れるようになるまで〈体感〉させることが大事なのです。もちろん、夏休み明けや冬休み明けなどには再度、念入りに指導する必要も出て来ます。二年間程度、機会を見ては指導し続けることによって、やっとほぼ全員に近い子どもたちに定着するようになります。

さて、このように、古典の「韻律」とか作文における「一文一義」とか、こうした言語感覚的な指導事項は「教える」とか「伝える」とかいうものではなく「体感させるもの」であり、学級の雰囲気として「醸成するもの」です。そのためにはその指導事項を意識させながら「あびるほど読ませる」とか、「あびるほど書かせる」とか、要するに「あびるほど体験させる」ということが必要なのです。

このような指導事項の代表が「音読」と「作文」、そして「話し合い」(意見交流)です。この三つに関しては、「音読とはこうするものだ」「作文とはこう書くものだ」「話し合いとはこうやるものだ」という「取り立て指導」(例えば音読なら音読を目的に取り立てて行う授業)も大切ですが、年に何度かそんな授業をしたとしてもまず子どもたちに定着することはありません。そうした年に数回の「取り立て指導」により大きな効果をもたせるために、毎日、毎時間、日常的にあびるほど体験させておくことが必要なのです。あびるほど体験しているからこそ、年に数回の「取り立て指導」も子どもたちにとって効果が出てくるのです。

みなさんの授業には、「音読」「作文」「話し合い」がしっかりと位置づいているでしょうか。私の授業にはほぼすべての時間にこの三つがあります。もちろん題材によってもう少し複雑ではあるのですが、授業の基本パターンとしては、①音読する、②指導事項を説明する、③個人作業をする、④小集団で意見を交流する、⑤意見を二○○字作文にまとめる、この五段階です。みなさんも、「音読」「作文」「話し合い」の三つをすべての授業に必ず位置づける、そう決意し実行してみませんか。授業も、そして授業の効果も劇的に変わっていくことを保障します。

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老いたから遊ばなくなるのではない 遊ばなくなるから老いるのだ

〈遊び〉とはフィールドワークなのではないか。私はそんなふうに感じています。

年齢を重ねて職場と家庭にしかフィールドがないという人をよく見かけます。でも私はそう言う人を見ると、なにか大切なものを見失っているなと感じます。そう思われる側から見れば余計なお世話でしょうけど(笑)。

アガサ・クリスティが女性の自立に必要なのは夢中になれる仕事と鍵の掛かる部屋という名言を残していますが、私もまたこの「鍵の掛かる部屋」という概念がとても大切だと思うのです。職場と家庭だけをフィールドにしていると、一人になれる場所というのがなくなります。私は職場にも自宅にも一人で黙考・熟考できる場所をもっています。学校では4Fの教育相談室という部屋であり自宅では書斎です。他にも何時間でも一人で本を読んでいられる喫茶店やだれにも話しかけられることなく一人で静かに飲めるバー、天気の良い日に昼寝をしたり熟考したりするための川の土手、札幌近郊の町に出向いて五○○円で入浴できる町営温泉でだらりとするなんていう時間もあります。こうした時間は私の仕事を間違いなく充実させています。

なかでもここ数年、私は特別な場所を得ました。実は自宅から高速を飛ばして四十分ほどのところに既にもうだれも住んでいない実家があるのです。父親は数年前に亡くなり、母親は既に施設に入所していますから、行けば何時間でも一人でいられます。ここでは家族とはなんぞやということを何時間も考えるのを常としています。狭い家のあちらこちらに親父やお袋の幻影を見ながら、ああ、あのとき親父がここでこう言ったっけ…、ああ、あのときこちらに歩きながら母がこんなことを言ったな…と何時間でも退屈せずに過ごせるのです。家族論は教育論との親和性の高い領域です。こうした思考が仕事に活きないわけがありません。

もう一つ、小学校三年九月から中学校一年九月まで四年間を過ごした、札幌市真駒内南町にある真駒内中央公園が私のお気に入りの場所です。ここでも私は一人で何時間でも退屈せずに過ごすことができます。九歳から十三歳までを過ごした場所ですから、この公園には想い出がいっぱいあります。まだ三十代の親父とキャッチボールをしたり、友達と川遊びをしたり、当時流行していたゲイラカイトという凧を上げたり……。中央公園を歩き回っていると十代前半の自分が甦ってきます。ああ、いつもこの木に登っていたとか、ああ、この銅像の台にいつも座っていたなとか、ああ、この小さな川を走り幅跳びの要領で飛び越えていたっけとか……。こんな思考も仕事に活きないわけがありません。

〈創造性〉とはなにか新しいもの、この世になかったものを発見するということではありません。自分のなかに確かにあったに違いないのだけれど、自分では意識していなかったもの、自分にはこれまで見えていなかったもの、そういうものたちが何らかの触媒を契機に自分のなかから引き出されてくる、そんな営みなのです。「鍵の掛かる部屋」、即ち一人でいる時間はそういった触媒との出会いを促します。周りに他人がいて自由の利かない状態では決して見つけられない、そういった発見をもたらします。

「鍵の掛かる部屋」で見つけた視点をもって、私は次の日に仕事に行きます。すると昨日実家で思いついた観点が、昨日中央公園で見つけた観点が、職場で起こる些末な事柄に先週とは違った解釈を与えてくれます。それが毎日の職場を、なんでもない日常を〈フィールドワーク〉にしてしまうコツなのだと私は感じています。先週も一週間をともに過ごした子どもたちが、先週も雑談を交わしたはずの同僚が、まったく違った子どもたちや同僚に見えてくるのです。

バーナード・ショーに「老いたから遊ばなくなるのではない。遊ばなくなるから老いるのだ」(We don't stop playing because we grow old, we grow old because we stop playing.)と言う格言があります。私はこの格言が大好きです。人は年齢を重ねると一般に遊ばなくなっていきます。私も本書第二章で述べたように、自分のために時間を使うのではなく、他人のために時間を使うことこそが一般に〈成熟〉を意味しますから、それは当然のことと言えます。自分のためにしか時間と労力を使わない人間を私たちは成熟した人間とは呼びません。しかし、自分のために使うに時間を皆無にしてしまってもまたいけないのです。それは自分を失うことであって、それもまた〈成熟〉と呼ぶには相応しくない在り方なのです。

自分ために遊ぶ。夢中になって遊ぶ。「鍵の掛かる部屋」で自分だけの思索の時間をもつ。ときにはそういう時間があるからこそ、人はバランス感覚を身につけ、他人のために時間と労力を費やすことを厭わなくなるのではないでしょうか。これを自覚しない人は早く老いてしまうのだと私は思います。

もう一度繰り返します。

老いたから遊ばなくなるのではありません。遊ばなくなるから老いるのです。

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意匠と工夫と実験

おそらく四半世紀振りに三浦哲郎の「忍ぶ川」を読んだ。

三浦哲郎が妻との馴れ初めを書いた私小説であり、三浦の出世作であり、芥川受賞作でもある。僕にとっては正直、学生時代にはあまりピンと来なくて、なぜこれが芥川賞かといぶかしく思われたものだが、五十に手が届こうかという年齢になって、これほど世の男どもが理想とする女性像を描いた青春小説も珍しいと合点が入った。

僕が読んだのは新潮文庫版なのだが、この解説を奥野健男が書いている。奥野は「忍ぶ川」が私小説であると聞いて読まずにいたと言う。それが芥川賞を受賞したというので驚き、芥川賞の選考委員が新人発掘において私小説を選択したかと違和を抱いたとも言う。

現代文学は私小説ではなく、言わば「現代の時代認識の解き明かし」でなければならず、その評価規準には「前衛」があらねばならない、私なりに奥野の違和を翻訳すればこんな表現になろうか。

事実、奥野健男自身がこのように書いている。

『忍ぶ川』はいわゆる現代的な小説ではない。文芸批評家としてのぼくが、懸命に考え、追求し、待望している、かくあるべき現代文学の姿とも異なっている。ぼくが論理として持っている文学理念や現代文学の可能性とは遠く距たっているのだ。(三二七頁)

これらの作品(芥川賞候補となった他の作品・筆者注)は現代のメカニズムをどのように文学化しようか、奇怪な自己の観念をどのように表現しようか、方法的にも発想的にも、さまざまな意匠が工夫が実験が試みられている。このような作品はいわばぼくの文学論の囊中(のうちゅう)にあり、その試みの可否について縦横に論評することができるのだ。(同)    

こう言っておきながら、それを引っ繰り返す奥野の「忍ぶ川」評が粋である。実際に「忍ぶ川」を読んでみると、選者たちがこの作品を芥川賞に選んだのは当然のことであり、自分が選者だったとしても「忍ぶ川」を推したであろうとさえ言う。「自分の文学主張なり、理論なりを忘れて、というよりそれを超えて、愛着し捨てがたくなる作品」と結論づけ、「忍ぶ川」を読みながら自身が幾度か「目頭があつくなった」と吐露するのである。ともあれ、読者の皆さんにも三浦哲郎作「忍ぶ川」の一読をお勧めする。生涯に一度は読んでおきたい名作である。

しかし、奥野はこうも言う。

ぼくはこの気持ちのよい爽やかな恋物語に、けなげな志乃の姿にホロリとし思わず目頭があつくなったと書いた。しかしそれはホロリとさせられてから、あわててあたりを見廻わし、誰かに見つからなかったかと狼狽するような羞(はず)かしい気持ちもまじっているのだ。(三二九頁)

この感覚は昭和の時代に、奥野健男のような大批評家ならずとも、少しでも漱石・鷗外以来の近現代文学を囓った者ならだれしも実感することのできる共通感覚である。奥野の言葉を借りれば、「論理としての文学理念や現代文学の可能性」を示す文学と、「思わずホロリとさせられてしまう羞かしさ」を伴う文学と、文学にはふた通りがある。そして、少なくとも昭和の時代に文学を囓った者のなかには、文学の王道は前者にある。

教師として国語の授業で文学作品を扱っていると、ともすると後者ばかりが文学性であるかのように感じてしまう。没入し、夢中になり、感動することが文学性であるかのように勘違いしてしまう。しかし、文学は方法的にも発想的にもさまざまな意匠と工夫と実験の試みなのである。それを分析したり解析したりできない国語教師が多すぎることに、僕は不満を感じている。ワクワクしたり、ホロリとしたり、その程度の読みなら、わざわざ学校で教わらなくてもできる。そんな読みはテレビと変わらない。僕はそう感じている。

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習熟三段階(言語知識→言語技術→言語技能)を意識する

言語技術教育を実践している教師によく見られるのが、ある技術を一度指導しただけで事足れりとしてしまう傾向です。言語技術に限らず、「技術」と呼ばれるすべてのものは一度指導した程度で身に付くような簡単なものではありません。習熟するために何度も何度も繰り返し練習して次第にそれが少しずつ少しずつ定着していく、そういうものです。野球選手が素振りを繰り返したり、武道で型を重んじたりということを思い浮かべれば容易にイメージできるはずです。

言語技術も同じです。一度指導したくらいで子どもたちに身に付くと考えるのは浅はかです。繰り返し繰り返し、すべての子に定着するまでしつこくしつこく指導し続けなければなりません。スキル指導だからと決して安易に考えてはいけないのです。これが言語技術教育の一つの側面です。

実は、言語技術教育にはもう一つ、大切な側面があります。それは誤解を怖れずにいうなら、言語技術は所詮技術に過ぎない、ということです。「こういう場合はこういうふうに表現するといいよ」「こういう場合にはこんなふうに考えると理解しやすいよ」という言語活動における一般論を、言語技術という大仰な言葉で呼んでいるに過ぎないのです。たかが技術、たかが一般論ですから、どんな子でも練習を重ねることで身に付けることができます。ただ定着するまでの時間が早いか遅いかの違いがあるだけです。

ですから、私たちは教師として、「あの子はいつまでたってもできない」とか「あの子はセンスがない」とか言って諦めてはいけません。言葉が話せて字が書けさえすれば、言語技術は繰り返しによって必ず身につきます。この観点も言語技術教育を考えるうえで大切な大切な要素なのです。

言語技術に限らず、「技術」と呼ばれるものはすべて、その技術を知っていることには何の価値もなく、その技術を使えるようになって初めて価値をもつという特質をもっています。つまり、言語技術は「覚えてナンボ」のものではなく、「使えてナンボ」のものなのです。ですから、言語技術教育における私たちの目的は、子どもたちが言語技術を〈使える〉状態になるまで高めることです。しかも、できれば国語の授業で使えるだけではなく他教科の授業でも、そして日常生活においても使えるようにすることが目指されなくてはなりません。つまり、すべての言語技術をすべての子どもたちがいかなる場面でも使えるようになること、それが言語技術教育の究極の目的なのだということになるでしょう。

しかし、これはもちろん、現実的には大変に難しいことです。ほとんど不可能と言っても良いかもしれません。言うは易く行うは難し……その代表ともいえる教育の理想像です。しかし、これを目指し、これに挑むことこそが教師の仕事なのであり、これを諦め、これに挑まないところには新しい提案は出てきません。私たち教師はそれがどんなに不可能に見えたとしても、この理想を捨てるべきではありません。

では、子どもたちは、言語技術をどのような段階を経て身に付けていくのでしょうか。これをもう少し具体的に、詳しく見ていくことにしましょう。

子どもたちが言語技術を身に付ける、つまり言語技術を〈使える〉ようになるためには、まずはそういう言語技術があるのだということを知ることから始まります。例えば、作文において効果的に比喩を使うためには「比喩」という概念を知らなくては使えないでしょう。また、「設疑法」という言語技術があることを知識としてもっていないと、多くの論説文が冒頭で読者に問いを投げかけ、それに応える形で論を進めていく構成をとっていることにはなかなか気づけないものです。ましてや、自分で意見文や主張文を書くときにこの構成を用いることなどほとんどあり得ないでしょう。従って言語技術教育は、まずは何を措いても言語表現に効果をもたらす技術に関する〈知識〉をもたせることから始まります。この言語技術に関する〈知識〉をもつ段階、まだうまくは使えないけれど、その言語技術が言語表現に効果をもたらすということを知っている状態、この状態を私は「言語知識」の段階と呼んでいます。

そういう言語技術があるという〈知識〉をもつと、その後にその言語知識を〈意識しながら使ってみる〉という段階があります。これを「言語技術」の段階といいます。例えば、スピーチをするときに、「よし!ナンバリングとラベリングを使って、聞き手にわかりやすく構成しよう」などと考えて、「ナンバリング」や「ラベリング」を意識的に使っている、そういう段階ですね。

ところが、技術というものは何度も何度も使い慣れ習熟していくうちに、意識しなくても使えるようになっていきます。野球の素振りでも武道の型でも、何度も何度も反復することによってそれと意識しなくてもできるようになろうとしているわけですよね。言語技術もこれと同じです。「ナンバリング」や「ラベリング」にしても、最初は意識しながら使わないと使えないという状態が続きますが、常に意識しながら使っているとそういう話し方が当然のことになってきて、最終的には意識しなくても使えるという状態になるのです。実生活上でも「技術に習熟する」「技術が血肉化する」「技術が溶ける」などいろいろな言い方をされますが、一般に意識しなくても使えるようになっている技術のことを〈技能〉と呼びます。そこで、言語技術教育でもこの段階に至ったとき、私は「言語技能」の段階と呼ぶことにしています。

要するに、いわゆる言語技術には「言語知識→言語技術→言語技能」という習熟三段階があるのだいうことです。言語技術教育に取り組もうとするとき、この習熟三段階を意識しておくことは、教師が授業を行ううえでかなり大きな効果をもたらします(『絶対評価の国語科テスト改革・20の提案』堀裕嗣・明治図書)。

第一に、子どもたちの言語技術の定着度を見取る基準になるということです。レディネスをはかるときに、「言語知識の段階」にさえ至っていない、ということがよくあります。例えば、入学したての中学一年生に「比喩って知ってる?」と訊くと、多くの子どもたちが「知ってる知ってる」「小学校で習った」と答えます。しかし、実際の文章の中で比喩を指摘させようとしてみると、ほとんどの子ができせん。言語知識は名称とその概念とをセットで理解しないと〈知識〉とはいえませんから、実はこういう場合には子どもたちにレディネスがない状態、つまり一度もその技術を習っていないのと同じ状態であると考えるべきなのです。

同じように、子どもたちは「ナンバリング」と「ラベリング」については概ね「言語技術の段階」にまで来ているな、あとは体験をどんどん積ませるだけだな……と考えながらも、ただしこの子とこの子は「ラベリング」についていまひとつ理解していないようだから機会を見て個別指導をしなくちゃな……などという基準にもなります。つまり習熟三段階は、集団を見取る基準にも個人を見取る基準にも使える、便利なものさしになるわけです。

第二に、言語技術の系統性に従って、子どもたちへの習熟度・定着度の目標を設定するのに役立つということです。本書第二章から一一○の言語技術を紹介していきますが、実はこれらの言語技術には、定着させやすい技術と定着させにくい技術とがあります。定着させにくい技術については、その子たちを担任するたった一年間の指導で「言語技能の段階」にまで高めようとするのには無理があります。定着させやすいものは「言語技能の段階」まで、定着しにくいものは「言語技術の段階」まで……というように、教師が指導の目標段階を設定することが必要になるわけです。

また、「設疑法」や「視点」「語り手」のように脳みそをフル回転させることによって思考させるタイプの言語技術、つまり、プロの書き手でさえ意識的に使っているようなタイプの言語技術もあります。こうしたものであれば、意識しながら的確に使いこなせる「言語技術の段階」が到達目標になるでしょう。

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言語技術と言語感覚を分けて考える

一九九○年前後から国語科における言語技術教育の必要性が叫ばれ始めました。いわく「国語の授業は何を学んだのかわからない」、いわく「国語の授業には効用感がない」、いわく「国語の授業は気持ちが悪くなるほど気持ちが問われる」、いわく「国語の授業は文学性ばかりを追い求めて実用性がない」などなど……。以来四半世紀。いまでは多くの教科書や資料集・ワークの類に「文章構成」「問題提起」「ナンバリング」「ラベリング」といった用語が多く見られるようになりました。文学的文章を題材とした「読むこと」領域でさえ、「設定」や「視点」などの用語こそ使わないものの、教科書の学習の手引きに言語技術教育の視座が大きく取り入れられるようになっています。言語技術教育運動は成果を挙げたのだと言って良いでしょう。

時代は「ゆとり教育」から「学力向上」へ。これは、ある面で「情意の教育」から「実用の教育」へとシフトしたことを物語っています。この流れが言語技術教育への追い風となったことも確かでしょう。いわゆる「PISA型読解力」の流行も言語技術教育の普及と無縁ではありません。「言語活動」も間違いなく活動させっぱなしではなくしっかりとしたスキルをという視座を提示しています。総じて、時代は言語技術教育隆盛に向かっている、といっても過言ではないかもしれません。

しかし、一つの考え方が普及し定着してくると、なんでもかんでもそれで解決できる、これをやっていれば安心だ、そう考える人たちが現れてきます。そうした人たちがその考え方に対する「万能主義」を喧伝し始めます。そしてそれが更にその「万能主義」を普及させ、どんなに新しい考え方も、どんなに有効な考え方も形骸化されていくのです。言語技術教育もこの悪弊と無縁ではありません。いま国語科において、とにかく技術を教えればよいのだと考える人たちが一定程度現れてきています。その風潮に言語技術教育を強力に推進してきた研究者・実践家でさえ眉をひそめている現状があります。

国語科の授業に言語技術教育の観点が必要であることは言うを待ちません。しかし、勘違いして欲しくないのは、決して「言語技術」がイコール「国語学力」ではない、ということです。

ここではまず、新学習指導要領の教科目標を見てみましょう。

「国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成し、伝え合う力を高めるとともに、思考力や想像力を養い言語感覚を豊かにし(小学校では「養い」・筆者注)、国語に対する認識を深め国語を尊重する態度を育てる。」

学習指導要領の目標は前半部に能力の目標が、後半部に態度の目標が設定されています。つまり、能力目標として「適切な表現」「正確な理解」「伝え合う力」「思考力」「想像力」「言語感覚」が挙げられ、態度目標として「国語に対する認識」「国語を尊重する態度」が挙げられているわけです。

さて、この目標を達成するために、私たちは実際にどのように授業計画を立てたらよいのでしょうか。

私は先に「決して『言語技術』がイコール『国語学力』ではない」と述べました。では、「国語学力」と「言語技術」とはいったいどういう関係にあるのでしょうか。また、「言語技術」以外の「国語学力」にはどういったものがあるのでしょうか。これを考えるうえでは、学習指導要領の目標に見られる八つの学力のうち、どれとどれが「言語技術」に当たるのか、或いはどれが「言語技術教育」と親和性が高いのかと考えてみるとよいでしょう。つまり、①適切な表現、②正確な理解、③伝え合う力、④思考力、⑤想像力、⑥言語感覚、⑦国語に対する認識、⑧国語を尊重する態度のうち、どれとどれが言語技術教育として進めるのがふさわしいのか、一度そういう発想で考えてみるわけです。読者の皆さんも先を読むのをちょっとだけ休むことにして、自分の頭で、自分の感覚で考えてみてください。

いかがでしょうか。多くの人が「適切な表現」「正確な理解」「思考力」の三つに関しては、自信をもって「言語技術教育」と親和性が高いと感じたはずです。しかし、「想像力」や「言語感覚」「国語を尊重する態度」については、「言語技術教育」と呼ぶには少々違和感を抱くのではないでしょうか。また、「伝え合う力」「国語に対する認識」の二つも、確かに「言語技術」は大きく関与しているけれど決して技術だけじゃないよなあ……などと感じはしなかったでしょうか。こう推測しますがいかがでしょう。

学習指導要領の目標に対して、私が毎日授業を行ううえで考えている構造は次のようなものです。

国語学力には、まず第一として、「適切な表現」や「正確な理解」の要素を細分化して言語技術(=スキル)として身に付けさせるという側面があります。「適切な表現」や「正確な理解」は「論理的であること」(思考力)を評価観点とし、子どもたちにもこの構えをしっかりと意識させたうえで授業に取り組ませることが必要になります。このような考え方に基づいた授業の在り方を「言語技術教育」と呼びます。

第二に、国語学力には、何度も何度も取り組むことによって、体験的に、体感的に、長い時間をかけて、少しずつ少しずつ身に付けていくというタイプの学力があります。少しずつ身に付けていくというよりは、いろんな言語活動に取り組んでいるうちに気づいてみると身についていたと気づく、そういうタイプの学力です。言語表現における「正誤」「適否」「美醜」などに対する感覚や言語形象による「想像力」、言語を活用しての「創造力」がこれにあたります。こうした学力を育む言語教育を、「言語技術教育」に対置して私は「言語感覚教育」と呼んでいます。

この「言語技術」と「言語感覚」という二つの学力をスパイラルに向上させながら育んでいくタイプの国語学力が「伝え合う力」であり、「国語に対する認識」であり、国語学力の最高峰たる「国語を尊重する態度」である。少なくとも私はそう解釈しています。

もう少し具体的に見ていきましょう。説明的文章にしても文学的文章にしても、読むこと領域においてだれもが取り組む学習活動に音読があります。音読には、その場にいる人たちのだれもが聞き取れる音量で読むことや、声の大小・強弱・緩急によって強弱をつけること、適切な間をとって余韻を残すことなど、言語技術教育的な側面が確かにあります。しかし、音読指導において、このような技術を伝えてそれを使って読んでみろという指導は果たして効果的でしょうか。音読力というものは技術を伝えてスキル訓練型で指導するよりも、何度も何度も音読を繰り返す中で、体験的に、体感的に、時間をかけて指導していくというほうが現実的なのではないでしょうか。そうです。国語学力としての音読力は言語感覚教育的に指導していくほうが適しているタイプの学力なのです。

おそらくこれは、音読というものが、唯一絶対に正しい音読方法があるとは想定しづらいからだろうと思われます。プロの俳優がぼそぼそ読んでいるように聞こえるのに聞いている側は涙が止まらなくなるほど感動してしまう……、そういった事例は世の中にたくさんあります。音読表現では、言語表現としての「正誤」や「適否」の問題ばかりでなく、「美醜」の観点が大きく影響するからなのだろうと考えられます。

国語科の授業づくりでは、その日に扱う指導事項が論理的思考力に培うための言語技術教育的なベクトルをもつものなのか、それとも想像力や創造力、言語表現の美醜感覚に培うための言語感覚教育的なベクトルをもつものなのか、教師がはっきりと意識して臨むことが必要なのです。こうした意識をもつことは、あなたの国語科の授業づくりを革命的に変えてくれます。そう断言して決して過言ではありません。

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物見遊山の原理

私は金曜の夜はとことん遊ぶことにしています。それも、とことん愉しむことにしています。公務はもちろん、原稿も研究会も忘れて次の日の予定も考えずに遊ぶことにしています。それも早くて三時、遅ければ五時くらいまで遊ぶことにしています。土曜が休みなら朝帰りも珍しくありません。土曜が埋まっている日でも、朝方三時、四時まで呑んで土曜の九時半から講演……なんていうこともはしょっちゅうです。こういう時間も、私にとっては「活きている時間」です。

年々こういう生活がきつくなっていくのは感じていますが、きついから遊ぶのをやめたら総体的にはもっときつくなるという感じがしています。老いたから遊ばなくなるのではない、遊ばないから老いるのだという先人の言葉を私は心から信じています。どうせあと十年もすれば遊びたくても遊べなくなるのです。そのときにもっと遊べば良かった、もっと愉しめば良かったと後悔だけはしたくありません。

「物見遊山」という言葉があります。物見と遊山ですから、見物がてら遊び歩くことを言うわけですが、もともと「山」とは山寺のことで、「遊山」とは僧が修行の後に他山に赴いて修行遍歴の旅をして更に自分を高めることを言いました。次第に山野の美しさを観賞することに転じ、それに「物見」がついて、一般に仕事や学業の気張らしに出かけることを意味するようになったという経緯があります。修行僧が他山で自分の識見を広め深めようとしたように、私たちも学校のなかばかりにいては成長しません。

私にはバーのマスターやママ、居酒屋のマスターやママといった知り合いがいっぱいいます。彼らと親の介護について交流したり、政治や経済について愚痴ったり、下ネタ話に興じたりなんていう時間がたくさんあります。毎月髪を切る間の床屋談義はとても勉強になりますし、居酒屋でたまたま隣り合わせたお客さんと話し込むなどということもしょっちゅうです。特に最近は、若い頃の教え子たちが四十に近くなり、いろいろな職種に就いています。ばりばり働いている年代ですから、呑みながら話をしていると私の知らない世界をいっぱい教えてくれますから、教え子ともよく呑みに行くようになりました。そして私にはこれらが明らかに自分の仕事に活きているという実感があるのです。

ふと気づいたとき、仕事だけの人間になっていませんか? 学校と家庭を往復するだけのふりこのような生活に陥っていませんか? 付き合うのは同業者だけなんていう狭い環境で活きていませんか? 子どもや同僚を忘れて愉しむ時間をちゃんともっていますか? 明日の仕事、来週の仕事が頭から離れないままに休日を過ごしていませんか? そもそも、ちゃんと寝てますか?次の日に前日の疲れはとれていますか? もしかしたら、あなたの仕事が充実しない理由の一つに、リフレッシュが足りないということがあるのではありませんか?

どうせ遊ぶのなら悔いの残らないように遊ぶ。明日があるしなあ……などと考えながら中途半端に遊ぶのではなく、開き直ってちゃんとしっかり遊ぶ。その方が長い目で見れば良いサイクルに繋がっていく。どうせ休むのならしっかりと休む。時間の無駄だとか、ちょっとでも何かしようとか、そんなことは一切考えない。開き直ってちゃんとしっかり休む。それが私の信条です。

そもそも自分に遊ぶことを抑制している教師に、遊びこそを本質とする子どもの教育、遊び疲れたら寝ることを本質とする子どもの教育などできるのでしょうか。若干屁理屈じみていることを承知のうえで、私はそう思うのです。たった七十年か八十年の人生です。私たちは確かに教師ではありますが、宗教家ではありません。よりよく生きることも大切ですが、とことん遊ぶ、とことん寝るということの愉しさを捨て去る必要はありません。教職を崇高なものと神聖化してはいけません。遊びには遊びの崇高があり、休養には休養の崇高さがあるのかもしれません。そしてきっと、遊び尽くしたからこそ理解できる神聖もあるに違いありません。そういう開き直りが人生を豊かにすることもあるに違いありません。私はそう思うのです。

かつて小田実は「何でも見てやろう」と言いました。寺山修司は「書を捨てて町に出よう」と言いました。大江健三郎は「見る前に跳べ」と言いました。しかし、こういった物言いは、ある種の逆説なのです。人間はすべてを見ることはできない。だからこそ何でも見てやろうという意識が必要なのだ。書には自分を形作ってくれる世界観が詰まっている。しかし、それだけに頼ると本の真意は理解できない。だから町にも出る必要がある。見ることはだれもがしている。人間はそれに囚われる。だから跳べない。でも、跳ばない人間には実は見ることもできないのだ。見ようとするな。跳ぼうとせよ。そこに自ずから見えてくるものがある。簡単に言えば、私は先人たちがこうした構造を言っているのだと理解しています。

「物見遊山」が否定的なニュアンスで使われるようになりました。しかし、仕事を充実させ、自らの生活を充実させようとすれば、「物見遊山」は必要なのです。メリハリのない生活のうえに仕事の充実などあり得ないのです。

ただし、必要なのはメリハリであって、人生そのものが遊んでばかりになってしまっていけません。あくまで遊びは主従の従です。遊びを主としている教師もごく少数ですが見受けられるので、私が言っているのはそれとは違うということだけは付け加えておきます(笑)。

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遊びのなかで他者を学びの対象とする

ある年、勤務校のPTAの広報誌のインタビューに応えたことがあります。「好きなものはなんですか?」と問われたので、「金曜の夜と土曜の朝」と応えました。これがずいぶんとウケました。当時三年生を担任していたのですが、PTA会長から一年生の知らない生徒まで私を見つけては笑顔で話しかけてきました。かつて「土曜の夜と日曜の朝」という映画があって、私としてはそれをもじって遊んだだけだったのですが、これがこんなにもウケるということは、PTA会長も生徒たちもこの映画を知らないのだなあ…と淋しい想いを感じた次第です。

さて、私は金曜日の夜は徹底して遊ぶことにしています。私は週末に講演ツアーに出ることも多く地元にいないことも少なくないのですが、たとえ地元にいようと出先にいようと金曜の夜は仕事のことを一切忘れてただただ遊ぶことにしています。それもその日のうちに床に就くということがないほどに遊びます。明るくなりかけた頃に帰宅するなんていうこともしょっちゅうです。次の日にセミナー等の予定がなければ、まず間違いなく朝方の五時、六時まで遊んでいます。

毎週金曜日に呑みに出掛けるわけですが、一人で呑みに出るということは皆無です。必ずだれかと一緒です。大人数で飲みに出掛けるということもほとんどありません。多くはだれかと一緒に二人。多くて四人までです。私の遊びはどうしても識見を広げるということをゆる~くとはいえ意識していますから、一人の人の話をじっくりと聞くということになるのです。大人数の呑み会の雰囲気が私はあまり好きではありません。軽く意味のない話で盛り上がり続けるということを私は好みません。ですから職場の呑み会も最後まで全体に付き合うのは学年の飲み会くらいで、その他は二次会からだれかを誘って二人で離れてしまいます。歓迎会や忘年会など職員室全員の呑み会も同様で、二次会からは全体から離れます。こういう癖があるので、結果として、私はどの学校に行っても、いつのまにか職員室の多くの人たちと二人でじっくりと呑みながら語ったことがある……という人間になっています。

行ったことのない店を開拓することにも割と熱心です。しかも自分の行きつけの店にだれかを連れて行くのではなく、一緒に呑むそのだれかの行きつけの店に連れて行ってもらうことが多いです。馴染みの店に連れて行ってもらうとその人がどんな店を好むのかが分かりますし、自分の知っている店も広がっていきます。しかも自分では絶対に行かないようなタイプの店も知ることになりますから、大袈裟に言えば社会勉強にもなるわけです。

金曜日は遊ぶと私が決めたのは、四十代の前半だったと思います。それはちょうど『学級経営10の原理・100の原則』(学事出版)を上梓して、公務以外の仕事が一気に増えた頃と時期を同じくしています。それまでの私の生活はほとんど家に閉じこもり、書斎で本を読んだり原稿を書いたり音楽を聴いたりというものでした。夏休み・冬休みもほとんどが書斎に閉じ籠もっていました。たくさんの原稿を書くにあたって、少し一般感覚を身につけなくちゃいけないな……と感じたことがきっかけなのです。もちろん一般感覚とは金曜日の夜に朝方まで飲むことではありません。そういうなかで人の話を聞いたり、人の紹介する店に行ってみたり、世の中で旨いと言われるものを食べたり、そういうことですね。その意味で、私は特定の遊び友達というものを持っていません。

子どもの頃、重要なことは遊びのなかで学んだとだれもが感じているはずです。大人になると、しかも教師になると、みんな遊び方がおとなしくなります。しかし、子どもの頃と同様、遊びのなかには重要なことがたくさん散りばめられています。人の感じ方、サービス業の構造、そして世の人々の嗜好……。水商売の経営者は一般的な教師の知り得ないことをいっぱい知っていますし、酒や食材の微妙な味わいの違いには子どもたちの微妙な味わいの違いに通ずるものがあります。読書やセミナーはもちろん、セミナー後の同業者の懇親会だけが学びの場ではないという感性だけは持ち続けたいものです。

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「教え方」と「在り方」

「指導力不足教員」という言葉がある。子どもたちに授業をしたり、生活指導をしたりするスキルが足りないと目される教師に与えられる不名誉な称号である。

指導は言葉でなされる。だから「指導力不足教員」は教科の授業をするだけの知識が不足していたり、よりよく生きるべく在り方を語れないことが例として上げられる場合が多い。しかし、話し手の聞き手との間にある流動的な関係に頓着しない、ただ知識としての正しさや規範としての正しさだけに目を向ける言葉は本人の意図に反してその味わいをなくし、かえって乾いたものになっていく。

実は、教師に必要なのは子どもたちの知性にはたらきかける「指導力」以前に、子どもたちに前─知性的にはたらきかける「感化力」なのである。「感化力」を有する教師の言葉は説得力をもち、子どもたちを納得させる。反対に「感化力」のない教師が明快に正しさを語るとかえって反発を招く。「指導力」とはスキルなどではなく、もっとそれ以前の〈前─知性的ななにか〉なのだ。その〈なにか〉がないままにスキルだけを先行させると、それは自分では〈スキル〉を使っているように思っていながら、実は〈スキル〉に使われているという現象に陥ってしまう。

子どもたちも人間である。教師とは人間を相手にする商売である。とすれば、そこにあるコミュニケーションには〈スキル〉以前に、両者がともに感得する潤いある〈コンテクスト〉を必要とするのだ。

滔々としゃべることよりも、寄り道をしながら誠実に語ることのほうが説得力を生む。ともにもがき、ともに右往左往する時間を共有することのほうが納得を生む。人間関係にはそういうことが少なくない。いや、少なくないなどではなく、そちらのほうが多いくらいなのだ。ビジネスライクになめらかにしゃべることのほうが忌み嫌われ、傾聴しているよというわざとらしさにかえって馬鹿にされているような印象を抱かされる、そんなことが私たちの日常には多くはないか。

教師は「教え方」の〈スキル〉を身につける必要はもちろんある。しかし、「教え方」以上に問われるのは「在り方」なのである。

〈指導主義〉から〈感化主義〉へ考え方を改めるべし。〈感化〉あってこその〈指導〉であると心得るべし。このことを肝に銘ずれば、私たちの目も、自然に自分の「在り方」に向いていくはずである。

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時間に柔軟性をもつ

「ひろちゃん、あ~そ~ぼ!」

そんな声が聞こえて窓から顔を覗かせると、クラスメイトが三人、裏のベランダに集まって手を振っている。私が子どもの頃にはよくある光景でした。いつしかそれが「今日ゲームセンターに行こうぜ」になり、また時が経って「明日ディスコに行こうぜ」になり、更に時が経って「何月何日は呑み会ね」になっていきました。遊びに行くのに約束することが前提となったのは何歳くらいのことだったのでしょうか。どこかに子どもから大人へのイニシエーションがあったような気もしますが、正確にはわかりません。

いまは子どもたちでさえ、一緒に遊ぶのに約束が必要な時代になりました。なかには当日の約束では既に遅くて、何月何日何曜日の何時という約束まで一週間も前にとりつけている姿を見かけます。その話を横で聞いていた他の子が誘われてもいないのに約束の場に赴いたことで、誘ってもいないのに図々しく来たとトラブルの要因になりさえします。

私たちが子どもの頃にはなかったことのような気がするのは気のせいなのでしょうか。野球をするにしても缶蹴りをするにしても川遊びをするにしても、とにかく人数が集まった方が遊びが広がるわけで、とにかくあちこちの家をまわっては「○○くん、あ~そ~ぼ!」と何をして遊ぶかを決める以前にまずは人数を集めることに専念する時間があったような気がします。これも気のせいなのでしょうか。正直言ってわかりません。遠い過去の話ですから、ノスタルジーがかなり美化させているところもあるのかもしれません。

私は人間のバイタリティというのが、いかに突然の誘いや突然の思いつきに予定を崩して遊べるかということにあるような気がしてならないのです。宿題をやってからじゃないと遊ばないと決めている子と、突然の友達の誘いに母親の眼を盗んで家から抜け出て遊びに行く子と、どちらにバイタリティがあるかといえば後者なのではないか。どちらに生きる力があるかといえば後者なのではないか。どちらにコミュニケーション能力があるかといえば後者なのではないか。そう感じるのです。

若さを定義するならば、それは柔軟性があるということなのではないでしょうか。柔軟性というのは縦横無尽にカタチを変えられるということです。手帳に予定がびっしりと書き込まれていて、何時何分になにをし、何時何分にだれと会うと決められていれば、どんなに有意義な予定だったとしてもそれらは「こなす」に限りなく近づいていきます。いかに時間を忘れる時間を確保できるか、そういう時間をいかに確保しようとしているか、そこが人としてのバイタリティの有無の分かれ目だと感じるのです。

〈遊び〉とは目的的でない時間を意味します。「さあ、日常のあれこれを忘れてリフレッシュしよう」という目的をもって遊び始めると、なかなか日常を忘れて遊びに夢中になることができません。この時間が終わればあれもやらきゃこれもやらなきゃということが頭の片隅にこびりついてしまって離れてくれないからです。だからこそ人はやるべきことをすべて終わらせてから遊びに出ようとします。

しかし、やるべきことがすべてなくなるという事態が大人にあり得るのでしょうか。それは遊びが終わるまでに処理しておかなければならない用事を済ませておくということに過ぎず、結局月曜日には月曜日締切の仕事がちゃんとある。それだけのことなのです。

だとしたら、今日締切とか明日締切とかいう仕事がまったくない状態に我が身を保つということこそが、実は〈遊び〉に夢中になれる唯一の方法なのではないか。私はそう考えています。つまり、常に一週間後くらいに締切を迎える仕事にいつも取り組んでいる、そういう状態です。今日明日締切の仕事は既に一週間前に終わっているという状態を保つならば、急に入った誘いにも乗ることができるようになります。自分の時間に文字通り「遊び」が生まれるわけですね。

自分の時間に「遊び」があれば、実は急に起こったトラブルにさえ対応できるようになるわけです。トラブルにさえ余裕をもってどこか愉しめるようにさえなるのです。

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若い世代こそが思考革命をもたらす

関西に伊藤慶孝くんという若き実践者がいます。中学校の美術教師です。五年ほど前だったと思いますが、あるセミナーで彼と初めてお会いしました。そのセミナーでは私も彼もともに講師という立場でしたから、セミナーの終盤にはシンポジウム形式で一緒に登壇する機会がありました。

そこで私は衝撃を受けました。彼はこう言ったのです。

「教師はきれいごとを言えなければならない」

読者の皆さんにこの衝撃が伝えられるかどうか、甚だ自信がないのですが、取り敢えず説明してみます。

私はそれまでの人生において、「きれいごと」という言葉を肯定的な文脈で聞いたことが実は一度もありませんでした。しかし、伊藤くんは間違いなく、この言葉を肯定的な文脈で用いたのです。眼ヂカラを込めある種の熱意を込めて、集まった百数十人に語ったのです。百数十人の聞き手に指さすほどに力んで語る伊藤くんの映像を、私はいまでもはっきりと思い浮かべることができます。

この瞬間、私の頭がフル回転を始めたのをよく覚えています。自分にない世界観が次々に開けるのを感じました。「教師はきれいごとを言えなければならない」という伊藤くんのたったひと言によって、私の頭のなかでは、私がそれまで二十年近くにわたって積み上げてきた教育実践論の数々を〈きれいごと肯定論〉という基準によって組み替える作業が行われました。要するに体系の組み替えです。パラダイムシフトと言ってもいい。そういう作業がめまぐるしく行われたのです。

このときの経験がもとになって、私はその後、たくさんの原稿を書きました。本になったものも一冊や二冊ではありません。伊藤くんのひと言によって、私のなかで新たなコンテンツが、しかも大規模なコンテンツが一つ生まれたのです。

実は私の教師生活においてこれほどのパラダイムシフト、思考革命を起こしてくれたのはたった二人しかいません。野口芳宏先生と伊藤慶孝くんです。しかも野口先生が一年ほどをかけてじわりじわりと私に思考革命を起こしたのとは対照的に、伊藤くんはたったひと言、しかも本人さえそれほど強く意識していないであろう言葉によって私に革命を起こしたのでした。おそらくこの現象は伊藤くんの問題ではなく、私の年代的な構えの問題なのでありタイミングの問題なのでしょう。伊藤くんがこの文章を読んだら、きっと恐縮するに違いありません(笑)。

ただ私が言いたいのは、一人の人間にパラダイムシフトを起こさせるほどの触媒として機能するのは、多くの場合、世代的に離れた人間なのではないかということなのです。

同世代というのは簡単に言えば同じものを見、同じことを経験してきた人たちのことです。そうした共通感覚というものが仕事を機能させる場面というのは確かにあります。例えば二○○○年代の半ばから後半にかけて、私がいわゆるアラフォーだった頃、私の保護者対応はそれほど意識しなくてもうまく行くことが多かったと実感しています。中学生の保護者というのは主にアラフォーですから、保護者と感覚がとても似通っていたのです。同い年の保護者というのもかなりいて、あの頃は保護者との懇親会の二次会でよくカラオケに行き、佐野元春とか大沢誉志幸とかハウンドドッグとかをみんなで歌いながら、ずいぶんと盛り上がったのを覚えています。

同世代というのは一緒にいて心地よいことは確かなのですが、自分に革命的な変化をもたらしてくれるような異質性というものをもってはいません。同じようなものに笑い、同じようなものに腹を立て、同じようなものに感動し、同じようなものを消費してきた経験をもつ、そんな人々に過ぎないわけです。

世代的に離れた人たちは違います。人間の思考を形づくる根幹のところで異質であることさえ少なくありません。しかも自分の年齢が上がってくるとともに、世代的に離れた年長者はどんどん思考を硬直させていきます。簡単に言えば新しい提案をしなくなるわけです。提案に深みは出てくるものの、広がりや真新しさは影を潜めます。でも、若手は違います。自分には見えていないものをたくさん見ています。自分がもっていない世界観をたくさんもっています。最近十年の社会情勢に対する解釈さえ、世代が十年離れればまったく異なる、そんなことさえよく見られます。

四十代に差しかかった頃から、私は意識的に若い世代と交流することが必要なのだと感じています。特別に議論するとか、特別に飲みに行くとか、そんな必要はありません。日常的に接する機会を増やす、それだけでいいのです。それだけで私が伊藤慶孝くんによってもたらされたようなパラダイムシフト、思考革命がおそらく起こるのではないか、私はそんなふうに感じています。

しかも年長者からは人は抵抗なく学べるものですが、若い世代からは意識しなければ学べないものです。特にふた世代以上離れるとなかなか学ぼうという気は起こりません。それだけに意識して学ぼうとする構えがとても大切なのです。

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若手実践者のものの見方を学ぶ

同じことが教育書のライター、つまり実践者にも言えます。

現在、若い世代(さすがに二十代はあまりいませんが)の著作が次々に刊行されています。大型書店の教育書コーナーに行くと若い世代の著作であふれています。私もそのなかの何割かには目を通していますが、正直、玉石混交の感は否めません。

しかし、文学や学術とは異なり、教育実践者の論理には「時代を語る」という視点は欠落しているのが一般的です。学校教育における時代認識というのは教育史と密接に関係しており、若い世代(これは四十代も含めてです)には書きにくいという特徴があります。その意味では、若い世代の書き手から年長者が何かを学ぼうとする場合、教育書においては目的的な観点が必要になります。

前節において、私は「人は年齢を重ねるとともに、年上の人が減り年下の人が増えます」と述べましたが、実は年齢を重ねることにはもう一つ、見過ごしてならない大きな特徴があります。それは年齢重ねるとともに未来が減って過去が多くなるということです。これまたなにを当然のことを…と思われるかもしれません。しかし、この視点はものを考えるときにはかなり有効な視点です。「未来」という言葉を使うとき、四十代は教育を論じるなら今後二十年を、人生を論じるなら今後四十年をしか考えません。しかし、二十代なら教育を論じるなら今後四十年を、人生を論じるなら今後六十年を想定するのです。この違いには計り知れないものがあります。

例えば、二○六○年という年はここ五年ほど、子どもの将来を論じるうえで一つの鍵として機能する年になっています。それは国立社会保障・人口問題研究所が今後の出生率の変容予測をもとに二○六○年までの人口分布の予測を発表したことによります。それを見ると、二○六○年の日本の人口は八六○○万人、うち三五○○万人が六十五歳以上の高齢者になると推計されています。現在は二○一○年のデータで総人口が一億二八○五万六千人、高齢者が二九四八万四千人ですから、パーセンテージ比較すると高齢者は現在の二三・○パーセントから四○・七パーセントまで上昇することになります。ちなみに二○六○年の六十五歳は二○一五年現在二十歳の人たちです。

私は一九六六年生まれですから、二○六○年の日本について我が事として真剣に考えようとはどうしても思いません。自分がこの年まで生きている可能性は、少なくとも現在の私のなかではゼロなのです。しかし、現在の二十代、三十代にとってはまだまだ生きている可能性の高い年です。自分が老齢になったとき、この国はどんなカタチをしているのだろうか、少しでも社会に興味を抱いている人ならばそのくらいのことは考えるはずです。私だって二○五○年なら考えなくもありません。

さて、若い世代の著作を読んでいて注目すべきは、その世代の人たちがこれからの学校教育の在り方を、或いは子どもたちの将来像をどのように見ているかということです。私は本屋に行ったとき、立ち読みしながらこの学校教育の将来像、子どもたちの未来像を論述の軸に据えている若手の著作は買うことにしています。それがどれだけ奇想天外であったとしても、少なくとも本を著す程度の教師が自分の持てる能力を駆使して描いた未来像であるわけですから、それは「読む価値があり」と判断します。そこには私の世代では思いもつかないような予測が述べられているかもしれません。しかし、現在の実践のなかからちょっとした思いつきを並べているに過ぎないと見れば、そこに千数百円を支払うことを惜しみます。

要するに私は、若い世代の「ものの見方」を学ぼうとしているのであって、教育手法を学ぼうとは思っていないわけですね。しかし、新世代の「ものの見方」を学ぶことを、私は旧世代(自分よりも年長の論者たち)の「ものの見方」を学ぶことよりも優先順位としては高く位置づけています。それは前節で述べたのと同じように、その世代よりも更に若い世代を相手に仕事をしている身としては当然ことだと考えているからなのです。

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世代的バイアスを意識する

人は年齢を重ねるとともに、年上の人が減り年下の人が増えます。なにを当たり前のことを…と思われる向きもあるかもしれませんが、人は年齢を重ねるとこの当然の原理を忘れます。城重幸やロスジェネ世代論者に見られるような「被害者の立場」の論述が出て、初めて年長者は「うるせえなあ」「めんどくせえなあ」と重い腰を上げ始めます。この国に巣くうメンタリティの最悪の構図の一つです。

人は年上の人間を尊重し年下の人間をなめてかかります。教師ばかりでなく、子どもたちを見ていてもその傾向がありますから、これは世代を超えた普遍的な構造です。しかし、必ずしも年長者が後続の人たちよりも優れているということはありません。これも同じように普遍的な構造なのです。どの世代にも東大生がいて、どの世代からも総理大臣が出るように、どの世代にも優秀な教師は出現するし、優秀でない教師は存在します。

例えば、あなたが若い頃から現在まで、無類の音楽好きだったとします。中学生・高校生の頃はなにか新しいミュージシャンがいないかとアンテナを張り巡らしていました。しかし、三十代になり四十代になったいま、青春期に好きだったミュージシャンの新譜は追うものの、若い世代のミュージシャンを追うことはない。そんなふうになっていないでしょうか。

例えば、あなたが若い頃から現在まで、無類の小説好きだったとしましょう。高校・大学、二十代あたりまでは芥川賞作品は必ず目を通すことにしていた。でも、三十代になった頃からどうも芥川賞作品に共感できないことが多くなってきた。そんなふうになってないでしょうか。具体的な例を挙げるなら、あたなは二○○四年に芥川賞を獲った綿谷りさの『蹴りたい背中』と金原ひとみの『蛇にピアス』を本気で読みましたか。私は綿谷りさの『インストール』という作品は文学史に残る名作だと考えています。

もう一つ例を挙げましょう。

宮台真司という社会学者がいます。九○年代に活躍した、読者に社会学という学問にフィールドワークのイメージを植え付けた社会学者です。『制服少女たちの選択』(講談社)を初めとする著作で援助交際ブームを巻き起こしたあの社会学者ですね。オウム真理教事件を契機に時代の機運を分析した『終わりなき日常を生きろ』(筑摩書房)は時代のキーワードにもなりました。現在の四十代は割と夢中になって読んだ方が多いはずです。

しかし、鈴木謙介はどうでしょうか。二○○五年に三十そこそこで『カーニヴァル化する社会』(講談社現代新書)という傑作を著した社会学者です。古市憲寿はどうでしょうか。二○一一年に『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社)で各社の成人の日の社説を批判し、二○一二年の成人の日の社説の論調を変えさせてしまった新進気鋭です。彼は一九八五年生まれですから、『絶望の国の…』は二十代半ばの著作ということになります。私は『カーニヴァル化する社会』も『絶望の国の幸福な若者たち』も、少なくとも出版時においては教師にとっては必読書であったと感じています。

そろそろ私の言いたいことがおわかりでしょうか。

言うまでもなく、人は年齢を重ねるとともに年上が減り年下が増えるわけですが、それとともに目を通す論者の数も減っていく傾向があるのです。しかも私たち教師は時代の風を胸いっぱいに浴びている子どもたちを毎日相手にしているにもかかわらず、その時代の風を受けて登場した若手論者の見解に興味を抱かない傾向があるのです。これは果たして、より良い教師の姿勢と言えるでしょうか。

教師は若い世代の論者からこそ意識的に学ぶべき職業なのです。次々に現れる後続世代から学び続けなければ、実は子ども理解などできないのです。同じような世代の論者、自分よりも年上の論者の著作ばかりを読んで「なるほどいまはそういう時代だ」とほくそ笑む視線にはかなりのバイアスがかかっていると自覚しなければなりません。四十代になると、人はどんどん視野が狭くなります。その自覚をもつことこそが必要なのです。

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前─知性的ななにか

実は、人が瞬時に「わかってしまう」のは、なにも機嫌ばかりではない。 

話し手としての教師は説得力のある物言いを望む。自分の言葉の説得力を高めようと話し方に気をつけもする。しかし、水が高きから低きに流れるようななめらかな言葉、幾つもの根拠に支えられた論理的で明快な言葉ばかりが人を説得するわけではない。私たちは話し手が力強い声で物事を主張するとき、その主張の中身と同時に、その人がその主張を心から信じているのだということを感じる。話し手があちらに行ったりこちらに来たりといった話をするとき、ああも言えるしこうも言えるんだけど、私はこれを選びたいんだというとき、その人が戸惑いながらも悩んだ末にその選択肢を選んだ誠実さを同時に感じている。その誠実さを感じたことが、話は難しくてよくわからなかったけれど、この人なら大丈夫と説得されることも少なくない。説得力とはそういうものだ。

他人の背中からその人の状態を理解するにしても、他人の自信や誠実さに説得されてしまうにしても、そこには〈前─知性的ななにか〉がはたらいている。その人がなにをしているのか、その人がなにを主張したいのかという〈意味〉はわからなくても、その人が愛着を抱くべき対象であるか、その人が信頼に足る人物であるかはちゃんとわかってしまうのだ。人と人のコミュニケーションとはそういうものである。

赤坂真理がおもしろいことを言っている。

私は二○一一年度から文化学院という学校で教師をしてきた。大正時代からあった日本最古の共学校で、私が職を得た当時、高等学校相当の課程と専門学校相当の課程があった(高等課程は、学校の経営が変わったことにより二○一四年度から新規募集停止。残念でならない)。そこで感じてきたのは、高校生、おおむね十五歳から十七歳くらいまでのティーンエイジャーが、面白そうな大人(教師)を感知して寄っていく力の、すごさだ。
ほとんど動物的に、存在そのもので感知し、全身で、近くにいようとする。データなんて知らないし、恥も外聞もない。互いに何もしなくても、へらへらしていても、何かを全身で聴いている。彼らにとってはそれが、目に見えない必須物質を摂るような、それでこのさき生きていけるか決まるような、死活問題なのだと思った。
〈『愛と暴力の戦後とその後』赤坂真理・講談社現代新書〉

そう。子どもとはこういうものなのだ。私たちにも覚えがあるのではないだろうか。この人の言うことはついつい聞いてしまう、あの先生の言うことはついつい納得してしまうというとき、私たちは決してその人のコミュニケーションスキルや知性によって納得させられたわけではなかったはずなのだ。それを判断させるのは前─知性的な、ほとんど動物的な〈嗅覚〉に他ならない。そんな〈嗅覚〉をだれに教わるでもなく、既にもっていたはずなのだ。

教師が聞き手の場合も同様である。子どもたちが相談しようとする教師は、適切なアドバイスをくれる教師ではない。自分の話にとことん付き合ってくれる教師である。子どもの話の腰を折り、それはこうだ、あれはこうだとアドは椅子する教師に子どもたちは相談を持ちかけない。

オープン・クエスチョン流行りの昨今だが、「どういうこと?」「どんな気持ちだった?」「例えば?」と次々に訊いてくる教師も相談対象としては向かない。ただ「なるほど」とうなずいてくれ、自分が考えているときにはその間を共有してくれ、自分が戸惑いを吐露したときにはいっしょに戸惑ってくれる、そんな聞き手こそが最上の聞き手なのだ。

そうした相手の態度からこれまた前─知性的に理解されるのは、「私の時間をあなたにあげますよ」というメッセージである。これまた、老若男女、だれもが〈嗅覚〉としてもっているものに他ならない。

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職員室カーストを意識する

スクールカーストが話題になって数年が経過しています。いまでは既にかなり普及した言葉になっていますからご存知の方も多いと思いますが、スクールカーストとは児童生徒集団のなかに無意識的に巣くう階層意識のことです。私がスクールカーストという言葉を知ったのは森口朗さんの『いじめの構造』(新潮新書)でしたが、以来私はずっーと〈職員室カースト〉について考えています。

当然のことながら〈職員室カースト〉の最上位は校長とは限りません。むしろ校長がカーストの最上位にいて学校運営をトップダウンで進めていたら、きっと学校のさまざまなところに軋みが出るに違いありません。それは市長の方針で学校をトップダウンで運営しようとし、民間人校長を多く導入してさまざまな問題を引き起こしているある大都市を見ればよくわかるはずです。教頭が包み込むようなタイプでカーストトップにいるのが理想なのかもしれませんが、そういうキャラクターの教頭も滅多にいません。私の二十数年の経験でもそういう教頭は一人しか出会ったことがありません。多くの場合、教頭というのは四十代後半から五十代前半、職員を包み込むようなキャラクターにはまだまだ成熟の度合いが足りない年代です。私は原理的に無理なのだろうと感じています。

〈職員室カースト〉は地位では決まりません。ですから、必ずしも校長や教頭のカーストが高いということはありませんし、各学年のカースト最上位者が学年主任であるとも限りません。ですから、地位のないヒラ教員が「この学校は○○さんが支えている」という評判になることもありますし、中堅の生徒指導を得意としている教師が「あの学年は○○さんあっての学年だ」という評価を受けることも当然あり得るわけです。

では、〈職員室カースト〉はどのように決まるのでしょうか。それはおそらく、森口さんがスクールカーストの分析で施したのと同じように、〈コミュニケーション能力〉で決まるのだろうと思います。〈コミュニケーション能力〉とは、〈自己主張力〉〈共感力〉〈同調力〉の総和で量られます。私は〈コミュニケーション能力〉とは、実は「人間性」とか「徳」とかといったものに近い概念なのではないかと感じています。

〈自己主張力〉とは自分の意見をしっかりと言えるということです。どれだけ円滑なコミュニケーションを重視し、人間関係に軋轢を生じさせないことを重視するのが日本人の特徴と言っても、事は仕事ですから言うべきことを言わない人はカーストが高くはなりません。しかも、最近は旧態依然と揶揄される学校でさえ、世の中の動きに合わせて毎年のようにシステム変更・システム調整を求められる時代ですから、それに対応するアイディアを主張することは頼り甲斐のある教師の絶対条件とも言えます。

〈共感力〉とは思いやりをもっていたり周りに優しかったりといった資質です。自らの正しさだけを主張して猪突猛進に突き進むのでなく、その企画を進めていくにあたって周りの人たちに配慮しながら、みんなが困らない形で進めていける力です。この資質を持たずに〈自己主張力〉だけでぐいぐい仕事を進めていくタイプは周りから怖れられ、上司に評価されることはあっても職員室で信頼されることはあり得ません。それはそうです。周りの先生方から見れば、この人の提案に従えばどんな面倒なことをやらされることになるかわからないわけですから。そんな人に信頼を寄せろという方が無理な話です。

〈同調力〉とは周りの先生方のノリに合わせられる、いわば「ユーモアを解する力」といえばわかりやすいかもしれません。〈自己主張力〉があり〈共感力〉もあるという先生は確かに尊敬されます。しかし、まじめとか誠実とかいった評価は受けられるものの、一緒にいたい、一緒に仕事をしたいと思ってはもらえないものです。周りの同僚たちと的確に身いじったり適切にいじられたり、そうした関係を結べる教師がやはり衆目を集めるのです。〈同調力〉が高いということは、ユーモアの質には世代差がありますから、「自分だけのユーモア」ではなく、それぞれの世代に応じた「相手のユーモアの質」を理解するという資質をもっていることをも意味します。そうした意味では、〈共感力〉は周りのネガティヴな感情を理解し調整する力、〈同調力〉の方は周りのポジティヴな感情を理解し調整する力とも言えるかもしれません。

こうして考えてみると、すべての管理職がこれら三つの力を総合的にもっているわけがありませんし、主任クラスがもっているわけでもないということがわかるはずです。一般に年齢が高くなれば〈共感力〉が高くなる傾向はありますが、若いからと言って〈自己主張力〉や〈同調力〉が弱いということも言えません。むしろ〈同調力〉をもっている人というのは、子どもの頃からそういう力を発揮し高めてきたという側面があります。担任教師が子どもより〈同調力〉が低いという事例は世の中にたくさんあるはずです。

四十代になると学年主任になったり生徒指導主事になったり教務主任になったりといった地位や立場を得ることが多くなります。それぞれの立場で仕事を進めていく場合に、地位や立場を笠に着てトップダウンで仕事を進めようとするのではなく、自分が〈自己主張力〉〈共感力〉〈同調力〉のどの力に優れているのかという自己キャラクターをよく分析・吟味し、自分に足りない力をもっている若手・中堅に信頼を寄せながら、言葉は悪いのですが「使いこなす」という視点が必要になるのです。こうした視座で仕事を身進めていける人こそ、実は〈職員室カースト〉が高くなっていくのです。

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