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〈補助線型思考〉の体得

学校教育の〈後ろ向き〉な仕事の多くは、学校現場にある「邪悪なもの」を撲滅しようとするものである。その事情は邪悪なものだから撲滅しなければならない……この枠組みだけで考えてしまうと、なかなか現実的な対応は生まれてこない。その「邪悪なもの」の側にいる子どもたちがただ悪者にされ、その「邪悪なもの」の被害者とされる子どもはただ守られるのみである。次第にいじめた側は少しずつ、しかし確実に教師との人間関係が離れていき、いじめられた側は少しずつ、しかし確実に守られ慣れていく。その結果、前者は他のターゲットを探したり他のカタルシスの対象を求めて非行化したりし、後者は無意識のうちにフォローしてもらうことが当然と思うようになって人間関係軋轢への耐性を更に失っていく。そういう例のなんと多いことだろう。

「邪悪なものはない方が良い」「邪悪なものはただ撲滅するのが良い」という思考停止が、実は必要な指導、必要な対応を見えなくさせるということがたくさんあるのだ。私が「〈邪悪肯定論〉の補助線を引く」という思考を奨励するのも、こうしたほんとうは必要な指導や対応を見えない場所から引きずり出し、顕在化させるための思考の枠組みとして有効であると確信しているからだ。

逆に、「学力向上」「思いやり」「協調性」「人とのつながり」「まじめ」などなど、学校現場で無条件に「良いこと」とされている概念・観念に対しても、一度、それらの負の側面がないかと〈補助線〉を引いて考えることが大切である。「学力向上」からは「学力」概念への疑いが、「思いやり」には偽善的な押しつけが、「協調性」には度を超えた同調圧力の可能性が見えてくる。「人とのつながり」には交友関係の拡大に走りすぎることで自らを省みない傾向が大きくなり、精神な不安定に陥る人が多くなっていることが見えて来るだろう。「まじめ」であることは確かに美徳だが、そうした傾向をもつ人たちがバランス感覚を失い、周りのまじめでない人たちを責める傾向をもっていること、人間関係に軋轢を生じることが決して少なくないことなどが見えてくる。

「邪悪なもの」をただ「邪悪なもの」として撲滅しようとする思考も、「良いこと」をただ「良いこと」として疑わない思考も、実は広く物事を見て現実的な対応策を考えるという枠組みを放棄しているのである。

教師は〈補助線型思考〉を体得する必要があると強く感じる。

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