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知識が思考に広がりと深まりをもたらす

現在、文科省は次の学習指導要領に向けてさまざまな提案を始めています。

例えば、アクティブ・ラーニングを例に考えてみましょう。

アクティブ・ラーニングはおそらく次期学習指導要領の目玉になると目されていますが、この流れに乗ってアクティブ・ラーニングの書籍が次々に刊行されるはずです。それを手にとって勉強することは大切なことです。

しかし、それは現行要領ができる過程で提示された「言葉の力」や「言語活動」とどのような関係を結ぶのでしょうか。或いは前要領で提示された「総合的な学習の時間の創設」や「選択履修枠の拡大」とどのような思想的なつながりをもっているのでしょうか。その前の要領の「新学力観」との相関はどうでしょう。四十代はこのあたりまではリアルタイムに経験している人が多いので、このような九○年代の学習指導要領までは視野に入れて考えることができるのではないでしょうか。

次期要領について試行錯誤するにあたって、現行要領と次期要領の範囲内でしか実感的には捉えられない若手教師よりも、四十代はかなり広くここ三十年近い教育思潮を視野に入れて考えることができます。その意味では、四十代は若手教師よりも広く深くアクティブ・ラーニングについて思考することができると言えるでしょう。

しかし、もしも戦後の学習指導要領の変遷について学生時代に深く学び、昭和二十年代の「新教育」以来の学習指導要領における経験主義教育と系統主義教育の綱引きの歴史を知っているならば、ここ三十年前後の変遷しか知らない人とは比べ物にならないほどにアクティブ・ラーニングについて思考できるはずです。特に経験主義教育を基調とした昭和二十二年版がどのような批判を浴びて短命に終わったのかを知れば、よりよいアクティブ・ラーニングを考えるうえでは大きく参考になるはずでもあります。

さて、あなたは学校教育がどういう経緯で成立したかをご存知でしょうか。学校教育は明治政府のもと、富国強兵・殖産興業政策の一環として、工場で黙って働く労働者をつくるために生まれたという側面があります。つまり、学校教育は国民に「産業的身体」(『教育幻想』菅野仁・ちくまプリマー新書)をつくるために生まれたのです。工場で良い労働者として働くためには時間通りに出勤し、集団の規律を守ることが身体的に身についている必要があります。そうでなければ工場の生産性は上がりません。

実は近世までの庶民は農業を中心に労働していました。菅野仁によれば、農業は日の出とともに労働が始まり日の入りとともに労働を終えます。毎日決まった時間に働き始め、決まった時間に働き終わっていたわけではなかったのです。また、近世までは農作業をしながら雑談をしたり歌を歌ったりすることも日常のことだったと言います。つまり明治政府は学校教育によって、時間割通りに動き雑談しないで労働に集中するという「産業的身体」の育成を目指したのだということです。それほど当時の工場管理者は私語をさせずに仕事に専念させることに苦労していたのだということでもあります。

さて、この経緯を知っているだけで、アクティブ・ラーニングに対する見方が大きく変わらないでしょうか。アクティブ・ラーニングと言えば、どうしても欧米から導入された教育思潮というイメージを抱きますが、それに対置される日本的な一斉授業の在り方というのは実はここ百数十年の国家政策によってできあがったものに過ぎないのだということです。とすれば、もしかしたら、アクティブ・ラーニングは本来の日本人のもっている特性に実は合致するのかもしれない。そういう想像さえ可能なのです。

私は別にアクティブ・ラーニングに対するこうした考え方自体を推奨しているわけではありません。ただ、知識をもっているということはなにか新しいことを思考しようとする場合に、これだけの広がりと深まりをもたらすのだということを言いたいのです。一般に年齢を重ね経験年数を重ねると、教師は新しい知識を求めずに経験則だけで判断しようとするようになります。私の言いたいのはそれではいけないということなのです。

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