〈織物モデル〉の縦糸と横糸
新しい学級を担任したとき、教師はまず何を措いても子どもたちとの間に縦糸を張らなくてならない。先生ときみたちは立場が違うんだよ、先生はきみたちを守る責任をもっているんだよ、きみたちは先生に指導される立場なんだよ、こうした縦関係をしっかりと構築しなければならない。これを怠り、教師と子どもとがフラットな関係を築くことこそが理想だなどと考える者は、少なくとも学校教育において、教師として子どもたちの前に立つ資格がないと言えるだろう。
ただし、現在、この縦糸を張るだけでは学級経営は成り立たない。生徒指導畑のベテラン教師や子どもたちになめられないようにと怒鳴るタイプの教師が、学級崩壊を起こしたり子どもたちに反発されたりする事例が多くなっていることが、その何よりの証拠である。現在、教師は縦糸を張ることと同じくらいの重きを置いて、子どもたちに横糸を張らせる手立てをとることが求められる時代になっている。子どもたちがわからなくなった、学級担任をもつ自信がなくなった、そう嘆くベテラン教師たちは、この発想がないからうまくいかないのだ。
教師は縦糸を張ると同時に、手を換え品を換えて横糸を張らせる手立てをとらなければならない。子どもたちに他人とつながる経験を与え、つながる喜びを意図的に体験させなければならない。学校行事はもちろん、教科の授業においても、道徳の授業においても、特別活動においても、総合的な学習の時間においても、この発想を片時も忘れてはならない。横糸を張らせる手立ては一度や二度施してもすぐに効果が顕れるものではない。繰り返し繰り返し行うことによって、その効果を発揮するタイプの指導である。しかし、三ヶ月、半年、一年と長いスパンで見たとき、その効果には計り知れないものがある。多くの教師はあまりにもせっかちであるために、そして時代が待つことを許さなくなってきているために、その効果を実感するまで続けられない現状があるだけだ。
横糸は次第に太くなっていく。「教師-子ども関係」以上に「子ども-子ども関係」が太くなっていくのはある意味必然である。横糸が太くなっていくことによって、少しずつ少しずつ、教師と子どもたちとの間に張られた縦糸を隠していく。しかし、大切なのは縦糸は横糸によって隠されただけ、見えなくなっただけで、決してなくなったわけではないということだ。
しかも、子どもたちそれぞれの横糸は教師には想像もできないような様々な彩りを示し始める。それらのコントラストが学級全体の彩りを形成していく。レッド、オレンジ、イエロー、グリーン、ブルー、インディゴ、バイオレット……彩りは美しい虹のように美しいコントラストを奏でる。そしてその彩りはあくまで、教師と子どもたちとの間に張られた強靱な縦糸によって一つに織りなされているのである。
以上が横藤雅人先生が提唱した〈織物モデル〉に対する私なりの解釈だが、ここでその概略をまとめてみよう。
(1)〈縦糸〉だけでも〈横糸〉だけでもいけない。
(2)ただし、〈縦糸〉があってこその〈横糸〉であって、〈縦糸〉がなければ〈横糸〉はほつれてしまう。
(3)とはいえ、〈縦糸〉はできるだけ見えない方が良い。織物を美しく見せるのはあくまで〈横糸〉のコントラストである。
(4)織物は、強靱な〈縦糸〉と美しく織りなす〈横糸〉とが互いに補完し合っている。
教師は学級の実態に違和感を抱いたとき、なんとなく落ち着かないなと感じたとき、「縦糸」の強化に向かいがちである。多くの教師が「最近のきみたちはおかしい」という説教に向かうわけだ。しかし、〈織物モデル〉を念頭に置くなら、「ああ、子どもたちの関係性を深める活動が必要なのかもしれない」という視点が浮かんでくるはずだ。先にも述べたように、〈織物モデル〉は教師にって、学級経営の指標となるだけでなく、学級を点検する観点としてこそ機能するのだ。
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