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〈人柄志向〉と〈事柄志向〉

いじめ対応を例に、〈事実確認〉の大切さについて幾分しつこく書いてきた。教師が陥りやすい〈事実〉と〈感情〉の混同の構造を教育社会学者菅野仁が非常にわかりやすい生理をしている(『教育幻想 クールティーチャー宣言』ちくまプリマー新書・二○一○年三月)。簡単に言えば、こういうことだ。

教師には〈人柄志向〉の人と〈事柄志向〉の人とがいる。

熱心な教師は自分がどういう「つもり」で行動しているかということに常に重きを置いている。日常的にそういう意識で過ごしているものだから、子どものトラブルにおいてもその子がどういう「つもり」でそれを行ったのかということを問題視しやすい。「つもり」は感情や性格などと連動することが多いので、どちらかと言えば〈人柄志向〉で教育することになる。うまく言っているときは良いのだが、なにかトラブルがあったときには子どもの性格や人格を問題にしてしまうことになる。過去にあれもやった、これもやったと指摘してみたり、成績が悪いことや服装がだらしないことなどと今回のトラブルを結びつけて指導する傾向がある。

これに対し、〈事柄志向〉の教師たちはものごとを分けて捉えることができる。普段のことは取り敢えず括弧に括って、今回起こったことだけを問題にして解決しようとする。普段のだらしなさに対する指導は取り敢えず別のことであって、結びつけて指導しようとはしない。指導するにしても今回の事案が解決し、最後の最後になって補足事項として付け加えるという指導の在り方をとる。

後者がまずは事実のみをクールに見ようとするのに対し、前者は最初から背景や人となりから判断しようとする。両者の志向性はこのように異なる。

学校教育には学級担任が自分でプロデュースして良い領域というのが確かにある。しかし、トラブルにおける〈事実確認〉とか、学校の規律を守るために設定される〈ルール〉などは、学校の共通基盤として全教師が普通にできなくてはならない職能なのである。

子どもたちが大好きで体当たりで臨む教師、自分のやりたいことを教育に活かそうとする教師などなど、〈人柄志向〉の強い教師ほど、〈事柄志向〉で行くべきときがあるのだということを意識したいものである。

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