きれいごとであることの自覚
〈学校的リアリズム〉は社会からみれば、或いは世論からみれば、いわゆる「きれいごと」でできている。これは教師がいくらそうではないと言い張っても覆せない事実だ。教職に就くような人は子どもの頃から学校文化(部活動も含めて)に馴染んできた人たちであるから、市井の人々に比べて〈学校的リアリズム〉のきれいごとに抵抗感を抱かない傾向にある。みんなで一つのことに取り組むことによっていい思いをしてきた人、自分が周りの人たちに貢献することに感動を覚えてきた人、世の中に心の底から悪い人はいないと信じてこられた人、教師とはそういう人の集まりである。少なくともそういう傾向をもつ幸せな人たちの集まりであると言える。
しかし、社会の荒波に揉まれた普通の人々、世論を形成する市井の人々のなかにはそうでない人も多い。保護者クレームは学校をサービス業と見なし、多くの場合、学校や学級集団によって我が子が不利益を被ったという論理でなされる。教師からみればそれらが〈学校的リアリズム〉と齟齬を来すことも少なくない。しかし、教師が〈学校的リアリズム〉を盾に学校側の正しさだけを主張したとしたら、その齟齬は更に大きくならざるを得ない。保護者のクレームの多くはきれいごとをもとにしていないからだ。そうしたクレームを発する保護者の多くは、幼少の頃から〈学校的リアリズム〉に親和性をもつことなく生きてきたのだから。その意味で、こうした保護者に〈学校的リアリズム〉の論理で正面から対峙しても事は良い方向に行かない。まずは理解を示し、少しずつ時間をかけて〈学校的リアリズム〉の論理を小出しにしていくのがふさわしい在り方といえる。
やんちゃ系の子どもたちの指導にも同じことが言える。やんちゃ系の子どもたちは基本的に、〈学校的リアリズム〉に親和性のなかった親に育てられ、〈学校的リアリズム〉に親和性のない人間関係・家庭環境で生きている子が多い。教師は教室で注意を重ね、保護者に家庭での指導を依頼し……という対応をとりがちだが、教師の前提と子ども・保護者の前提が異なるのだということ、学校教育に向かう目的に関して共有化されていないのだということを教師の側がよく理解して対応する必要があるのだ。
教師が〈学校的リアリズム〉を盾に自分たちの主張が絶対善であるという姿勢で臨むことは、さまざまな場面で軋轢を生む。〈学校的リアリズム〉はいわゆる「きれいごと」であり、学校教育独自の感性なのだということを自覚したい。
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