〈前向き〉な仕事と〈後ろ向き〉な仕事
学校教育も撲滅運動の嵐である。表立っては「いじめをなくそう」「不登校をなくそう」「落ちこぼれをなくそう」がその代表格だ。裏では「クレームをなくそう」が大きな意識としてある。それが学校の現状である。しかし、極小規模校でない限り、いじめも不登校も落ちこぼれもクレームも皆無という学校はないはずだ。
例えば、こう考えてみよう。自分の学校に新しい校長が赴任してきたとする。当然、新年度一日目には、朝から学校長の施政方針演説がある。当然そこでは、校長が今年度の目標を挙げるだろう。今年度の重点として四つ挙げられ、それが「いじめゼロ」「不登校ゼロ」「落ちこぼれゼロ」「保護者クレームゼロ」だったとしよう。果たしてあなたは、このが校長の下で一年間頑張ろうと思えるだろうか。
これが「人間関係を醸成する授業づくり」「アクティヴ・ラーニングの授業開発」「学力テスト平均点10点アップ」「子どもが熱中する行事づくり」「保護者とともにつくる学校行事」ならどうだろう。ああ、何か自分にもできそうだ……と思えるのではないだろうか。先の四つの例と比較すれば、それは一目瞭然である。先の例がすべてマイナスをゼロにしようという後ろ向きの方針だったのに対し、これらの例は前向きの方針なのだ。
実は、仕事には〈前向き〉のものと〈後ろ向き〉のものとがある。プラスの何かをつくろうとするものと、マイナスの何かをなくそうとするものと言い換えても良い。
現在の学校教育には後ろ向きな仕事がたくさんある。いじめをなくそう、不登校をなくそう、落ちこぼれをなくそう、クレームをなくそう、確かにこれらが代表的だが、よく考えるとまだまだたくさんあるのだ。例えば、対症療法的な生徒指導はもとより、予防の生徒指導、感染症予防の保健指導、アレルギー予防の給食指導などなど数え上げればキリがない。最近流行のゲートキーパー論も同質の根をもっている。不登校児童・生徒をなんとか学校に復帰させようとするカウンセリング対応や、パニック回避のみを目的とした特別支援教育など、理念的な〈前向き〉の隙間に〈後ろ向き〉が入り込んでいる場合さえある。
人は〈後ろ向き〉な仕事に対して、強いモチベーションを抱きにくい。〈前向き〉な仕事に参加するほうが、教師として以前に人としてワクワクする。先の校長のゼロ四連発が意欲を喚起しないのはそのせいなのだ。ついでに言うなら、〈後ろ向き〉の仕事の多くは行政による失策の挽回や批判の回避のためにつくられる傾向もある。「~ゼロ」という方針を校長が打ち出した場合に保身に見えてしまうのはそのためである。
そして、実はここが肝心なのだが、実は〈前向き〉な仕事よりも〈後ろ向き〉な仕事のほうが技術的にもはるかに難しいということだ。〈ないもの〉をつくることと〈あるもの〉をなくすことでは、後者のほうが何倍も何十倍も難しいのだ。〈ないもの〉をつくるということは、実は〈まったくないもの〉を新たに創り出すことではない。実際には、〈これまでにあるもの〉のいくつかをミックスしたり、〈これまでにあるもの〉に付加価値をつけたり、〈これまで意識されなかったもの〉に価値を認めたりといった作業なのである。
ところが、既に〈あるもの〉をなくすとなるとそうはいかない。まず、その〈あるもの〉は現段階で強い存在感をもっている。既に〈ある〉ことが強く意識されるほどに存在感を示しているからこそ、それをなくしたいわけだ。それを皆無にしようというのだから、そこで必要な技術は並大抵ではない。原発を例に考えてみるとよくわかる。原発をなくす技術の開発と代替エネルギーの開発と、どちらが技術的に困難だと思われるか。加えて、どちらか一方の仕事を選べるとしたら、あなたはどちらの仕事に就きたいか。〈前向き〉な仕事と〈後ろ向き〉な仕事とはこういうことなのだ。
学校現場の〈後ろ向き〉な仕事も同様である。いじめゼロ、不登校ゼロ、落ちこぼれゼロ、クレームゼロ……。起こってしまってからの生徒指導、感染症予防、アレルギー対策、ゲートキーパー、復帰カウンセリング、パニック技術……。どれもこれも、学校現場では対応が難しい事案の代表格として認知されている。熱意や経験則だけでは決して対応できない。教師にかなり深い知識と高いスキルが求められることがわかるはずである。
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