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読書尚友の原理

読書尚友──読書によって先人を友とすることです。

私は教師が本を読まなくなったと感じています。自分の本の売り上げが良いとか悪いとか、そんなケチな話をしているのではありません。私の本も含めて、現在の教育書コーナーを賑わしている現場人や若手研究者の書いた本は、私の言う「本」には入っていません。それらは研究書ではありません。実践書でさえありません。これらは教師を対象としたビジネス書に過ぎません。こんなものは、まあ読んでもいいけれど、読まなくてもいい、その程度のものです。私は正直、そう捉えています。

私が「教師が本を読まなくなった」と言うのは、教師が教養書を読まなくなったという意味です。まあ、教養書自体の出版点数が明らかに減っていますから、教職に必要な教養書を探すこと自体が難しくなっている事情もあります。新書の出版点数にはすごいものがありますが、主張の深みもなく、学術的な裏づけもない、雨後の竹の子のような読みやすいだけの新書も少なくないですから、新書の新刊は玉石混交どころか玉を探すのに四苦八苦するのが実態です。

実は、ある友人(本を何冊も書いているような実践者です)に「堀先生の文章は読みにくい。僕は読者が読んですぐにわかる書き方にこだわっている。」と言われたことがあります(実は山口県に住んでいる小学校教師です)。そういう書き方もあるのでしょうが、私は私のいまの文体でも、「わかりやすさの限度」だと感じています。これ以上わかれやすくするためには、情意表現を更に多用しながら、一つ一つの段落を短くして、全体としてスカスカにしていくということになっていきます。想定範囲の限定や場合分けの具体例なども排除しなければなりません。しかし、それでは本を書く意味がありません。セミナーで語ったりDVDにしたりするほうが良いと言うことになってしまいます。私は本でしか伝えられないことを本にしたい。本で伝えられることとセミナー等で伝えられることは分けて考えたい。そう思っています。

この中村健一のような発想で考える人(あっ、言っちゃった……)が、実は読者にも多くなってきていると感じています。多くなったというよりも、ほとんどになったと言っても過言ではありません。「私は読みやすい本誌か読まない」と公言する人たちですね。私が『学級経営10の原理・100の原則』を出したとき、何人もの方々から「こんな字ばかりの教育書が売れたのは奇跡だ」と言われました。仲間の教師たちからも言われましたし、編集者からも言われました。私はそれを聞いて笑ってしまいました。「字で伝えるのが本でしょう。いつから教育書は画集や漫画になったのか」と。「余白で某かを伝える意図でもない限り、余白を極力少なくして情報量を多くするのが著者の誠意でしょ」と。

そもそも読みやすい本しか読まない人が、どうやって子どもたちに文章の読み方を教えるのでしょうか。一読してわかる文章を読むことを「読解」とは言いません。教科書教材は発達段階から見て自力では読めないような文章だから掲載されているのではありませんか。自力で読める文章なら自力で読ませれば良いのです。わざわざ授業で取り上げる必要なんてないではありませんか。なのに教師が、自分では自力で簡単に読めるものしか読まないと公言するのは、どう考えても背理なのではないか、私にはそう思えてしまうのです。

実は自力では読みにくい、調べながらでないと読めない、そういう文章を読み解いて理解する能力を高めるには、自力では読みにくい本こそ数を読むということしか方法がありません。脳味噌に汗をかいて読むのです。何度も何度も立ち止まり、それでもわからなければ繰り返して読むのです。「読書百遍意自ずから通ず」と言いますが、日本語で書かれている限り、調べながら読んだり繰り返し読んだりすれば、その意見は自然に理解されてくるものです。その労苦を最初から放棄しておきながら、子どもたちはなぜこんなに理解できないのかと考えたり、私は教師として成長したいと言ったりというのは、おこがましいのではないかと私は思うのです。

正直に言いましょう。私は年間三十冊程度の教養書を読まない教師には、教師としての資格がないと本音では思っています。少なくとも国語を教える資格はない、そう感じています。子どもたちに「いいかい?一度読めばすぐに内容を読み取れる、わかりやすい本だけを読もう。そしてね、読めばだれでも理解できる、そういう文章こそが良い文章なんだ。」と子どもたちに語る自分を想像してみるといい。どう考えてもその指導は教師の読書指導・作文指導として相応しくない。そもそもわかりやすい文章しか読まない人は、わかりやすい文章しか読まない人ではなく、それしか「読めない人」なのです。その証拠に、そういう人の多くはわかりやすい文章、伝わりやすい文章を書くことができないではありませんか。そういう人に限って、恥ずかしげもなく内容のない学級通信を出しているではありませんか(ちょっと辛口が過ぎますかね。笑)。

私は平均して週に五冊の本を読みますが、そのうちに一冊は教養書にするよう心掛けてきました。教養書の語に値しない本を読むときにも、なるべく偏らないように広いテーマをとか、小説を週に一冊は必ず読もうとか、いまでに意識しながら読書生活を楽しんでいます。もしも「教養」を古くさい知識だと思っている読者がいるとしたら、それは違います。「教養」とは先人を友としながら、社会に貢献するための自分なりの叡智をつくっていく営みのことなのです。

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